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聖地巡礼!ビートルズ誕生の物語 リバプールを訪ねて The birth place of the Beatles

The Beatlesゆかりの地を旅すれば、そこには驚きの連続が! マニアックなマジカル・ビートルズ・ツアーです、

⑩ジョンの行きつけのパブはイ〜感じ

2016年10月08日 | 音楽
アートスクール時代のジョンがスチュやシンシアと足しげく通ったパブが"Ye Cracke”(イー・クラック)"、リバプールでも最も古いパブのひとつ。



ライスストリートという、細いなだらかな坂道の途中にイー・クラックはあります。アートスクールからはまさに目と鼻の先です。



店ではおしゃべり好きのにぎやかなおかみさんが出迎えてくれました。
生粋のリバプールっ子の彼女は強いリバプール訛り。
「ビートルズの中で一番誰が好きなの?」と聞かれて「うーん、やっぱりジョンかな」と答えると
「日本人はみーんなジョンって言うのよ。なんで?不思議よねえ」
ってそりゃ、このパブに来ている時点で相当なジョンレノンファンだもんねえ。
「日本の女性はみんなかわいいのに、ヨーコは違うわ。だいたい、なんであんな人とジョンは結婚したのかしら どうしてだと思う??」
「あなた、何歳?? え!!! 見えない!!」「(他の従業員に向かって)ねえ、あんたちょっと来てごらんよ!」
彼女のおしゃべりは止まりません・・・。



ジョンが愛したブラックベルベッツ。ビールをブラックベリーで割ったもの。予想以上に甘い。がぶがぶ飲むというよりはチビチビ飲むのに適している感じ。


ジョンはンシアやスチュと頻繁にここに来ては酒を飲み、つきないおしゃべりに興じました。
後の「マージービート紙」編集長でアートスクール仲間のビル・ハリーと、地元のロックンロールシーンにフォーカスした雑誌の創刊について
長い間語り合ったのもこの店でした。



店の裏には広いテラス席があります。堂々とした大きな木が木陰を作ってくれます。ジョンたちが若い頃は低い小さな木だったんだろうなあ


"Ye"と書いて、イー、と発音します。Yeとはイギリスの古語で"You"という意味。
ですが、店名に使われるときは"The"に相当することになります。
つまりYe Cracke は The 裂け目 といった意味ですね。

おしゃべり好きなおかみさんや、優しそうな従業員。このお店は気さくなムードに満ちあふれています。
ぼくが訪れたときはお昼で、店内は改装工事中。そのせいか他に誰もお客さんはいませんでした。



〜行き方〜
市の中心部から徒歩圏内。ライムストリート駅からなら1キロ程度。15分もあれば着いちゃいます。
すぐそばにジョンのアートスクールやフラット、中華街などがあるので、一緒にまわるとよいでしょう。
できればやっぱり、夜に訪れて、フィッシュ"ン"チップスなどをつまみながら、ゆっくりと時間を過ごしたいものです。






⑨ポールとジョージの学校は超名門!

2016年10月01日 | 音楽

Liverpool Institute High School for Boys



ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンが通ったグラマースクール、Liverpool Institute High School for Boys 。通称”イニー”。
大聖堂や、大学、高級そうな住宅街などが立ち並ぶ格式高いエリアに学校はあります。
日本で言えば中学〜高校にあたる期間、ふたりはここにバスで通いました。

イニーに入るにはイレブンプラス(Eleven Plus)という、小学校の最終学年で受ける試験でトップレベルの好成績をおさめる必要がありました。
そもそもグラマースクールというのは、もともとラテン語を学ぶための学校であり、最上の教育を授けるための国立の教育機関とされています。
加えて、イニーの創立は1825年という名門中の名門。そう、ポールとジョージはエリートだったのですね。
しかし、ポールとジョージは入学して間もなく学業に全く興味をなくし、いわゆるテディーボーイとなってしまいましたが。



上の写真の手前がジョンの通っていたアートカレッジ。奥がイニー。まさに隣り合わせていたんですね。
ポールとジョージはジョンに会うために、アートカレッジに足しげく通いました。

1960年代のなかばに英国の教育システムに変革の波が押し寄せます。
様々な論争などを経て、ついには1985年、英国が不況に喘ぐ中、学校は閉鎖されてしまいました。
そして、立派な校舎も壁ははがれ落ち、屋根の水は漏れるなど、荒れ果ててしまいます。
そこに救いの手を差し伸べたのがサー・ポールマッカートニーでした。
朽ち果ててゆく母校を存続させるポールの願いがジョージマーティンら多くの人々を動かし、総合芸術大学として生まれ変わるアイデアとなってゆきます。



