断言します。自分が好きなことをやっているのであれば努力は苦しくないし辛くもない、好きだから楽しい。これ、嘘です。真っ赤です。なんで運命の糸は赤いのかな、それもやっぱり嘘なのかな、なんで嘘は赤いのかな、どんよりした鼠色。単純にグレー。嘘も本当も割と同じ。でだ、苦しいときは苦しいし、辛いときは辛い。からい、ではない。俺なんでこんなことやってんだろう、なんてそんなときもそこそこ。5割~8割ぐらいはめんどくせーと思ってる。それでもなぜか作業しているとか、なんでかしらないけどやめられないとか、そのへんのほうが重要な気がしている昨今です。苦しいとか辛いとかに判断基準はないですね。楽なほうが楽しいってことではないっていうのと同じこと。しあわせの定義もまた然り。
いまはむかし、さほどむかしでもなく、現在もいくらか思っていることではあるけれど、何かを好きって、その理由がないほど高尚だと思っていた、恋愛の話ですね。高尚というよりはそのほうが長続きするっていうか。たとえばどこどこが好きっていうのがあったとして、それがなくなったらどうすんの?って思ってたけど、ひとつの好きから派生していく想いっていうのもいっぱいあるし、別に最初たいして好きじゃなかったけど、いまとなっては、なんて話だっていくらでもあるわけで。それどころか本来の、本質的な好きとかって、思考ではないことは確かだけど感情とか心とかでもなく、もっと深い部分にあるのでないかと最近は考える。それこそ魂の共鳴に近いものであるとか、よくわかりませんけど。さっぱりわかりませんけど。
わかっていることなんて実際一握りで、わかったふりをして、今日の答えがあって明日は明日の答えがある。明後日のことなんて記憶にない、偉大なる人の謎な言葉でありますが、そういうことなのかもしれません。最初まったく好きでも何でもなかった書くことを、わりと真面目にやりだしてもうすぐ大体15年、いまだに新規で詩を書くとかって本を買って読んだりしている。それでも気持ちも言葉の行く先もいまださっぱりわからない。ま、何事も判断や理解には多くの時間が必要だってことなのかもしれない。自由研究だな。