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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

エンダーエンダー

2025-03-14 10:22:23 | 日記
ドラクエをやりたいがためにスイッチ買ったんだ、思い出補正も多々あったがこうなんともいえないもやもやがあったのだが多くは語るまい、これがベストだと作り手が思ったのであればそれはそれ、受け手がどう思うかはまた別であると思うところでもあるし好みもあるしね。終わったらもうオブジェになるのかと想像していたのだけど、なんかないんかいと色々見ていて世間の評価がとてもよかったからエンダーリリーズを購入。いやー、子どもの頃を思い出した、難しいものにチャレンジし続けるっていいよね、そこまでの難易度ではないかもしれないが、CXで言っていたように反射神経がにぶったものはもうどうにもならんなと思いながらも、どっぷりとやり続けたのである。そう、はじめてコントローラーを握った時からそうだが病的にやってしまうのよね、それがわかっているから少し離れたのもある。とか何とか言いながらマグノリアを続けて発売日に購入してみたり。これも好みですわな、システムやビジュアルや色んなとこ全部どこをどう比べても個人的にはリリーズのがよかった。ほぼ続けてやったからそう思っただけで、時間空いてたら評価は違ったかもしれないし、マグノリアからやっていたらマグノリアに軍配だったかもしれない。

つらつらと前置きを書いてみましたが、楽しいものは単純に楽しんだらいいんだわ。頭をかすめる負の感情、大人になればなるほどそういうのあって、それは固定観念や常識的に蓄積してきたもの、自分が子どもの頃にはゲームなんてって育ってきたから罪悪感とかどうしたって生まれる、大人になってまで何やってんのって。プラスになることや生産的なこと、金になったり名誉になったりすること、それがいいことなんか? どちらかといえば薄汚れてるのとピュアなのってどっちなんだ? 矛盾してるんだよ言ってることがと思うことも多々です。難しいことは結論なんてでないけど、純粋に楽しんだらいいと思うわ、それが社会の為になってないとかそんなことだけはないんだ。その消費でまわる会社がある、喜んでくれる個人がいる、それって少なくとも悪い事じゃないよね。安心して遊ぼう、自分の人生と生活は守りながらね…。

シャッターが閉まる、個々のシャッターが押される、なんやこれ、この中でどれほどの人が本当に思い出があって心を分けてきたんだ? 昔はあれだったけどもういまはって、最後だからお別れもしたいって気持ちがわからないとは言わない。でも、なんか心苦しい、現代社会でどこまでの人が本本気で瞳に焼き付けているのか。そこにある景観は当たり前のものではなくて、たとえばあそこにあった有名なお寺も、維持をするために努力をした人がいて、なくなってしまうと寂しい、冗談言うなよ、支えようとしなかった人たちが口にしていいことじゃない。何でもいい小さな何かでもいい、ただ遠く離れたところから普段見向きもしないところから、丸投げして続けて欲しかったはないと思うのよ。それはもうそれぞれの勝手だ。せめて本当に大切にしたいものにだけは手を伸ばそう、どうせひとりの力では足りないとか、最悪守り切れなくてもいいじゃないか、そこに残るのが愛ってやつなんじゃないの。

衣袈裟がわたしにくれたもの

2025-03-13 00:25:04 | 日記
公共交通機関で席を譲ることが最近多い。なぜいまそうなっているかを考えるに、周囲を見るようになったいうのもひとつだと思うが単純に乗ることが増えたのが原因である、ただそれだけとも言えるし、それなりに多く人が乗ってくる車両でタイミングよく座っているっていうラッキーも少なからず影響しているのではないか、そうなのよ、善行ってタイミングなのよ。とは言うものの別にいいことや善行を意識してやっているわけでもないし、申し訳ないが譲れないこともあるし、相手によっては譲りたくないこともある、ごめんなさい。基本的にはできるタイミングが目の前にあるのにやらないことが気持ち悪い、誰かに対してどうも思わないけど自分が座っているのが、見えないふりとか気にしてないふりをするのがしんどい、それだけのこと。自利利他の観点からいったらこれでもいいんですかね、ういんういんではあるのかもしれないなんて。でも最大の問題点は人の移動が多すぎ。本当にそんなに移動必要なのか?