こちらは1枚目の写真にうつっている校舎の裏側にあたります。

ポールの多額の資金援助を受け、校舎は改修され、
1996年、新しくLIPA(Liverpool Institute of Performing Arts)として生まれ変わりました。
開校式には女王陛下も出席しています。



LIPAの校内は誰でも入れます。カフェテリアで食事も楽しめると聞きました。
(ただし、あくまでも教育機関。むやみに立ち入ることは遠慮したいものです)

〜参考まで 行き方〜
リバプールの中心部・繁華街から徒歩圏内です。なだらかな坂を上ってゆきます。
街の風景を見ながら歩いて行くのにちょうど良い距離。
後述しますが、このエリアにはジョンとスチュのフラットやジョンとシンシアの住まいなどもあり、見所がたくさん。
市中心部からの道中には英国最古の中華街も。LIPAの目の前にはリバプール大聖堂。





⑧Penny Lane、意外すぎる名前の由来

2016年09月24日 | 音楽
ペニーレーンは通りの名前であると同時に、その通りが伸びる先に広がる界隈の通称でもあります
ジョンレノンは幼い頃に母親とともにニーレーンのすぐそばにあるニューキャッスル通りに住んでいました。
歌のイメージから、ペニーレーンと言えばポールを真っ先に思い浮かべてしまいますが、
実は、この辺りに住んでいたことがあるメンバーはジョンだけです。



通りとしてのペニーレーンは大きな公園に沿って伸びる片側1車線の細い道。
ペニレーンと表示された標識は繰り返し盗難にあったため、今では壁に直接ペイントされています。
Penny Laneの名前についてはあまり知られていませんが、実は18世紀の奴隷商人James Pennyに由来しています。
1度の航海で5〜600人もの人たちを奴隷として運んだやり手の貿易商であり、リバプールの奴隷貿易廃止運動を食い止めた”功労者"として、
銀杯をもらったりしています。
2006年、奴隷制度と関係があるという理由で、「ペニーレーン」の通り名を変える案が地元の議会に提出されました。
無事に?その議案は可決されずに終わりましたが、もし変えられたとしたら、ビートルズファンにとっても、
ビートルズ観光で潤う地元にとっても相当のショックをもたらしたことでしょう。



ここはかつて、たくさんの買い物客や教会を訪れる人々でにぎわう場所でした。
ちなみに、かのプロモーションビデオに登場する街の風景は実はペニーレーンではありません。
ジョンが一人で歩くシーンはチェルシーにあるキングスロード、4人のシーンはロンドンのウエストエンドで撮影されたものです。

ポールはペニーレーンの真ん中でひときわ目立つ、「聖バマバス教会(St. Bamabas Church)」の聖歌隊の一員でした。
ジョンとジョージが通ったダブディル小学校(Dovedale Primmaly School)はペニーレーンのすぐそば、歩いて5分程度の距離にあります。



In Penny Lane there is a barber showing photographs.

かの有名なバーバーショップ。かつては「Bioletti's」という名でした。
子どもの頃のジョン、ポール、ジョージはここで散髪したといいます。
ビートルズが有名になった後にも、4人はここを訪れていて、その時の写真が店内に誇らしげに飾られています。


Shelter in the middle of the round-about

かつてペニーレーンにはリバプール中を結ぶ重要なハブとなるバスターミナルがありました。
ポールはアンソロジーの中でも、「ここでバスを乗り換えて、ジョンや友達に会いに行ったんだ」と話しています。
かつてバスの待合所であった建物は、ビストロ"Sgt Pepper's"という、臆面もない名前のレストランになっていたのですが、
この店も今はつぶれてしまったようです。
ビートルズファンにとっても思い入れのある場所のひとつ。きちんとした形で保全されればいいのですが。



かつての名残を今にとどめるべく、「バスシェルター」と書かれています。
ちなみに、リバプールの人たちの発音はバス、ではなく、「ブス」、に聞こえるので要注意。



On the corner is a banker with a motorcar.
"角の銀行"は、外科になっていました。

あ、そうそう、クイーンのフレディー・マーキュリーは60年代後半にここペニーレーンに住んでいたんですよ。
彼はリバプールで活動する”Ibex”というバンドで歌っていたのです。

