明日に架ける虹

家族の大腸がん、自身の卵巣腫瘍などの体験記と日々の日記

はじめに

父と母
生前の父と母の最後の2ショット
◎将来的には3人に1人の確率で癌になると言われていますが我が実家は4分の3の確率でした。
母はすでに旅立ち、父は現在も闘病中、私はサバイバーです。
家族と自分のがん体験記そして 持病の子宮内膜症治療とチョコ膿腫摘出などの記録 その他日々の所感について綴っています。

◎たいした内容はもりこんでありませんが、闘病記など特定のジャンルのみ閲覧希望のかたは、 カテゴリ表示で絞ってご覧下さい。

卵巣腫瘍という病気2

2006年10月23日 | 卵巣腫瘍の事
私が診断された、「チョコレートのう腫」というのは、他ののう腫とは少し質が違いらしい。
前にも話したように、チョコレートのう腫は原因が子宮内膜症に起因する。
内膜症についてまで書き出すときりがないので、ここでは省略。
チョコレートのう腫の症状は?
・年々ひどくなる月経痛(←年々癒着が進むので)
・月経時以外にもおこる下腹部痛・腰痛(←さらに癒着がすすむと・・・)
・排便痛(←直腸と癒着すれば・・・)
・不妊(←卵胞の成長が妨げられるから)
まさに、殆どの症状が自分に当てはまった。

茎捻転も他ののう腫と同じ確立で起こる。
それよりも怖いのは、チョコレートのう腫は自然破裂することもあるという。
これはのう腫の中身が急に増えてしまう月経時に多く、その際、卵巣にたまっていた古い血が骨盤内にばら撒かれて、ひどい痛みをひきおこすそうです。
また、卵巣がんとの区別がむずかしいこと、チョコレートのう腫をほっておくと卵巣がんを引き起可能性もあるそうです。
放っておけないですよね・・・ほんとに
診断は、内診、直腸診で診察し、エコーをするという流れになるようです。また血液検査でCA-125というマーカーを調べたり、場合によってはMRIをとったりします。
私の場合、内診、直腸診も少し押されただけで痛かった。
(後日談ですが、手術後の診察は少しも痛くなかった)
CA-125のマーカー数値も少し高いと言われました。

さて、チョコレートのう腫の治療法ですが、
チョコレートのう腫は、ある程度子宮内膜症が進行してからみつかることが多いので、その治療には大きく分けてホルモン療法と手術の2種類ですが、ただ、ホルモン療法の効果は一時的なのと、副作用もあって3~6ヶ月ぐらいがせいぜいで、また、薬を止めるとまた再発してしまうことも多いので、根治は手術が中心のようです。
ホルモン療法は、後日リュープリンという注射の所で話しますが、簡単に言えば薬を使って、擬似妊娠状態もしくは、擬似閉経状態にする事です。

手術療法には、アルコール固定術、卵巣嚢胞核出術(のう腫部分のみ切除し卵巣を温存)、卵巣摘出術(卵巣全体を摘出)などがあります。
また、手術方法も実際におなかを切る開腹手術と、おなかに何個か穴をあけてそこから器械をいれて操作する腹腔鏡手術があります。
(ちなみに、アルコール固定術というのは初期のチョコレートのう腫に対して行われる手術で、のう腫の中身を注射針のようなもので吸い出して代わりにアルコールを注入して内膜症の組織を変性させようというもの。
また、のう腫核出術は卵巣を残してのう腫だけをとりだすもの。)

自分でも病気の事を色々調べ先生と相談した結果、ホルモン療法で前治療を4~5ヶ月のち、卵巣が少しでも残れば更年期症状もなく快適なので、腹腔鏡下左卵巣嚢胞核出術を受ける事に決定。

思えば20年前、開腹で右卵巣全摘手術した時、術後一晩中気持ちが悪くて嘔吐をし、嘔吐のタイミングで目もくらむ様な痛みが襲って来た、悪夢のような一夜を思い出す。
もう手術は2度と受けたくない!その記憶が昨日の事のようによみがえる
でも放っておいて、経過観察など、心配事の種をず~っとしょって、母親の闘病を支援する訳にも行かない。
母はあんな大病と戦っているのだから、自分ももっと強くならなくては・・・。今日で弱虫な自分とはさよならだ


卵巣腫瘍という病気1

2006年10月22日 | 卵巣腫瘍の事
卵巣腫瘍という病気、私が初めて漠然と名前を知ったのは、25年位前、
「サザンオールスターズの原由子が卵巣腫瘍で摘出手術」という記事を見たのが最初だった。
新しいところでは、2002年5月に、「宇多田ヒカルさんが卵巣腫瘍で手術を受け、その後の薬の副作用で体調が思わしくないので休養」というニュースが流れた。

