goo blog サービス終了のお知らせ 

「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

五丁目の盗賊

2024-06-26 21:05:00 | 日記
いま思えばということはわりと多くてというか、どうしたってその場でわからないものが未来から過去を見た時にわかるというか、そういうことだったんだなと思うことは多い。なんでか最近よく目にする親の財布からお金を盗んでとか、カードを勝手に使って課金してとか、その行為が悪い事だと言えば確かにそうではある、なんていうのか大人が作った環境や営利目的で子どもが苦しくなっていくのはそれもそれでなと思うところではある。目の前に楽しいことがあるのに我慢をし続けるのに限界はあるし個人差もある、大人だって依存症みたいのは多々あって簡単には抜け出せないし、自分が子どもの頃なんて現実逃避的な部分も大きくあったように思える。ただそれを得るためにしていたことは、こんなものじゃなくて最低の極みだった、それでもそうしなかったら生きていけなかったのかもしれない、良し悪しは悪しだよ。
そういうのも中学になったらなぜか落ち着いた、特に楽しかったとも言えない、ゲームしなくなったわけでもないし、けどもう世界が違ったんだろう。そこまでの執着で逃避しなくてもいい何かがあった、きっと。別に教育の成果でもなければ、周囲の環境が良くなったわけでもない、どちらかといえば悪くなったような、もっと悪いのいっぱいいた。でもここらへんで盗みとかがカッコ悪いと思ってはいた気もする。ださいことはしたくないみたいな。そこからもう少し歳を重ねて、お金を稼ぐようになると、お金を稼ぐのは大変だと言われ続けてきたけど、1万稼ぐのってそんなに大変じゃなくね?と思ったりする。大金を稼ぐとか、生活をしていく中で余裕のある1万円とかは中々に大変ではある、でも欲しいものを手に入れるためだけに稼ぐ1万は我慢するよりもよっぽど楽だった。この当時の周囲も盗みとかはしなくなってた、多くはそんなに心配しなくてもそんなもんなんじゃないのかな。もちろん突き抜ける人もいるし、状況によりけりで何とも言えないところもあったりなかったりではあるものの。
三丁目の夕日みたいな時代に生まれていたら、そんなこともなかったのかな、額が小さいだけで状況は一緒か、ただ自分の時代、物を得て満足ができたからましだったのかもしれない。ゲームの課金なんてギャンブル依存症みたいなもんよね、環境自体を考えなきゃいけないし、そこにある痛みや苦しみも理解していかなきゃいけないんじゃないかと思う。綺麗事や正論をぶつけるばかりではどうにもならんよね。

再度

2024-05-31 01:01:34 | 日記
けっきょく数時間ここの加筆修正をして、とりあえずぼちぼちな状態になりました。写真をどうするんだとかそこらへんの問題はあるけれど、書きたい時に書こうという気持ちになったので万歳。いままで色々と言ってきて、これからも色々言うんだけど、なんだかんだで好きなんだなと思った。これまでの最大の間違いは、好きに理由を求めていたことかもしれない、そんなことはどうでもよくて、事実とか結果、好きじゃなかったらこんなことやってねーわ、絶対にやらんわ、という結論に至りました。これを思うのにどれだけかけてきたのかな、ごめんねきみたちゆるしてくれるかい、願わくば時々力を貸しておくれ、指先からはしれ。ひとつだけ断っておきますが、見返したら大した記事数書いてないのに同じこと書いてたり、矛盾してたりも満載でした、もちろんこれからもそのスタイルです。今日は今日、昨日も明後日も知らない。

イン・ザ・ループ

2024-05-30 21:46:30 | 日記
どっかで書いたけど幼稚園の時の自由時間に外の遊具で遊んでいて、次に何をしようかと思った時に、あれずっと同じことしてない、ずっと繰り返しなのとか考えた記憶がある、捏造でなければ。記憶も思い出も曖昧で、事実ではないことを付け加えたり、何かのタイミングで考えたり夢で見たりしたことを現実とか本当にあったことのように思いこんだり、それはまぁ致し方ないことなので何とも言えないところで過去の多くのことなんてどうでもいいことではあるが。先日も同じような体験をしたのよ、ずっとこんなこと繰り返すのかと、そしてこんなことをしていていいのかと、わたしは何をしておるのかと、罪悪感とか焦燥感とかぐっと迫り出し、世間的にどうあれそんなに悪いこともしていないはずなのに。何か妙なルールがあるんだろう内側に。不安定な原因はこれか。