〜行き方〜
ペニーレーンにはぜひ、バスツアーなどではなく、自力で行くことをお勧めします。ツアーはたくさんの場所をまわるという利点はありますが、
ゆっくりと観てまわる、といったことはできません。ペニーレーン界隈の雰囲気を感じるためには、時間をかけて歩いてまわるとよいでしょう。
ダブデイル小学校や、ジョンの生家などツアーでは行くことのできない場所も、歩いてすぐのところにあるのです。
バスで行く場合は市中心部のUpper Newington Street(Stop2)から Speke行きのバス86Aに乗ります。
adj Deepfield Road下車。バスは30分に1本程度。25分くらいかかります。タクシーだと15分。

⑦Strawberry Fiel"d" Forever

2016年09月19日 | 音楽

ストベリーフィールドは驚くほどジョンの家の近くにありました。("Field"です ”Fields”ではありません)
考えてみれば不思議じゃない。幼い子どもが遊びまわれる範囲は限られていますから。
家の裏庭を抜けてほんの少し進むだけで、ジョンにとってのワンダーランドが広がっていたのです。



ストロベリーフィールドは当時、救世軍の孤児院でした。夏にはガーデンパーティーが開かれ、ジョンはそれを何よりも楽しみにしていました。
ミミおばさんは回想しています「救世軍の楽団の演奏が聞こえてくると、ジョンは飛び上がって ”ほら、ミミ、早く!遅れちゃうよ!”と叫んだものです」

普段は外部立ち入り禁止だったために、ジョンは何度も何度も繰り返しつまみだされたそうです。



孤児院だった建物は残っていません。現在そこには教会とその関連施設が立っています。有名な門から中の様子は少ししか伺うことができません。
その有名な門もオリジナルのものではなく、2011年に新しいものと取り替えられています。



上の写真はストロベリーフィールドがある通りを写したもの。うっそうとした緑に覆われています。メンローブアベニューはこのすぐ先にあります。

Let me take you down cause I'm goin' to Strawberry Fields, Nothing is real.....

実際にこの場所に立ってみると、曲のサイケデリックなイメージと重ね合わせることは難しいかもしれません。
”Strawberry Fields Forever”はジョンの言葉遊びのようなもの。
でも、ジョン・レノンを形作った場所であることは間違いありません。
幼きジョンにとって、そして、ビートルズとして大成功を納め、疲弊したジョンにとって、ここはかけがえのない大切な場所なのです。



⑥ジョンとポールが出会った運命の教会

2016年09月18日 | 音楽
ポール・マッカートニーとジョン・レノンには共通の友人がいました。彼の名はアイヴァン・ボーン。
1956年の7月6日、アイヴァンはポールに「友達のバンドが教会のお祭りで演奏するから見に行かないか」と誘います。
それがビートルズ伝説のすべてのはじまりでした。
ジョンとポールが出会った運命の場所は、二人の住んでいるアラートン地区からさほど遠くないウールトン地区にある、セントピーターズ教会でした。



教会のあるエリアはとても緑豊かで閑静な住宅街。生い茂る木々を両側に抱く細長いなだらかな坂を上りきったあたりに教会はあります。
1826年に建てられた教会の外壁は長い年月とともに深い色に染められ、周囲のどこからでも目に入る荘厳なたたずまいはこの地域一帯を一層格式あるものにしています。

ジョン率いるクオリーメンが演奏していたのは教会の前の芝生の庭。しかし、庭があった場所の半分は今では墓地になっています。元々の墓地が拡張されたそうです。
ジョンたちが実際に小さなステージの上で演奏していた場所は今も庭のままですが、教会の墓地とその庭の間には大人の身長くらいの高さの垣根と柵があり、入ることができません。



クオリーメンが演奏していたのは、上の写真の真ん中あたりに写っている大きな木の下あたり。この時の録音テープが1990年代になって奇跡的に発見されています。
録音されたものを聞いてみると、意外にもバンドの音のバランスが良く、ジョンの声がちゃんと際立って聞こえます。
ジョンの声が良く通る声であったこともその一因でしょう。その日、教会の庭園に、そして、ウールトン中にこの声が鳴り響いたことが想像できます。



ジョンとポールが初めて言葉をかわしたのは、教会から出て、坂を少し下り、左手の小道を入ってすぐのところにある教会のホールでした。
昼の部の演奏を終えたバンドがここで休んでいるときに、アイヴァンがポールを連れてきたのです。





