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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

電車ってひまだよねってことで書いた駄文

2014-11-25 00:16:53 | 旧記事

 たまにどういうことやねんと思う。タイトルはまったく関係ないです、よくある話です。俺は基本的に矛盾の王様であり、話の最初と最後で意見が違う、書いたものふたつでまったく正反対のことを言っている、性質ともいえるし、もう特技といってもいいのかもしれない、むしろ言いたい。長所はなんですか、矛盾の許容ですと言いたい。好きな言葉はなんですか、鳴神の、と答えたい、もしくは、また会うと。例えばなにかしらの事柄があってさ、ありがとうって思うでしょ、それでそれを伝えたいとき、どんな手段を選びますかってこの世に問いたい。一貫性があればいいのよ、って矛盾男が何を言うんだってお怒りの意見もあるでしょう。だがしかしだ、たまにはまともなことを言うこともある。ちゃらっとLINEなんかでくるわけですよ、気軽にイージーに。まぁでもそれはね、個々の感覚も時代背景もあるわけで、それがいけないというわけでもないんです。なら一体何の話だと思うでしょう。回りくどくこいつは何がしたいのかと。ここでタイトルです、電車がヒマなのです。そう、それが現在一番の問題点であることは否定できないのです。そして二番目の問題は半ば現実逃避的に電車に乗ったこの状況。ねぇ、この車両の9割近くがみんなスマホを睨んでいるんだが、怖いね、新しい宗教かな、世界がひとつになるのかね、補完計画みたいに。で、通過待ち合わせばっかりなんだが高い金払って乗ってるんだがフザケンナJR。だからね、これだけなんかいろいろみんな文字打って、伝わってると思ってるわけじゃない? いや知らんけど、そう思ってるわけでしょ? そうなんだ、きっと。要するに、時代の流れに沿って変化してるわけでしょう? これで十分って思っているからこそLINEで済ますわけでしょう? だったら手書きがあったかいとか尊いみたいな価値観捨てろや。ボーカロイドもっと愛せや。そうじゃねぇならもっとちゃんとしろや。と思うこともあったりなかったりするわけですよ。そして、反省するのです。あぁ、そんなに手を掛けてもらえるほど大したことしてなかったんだなと。それだ、そうなんだ。じゃぁもう気分次第でやらんわ、と。さて、損をしているのは一体誰でしょうか。まだ戸塚。

(文フリ行きました)


報告的なもの

2014-11-02 19:33:38 | 旧記事

 載ってます的なあれですね、はい。今号の投稿欄ね。特にこれといった意味合いを込めてこれを書いているわけではなく、活動というか行動というかを見守ってくれているひともいるわけですし、どうやらそこそこに成長はしているようだ、ってそれだけの伝達です。才能がどうとかって話になればまったくよくわからないというか、一般的な想像での才能な感じでいくと微妙にしかないと思っていますが、技術的な面では多少なりとも積み重ねられているような気がします、というより気にさせてもらったが正解か。一般的なと書いたので、個人的に才能とはなんぞやと訊かれたら、一昔前なら人格と答えていただろうけど、現在においてそれは「狂わないこと」この一点。すべてのジャンルにおいて。


 まぁでもうれしかったね。いままでの何よりも正直うれしかったね。しばらくにやにやした、自己満足した、もうそれで充分なんよね、これにおいては。これ読んで読んでって気持ちでもない。内容的にはちょっと暗めで、たぶんこういうのが自分の中の詩のイメージなんだと思う、詩を意識すると何を書いても大体こんな感じになる。ちょっと深めに着色されている部分もあるとも思うけど。なんかもっと明るくとかやさしい気持ちとか心をあたためるとか、この骨格でも組めるはず、でもそれができないのがいまの自分の技術。とりあえずひとつの段階が終わったので、今後いろいろと試行錯誤はできそう。続けていけば何とかなりそうな気配も、あるんだかないんだか。狂わなければ。


