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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

我が身

2023-04-29 00:54:34 | 日記
それが何の職業であっても人手が足りなくて過労になったりして、じゃぁ人手を増やせば万事解決になるかといえばそんなことはなく、金銭問題が関わってきたりもする、どうしたって資金というかに限界はある。人を増やして給料が半分になれば生活がきつくなってバイトなりせざるを得なくなったり、そもそもそうなったら辞めるわな、そこにいるだけの理由がないなら。サービス残業というか業務外残業というか実際必要でやっているのに業務外なんてものがあるのか謎だけど、そこを切り離して人を雇ってもお金の関係はどうにもならなくて、負のループすげーと思ったりする教師関連。とりあえず育成の仕方を変えて人だけ増やしてみたらいいのに、意外と低賃金でもスポット的に働きたい人はいるかも、授業専門とか業務外専門とか。ちょっと前に育児休暇の話とかもあったけど、あれも取らせないのではなくて取らせてあげられないも恐らく多い。前の仕事も人数などギリギリだった、それにおいてどこに責任があるのかわからないけど、自分が辞めて基本給が6万ぐらい上がって、もうひとりぐらい雇えたろうがと思ったりして。

お金の話で、お金が人を変えることはないっていうのは興味深い、絶対的に正しいとは言えなくてもある程度。善人も悪人も解放されたところを突き走るんだろうよ、使い切れないほどの大金を手に入れたら。何となく自分を想像するのは井戸掘るだろうな、いまでも海外に井戸を掘りたくていくらかかるか時々みたりする。いま自分が持っている財産の一部を削ってできないことはないけど、けっきょくもっと余裕がない限りできないと思う、大金を得たとしても全額を使ってやることはできないと思う。ようは凡夫ですわね。どっちにも振り切れないし自分の生活や未来も大切であるし、その一部を誰かに分けることがなかなかできない。でも出来る範囲でいいとも思うんだよな、数十万貸して返ってこなかったのつらかったもん、無理して身の丈以上のことしたってつらいだけで苦行すぎるもの、最終的にそれで誰かが明るくなる気もしないよ。全力を傾けられる人はある種で振り切っている、それが幸福ならばそれはその人の出来る範囲であるけれど、それを誰かに強要できるわけでもないし、それだけが立派かというとそうではない。自分を精一杯生きたらいいよ、自分のフィールドで、自分を。

1周忌

2023-04-25 17:41:36 | 日記
あぁ、そうか、そうなんだ、なんで3回忌は2年目にやるのかってことを理解した。レベルが1上がったというよりそもそも言葉遣いが間違ってた。ぼんやりとあるものを受け入れているのは自分の問題点であって誰のものでもないけれど、ふとした疑問が沸き上がってそれを調べてっていうのはわりとよい、それが祖母の1周忌であるわけだから仏縁というか亡き人を縁にというのもありがたいと思うわけであります。合掌。

最後の10年くらいは脳が半分無く半身不随で人格も変化していて、名前と間柄だけは確かで、人間てけっきょくのところ何をもって好きで何をもって愛しているのかとよく考えていた、きっと何もかもが頭で思っているばかりであって、もっと深いところ、存在すらも認識できない何かが鼓動しているのだろうっていう結論、正しくはないかもしれないけど思い出で生きられるほど真っ当な人間ではないんだ残念ながら。説明のつかない何かで愛していたんだと思うよ。

生きていてうれしかった、でもその半面で黒い感情だってもちろんあった、最低で酷いし自分勝手だわな。本人も色々と言ってはいたけどそれが本心かどうかはわからないから何ともいえない、医療の発展と共に助かる命は増えた、寿命も延びた、それが喜ばしいことだけかといえばこれも何ともいえない。本人も周囲も執着や欲で双方に対しての影響や干渉、傷ついたり重かったり後ろめたかったり辛かったりあると思う。そこから生まれるやさしさやあたたかさや光があるのは事実だとしても。

縁起があって、苦しみには原因があって、それを取り除けばってけど全部取り除いてしまったら人間味ないよね、その冷たい感じが後々救うのかもしれんけど、個人的にはちょっと違うよね、少なくとも今世は人間らしく精一杯いこうと思いますわ。新しいものが生まれたらそこに光と闇はどうしても生まれて、でもそれを理解しておくことが大切だと思うし、苦しみに対して覚悟をしておくのは大事だと思うよ。それでも、でもそれでもってあるじゃんね。そういうほうが好き。1日でも長く生きているのが本人のためであるんだって、1日でも長く生きている方が世のためでもあるよ、きっと。ありがとう。

最果タヒ展に

2023-04-14 19:19:10 | 日記
東京で行けなかったリベンジでというか高野山行きの途中で予定が組めたので最果タヒ展in大阪。これも縁よなと。どうしてもって計画を立てて自ら作り出す縁と、周囲の関係性から与えてもらった縁と、縁には様々な形があるんだろうと思う。どう足掻いたとしても自分ひとりで成り立っているものはないから感謝が生まれる。言葉もそう、先人たちに支えられていまがある。言葉は借り物とはよく聞くこと、そこから新しい何かを生み出すこと、言葉の可能性とかを上から目線で送ってきた人間の言っていることはよくわからないけど、続いていくものの繋がりのパーツであれたらそれはそれでいい気もするよ。