ホールの壁にはそのときの様子が描かれた絵が飾られていました。ポールは背中に裸のままでギターをしょっていたのですね。

さてさて、そこでなんとびっくり。その歴史的場面に居合わせたクオリーメンのメンバー、レン・ギャリーさんがいたのです。



その週は年に一度のビートルズウイーク。リバプールのあちこちでビートルズにまつわるイベントが行われていて、
貴重な歴史の証人としてホールに招かれていた、というわけです。
とっても気さくで、優しい小さな目をした紳士でした。満面の笑みで握手をしてくれました。
「日本から来たの?この間、日本に行ったんだよ。ハイロウズの前座としてクオリーメンが演奏したんだ。いやあ、楽しかったなあ」
そうか、そうだった、思い出しました。それにしても、クオリーメンと一緒にツアーするなんて、ハイロウズ、やるなあ。


この日行われたウールトン地区のお祭りの様子を写した数々の写真が飾られている。トラックの荷台の上に乗っているクオリーメンの写真には
「キングス通り(Kings Drive)を行進してゆくクオリーメン。午後2時15分頃だろうか。このあと、数時間のうちに教会のホールでジョンとポールが出会い、歴史は変わることになる」
と説明文が添えられています。
これらの写真を撮影したのはクオリーメンのメンバーだったロッド・デイビスの父親、ジェームズ・デイビス。写真をとることが何よりの趣味だったジェームズは
この日のウールトン地区(リバプールの人々は「村」Villege と呼んでいました)のお祭りの様子をたくさん撮影しています。
トラックに乗ったクオリーメンを写したものはそのうちの貴重な1枚。



教会の墓地には有名な「エリナー・リグビー」の墓があります。
ホールは当時、教会の”ユースクラブ”の活動場所だったため、若者の賜り場でもありました。若者たちは墓地も遊び場として、ときにはデートの場所として利用されていました。
ポールは"Eleanor"という不思議な名前の女性の墓石に目を留め、それを覚えていたのでしょう。ちなみにRigbyという姓はリバプールでは珍しくないそうです。
また、ジョンの育ての親、ジョージ・スミスの墓もここにあります。



ジョンはこの教会の聖歌隊の一員でした。意外なことに、日曜学校にも欠かさず通っていたそう。

〜参考までに もし自力で行くならば〜
ここはメンローブアベニューのジョンの家からだと、歩いてでも行ける距離にあります。ジョンの家→ストロベリーフィールズ→セント・ピーターズ教会、といったコースがおすすめ。








⑤リンゴの生家は取り壊されるところだった!

2016年09月17日 | 音楽

リンゴの生家は取り壊しを免れた!



リンゴスターの生家はディングルと呼ばれる、リバプールでも最も貧しい地域にあります。ディングルはリバプールの港から近く、当時も今も、荒廃した印象を与える、貧しい労働者階級の人々が住む場所です。
生家の住所はマドリン通り9番地(9 Madryn street)。ここをリンゴの父親はわずか週0.5ポンドで借りています。
リンゴはまさにこの家で1940年の7月7日に生まれました。ちなみにリンゴの本名はリチャード・スターキー。父親も同じリチャードです。
しかも、愛称も同じ「リチー」。ややこしいったらありゃしませんね。


この通りに立つ家々、つまり長屋は地区の再開発計画により、取り壊しが決まり、住民もすべて退去していましたが、2012年、リンゴの生家としての価値が見直され
元の住居群として1400万ポンド(およそ19億円!)をかけて再建されることが決まりました。


実際に訪れてみると、生家のドアはビートルズファンの落書きでいっぱい。人が住んでいない通りは、ミニゴーストタウンといった感じで少し不気味な感じもします。
リバプールは、実際に行ってみると、日本人には相当きれいな街に映りますが、リンゴの生まれ育ったディングルや後述するアドミナルグローブが属するリバプール8
(Liverpool Eight)と呼ばれる地区はすさんでいる印象を強く受けます。朽ち果てつつある建物や、スプレーによる落書きもあちこちに目立ちます。




