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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

10月の乱。

2015-10-31 22:05:44 | 旧記事

10月っていうのは総じてラッキーな月であるのかと思うのだが、よくよく考えてみると生駒ラムネは一向に当たらないし、それ以前の月がラッキーであって結果が現れるのが10月ってことになるんだか。ただ生まれ月だから狙って動いてるってのは多少あり。ということで掲載情報です。詩と思想:11月号。昨年と同じく無名の自称物書きであることのわたくし故に投稿欄ではありますが掲載されております。選評とか読むとよくわからないけど、まぁいいんでしょう、何かがどこかに触れたのでしょう。月末締めで毎月募集しているけど年3回くらいしか出さないので、1回掲載されれば33%ってとこか。変な言い方だけど、ある意味で抽選みたいなものだとも思うのよ。全部が全部、全員に響くわけないし、その時その時の縁とか出会いみたいなものだから。例えば落選しても、ここではないどこかで評価されるかもしれないし、ここの別の選者だったら話は違ったろうし。そんなもんだよ。まぁ、あのひとが言っているように、続けることがひとつの勝負だ。いずれ辿り着くさ、誰でも、自分の、答えに。





近況/スローペース

2015-09-15 21:39:17 | 旧記事

今年になって、違うか、それなりに去年から何かを書く速度っていうのは以前に比べたら格段に遅くなっているというか減っている。もちろんそれは書いている内容の違いもあるから一概にどうこうと言えるものでもないのではとも思うけどそれだけではない理由が確かに存在している気がしないでもなく。思考に身体がついていってないというのもあるけど書くことに対して自分の中で完結したっていうのが大部分であるのかと。ひとつの到達点があってそこに到達したからといって次がないわけではないんであろうけど富士に登ったからといってエベレストに登りたいとは限らないわけで次に目指すのは青空ですよっというのもまた一興。どこをゴールにするかは人それぞれでありゴールしたからといって続けてはいけないわけではなく。ということで精神的に一段落したわけであることの私はかつてのがむしゃら感はなくかつてがむしゃらだったかといえば謎が残るわけだがそこは比喩的なものに近い何かということで愛嬌。かなりのまいぺーすに書けばいい状態でありそして書いたからといって発表する外部に晒すその必要性というかもそこまで深く思わないというかなんというか。外に出してないだけで文字のみのストックはそこそこあったりなかったり。どことなくスタート地点に戻ってきたような書くという行為に対しては安定というかなんなんすかね。内なる世界の探求者としてはこれって洗練や悟りに近いのかもしれないし。でも言葉で食えたらベストなんでしょ?という問いに対して基本的に俺は言葉で食おうなんて気は更々ないわけで別に仕事にしてるひと好きなことを仕事にしてるひとをどうこうは思わないが俺にはそれが無理なことはわかっている程度のあれ。書くことがしたいだけでその他の販売宣伝何やらいろいろやりたくないよね実際。もちろんお金になることも時々あるし芸術家みたいに自発的につくったものにお金をもらうとかいまの時代にありえないけどパトロンだとかそんなんは普通に歓迎なわけであってお金にすることに抵抗があるわけではない。たまに言うことであるのだがもちろんみんなご存知ただのクズでチンピラ気質である故に自由主義。逃れられない自由の束縛。書かなきゃいけないって書くのは嫌。合言葉はてきとー口癖はめんどくさい。別に言葉に対して誠実でも真摯でも謙虚でもないけど寄り添ってはいるよ。恐らく死ぬまで。趣味でもいいよ。でも俺のすべてでありそのすべてが俺だ。

普通の日記/縁

2015-02-13 09:40:22 | 旧記事



遅ればせながら配布した年賀状らしきものたち。今回主軸で送ったのは「究極」なるものでありますが、これ現時点で自分がこんな感じでみたされているとかそんなわけではなくて、こんな状態に近づいていかなくてはいけないなと、自己願望みたいなものであります。いま少し時間がうまく使えなくていろいろともやっとな時期だったりして、けどちょっと前を振り返ると中々近いものあったなぁと思ったりもするわけで、だがしかし希望の高みはそれ以上のところにあるのです。欲望は抑制しなくてはいけないものと貫徹するべきものに分かれます。ここは恐らく後者でありて、想いつづけることが果てに通じるのではなかろうかと。わりと早めに何とかしたいものですね。どうせその後にまた欲が出るのだろうけども。

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まぁ毎年のことになりますが、来たものに関してはすべてもれなく返信しています。それが年賀状であれ手紙であれネット上のあれこれであれ。返信ないときは見落としているか忘れているかどちらかになります。基本的にぼんやりしているのでそんな時があれば追い打ちをかけてください。で、自発的なものに関しては去年したから今年もするとか、今年しなかったから来年はしないとか、そんなこともなくその時々の気分任せであります。急に五年後に何か送ってみたり、10年何もなかったり、そんなことも今後あるでしょう。自発なんでその辺りは勘弁してください。よく書くことだけどね、人と人が同じ状態で在りつづけることって一方的だと難しいこと。損得とかそんなことではないし、絶対的に見返りが欲しいわけでもないし、同じ質量の何かが大事でもない。けど何かを結び付けようとしたとき、それなりのことが必要になってくることもある。大切にしたい人がいるなら、きちんとしておくべきだと思うよ。根本的に誰かから得られる気持ちは、自分の気持ちへの返信だ。

