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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

普通の日記

2013-10-04 02:01:43 | 旧記事

 断言します。自分が好きなことをやっているのであれば努力は苦しくないし辛くもない、好きだから楽しい。これ、嘘です。真っ赤です。なんで運命の糸は赤いのかな、それもやっぱり嘘なのかな、なんで嘘は赤いのかな、どんよりした鼠色。単純にグレー。嘘も本当も割と同じ。でだ、苦しいときは苦しいし、辛いときは辛い。からい、ではない。俺なんでこんなことやってんだろう、なんてそんなときもそこそこ。5割~8割ぐらいはめんどくせーと思ってる。それでもなぜか作業しているとか、なんでかしらないけどやめられないとか、そのへんのほうが重要な気がしている昨今です。苦しいとか辛いとかに判断基準はないですね。楽なほうが楽しいってことではないっていうのと同じこと。しあわせの定義もまた然り。
 いまはむかし、さほどむかしでもなく、現在もいくらか思っていることではあるけれど、何かを好きって、その理由がないほど高尚だと思っていた、恋愛の話ですね。高尚というよりはそのほうが長続きするっていうか。たとえばどこどこが好きっていうのがあったとして、それがなくなったらどうすんの?って思ってたけど、ひとつの好きから派生していく想いっていうのもいっぱいあるし、別に最初たいして好きじゃなかったけど、いまとなっては、なんて話だっていくらでもあるわけで。それどころか本来の、本質的な好きとかって、思考ではないことは確かだけど感情とか心とかでもなく、もっと深い部分にあるのでないかと最近は考える。それこそ魂の共鳴に近いものであるとか、よくわかりませんけど。さっぱりわかりませんけど。
 わかっていることなんて実際一握りで、わかったふりをして、今日の答えがあって明日は明日の答えがある。明後日のことなんて記憶にない、偉大なる人の謎な言葉でありますが、そういうことなのかもしれません。最初まったく好きでも何でもなかった書くことを、わりと真面目にやりだしてもうすぐ大体15年、いまだに新規で詩を書くとかって本を買って読んだりしている。それでも気持ちも言葉の行く先もいまださっぱりわからない。ま、何事も判断や理解には多くの時間が必要だってことなのかもしれない。自由研究だな。


普通の日記

2013-09-12 18:48:43 | 旧記事

枷。再度考える必要性に迫られる、というより勝手に考える。誰かに何かをするとき、どんな気持ちで接するのが一番であろうかと、その正しさなんてのはひとの数だけ存在して然りではあるけれど、極個人的なことを言わせてもらえるなら、ひとに好かれるためにする行為なんてのは最低最悪であると言ってもいい、嫌われたくはないけど。まぁ何かをしてくれるから好きだって感情を全否定はしないし、それも否めない所でありつつ、それでもどこか引っかかりがあって晴れないのが確か。何もしてくれなくたって好きなひとは好きだし、~をしてくるからーみたいな損得ですか、自分に得のある人間だけを好きなら、あんたは一生誰からも好かれねーな、とかほざいてみる。言い過ぎ。

*

どうしたもんだろうと思う。誰かに何かをするとき、手をのばすとき、もちろん好意的な部分や善意的部分はあるわけで、しかしながら見返りなんて求めちゃいない(だってそれが好きだってことなんだと想う)、その求めない気持ちってのは大分ややこしいことになる。それは自分自身で完結できない誰かの心の問題、他者の選択になるからだ。誰かから何かをされたら、それに対する恩や義理人情、何かを返したい気持ち、あたたかな、そういったものが芽生えるのは当たり前に近い人間の在るべき姿であり、それを否定するっていうことは誰かの思い遣りなんかを否定することにもつながってしまう。恩なんて仇で返してもいいんだよ、にこにこ、っていうほど善人でも聖人でもないけれど、少なくとも枷や負い目にはなりたくないわけ。 もっと自由な中で選択して欲しいというか評価して欲しいというか、直接自分に対する何かで判断てたぶん好きじゃないんだわ。そうだ、個人的な好き嫌い、恐らくそれだけ。

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でもそれと並行してね、自己満足っていうのに限界があることもわかってる。それはどうしようもない。満足したら、完全に満足したら、もしくは飽きたら終わりだ。無償で無限の愛がどこかにあるのは絶対であるとしても、誰にも責められることじゃないし、責めることじゃない。その選択肢に加味するあれこれを放棄して完全な選択権を委ねたのは君だ、何らかのことをつなぎとめたかったら無反応ではいけない、してもらえるうちが華だとか姿勢は問題だろう、となると矛盾をいくつも内包しだしてこれカオスですよ、カオス。いくつもの否定と肯定、その中心点を探るべく、今日も風邪が治らない。