リンゴが3歳のときに両親が離婚し、1944年、リンゴは母親エルシーとともにさらに家賃の安いアドミラルグローブ10番地(10 Admiral Grove)に引っ越します。
1階と2階にそれぞれ2つずつ部屋があります。ハンター・デイビス著「ビートルズ」(草想社)によれば、リンゴはこの家に引っ越したときのことを覚えているそうです。
それから、デビューした後ロンドンに移るまでリンゴは、大病で2度期入院した時期を除いてずっとこの家で暮らしました。
前と同様、非常に貧しいエリアですが、ここはリンゴの幼少から青春時代まで、数々の良き思い出がつまった家なのです。

デビュー直後に家の前でBBCによって撮影された有名なフィルムがあります。ファンで埋め尽くされた通りにジョージがオープンカーでリンゴを迎えにくる、というもの。
かなり、やらせ臭いですが、当時の雰囲気を今に伝えています。

ぼくが2004年にはじめてここを訪れたときも、そして現在(2016年)も、家は、質素な家々が並ぶ小さな裏通りでひときわ異彩を放つ、白とピンクに塗られていました。
車も入れない狭く、そして短い通りをはさんで、小さな家々がひしめいています。日本で言えば、豊かではないけれど人情豊かな下町の小さな路地裏、といった感じでしょうか。

リンゴたちが去ったあと、ここに40年間住み続けたのはマーガレット・グロースさん。彼女は、リンゴファンをこの家の中に案内することで稼いだお金をすべてチャリティのために寄付しています。
彼女は最近91歳でなくなり、この家は今年(2016年)3月にオークションにかけられました。7万ポンド(およそ1000万円 安い!!と思うのはぼくだけでしょうか?)で落札したのは
過去にジョージのスピークの家も競り落とした、ロンドンに住むビートルズファンの女性でした。彼女は他にもシンシアの家や、ジョンの母親ジュリアの家も所有しています。うらやましい限り・・・。



家のすぐそばにそびえ立つのは、リンゴのソロアルバムのジャケットの写真に使われたことでビートルズファンにはおなじみのパブ「エンプレス」。
写真の右側に見えるのがアドミラルグローブ。
さて、ぼくもパブの中に入ってみました。
地元の人たちが昼間から飲んでいます。中には目がすわった老人も。ちょっと萎縮しちゃう雰囲気。近所の人たちの憩いの場であることは確かなようで・・・。

建物の外壁には、John, Paul, George, Ringoの大きな文字や4人が描かれた絵が。いずれも2004年に訪れたときにはなかったもの。
なるべく原型をとどめておいてほしいファン心理をわかっていないなあ。

〜行き方〜
この2つの家には
タクシーによるビートルズツアーが立ち寄ってくれます。
市内中心部からそう遠くはないので普通のタクシーを利用するのもいいかもしれません。ぼくはレンタカーで行きました。

④ジョージこそがワーキングクラスヒーローだ!

2016年09月17日 | 音楽
ジョージ・ハリスンの育った家

ジョージの父、バスの運転手であるハロルドと母ルイーズは1930年に結婚し、アーノルドグローブ12番地に初めての居を構えます。
建坪がわずか9平方メートルの小さな家でした。ジョージは4番目の子どもとして1943年の2月に生まれました。
アーノルドグローブの生家について後年ジョージは「暖をとるものは小さな石炭ストーブしかなくて、震えるほど寒かった。トイレは屋外だったし」と回想しています。
1950年、一家は住み慣れたこの家を去り、スピーク地区に引っ越します。そこはハロルドがなんと18年も前に申し込んでいた家でした。





スピーク地区アップトングリーン25番地(Upton Green 25)の家を訪ねました。(リバプール中心部からタクシーを利用。15ポンド)
家の前でギターケースを片手にポーズをとる誇らしげなジョージの写真が残されています。
ぼくが写した写真と比べてもらえれば、いまも当時の面影は色濃く残っていることがわかるでしょう。



住民の服装や、外から垣間見える暮らしぶりからも、この付近に住んでいる人たちは経済的に決して豊かではないことがわかります。
昼間じゃなくて夜だったら少し怖い感じがするかもしれない。
私が家の前で写真をとっていると、ちょうど買い物からかえってきたらしい隣の家に住む親子とでくわしました。
母親が娘に「ほら、あんた写真をとってあげな」と言ってくれました。ここを訪れるファンに慣れっこな様子が伺えます。

ジョンと知り合うずっと前からポールはジョージと友達でした。ポールもこのスピーク地区に住んでいて、二人はスピークとリバプール中心部の間を走る同じバスを使っていたのです。
リバプールセントラルターミナルのインフォメーションで尋ねたら、バスでスピークまでは「50分くらいかかる」とのこと。
そんなたっぷりとある時間を二人はギターやレコードの話をしてつぶしていたのでしょう。

