聖地巡礼!ビートルズ誕生の物語 リバプールを訪ねて The birth place of the Beatles

The Beatlesゆかりの地を旅すれば、そこには驚きの連続が! マニアックなマジカル・ビートルズ・ツアーです、

⑪超豪華!ジョンとスチュのフラット

2016年10月15日 | ビートルズ

アートスクール時代のジョンの無二の親友であり、後にビートルズのベーシストとなるスチュアート・サトクリフ、通称”スチュ”。
彼は"Beet"les の名付け親でもあります。(間もなくジョンが"Beat"lesと改めましたが)
スチュとジョンが住んでいたのが、ここ”ガンビアテラス”(Gambier Terrace)。1960年、スチュが他の学生たちと暮らしていたところにジョンが
転がり込んだのです。



スチュはエジンバラで生まれましたが、幼い頃にリバプールに引っ越しています。父親のチャールズは大酒飲みで
家にはほとんど居着かず、妻に暴力をふるう、今で言うDV夫でした。家庭環境に恵まれていなかったことがジョンと共通しています。
(スチュの悲劇的な死の知らせも、父親の耳に届いたのは死後3週間経ってからでした)



ジョンは、同じアートスクールに通う、後に「マージービート紙」を創刊するビル・ハリーからスチュを紹介されています。
ジョンは大学の厄介者でしたが、才能豊かなスチュは将来を最も期待される学生のひとりでした。
スチュはジョンの型破りな個性に惹かれ、ジョンはスチュのまぶしいくらいの才能を認め、ふたりは固い絆で結ばれてゆきます。


”ガンビアテラス”はびっくりするくらい立派な、威厳ある建物でした。建てられたのは1830年代。
日本のスタンダードからすれば、”超豪華”なマンション。学生がこんなところに住むなんて、
正直、ピンとこないくらいです。石造りが基本の西洋建築文化との違いを強く思い知らされます。
写真をとっていると、住民らしき初老の男性が近づいてきて、ジョンの住んでいたフラットを指を指して教えてくれました。




ガンビアテラスには1から10まで、10のフラット(集合住宅のひとつの単位)があり、ジョンたちが住んでいたのはフラット「3」。
ジョンが移り住んで間もなく、ふたりは部屋の中を真っ黒にペイントしてしまいました。寒い冬の日には暖をとるために家具を燃やしたと言います
1960年の7月、日曜新聞の「ピープル紙」が取材に来て、ジョンとスチュたちの生活を「恐怖のビートニク」と題して写真付きで紹介しています。
(ビートニクとは日本的に言うと”ビート族"。50〜60年代初頭のカウンターカルチャーの担い手の俗称)

ポールやジョージは頻繁にここに来ていましたが、
わざわざフラットの裏手にある火災用の非常階段を使って、部屋に入ってきていたそうです。
ジョンの気を引くことに一生懸命だったポールは「スチュアートに嫉妬していた」と後に告白しています。



もともとこのフラットでスチュとルームシェアしていたのが、後に画家として世界的な成功を収めることになるマーガレット・チャップマンです。
彼女はジョンにサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読むように勧めています。
「ライ麦畑をつかまえて」のペーパーバックをカバンに入れて、ジョンを暗殺した人物の名もチャップマン。ちょっとした因縁を感じてしまいます。
それにしても、同じフラットに住んでいた3人もの人物が世界的に知られることになるなんて、なんとも豪華!





上の写真:アートスクールの仲間たち。ジョンは後列一番左。ジョンはリーゼントヘアーでびしっときめていますね。
ガンビアテラスの入り口そばの前庭で撮影されたものです。



ガンビアテラスの目の前がリバプール大聖堂。すぐそばには威厳たっぷりの外観を誇るアートスクール。この辺りはため息がでるほど良い環境なのです。

行き方〜
住所は 3 Gambier Terrace, Hope Street
数あるビートルズ観光ツアーはいずれもここは対象外。自力で行くしかないようです。
とはいえ、市内中心部から徒歩で行けるので、ご安心を。
アートスクールやLIPAからもすぐそば。街のいたるところから見える大聖堂を目印にすれば、わかりやすいでしょう。





ちなみに、サトクリフ家が1961年から70年まで住んでいた部屋がある建物は、いまではホテルとなっています。
Sefton Park Hotel
絵画など、スチュゆかりのものが飾られているそうです。
住所:37 Aigburth Drive, Sefton Park, Liverpool




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