タイミングもあるんだけど下準備みたいなものの必要性もあるのかな。まったくその頃の感覚は覚えてないけど、若い頃ってどうだったのかな、たぶんなんも考えてなかったと思うよ。ほぼほぼ車移動だったのもあり、そんな機会がなかったのも確かであるとしても、個人的にはね、声をかけられる自分になったんだと、何かと声をかけやすいっていうか、声をかけてもいい自分になれたんだと思うのよ、得度してから。それが不自然ではない自分になれたのよ、当然それをしていいって、そういう人間になれたの。そういえば、医療関係のあの人は一緒にいるときに、調子悪そうな子どもに声かけてたもんな、親がちょっと引いてたけど。いいな、かっこいいなって思って見てたよ、羨ましかった、そうできることが。そんな人になりたかったんだ。こうなれただけでも意味あったよな、少しずつでも理想に進んでるんだとこれ書きながらふと思えた。色々と嘆くばかりはもうやめよう。

悪いことをするのにも土台がいるように、良いことをするのにもきっと同じく土台が必要、バカみたいな話に思えるかもだが。恥ずかしいっていうのも変な表現ではあるけど、それに似た感覚があると思われる、人目も気になったりとか、いい人ぶってると思われそうとかね。そういうものをまったく気にしなくなる状態をつくりだすことが先で、何でもそうだよな、行動するのに、言葉を発するのにだって裏打ちは必要だもの、自信みたいなもんに近いのかな。あぁ、そうか、善行に対して至らない自分が恥ずかしいのかも、なんて謙虚で尊い。図太いわたしに乾杯。でもその一歩は世界を変えるよ、自分も含めて。

できないことがある、それは仕方ない。昨今の世はなんだか巻き込まれることも多くて、関わらないが吉っていうのも否めない。めんどうなことになったらめんどくさいのはわかる。でも少なくとも泣いている子どもを無視するのはやめようや。迷子に誰も声かけないから、わたし声かけましたよ、以前。見た目よくないんですよね、すぐ警備員来ましたよ。疑われたりもしなかったけど、疑われても何であっても、子どもが笑ってくれたらいいやないか。そこだけは頼む。

行き詰まったなら壁を登れ

2025-03-12 18:03:16 | 日記
何を支えにここまでやってきたのか、救いはこの世に言葉があったことであると恥ずかしげもなく言うべきであるし、傍にあったことがどれだけ自分の道を修正してくれたことか感謝しかないので、うまくいかない日々であったとしても、時に傍にあることで苦しくなったとしても、目が合えばどこか歪であったとしても微笑むのである。思えばどうしようもないほどの欲深さが生まれなかった大半も、ここを起因として清貧であることが書き手として望ましいとか思っていたからであって、あの映画でも言っていたけど、確かにそういうイメージあるよねって思うが、それは単純にその界隈の人々がそういう生活を強いられてきたというかどうにもならなかっただけで、それが絶対的でそうでなければならないということでは本来ない。幸せになってはいけないなんてことあるわけがない、誰のことも気にせず幸せになりましょうね、窓の外に立たせずどこまでも傍に置いたままで。幸せが何かはいまだに考えつづける概念ではありますが。

若い頃って良くも悪くもみたいなものが支えや自信や何かになっていた気がする。ピラミッドやカースト、そんなもののどこにいたって楽しめばいいし、別にいい景色なんてどこにでもある。高い所に行ったってつらかったりあとでくるしんだり、でもどうにもならなかったことはもちろんわかる。怖いことを強がって、大人ぶって背伸びして、悪いことして、人と違うことがプライドになって、それらにどれだけの意味があったのかはわからない。けどあの頃にあったものって空っぽだったなと時々思う。他の人たちがどう思っているかはわからないし、それは語れない、経験にないことはどうしたって空論でしかない、誰かの痛みを自分の痛みのように捉えられるのは素晴らしいが、わからないことはわからない。さも自分が得ているような言動が尊ばれるようなことは好ましくないし、誰にも届かなくても避けたい。それぞれが過去をあの頃はよかったって思えているならベストだよね。そんなわたしでありますが、実際のところはそれらがいまをつくっているし、あのように生きるしかなかった、別のベクトルの人生が楽しいものであったとの想像もつかないので時々くるしみながらいまの自分の在り方で赦したりしている。