 誰かの言葉や気持ちを踏みつけたり拒絶するわけじゃない。それを前提で、いくらか言葉をもらったが、「おめでとう」よりも「やったじゃん」のほうが断然しっくりきた。おめでとうでも間違いじゃない、でもうれしいことは必ずしもめでたいのか、そういうこと。勿論返す感謝の言葉、ありがとうが少しだけ泣いた、涙の意味を問いかけるみたいだ。外国の言葉はよく知らんけど、日本語って選択できる言語だなっていうのはよく感じる。どの言葉が適切なのか、いろいろな場面でいろいろと考えてみるのもまた一興。誰に、なぜ、どうして。


 とかなんとか考えることになったのも掲載あってのものですし、なにかひとつ事柄が動けば分岐していくことは増えていくものですね。以前どこかしらに書いたけど、行動とか過去とか軌跡とか、そういうものが言葉に重みや裏打ちを与えていくわけなので、言えることが増えたってことが一番のプラスなのかなと思ったりするけども、実際のところは欲しい物の前に大事なものが来た、今回は実はこれだと思われます。内容は秘密ですがね。そしてやっぱり10月は去年に続きミラクルでした。いま神は留守なのに。ということは。





普通の日記/しずくさん

2014-06-09 15:31:31 | 旧記事

 3月某日。それは誰かを想って作るものとまったく変わらない心と技術を尽くして、ポストカードと手紙を犬に書いた。例のごとく郵送で直接会っているわけではないから、喜んでいるのかどうかさっぱりわからない、そうでなくてもわからないのかもしれないが、一部であっても伝わるものがあれば嬉しいなと思っていたり。こんなことをしましたよと、ツイッターで呟いたところ、相手がヤギではないので大丈夫ですってリプをいただいた。こいつ天才か。超絶食いしん坊の彼ではあるけども、プラスチックケースに入れておいたから大丈夫であろう。いつもありがとう。

 4月2日。その犬から電話がくる。もちろん着信の番号自体は家主のであるけど、掃除をしているときにベッドに放っておいた携帯で、どうやらかけてきたらしい。そのとき携帯から離れていたので、出れなかったのが悔やまれる。偶然で片づければそれはそれだろうけども、スマホの画面解除して、尚且つ通話ボタン押して、それでいてピンポイントで俺を選ぶって確率でいったらどんなもんよ。それが奇跡的な確率だとしても、偶然ていったら偶然よ、けどそれじゃおもしろくないわ。こんな時こそ運命とか必然とか絆とか愛とかって使うべきだろ。伝えたかった内容が、お腹すいたとかベッドが狭いだとか、そんなことだとしてもね。

 あんまり関係ないけどさ、目に見えないものとか会えない誰かとか理解できない何者とか、そういったものを蔑にしてフィールドに加味しない時代なんてとっくに終わったんだよな。世界なんて大した広さではないし、地球なんてそんなに大きくはない。手をのばせる余裕があれば何であれ伸ばしてみたりして。身の回り、物理的に手が触れられるものだけで、世界は構成されているわけじゃないもんな。どこかそういう心構えが平和なんての一歩だとか。どことなくしあわせ、うれしい生活。好きは難しくても考えすぎなければ愛はどこそこにあふれているもので。勘違いでも信じてみればいいと思う。それは正しく。とりあえず愛なんてものは永遠に不滅です。


普通の日記/生きる

2014-05-29 04:21:18 | 旧記事

 今日は友人の誕生日だ、これが正解なのか、今日は友人の誕生日だった、これが正解になるのかわからないが、本来なら今日もメールを送っていたはずだ。特別な日でなくても時々思い出す、なんとなく、ふと、話しかけてみたりして。笑い声、いまだに鮮明で、誤解を恐れずにいえばさみしくはあるけどかなしくはない。いくらかやさしく安らかでさえある、生物の基本的な性能に添いつつ独自、人間は複雑でいて甘い。前進を促しながらも真摯さを保つ繊細な感情で、それを支えるのは間違いなく彼女の人格だ。生前もいまも在ることが不変で有り難くある。携帯の電話帳からも消えていない、消す気もない、電子的にであっても人の痕跡が残るのは悪くない。どう足掻いても、何も残っていないように思えても、血や骨に溶け込んだ精神は、魂の総意に基づき、今後も長い年月を過ごすことは慰めではなく不変の真理だが、瞳に映し出され、より明確になる輪郭は、気休めよりもあたたかみを帯び笑みに変わる。一方的にした約束はまだ果たされていない。もう少しだけ待って。