意気投合したポールとジョージはお互いの家に出入りしてギターの腕前を磨き合いました。
ポールの家(72 Western Avenue)からジョージの家まで1キロと少し。ふたりは驚くほど近くに住んでいたのですね。
もしも、この2人が近所に住んでいなかったら・・・・。同じバスを使っていなかったら・・・。数あるビートルズ誕生の奇跡のひとつです。
ジョージはポールの紹介でクオリーメンに加入しますが、この家でバンドは何度も練習を重ねました。
ジョージのお兄さんの結婚披露パーティーがこの家で開かれたときには、ビートルズが演奏しています。

なお、スピーク地区には「リバプール・ジョン・レノン空港」があります。元々は「スピーク空港」という名前で呼ばれていました。
1962年、3度目となるのハンブルグ巡業に行くときにビートルズのメンバーはこの空港を利用しています。
ハンブルグの空港で待ち構えていたのは、ジョンの親友でビートルズの元メンバー、スチュワート・サトクリフの死というショッキングなニュースでした。

この家は2014年にオークションにかけられ、ロンドンに住むジョージのファンに15万6千ポンド(およそ2000万円ほど)で落札されています。

デビューした後にも住んでいた家



1962年、ハリスン家は4キロほど離れた場所 174 Mackets Lane に3度目の引っ越しをします。今回も一家はよりよい条件の家屋に引っ越すことを長年待ち望んでいたそうですが、
この家も前の家と大差なく、非常に質素な印象です。

デビュー後まもなく、ジョージはロンドンに居を写しましたが、この家にも頻繁に寝泊まりしていたようです。
一家はひっきりなしに訪れる熱狂的なファンたちに常に悩まされることになります。
1963年、リバプール・エンパイア劇場で公演した際に実家に帰ったジョージの姿が写真に残っています。
一家は1965年までこの家で暮らしました。

③ポールの家の中はビックリがいっぱい!

2016年09月11日 | 音楽

ポール・マッカートニーが青春時代を過ごした家 20 Forthlin Road



1955年、マッカートニー家はここ、アラートン地区フォースリン通り20番地に引っ越しています。それはなんと一家にとって7回目の引っ越しでした。
1995年にナショナルトラストが家を購入し、いまもその管理下に置かれています。しかし、ジョンの家のようなナショナルトラストの所有物であることを示す”ブループレート”は掲げられていません。プレートは、死後20年、もしくは生誕100年以上の人物に限って掲げることができるというルールがあるからなのです。

この家は市営住宅で、ジョンの家のようにいわゆる持ち家ではありません。綿花商だった父と助産婦のメアリーは必死になって働き、ここでつつましい生活を二人の息子とともに送っていました。しかし、引っ越しから間もなく、メアリーは乳がんでこの世を去ります。そんな一家を襲った悲劇を乗り越え、ポールはここでギターを覚え、曲を作りはじめました。まさにポールが大人へと成長し、ビートルズとして羽ばたいてゆく”巣”がこの家だったのです。
ジョンは厳格なミミおばさんから逃れて、いつもここに来てポールとギターを弾いていました。ポールはジョンに新しいコードを教え二人はレパートリーを増やしてゆきます。やがてふたりは一緒に曲作りをはじめます。ここは、"I saw her standing there"や”One after 909”など後に世界中の人々を魅了した「レノン=マッカートニー」による数々の曲が作られた場所となりました。


さて、中はどうなっているかというと・・・、床、壁、家具など、当時のものはほとんどここには残っていません。住居者が何度もかわってゆくうちに、失われてしまったのです。玄関のドアは1995年にオークションで売られました。しかし、ナショナルトラストの努力により、当時の家の様子ができる限り、それに近づくようにしつらえられています。
しかし、最も重要なアイテムとも言うべき、一家が愛用したピアノが6畳くらいしかない狭いリビングに今も変わらず鎮座しています。しかも、このピアノ、ツアーの参加者であれば、自由に触ったり、弾いたりすることができるのです。ぼくも少しだけ弾かせてもらいました。黒ずんだ白鍵が時代を感じさせます。ポールが、そして、ここをたまり場としていたジョンやジョージが弾いていたんだと思うと、体が震えるような興奮を覚えます。