オンオフがあまりない生活なせいか、心から自由で何かを楽しむってことがほとんどない、あれしなきゃこれしなきゃこれやってていいのかなって、今後の人生でバカみたいに楽しいこと楽しめることあるのかな、とか何とか神妙な感じて考えてみるけど、たぶんみんな大体そんなもんよね。例えそうであったとしてもいますぐどうこうとかなく、とりあえず生きておこうという理由が希望や責任感や何であるのかはわからないけど、そう思っているすべての人を褒め称えたい、立派だ、それだけでとてつもなく立派だ。ならわたしも立派だ。何となくどっかで落ち着く気はするんだけどな。とりあえず最後まで経験しておくのは悪くない。

いいんだクズみたいな人生でも、それでも愉快に生きている人は支えになるし、どうしようもなくボロボロでも何か届くこともあるかもしれないし、それを見せるってことも大事なことかもしれないし。何であれ詩人として、僧侶として、死ねることが確定していることは幸福であるし。どうあれそれはひとつの形に成り得る。願ったことの結実だ。

彼女の思い出

2024-05-29 21:44:17 | 日記
ハッピーバースデー。今日は中学の時にはじめて付き合った子の誕生日なんだよな、それ以外の人なんて特に覚えちゃいないので、とても綺麗な思い出なのかと思いきや、単に当時つくった銀行のカードの暗証番号がそれなだけであって何のこっちゃない、けどそんなことするぐらいには清かったのかもしれないね。付き合うって付き合ったのってこの時だけかもしんない。

そもそも付き合うってなんぞやといまをもってしても思う、何の承諾を得るためのものであるのかって。子どもと大人でも違う意味合いにもなるであろうけど、まぁでも言葉だけの意味合いというか、意味がない言葉というか、状況を表すものだけであって、深く捉える必要はないのかも、お互いの気持があって仲良かったらそれでいい、表現したいとか納得したいとか、それがあって大事にしたいとか、たぶんそんなの。結婚したら結婚したになるもんね。大人の世界を子どもに落とし込んで、新しく構築された世界もあるのかもしれないな、もう古くなっていくばかりだ、わたしなど。でも負けないんだからー。


文フリTOKYO

2024-05-20 18:07:04 | 日記
足を運んだら力をもらえるのではないかと数年ぶりに訪れてみたが、いつの間にか入場が有料になっていて、それでもこんなに盛況だったっけというぐらいに盛況で、詩歌ブースにこんなに人がいるなんて新しい時代が来てるんじゃないのと思うほど。一昔前のこのジャンルはこんな雰囲気の人たちっていうのもなくなってた、偏見が含まれていなかったかを完全否定はできない上に、自分のことは別として。この場所で思ったのは、自分の熱量で誰かを羨ましがったりするのは間違っていたなってことだ。これだけが正解ではないのも確か、それでも。

なぜこんなにも指が重くなったのか。けっきょくのところは需要がないにつきる、投稿を主にしていたころは投稿自体が楽しかったり掲載が嬉しかったりしていたが、そこに対するそういう感情がなくなると、何を支えにして続けるのかがわからなくなった。各種SNSがよくなかったのかもしれない、書き手として輝かしい人がいたり、つながりがあって楽しそうだったり、自分が書き手として自己肯定が高くなっても、虚しさが募った、全盛期の頃にもっとネットの進化などがあったら変わっていたか、でも忘れてはいけないのはいまの自分が気に入らないわけではないんだ、どちらかといえば理想の人間像には近づいている感じはあり、そう考えればすべて正しくはある。何もなくとも続けられるのが才能だとも思う反面、それは狂気であるし、ファンタジーだとも思う、少なくとも成功者にとやかく言われたくはない。それでも捨てきれないこの状況が何であるか理由はわからないが、何となく付き合えるようになってきた気はする、絶対的に感謝はしているよ、ありがとう。

後に用事があったからさくっとした動きでタイミング的に挨拶できない人もいた、でも一度お話をしたかった人とは話ができて、やっぱりわたしはこんな人になりたいんだと改めて思った。時々思い出してはすぐ忘れてしまう、こう在りたかった、その追いかける手段がいまの段階では詩ではないものだけど、近づいていっている、大丈夫、たぶんまた書ける、戻る、目の前が落ち着いたらきっと。いつかあの瞬間のように「身体に気をつけて」と、自然に手を差し出せますように。