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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

普通の日記 (Book & Word)

2013-11-27 01:02:09 | 旧記事


 良し悪しっていうのはまったく別問題だとして、ブックオフってすげーな。三冊で定価5000円オーバーが315円だもんな。そりゃブックオフ行くわ。絶版で他ではプレミア価格の本が105円だったりするし。印税とかなんだとか諸々はあるけど、難しいところだよな、安かろうが高かろうが買い手のその物に対する価値は変わらないもん。どうしたって衰退の一途でしょうよ、紙媒体は高すぎる。それはそれとして、そのときY氏の詩集を買ったんだけど、現代詩界では知られていても一般的に知名度は低い、本なんてそもそもマニアックでオタク分野であるけれど、さらに深くレアであろうこの一冊を近場で読んだ人がいるんだなぁと想うと、どことなく清々しいようなほんわかした気分になる。自分の本がブックオフに売られていたときは絶句したがな。
 ここ一番近く読んだ本はM氏のミステリでありますが、その中に「この歳になったら自分がどれほどのものかだいたいわかる」的なセリフがあって、あぁ、まぁ、そうね、って気分になる。限界があるものもあれば限界がないものもある。いまの力量がこれくらいのもので、けどこのあたりまでは到達できるだろうという予感というか直感というか、そういう感覚というのはやけに正しい。後付として道程の思考はないけれど、飛躍というよりはどこかで緻密に解析された答えなのだろう。やれば出来るではなく、やっても出来ない、けどいつか出来る、いまここ。いまは自分のことを認めていないけど、そこまでは行き着ける、それくらいの絶対はある。まして自分のことであるし、そうじゃなきゃやってられないな。だから絵は描かない。
 わりと何を書いても詩だと形容されることが多く、自分では詩って表記はどこにもしていないし聞かれてもそうだと言わないので、単に多くの人がその形式を詩だと思っているっていうことがよくわかる。小説家のN氏が言っていた「ライトノベルかどうかっていうのは書店の店員さんが決めるものだと思います」というのに似ている。彼が何をどう思って書いているのかわからないので何とも言えないが、たぶんどうでもいいんだろう。周りが決めることって多いよねって思う。決まりきった定型のあるものであれば別だろうけど、曖昧な輪郭をしたものってきっとそう。別に誰が何に対してどう思ってもいいんだけど、なりたいものになるって難しいな。大体、名刺に肩書どころか名前すら書いていない、いまの自分て何者なのだろうか。自宅警備員兼自己防衛軍、たぶんこれ。

普通の日記(言葉と夢と神様と)

2013-11-12 02:56:55 | 旧記事

 友人と話していて思ったのだが、というより端から考えていたことであるが、あの雑誌を買ったひとは「虹を追った蛙/弐」ってタイトルで、おいおい壱はどうしたって思ったりしないのかね。修正出来る時間があったのにあえて弐で突っ込んだんだが、そのへんどうなのかね。うん、まぁでも探せば壱はネット上の何ヶ所かに転がっている次第であります。けどそんなんめんどくせぇんだけど、その気持ちわかります、雑誌買ってくれた方で壱を読みたい方には印刷して送ります。あまりいい紙は使えないと思われますが、それでもよろしければ。そして掲載されるされないに関わらず恐らく肆まで書いて完結。もう蛙は書かない。
 よく聞く話っていうか見る言葉っていうか慰めっていうか誤魔化しっていうか、そういうの全部否定するわけでもないんだけど、必要不可欠な嘘なんてのがあるってことも理解しているし、あたたかさとかもそこそこにわかっているつもりではあるけれど、基本的に止めませんかね、苦しみがあるから強さがあるとかそういうの。悲しいから傷ついたからやさしくなれるとかそういうの。なんだっけな、世の中がうれしいことや楽しいことばっかりだったら何々が生まれないとか。忍耐だっけな努力だっけな、なんだっけな。忘れたけど、そんな世界ならそんなんいらないじゃん。そんな世界ってダメなの? なんでダメなの? みんなにこにこ、正直終局的には無感情な感じになりそうな気配はあるけど、ダメなの? たとえば戦争なんて過去の産物にしたいわけじゃん。写真や手記やらが残って、経験した人が誰もいなくなって、それでも過ちを忘れないように伝え続けて、平和が維持されたらいいなって思うわけでしょう。それと同じことだと思うんだけどダメですかね。いつまでも経験しなきゃダメですかね。経験しなきゃわかんないとか経験者が語らなきゃ伝わらないとか、それって想像力不足だと思う時があるんすよね。たまに。
 こんな思考の根本には友人ていうか何ていうか何ていうの、間柄に当て嵌める言葉がわからないけども、その人の言葉から影響を受けている部分がある。雑誌の略歴に、普通は出身がどうとか書くところをメッセージぶち込んでやりましたが、言葉は人と人の間に生まれるんすよね、個人的に。話したものがどっか残っている。言葉をもらう、考える、人格形成する、生まれる、そんな感じか。よくわかりませんが。ただそこに誰かがいるだけで言葉になることもあるので、それがすべてとも言い切れないところでもあるけど、人と人の間に生まれるのは間違いなく。そこは出会ったすべての人に感謝の一途。そして、もらった言葉っていうのは間違いなく忘れることなく、根本に時に支えに常に救いに、そういったものに変換されながら傍にあります。情だって愛だとか、金はあるほうが出せばいいとか、遊び足りないから顔が幼いだとか、何を考えているかはわからないけど考えているのはわかるとか、ファンビリだとか、みんな兄弟みたいなもんだろとか、身内だとか、ね。あたしにとっては神様なのにな。これ一生忘れない。