卵巣は、アーモンド粒~親指の第一関節まで位の大きさの臓器で、右と左の両方に1個ずつあります。そして、実は卵巣は体のなかでもっとも腫瘍ができやすい臓器です。
卵巣腫瘍は大きく分けて、良性のことが多い「卵巣のう腫」と悪性の事が多い「充実性腫瘍」があります。卵巣の腫瘍のうち約9割が「卵巣のう腫」で残りの1割が充実性腫瘍です。
充実性腫瘍の代表例がいわゆる「卵巣がん」です。イメージとしては固いしこりのような感じです。症状としては小さいうちは無症状で、こぶしより大きくなると、固いしこりが下腹部にできたり、腰痛、下腹部痛、生理不順、場合によっては、腹水(おなかに水が溜まる事)が起こります。

卵巣のう腫は、卵巣の中に分泌液がたまって腫れてしまうもので、ぶよぶよした水風船みたいなものです。たまる液体の種類によって「皮様のう腫」「偽ムチンのう腫」「しょう液性のう腫」の3種類に分けられます。
1.皮様のう腫は溜まる液体の中に髪の毛や、歯、筋肉などが含まれています。
2.偽ムチンのう腫はねばねばした液体がたまるのう腫で、更年期の女性にできることが多いものです。
これは人間の体にできる腫瘍のなかでもっとも大きくなるもので、人の頭くらいの大きさになることもあります。
3.しょう液性のう腫は卵巣のう腫のなかで一番頻度が高く、水みたいなさらさらした液が袋の中にたまります。10代から30代の若い女性に最も多く見られます。

20年前に私は一度卵巣のう腫の開腹手術をしていますが、
3.の「しょう液性のう腫」でもずっと無症状で、見つかった時は赤ちゃんの頭大なので即刻手術と言われました

今回診断書などを見ると、上記のどれにも属さない「チョコレートのう腫」となっています。
これは、卵巣の中に子宮内膜症ができて、それが産生する月経血が子宮のなかにたまって袋状になったものです。チョコレートのう腫の場合、原因が子宮内膜症なので、普通の卵巣のう腫に見られないようなひどい月経痛がでたりすることも多いようです。
私も、出産後すっきりさわやかだった月経痛が1年前位から再発し、毎回バファリンのお世話になる程でした。

症状が表れるのは、のう腫がこぶし程に大きくなってからです。のう腫が周囲の膀胱や尿管を圧迫すれば頻尿、腸が圧迫されれば便秘が起こります。月経時以外の腰痛、腹痛も起こることもあります。おなかがなんとなく膨らむ、不正出血がある、水っぽいおりものがある、という症状がでるひともいるようです。
私の場合は、月経痛以外に、お腹の張りと腰の鈍痛はいつもありました。
水状のおりものの量も確かに多かったとリュープリン治療中に確信しました。
(リュープリン治療中は殆どおりものがないので)

茎捻転(ケイネンテン)といって、のう腫の根元がねじれた場合は緊急事態です。かなりの激痛があり、吐き気、出血を伴い、感染を伴えば発熱します。まれにショックで意識不明になってしまうこともあるそうです。しかも、放置しておくと卵巣に血が行かなくなり、腐ってしまうので、すぐに緊急手術になってしいます。茎捻転はどのサイズののう腫でも起こりますが、ある程度以上の大きさ(5~7cm以上)になると起こりやすくなるそうです。

卵巣のう腫の診断は、径膣超音波(エコー)で大きさ・性状はすぐ診断できます。
腫れていることが分かれば、血液検査やCT、MRIなどで腫瘍が良性か悪性かを診断します。

一般的な治療方法は、のう腫が小さいうち経過観察。増大傾向のあるものについては、手術摘出が基本となるよう。大きいものであれば、茎捻転の可能性を考慮してすぐに手術となることが多い。根治はやはり手術のようです。

手術には、開腹手術と腹腔鏡による手術とがあります。
また、手術法には主に3つあって、病巣だけを摘出する「のう腫核出術」、病巣のある卵巣を摘出する「卵巣摘出術」、卵管と卵巣をまとめて摘出する「附属器摘出術」です。その時々の状況によって術式は選ばれます。

ちなみに卵巣は2つあるので、1個摘出しても、残った卵巣が正常に働けば問題はありません。(ただし、若いうちに卵巣を片方なくすと閉経が早まることはあります。)
次回は私が診断された「チョコレートのう腫」について、書こうと思います。