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それでも一度つながった縁はそのままあると思うよ。縁なんて言葉も別の言葉と同じように多様な意味合いを含んでいるんだろうけど。「きっかけ」とか「つながり」とかそこらへんいろいろと。時間をかけて紡がなくても、運命のように一瞬で構築されるときっていうのもある、でも基本的には少しずつ紡いでいくものだと思うんだな。きっかけとして偶然があり必然になり当然になる、そっちのほうが似合う気がするよ。その頃には言葉も必要なくなっているかもしれない、何もなくても確かなものっていうのも、きっとある。神様がくれる縁、人がつくりあげる縁、どちらかといえば後者に縁の言葉を贈りたい。なければつくりあげればいい、それが確かな人の形。

普通の日記/やさしさの考察

2014-12-09 02:25:59 | 旧記事

やさしさって何なのかっていうのは嘘や秘密と同じくらいに自分の中に存在するテーマだ。そのスタートラインから曖昧なままで、その正体にはいまだにまったく辿り着けない。それは行う側にあるのか、それは受け取る側にあるのか。たとえばそれが自己満足を意識した行為であっても、自ら偽善だと認識しているものでも、やさしさと成りうるのか。答えが何であれ誰かの為になっているのであれば、誰かがそれにあたたかみを感じるなら、誰かがそれをよしとするなら、それはそれでいいのではないかというのはひとつの正しさだ。だが俺はいうなれば至高の愛というものについてもある観点でいえば疑いは晴れない。無償のものは存在するのだろうか。すべて相対性で反射するものがあってはじめて成り立つものではないのか。単純にそれは根本にある真理であり自然であるからして、うつくしさとはまた別のものであることは断りをいれたい。そこにある取り分が無償であることの自分であるならば、それは尊く聖いものであると断言して差支えないだろう。たぶん世間というか世界的にというか、そんなところで語られるのはこの部分を理解した上での発言なんだろう。ね。

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それはそれとして、ここ最近考えたことで間違いないなと思ったことは、それが個人間である場合は積み重ねが必須になるっていうこと。恐らく単発でのやさしさっていうのは理解されないし、どうしたって浸透しない。それまでの行いや信用や信頼感により、はじめて人は人を受け入れる。人格そのものの総評、人生そのものの評価、日々日頃のすべてがリンクし影響し干渉する。そのなかでこつこつと与え続けた誠実がやさしさへ昇華される。極論でいえば人間のすべては信仰のようなものだ。一朝一夕に成り立つものなんてないんだよ。成りたいものにひとはなれる。気持ちはいつか伝わる。でもそれはある程度忍耐を必要とする茨の道だ。ということから考えるに、やさしくしたい気持ちがあって、やさしさを受け取る気持ちがあって、そしてはじめてやさしさは成立する、ってことかな。あぁ、あの愛と同じ。まぁやさしくしたいって思うのってなんか変だし、そんなこと思って何かをすることなんかないし、あたたかい気持ちの総称というか、そこはまた個々のあれこれなんだろうけど。ね。

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あと話がまとまらないから詳しくは書かないけど、わかっていてすることよりも、わからないからすることのほうが、やさしさとして高尚というか、その本質に近い気がする。今後のテーマか。ね。



普通の日記/この道を行けば

2014-11-27 03:07:38 | 旧記事

 今更かい、とか、当たり前、とかいう言葉が飛び交ったり批判くらいそうだけど、谷川俊太郎氏がカッコいいと思う。でもそれは詩の話じゃなくて、日常の会話っていうか、インタビューとかそっちらへんの話。正直、語れるほど読んでないし、知らないって言っても過言がないと思われるくらい。けど、どれくらいのものを積み上げてきたのか、どれくらいのものを書いてきたのか、名声というのか幻想的な部分を含めて知っているわけじゃん。例えばさ、すごい職人がいてさ、よくは知らないけどこの道50年みたいなこと言って、職人てのはさーなんて話をするじゃん。するとよくわかんないけどカッコいいんだよね。たぶんそれと同じような感じ。
 元々のスタートっていうのはまったく違う場所で、右見たり左見たりしながら右往左往してきたわけだけど、何となくいまのというかそこそこ前からの方向性ってこれだったんだよね。何かを書くっていうのは根本ていうか基礎っていうか背景になるものであって、サン・ラ的に言わせると潤滑油か。ジン的に言わせれば欲しいものより先に大切なものがきた、か。ちょっと違うか。手段と目的の差っていうのかな。俺が求めているのは言葉を足場にした人とのつながりで、大勢にっていうのがまったく消え去ったわけではないけど、もっと直接的な遣り取りなんだよ、たぶん、いま現在は。言葉ってのはさ、本来誰かひとりのためにあるんだ、それがベストなんだよ。 ね。
 おいおい、前半とちょっと違うんじゃねぇかと思われたり、サン・ラとかジンて誰だよと思われたりしていそうですが、でもミステリって完結するとは限らないし、矛盾は矛盾のまま、謎は謎のままでいいのではないでしょうか。なんといってもこれ日記だし。とりあえず、誰もが確実にわかるような文章を書くというのは、何であれ必要ないんじゃないかってことがいま現在この時間に一番言いたいであり、それでも何となくわかるっていうのが人間の才能であるんじゃないかと思うのでありました。前半部に接続。