何にせよまだ生きていくのであるので、何を支えにしていくのかってのは今後もある。自分が選んだ道の貧乏でも風来でも評価がなくてもどうしようもなくても許されるイメージっていうのが超個人的なものであるとしても、それはそれで生きることが楽になっているなら万歳、いやさか。どうあれ自分の生き方とか価値、存在意義は自分で決められるといい。人に必要とされるかどうかで生きていくのはきっと何処かで行き詰まる、っていうか詰まった、どうしたものか、捉え方の違いではありそうだが。さて、40過ぎてもまだ自分探しをしている、すべての人にそれぞれ自分だけの栄光あれ。


311

2025-03-12 11:12:40 | 日記
あの日、東京へ歌舞伎を見にひとりで東京へ向かった70後半ぐらいだったと思う祖母と連絡が取れなくなった。次の日の昼間に何事もなかったかのようにお土産を買って帰ってきた強者である。駅で一晩明かすことになったが、周りの人がとてもよくしてくれて何の不便もなかったそうだ。けっきょくその年に倒れてあれこれとなっていくわけではあるが、きちんとした意識があるなかで最後に言われたのは「野菜もちゃんと食べなさい」だった、誰に対してどうとかはよくわからないし、そこには色々と闇深いものもありそうなこともあったりする、しかしながら自分にとっては自分に対しては心配ばかりしていた祖母だった、それはそれとして。

被災した人たちがいるのだから、不謹慎なことをせずに慎ましく日々を過ごせと、そんな風潮が強かった。それでも俺たちには歌うことしかできないとアマチュアバンドが言っていたことに腹を立てる人もいた。そういった在り方に対して、それぞれの日々があるのだから、それぞれの日々を生きたらいい、笑って過ごせるなら笑って過ごしてくれ、というようなことを言ったのを覚えている。その中で、できることがあったらやればいいし、経済を回すことだって立派なこと、それが現地の力になればそれはそれでよく、大体のことは廻っていくわけじゃんね、いいのですそれで。今年、企業に乗っかって311を検索することしかできなかった、昨年はそれすらもしなかった気がする、今年は検索することができたんだ。偽善でもいい、他力でもいい、大きくなくていい、自分を守りながらでいい、突出しなくていい、話題にならなくていい、すべて忘れるぐらいでいい、それくらいのできることがあればしよう。

失くしたものもある、突然のこともそうでないことも、どんなときも時間の流れで、止めることができない、それは。後悔するよ、もっとできたあれもできたこれもできた、たられば、どうしたって考えるよ、そこまでにいくつもの選択をした精一杯のあれこれ、間違いない、正解のないそれは時々のベストだ、大丈夫、よくやった。自分だけが、そう自分を責める人々の痛みも、ひとりでも生きのびた、それをきっと喜んでいるよ。少なくともそう喜べるようになっていくよ。同じように、少しずつでも楽なっていって欲しいな。それが何よりの花だ。

鶏肉を洗う

2025-02-17 00:43:55 | 日記
前にネットのどっかで見たけど大変なことになりますぜ、ならんかもしれんけど。もちろん多くのユーザーから突っ込まれていましたが。買ってきた鶏肉の皮を取ったり、なんて部分なのかを取ったり、なんか鶏肉って生命としてリアルよね。それがそのまま残ってるというかイメージの問題で、牛だろうが何であろうが想像によってはそうなんであろう、しかしながら時々沸いてくる罪悪感、じゃぁ食うなよと言われたらそれまでだが食べます。むしろ全力で美味しくいただきます。でもこう罪悪感が少しでもあればまだましなのではとか善人ぶりたい、もしくはそう思っていたら救われるのではなかろうかと邪でいやらしい部分がループし続ける、実際この救われないループがけっこうしんどい、もうどうにもならんもん、これ。生きていることは苦だとはよく言った、どうやら原文はちょっと違うらしいが、それでどこか楽になるのならもうそれはそれでいい。別のものだと思えばいい、原文ではこうだけど、でもほんとそうよね、それでいい。肉も魚も、野菜も果物も、食べたものに報えるような人生はきっと送れないし、送ってきてもないです。清々しくも正直ないです。絶対的に陰鬱でもないけど荒波です。それでいいでしょ、生きてるだけで偉いし、生き抜くだけで尊い。別の選択をしてしまったとしてもよくがんばったよ。ただやっぱりさみしい。ご飯を食べてゆっくり眠って、明日は映画でも観ましょう。