ポールの弟マイクは写真が趣味で、この家の中でもポールをはじめ、家族や友人たちを被写体にしたたくさんの写真を撮影しています。ポールとジョンがテレビの前でソファにすわり、肩を寄せ合うようにしてギターを弾いているところ。リビングの窓の向こうの庭にたってこちらを見るポール。そんな貴重な写真の数々が、まさにその場所に一番近い壁に掲示されています。暖炉の前でギターを弾くポールの写真と現場の状況を見比べると、ポールがソファではなく、床に座ってギターを弾いていたことがわかります。「あー、まさにここにポールやジョンがいたんだ・・・」熱い実感がアドレナリンのように体中を駆け巡ります。

リビングの壁紙はなぜだか、壁面ごとに異なっています。ピアノの向こうの壁には中国風の模様を描いた壁紙。ポールが住んでいた頃に使われていた壁紙も一部だけですが、額装されて展示されています。いまの家の壁紙はうすい黄色の地ですが、実際は「青」であったことがわかります。

リビングの隣は畳3つ分ほどの小さなダイニングルーム。一家の団らんの場所でした。しかし、メアリーの死後、ポールがここで食事をとることは決してなかったそうです。
ダイニングルームに隣接するのは小さな小さなキッチン。現在のスタンダードからすると恐ろしく質素なもの。シンクは、これで用を足すことができるのだろうかと心配になるほどの小ささです。ジョンがここでお茶を入れる写真が残されています。

裏庭にでました。大ヒットしたソロアルバム“Chaos and Creation"のジャケットには、裏庭でギターをつま弾くポールの姿が使われています。ポールファンにとっては、たまらない場所でしょう。
裏庭に面した外壁に沿って立つポール、ジョン、ジョージの3人をとらえたものなど、ここでも、何気ない日常をとらえ、今では大変に貴重なものとなった、写真がいくつか残っています。
さて、裏庭の向こうは広大な警察学校のグラウンドが広がっています。ジョンの竹馬の”悪友”であり、生涯の親友であったピート・ショットンはここで学んでいます。訓練を受けるピートに向かって2階の窓からジョンたちは大声ではやしたてたそうです。
ぼくがここを訪れた時は、100メートルほど先に数頭の警察犬が訓練されているところが見えました。

2階のポールの部屋に行きましょう。せ、狭い!しかも、ベッドのサイズは尋常じゃありません。180センチ近くあったポールが収まるとは思えない小ささ。寝返りも満足にうてなかったのではないでしょうか。ベッドの上に置かれた当時の新聞にはなんと「上を向いて歩こう」の広告が掲載されています。「アメリカでトップ20のヒットです!」曲名は日本語で大きく書かれています。



〜参考までに
ジム・オドネル著「ジョンがポールと出会った日」(ハッピーブックス社)には、ジョンの家はもちろん、ポールの家、特にジョンやポールの部屋の様子が細かく、そして瑞々しく描かれています。興味のある方はぜひ読んでみてください

②ジョンが育ったのは高級住宅街だ!

2016年09月03日 | 音楽


1940年、10月9日、リバプールがナチスによる空襲を受けた夜にジョン・ウィストン・レノンは生まれました。
場所はオックスフォードストリートにある「リバプールマタニティ産院(Liverpool Maternity Hospital Oxford Street )」の2階。
産院は1985年に他のリバプールの産院などど合併し、その後、場所を移しました。現在はリバプール大学の学生寮となっています。


しかし、入り口には、産院であったことを示す標識が今も残されていて、ジョン・レノンがここで生まれたことを記したプレートも掲げられています。
場所はライムストリート駅から徒歩で行ける距離にあります。



この世に生を受けたあと、1945年まで、ジョンはニューキャッスルロード9番地の家で母親ジュリアとともに過ごしています。場所は「ペニーレイン」のすぐそば。
ペニーレインと言えばポールのイメージが強いけれど、ペニーレインから一番近い場所に住んでいたのは実はジョンなのです。
あたりの印象は、決して豊かでもないけれど、それほど貧しい感じもしません。今も、一般の住居として利用されています。
後述するメンディップスのようにナショナルトラストの管理下にはおかれてはいません。リバプールが生んだ世紀のヒーロー、ジョン・レノンの生家にしては、
ほとんど特別扱いされていないことに少なからず驚きを覚えます。