普通の日記

2013-11-10 00:56:57 | 旧記事

 何で一度ホームレスになった人が中々浮かび上がれないのかってなんとなくわかる気がするここ数年、確実な定義や理由ではないけれど、個人的には少々。肉体と精神てやつは密接にリンクしているそうで、どちらかが悪くなればなし崩し的に崩壊していく、のかな、どうにも精神が病んでいれば行動する気なんてまったく起きないし、身体がいうことを利かなくなってくればどんどん落ち込んでいく。これけっこう負のループなんよ。やる気も何も削がれていく。それで更に金もなく気晴らしも何もなく張り詰めていくわけじゃない。けっこうしんどいのよ、ここらへんて。もちろん抜け出すのは自分自身で何とかするしかないし、相応に自分でがんばらなくてはいけない、それは正論。そういう誰かを見たときに理解しろとか考えろとかは言わないけど、でも明らかに怠けてんだろって単純な視線はつらいもんあるよね、きっと。ちょっと前にさ、まだきちんとした定職についてないの、嘘でしょ、みたいなこと言われたけども、当たり前に一般的な生活、家があって飯食えて金が稼げて、それが出来る肉体的にも精神的にも健康であることが幸福かどうかは知らんが、少なくとも幸福につながる行動は自由に出来るであろうし、羨ましくもあるよ、実際。感謝しろよ、もっと。ありがとうって自分の身体に。世界中にいくつもある悲惨なニュースと同じように人生の形なんていくらでもあるんだぜ。選べることも選べないこともな。
 もちろんのこと話は別件へと移り変わりますが、四季の移ろいのように滑らかにいきたいところでありますが、ここ最近の折々は急展開なのでまぁそこそこに。選べることも選べないこともありつつ、馴染めない慣れないことも多々あるわけで。昔から何度か書いているネット社会には個人的に受け入れる器に限界があるようです。どうしたって道具であるし何もきちんとした使用用途や説明があるわけでもあるまいし、自由に使えばいいんだよ、と恐らくそれが何よりの安定になるので、またそのうち無茶苦茶なことやらかしますが、それはそれでいいんですよね。誰のことも否定しない変わりに、自分のことも否定しないでくれたらいいよね、って思ったりもするけれど、別に嫌われたところで一向に構いません。もう悩んで考えてけっこう疲れました。そこらへんに関するあれこれも書きたいことがあるのだけど、たぶんとあるあれの結果発表が来年2月半ばだからそれ以降になるのかもどかしい世界だ。どことなく隠蔽しつつ早めに鮮度があるうちに書いた方がいいのかな、とも思ったりもするので、下書きしつつ考えます。最近はこういう文章書くのも遅くなったんだよな。いくつかをつなげて撹拌して時間をかけるようになった。たぶん何であれ速度そのものだけが成長を現すわけではなくて、これもきっと成長なんだと思う33歳の秋。


 