深く何かを語れるほど詳しくもないし深くもない、個人に対してもそうだし、業界としても学としてもそれほど、評論とか評価とかもできないので思ったこと考えたことを綴るだけ、いつもそれだけ、ね。なんせ思ったのは若い人がいっぱい観に来ていて言葉の世界はそんなに絶望的ではないなと思った、動画とか音楽とか何やろな受動的に浴びれるものがいまの人たちの在り方というか、音声っていうのはすごく強いと感じるこの頃ではありますが、まだ何とか踏みとどまれるというか。でも文字が文字そのままではなくてヴィジュアル的な展示ではあるのよね、これが言葉の可能性というか生き残りというか新たな街角であったとして、これはこれで正解なのではないか、確かに本を開く数は減った、意識外から飛び込んでくるのは恐らく有効であるし、古いものに縛られすぎたって仕方ないのかもしれない。時代に即した魅せ方があるのは確か、でもそれをするのは書き手じゃなくてもと思うのは自分が苦手だからの何ものでもないが。なんせそれぞれ満たされますように。

何のために誰のために、そんなことは本当はどうでもいいことで、楽しいとか美しいとか透き通る澄み渡る震えるっていうことがベストというか最高級というか当然であって。核的な部分がずっとそうであるから好ましい、他者を卑下することもないし。人間性が作品の価値や評価に影響があることはよくないけれど、表に出ることが多くなればある程度はどうしたって加味される、残念なことに外見も然り。善良だから凶悪だから、それがどの方向に加味されるかわからないし、作品外であまり多く語ることは何ともいえんとこかもしれんなとは昔から思う。でもそれだってどういう立ち位置や目標で何をしているかにもよるわけだし、正解なんか誰にもわからないから我が道を行こう、どうあれ自己評価が最良だ。それ以上はない。承認欲求はとても手強くて、苦しみ続けてきたけどやっとあと少しでそこまで行けそうな気がするんだ。あと少しで。そこはきっとうつくしい。

いつか筆が折れたとしても

2023-04-07 22:39:08 | 日記
あの頃、絶不調だったあの頃。大きな病院の各科を周らされてけっきょくのところ何もわからずにどうにもならない、病名がない原因がない身体元気ですと言われたところで調子の悪さが変わるわけではないのでどうしたもんかと途方にくれる、これ一番めんどくさい状態だと思う。なんせ世界が絶好調に回転していて真っ直ぐ歩けないんすよ、どうしろと。ここから色々連鎖的におかしくなって最終的に精神科の薬で緩和するんだが、どうしようもないけどあそこだって問診の判断だし、出会った医者の裁量次第だから何とも言えないところで、後々病名的なものを別のところからもらうんだが、ここでは病名もつかないし気持ちの問題みたいな感じで薬投げてほったらかし、緩和されたから別にもう何でもいいやって感じだったけれど。

いまとなってはそう変わらない日々、それでも時々似たような症状が出たり大体こんな感じの時にっていうのはあるからそこに怯えたり、でもいいほうなんじゃないかな、わからんけど。当時できることもできないこともあったし、思い通りにいかないことに苛立ったり、あの時に出会った人に言葉をかけてもらえなかったら救われなかったことは別の話、それはそれとして、絶対的に戻らないような状態であればそこで切り替えるしかないんだけど、戻れそうな状況ってけっこう性質が悪いよな。諦めきれないというか執着するというか。けどもう新しい自分、新しい世界なのだから、新しくできることもどうしたってできないこともあって当然であるし、それでいいんだよな。いままでこれができていたからってこれからできなくてもいい、それでいいんだよ。諦めるっていうのは明らかに見るで、現代的にはなんかネガティブでも元々の意味は違う、それとも少しずれるかもしれないけどいまの自分を見つめること、真実を明らかに見る、昨日は昨日でしかないし今日は今日、きっとそれはいいこと。少なくとも真実。

思い遣りが救う世界の中心

2023-04-06 16:47:11 | 日記
いま思えば、過去にあったひとつひとつを紐解いていけば、真っ直ぐに見つめて突き詰めれば、後悔とか反省とか懺悔とか開き直りとかあるものだ。身を守るはずであったあの頃の間違いも、心身が絶好調におかしかったあの頃の言い訳も、いま考えれば、そういま考えればであって当時に何がおかしいなんてこともなかった。おかしいどころか身の回りに対しての攻撃性すらあった気がする、いま申し訳ない気持ちがあったとしてもあの当時に戻ればやっぱり同じような日々になるんじゃないか、自分が自分のまま正しかったのだ。

例えば、友人知人からはそんなに深く心配はされていなかったと思う、けっきょくどうでもよかったとかではなくて、そこはひとつの自分たちの社会性であったわけだが、両親としてはもちろんよく思っていなかった、言い訳を前提とした無職引きこもりのように思われて心配されていた所があったことは後々の数年前に知る事実。本人としては少し時期を見ていた所はあった、確かに元来の怠け癖みたいのは否めなかったし、無計画のなかの計算であったので色々と思うところはあったろう、けどそこにあるお互いの噛み合わなさみたいなもので傷ついて苦しかったのは恐らく全員だ、時々零れる両親の愚痴と進んだ時の異常な喜び、苛立ちと悲しみ。

よくあるところでイジメしている側が認識していなかった、それって責任逃れではなくて有り得ること、その逆のパターンは微妙かもだけど。そういう噛み合わなさがあって、見えない心の状態があって、噛み合わないんだから歯車は傷ついていく一方よな。もちろん話し合えることもできないことも、抗えることもできないことも、当人同士の解決って何であれ難しいこともわかる、傷つくのも傷つけるのも傷つけあうのも時に必要かもしれない、でもこれといったベストな方法は見つからない。ただ周囲の冷静な気づきや見解、そういったものは有効なのかな、それぞれが孤独にならないように繋ぐそれぞれを。私がこうだからあなたがこうだってことはない、その意識が誰もに芽生えるとたぶんそれぞれ楽になるよね。叫ばれない痛みも叫ばれた辛さも。