ジョンが育った家 251 Menlove avenue
幸運にもジョンとポールが多感な青春時代を送ったそれぞれの家の中に入ることができるツアーに参加することができました。
(実際に行った順番は逆ですが)、
まずはジョンの育った”メンディップス”と呼ばれる家から紹介しましょう。
家は後にジョンのソロアルバムのタイトルにもなった「Menlove avenue」に面した場所にあります。
ジョンの父親とは違う男の子を妊娠したジュリアから、叔母のミミ・スミスがジョンを引き取った1945年からシンシアと結婚する1962年まで
ジョンはここに住んでいました(学生時代には数年別の場所にも住んでいたが)。まさにジョンが青春を過ごした場所なのです。

ジョンと言えば「労働者階級のヒーロー」。貧しいリバプールからロンドンに、そして世界に飛び出し、立身出世を遂げた男。そのようなイメージが強いジョンですが、
実際に育った家に行ってみたら、驚いてしまいました。家は立派だし(この家を紹介するときに建物の全景写真が使われるのは常ですが、ジョンの家は向かって左半分。右半分は別の住戸)、
周りの環境と言ったら、大きな家が立ち並び、緑深い閑静な住宅エリア。リバプールの人たちも口を揃えて、「あのあたりはPorsh=高級なとこだよ」と言うではないか。
この周辺の家々には、Mendips のようにそれぞれ「名前」がついている。それ自体、裕福な地域であることを示しています。

そうか、ジョンは恵まれて育ったのか。労働者階級とかじゃないんだ。行ってみてはじめてわかること。
目の前には広い歩道と片側2車線、緑豊かな中央分離帯が走る大きな通り。通りを隔ててた向こうにはゴルフ場のある公園が広がり、そこを超えればポールの家。

写真はジョンの家の前から撮影した「メンローブアベニュー」

数々の曲が作られたポールの家と違い、「ビートルズの曲がほとんど書かれていない」という驚くべき理由でナショナルトラストはメンディップスを所有、管理することに関心を示していませんでしたが、
ようやく2002年になってノヨーコさんが購入し、ナショナルトラストに寄贈されています。
ポールの家と違って、この家は壁や床、調度品などジョンが住んでいた当時に使用された状態に近い状態が残っており、ナショナルトラストは失われたものも回収をはかるなどして、
家の中は当時の様子が忠実に再現されています。



(家の中に入るツアーは外観以外の写真撮影が禁止)
まずは家の壁にそっておかれた、賞品としてもらった緑の自転車(当然レプリカ)が目に飛び込んできます。自慢の自転車でポールやジョージの家に通ったジョン。
そう、彼らの家は自転車で行くのにちょうどよい距離だったのです。
家の中には、玄関ではなく、キッチンにある裏口から入る。ミミおばさんは当時は一生の買い物であったカーペットを汚されたくなくて、ジョンの友達が表玄関から入ることを
許さなかったらしい。キッチンは6畳くらいでしょうか。当時使っていたであろう食器や、食料品などのレプリカが並べられています。
キッチンをでて玄関の方に進むとミミおばさん自慢のリビングルーム。なるほど、これは相当立派。今のスタンダードでも上質な雰囲気が漂います。保守的なデザインの調度品からは
堅実で落ち着いた生活を好んだミミのことが偲ばれます。
2階にあがるとジョンの部屋。わずか2メートル×3メートルの狭い部屋。ベッドの上にはジョンがはじめて手にしたギターのレプリカ。壁には彼のアイドルの写真が。
2010年にここを再訪したオノヨーコさんはこう話しています。「ジョンのベッドルームに来るたびに息がつまる思いがします。こんな狭い空間で夢を見ていたんだなって」(BBCニュースより)。

ツアーに参加した他の人たちが出て行ったあと、一人でこの部屋に残ってみました。たった数十秒のことだけれど、なんとも形容しがたい感動を覚えます。特別な瞬間。ジョンの部屋にいるなんて。
子どものときから憧れ続けた英雄が一番長い時間を過ごした場所。

ジョンの部屋の隣はバスルーム。かわいい真っ白なバスタブが。

〜行き方〜
このメンディップスは市の中心部から8キロほど離れた場所にあります。
バスツアーやタクシーツアーなど、いくつかあるビートルズ観光ツアーは必ずここに立ち寄ります。家の中に入ることができるツアーもあるので調べてみてください。
自力でゆくならレンタカーも(私は最初にここを訪れたときはレンタカーを利用しました)。