 先延ばしになっている理由の大半を占めるのは金銭的問題で、それに纏わる最大の理由は自業自得といえる。たいして金がないのに金をばら撒くような行為をしているのもひとつの要因とも言えなくはないが、それはそれでこれはこれだ。例えば貸している金が返ってこないとしても、最初の段階で確実に返済を求めて貸しているわけでもなく、それ以上の収入がないことが愚かだといえる(俺の場合)。これに対して誰がどう思うかは知らないが、「東の侠客」で書いているように、哲学や信念や思想、夢や理想を追っているだけであって、特に善人なわけでも何でもなければ、いい人になりたいわけでもない。正直なところ、完全に見返りや何かを考えていないのかといえばそうでもないし、辛くないかと訊かれたら嘘は言わないが、うつくしさと危うさは同居するものであり、無理して苦しくても貫きたい道はあるものだろう。それに経過と結果のすり替えは忌むべきものであり、初心の破綻は誠実を確実に押し潰す。求めていた結果は得ているから、延長した結果に涙は見せない。ということさえ考えない領域が最上だ。

 根底や根本、核となる部分に住まうのはもういまは亡き昭和の侠であるが、それ以外にも二人の男がいる。ひとりは相手のことを思い遣ることにたけ、誰かを想って身を切れる男だ。三桁の金を放り出せるもうひとりは、手持ちのものに執着がなく潔い。このふたりに共通する部分は、結果的にただ笑っているってことだ。奥にある心情や、裏にある思惑なんてものはどうだっていい。心を切られるようなことがあっても、人前ではあっけらかんと笑っている。それがすべてだ。恐らく彼らはそこに何らかの意図があるわけではないが、何でもないことや何気ないこと、意識もしない一言、当人にしてみれば当たり前の日常、何であれ誰かを結び付けどこかに残り、いまこうして俺の血と骨に流れている。そういうことなんだと思う。人間は、生きることは、生きたってことは。今後自分が何をどうしていくのかはわからないが、血縁でなくても精神を受け渡せればいいと思うし、救いたいものを救いたいように、支えたいものを支えたいように、できるだけ誠実に潔く、少なくとも誰かを想って三桁を放り投げたのなら、信念と共に霞がかってでも笑うことが、彼らへの敬意だ。


普通の日記(靖国)

2014-02-13 07:43:47 | 旧記事

20140128靖国神社。元々の足を運ぶ発端は「永遠の0」を読んだことに起因する。それを読んだのはその本をもらったのが結果ではあるが、「風立ちぬ」が先行してあったことも多分に影響がある。どちらの物にしろ、戦争とエンターテイメント、それだけに関わることではなく、某テレビ局のドラマであるとか、どこまでが許されてどこまでが許されざるべきか、何をどう表現しどう伝えるべきか、そこらへんの判断は非常に難しい。ある程度フィクションなのだから自由でいいとも言い難く、だけど。0に関して映画は観ていないので何ともいえないところだが、とりあえずエンターテイメントで終わらせてはいけない気がして、それをきっかけとして何かを得なくてはいけない気がして、靖国へ足を運ぶことにした。 書き手、制作者サイドが何を考え何に重きを置いたのかはわからないが、こうしたきっかけでそれぞれが個々にその先を(過去を)学ぶのなら、それ自体が美化されたエンターテイメントであったとしても、何ら問題ないのかもしれない。いつだって受け手も同時に試されている。それが何であれだ。