普通の日記

2013-10-30 03:50:41 | 旧記事
 
 年四回発行の雑誌に載ったということを書きましたが、秋号は毎年19日に発売であり、もう一切公表しておりませんがついこのまえ迎えた誕生日と同じ日なので、そこそこに毎年狙っておりました。単なる自分への記念です。人生なんてちょろいぜ!とドヤ顔で言ってやりたいところではありますが、三年ぐらいかかっております。ずっと「かかる」は「経かる」で通じると思っているのですが、これ誤字? 造語でいける範囲? 初回一発目に投稿したのがそのまま入選からの未発表の定義でもめて入選取消って事件。けっきょくそのリベンジ的なものにも、人生なんて甘いぜ!と言いたいが三年ぐらいかかったということでありますです。明かしてしまうとそのとき書いたのが「虹を追った蛙」。今回載ったのが「虹を追った蛙/弐」。完璧なリベンジですな。実際はリベンジでもないんだけど。その間に最終選考までいったのが「かえるのうた」。たぶん次掲載されるのは「虹を追った蛙/参」なんじゃないかって。これはもう書いてある。春号あたりに投稿予定。俺もそうだが選者もどれだけ蛙が好きなんだ。
 書くって行為そのものについてはちょこちょこ書いてるけど、そのちょこちょこ書いている通りであって、基本的には突き詰めれば極論では自己満足の何物でもなく、物によっては自分に対する縛りや戒め、時には救いであったりなかったり。少なくともあの偉大な詩人が言っていたように、書くそのものが狂気から自分を守ってくれていることは確かなんだろうと自分も思う。どんな人生を歩んでいたかな、これがなかったら。どっちも五分五分良し悪し的なもんだろうな。良し悪しはよしあしだけどよしわるしという人が2人います。好ましいです。自己満足ってどの程度だろうかと、なんとなく制作しているあれこれも、バースデーカードも季節の挨拶も、もちろん誰かに読まれる前提ではあるにしろ、よろこんでくれたらいいなってのもあるにしろ、とりあえずよろこんでいるのは自分であって、むしろ言葉に酔いしれているのは自分であって、更に言えば読まれる前提って言ってみたけど、書いている時は恐らく読まれる前提ではないので後付である。っていうぐらいの自己満足に後々ふつふつと欲がわいてくる感じ。
 とはいうものの、読まれるってことはもちろん大事だが、本質的な部分というか核的な深層的な部分でいうなれば、どれもこれも真実や本音であるかどうかはわからない。それらは在るもので認識されているものであれど、自分自身ですらわからないものであったりする。人間の人格や思考の広がりみたいなものかな。これが正しいと思ってみたものの疑わしかったり明日には違ったり、多岐にわたりすぎて謎めいてみたり。でもね、投稿をすることは掲載を願っているようにみえるけど、実際はそれって結果であって、たぶんそんなに重要なことじゃない。入選=掲載だから、まぁ同じといえば同じかもしれないけれど、何々賞とかあった場合、別に大賞とか一番上をって想いはないんだよな。なんとなくそこに認められるっていうか、自分の中で納得が出来る、俺は詩が書けてるんだとか、詩のジャンルも広いので、そのジャンルのものが書けてるんだとかって、そう思えればいい。俺はいままで何も大したことしてないし、長続きしたこともないから、ここだけは何とかしたいわけ。まだまったく足りない。自己完結出来ないとこが情けなくもあれど、ただ自分になりたい、自分を認めてあげたい、そういうことかな。
 

普通の日記

2013-10-17 00:15:42 | 旧記事


 一度築かれた縁や絆、縁がもたらすものが絆であるとすれば、その発生地点は同じ場所であるからしてどっちの言葉も似たようなものだ、絆そのものが縁の強化系、基本的には運命の方が言葉として好まれそうですが。兎に角、それらは想っているよりも恐らく強固であり、その結びつきに意識や思考、感覚、感性、およそ人が持ちうるすべての奥深くに在るもので、一切の干渉を受けない、以前から言っているものであるが魂みたいなもの。恋愛も友情も何もかも根本は変わらない。肉眼では見えない小指の結びつきに等しく。それらを前提としながらも、どうしたって心情が加味されるのが人間であり。うつくしく清いものを本物とする一方で、どこか表面上はグロテスク、誰もがそうということではないが、やりきれない想いが逃げ場を失い路上で虚ろな目をしている。いつだって縛りつけるくせにどうにも言葉の質量は軽く軽快に軽やかに踏みにじる。もしくは勘違い間違いどこにだってよくあるす擦れ違い。時は止まらず右往左往しながら迷って求めていく心理。固定観念や既成概念を嫌いながら後生大事に抱えていく痛みは自らが作り上げた箱庭の執着。思い起こせば思い込みからはじまった日々の泡。弾け、消え、流れていく。残る微かな香り。ただ無意識に在る問い質すことも確認もなく保たれる関係を否定はしない。それは不変な救いだ。