普通の日記

2013-09-03 00:08:54 | 旧記事
 
 これは展示をするたびに考えていたことで。最初の展示をしたときそこは未知の場所だったというか、一度も行ったことのない街で、神戸で、誰も知らなくて、普通に考えてよく飛び込んだなと思うことも時々ある。当時、周りにいる人間も展示する他の当事者すらも知らなかったので、まぁ集客やらで考えることは特になかった。二回目も然り、これもまた神戸元コーでありました。そうこうして、誰かの展示に行ったりして、身内の集まりとかになっちゃいけねぇなって思った。そこが今回の焦点であるけれども、右往左往せずに文章が進むのかはいつも通りに謎です。
 そう、そう思ってたんだ、実際。もちろん身内が来てくれるってことはとてもありがたいことで、そこに対して悪い感情なんてひとつもないよ、もちろん。たとえばここで日記みたいのを書いたりしていて、誰かに読まれるじゃない。それは誰であってもありがたいことだし、ひとりでも読んでくれるひとがいるなら書き続けるべきだ、俺たちは。でも対する欲求もあって、もう少しだけ広がって欲しいとか、そういう葛藤は正直たまにある。いつもいつもそう想ってるわけではないし、あぁもうこいついれば他の誰もいらねー的な恋愛みたいな感情になってるときのが多々で、365日あれば300日ぐらいはそれだ。けどそれでもって時があるのは事実。新規のとか見知らぬ誰か、とか。っていうか、SNSに対しての話だが、まぁ新たに出会う確率って減ったよな。みくしーは足跡中途半端で謎だし、Facebookはわけわからんアカウントのあれで警戒心半端ないし、俺けっこう昔からネット上にいて思うんだけどさ、世界に発信できるとか、多くの人間とつながれるって、W3なのに、何でどんどん閉鎖的になっていくのかね。謎なんだけど。あとアクションされてるのに返信しない書き手、あれなに?
 それはそれとして。まぁまぁ上記のようなことを想っていたが、よくよく考えるといまいる身内なんてのも、昔は知らないひとなんだよな。馴れ馴れしくも手をのばして垣根失くしちゃうからいまは身内でみんな傍にいるけども、元々は他人だったんだよな。当たり前に。それでさ、ブログなんかをかかさずかどうかはわからないけど読んでくれて、それで展示会にも来てくれちゃうんだよな。すげーありがたいよな。これ以上ないよな。新規とか通りすがりのひとの目に止まらなくても、それだけで十分だよな。それだけで展示する価値あるよな。バカなことばっかり考えててごめんなって思うよ、いま。忘れないようにしよう、いまあるこの気持ち。君のために展示をしよう。


普通の日記

2013-08-11 04:51:44 | 旧記事

たまぁに書くあれではあるけれど、たとえば針が落ちたり煙草の煙がいまこの瞬間に昇っていたり、大きな事柄ではなくても、小さな事柄でも人生ってのは大きく変化するものだと思う。会えてたひとに会えなかったり、会えなかったひとに会えたり。いままでのどれかひとつが欠けていてもいまの自分も身の回りすべても同じような状態にはならない。と思う。過去のいろいろな選択をことごとく間違ってきたんじゃないかって正直最近思うけども、それでいていまある何かや誰かがあって、別の選択をしていたら少なくともこのひとに会えなかったんだなと想うと、それは最悪の中でも最高の出来事であって、とりあえず最低ではないのかと思ったり。けどそもそも会ってなければこんな想いにも至らないわけで、それはそれでどうなのかと考えたりもするけれど、いまあるこの気持ちのほうがあたたかく大事な気がするのでそのままにしておきます。

そこから導きだされるあれではないけれど、いかにいまがよかったとしても、その過程に誰かが傷ついたり苦しんだりした何かがあるなら、それはやっぱり悲しくて。それがなければ出会えなかったとしても、どうしたって喜ぶわけにはいかなくて、どうせならないほうがいい、会えなくたってないほうがいい、会った記憶を持ったままでどれだけつらかったとしても、そんな過去消え去った方がいい。当たり前だ。とある少女が以前に口にしたことだが、傷ついたり苦しかったり悲しかったり、取り返しのつかない何かがあったとして、そんな経験がなかったら人があたたかくなったりやさしくなったり出来ないのなら、そんなものいらないんだよ、って。いまでもその言葉は正しいと思う。