子宮内膜症からくる左卵巣チョコレート脳腫

2006年10月21日 | 卵巣腫瘍の事
産婦人科専門のS病院の院長先生は、地元群馬では著名な医師で、20年前未婚だった私の卵巣脳腫の手術の執刀医でもある。
でも今回の目当ては副院長先生。数年前順天堂大学から戻られた先生で、順天堂大学と言えば、手術の半分以上を腹腔鏡手術で行うという実績を持つ。
そこで、臨床を積まれた副院長先生は、日本産科婦人科内視鏡学会の技術認定医(100例以上の経験と、手術のビデオを審査委員がチェックする「安全かつ確実に手術が行えるかどうか」が合否の最大の基準の合格率約6割の難関試験)で2005年度1年間の県内実績では、群馬県で2番目の内視鏡手術実績を持つ。万が一手術になった場合は、是非、副院長先生だ~と決意し、診察を受ける。
診断:子宮内膜症からくる左卵巣チョコレート脳腫
現在の卵巣の大きさ9cm位。「どっしようか~。」と副院長先生は予想外に暢気な返事。
私「治療法が手術しかないのなら、開腹は一晩中痛かったので、嫌。仕事も長期で休みたくないし、是非、腹腔鏡で!」
Dr「こういう腫れ方は、ホルモンの注射などでまれに治療できる事もあるんだけれど、やはり手術じゃないと、しっかり治らないかな~。でも、dai_mamaさん1度開腹で手術しているよね~。そういう人は癒着もある事が多いし、あんまり、やりたくないな~。」
私「最初はここの院長先生がしてくれたんです。だから、副院長先生が今度は責任持って私の面倒見てくれたっていいじゃないですか~!」と殆どおどして御願いする。
Dr「う~ん。じゃ、とりあえず、5ヶ月位内膜症と癒着の治療をしましょう。どちらにせよ、腹腔鏡の人は数ヶ月この治療を前段階でしてもらっているんだよね~。」
と言う事で、まずは月1の通院となる。

卵巣腫瘍発覚

2006年10月20日 | 卵巣腫瘍の事
母が「大腸がん」と診断されてから、自分の健康管理には充分気をつけなければと改めて気づかされた訳ですが、以前から下腹部の張りと腰の鈍痛が気になっていたので、自分も大腸の精密検査を受けようと、近所の内科に行った。
Dr「精密検査の前にとりあえず、エコーで見てみましょう」
「・・・・・これは、筋腫か何かがありますね。紹介状を書きますので、腸検査以前にすぐに婦人科を受診して下さい」
との顛末になり、20年前、卵巣腫瘍で手術になった事を思い出す。
もしもまた手術などの治療が必要ならと考え・・・前回治療して頂いた産婦人科専門のS病院宛てに紹介状をもらう。

それにしても、母がこんな大変な時になんで私まで・・・!?

もう退院!?

2006年10月17日 | 大腸がん 母の闘病
手術直後、母は、硬膜外麻酔が背中に入らず、高カロリー輸液の際によく使う、首筋の静脈から、塩酸モルヒネの痛み止めを常時入れていたせいか、とにかく話しかけないと眠ってしまう状態で、外れるまでの2~3日、ひたすら眠っていた。このまんまぼけてしまうのでないか?と心配する程だ。
のちのち聞けば、その時の事は良く覚えてはいないが、痛みも殆ど感じなかったと言う。DR.Yが手術前に「僕は痛いのが大嫌いだから、痛みはでないようにするからね。」と言っていたが、有言実行だったようです。
その後は、食欲と同時に体力も日増しに回復してきた。「最初の1年位は、便秘と下痢を繰り返しやすいけれど、人間大腸は1mも残っていれば消化の方は大丈夫です。」とDrが言っていたが、いまの母を見ていると納得する。
母の体調も一段落したので、仕事の帰りに都合のつく時だけ病院によっていたそんな時、実家からTelが入る。
弟「今日、急遽退院させられたので、病院に寄ってもいないよ。」
私「え~っ!まだ術後11日だよ!」
弟「ベッド待ちの人がつかえてるから、おばあさんみたいな状態の人は自宅療養で大丈夫だからだって。」
I市民病院は以前から予約待ちでなかなか入院も出来ないと聞いていたけれど、あんな大手術の患者を術後11日で帰すとは・・・・・昨今の病院事情の一端を垣間見たような気がした。

手術当日

2006年10月06日 | 大腸がん 母の闘病
午後1時を少し過ぎた頃、車椅子で看護士さんが呼びに来た。
青の手術用帽子・同じく青の手術着・血栓防止用の白のハイソックスを履いた母の姿は痛々しい。
それでも、もしかしたら私は手術も出来ないほど手遅れで悪いのかもと、私達のどたばたを見ていた母は本人なりに心を痛めていたらしく、手術=治る可能性と解釈し、「頑張って行ってきます。」と手を振り出かけた。
後程、先生が家族にお話しますと言われているが、どうか・・・どうかすぐに呼ばれませんように。すぐに呼ばれると言う事は、お腹を開けたけれど、手の施しようがなかったということだから・・・・・。
時計が午後2時半を指し、午後3時を過ぎる。一緒に立ち会ってくれた主人に「すぐに閉じたならもう呼ばれるよね。先生きっと何らかの処置をしてくれているよね。」と自分を励ます為にも確認。
結局午後3時45分頃、「先生がお話します。」と看護士さんの案内で、手術室の階の説明室に。先生が手術着のまま机に座り、机の上には銀の受け皿に山盛りで母の大腸の切除部が・・・・・絶句。ものすごい量で、最初見た時、「こんなに腸を取ってしまって人は生きられるのか?」というのが素直な疑問だった。
また、本当に白いがん細胞が周辺臓器に食いつくように巻きついてぴったりと癒着している。がんは怖い・・・・・肉眼でそのすごさを思い知った。
DR.Y「ご覧のとおり、原発層が、小腸など周辺臓器に食いついてみんな巻き込んでいます。最初お腹を開けた時は、正直このまま手をつけられないかと考えましたが、せっかくご家族もこちらに頼みに来て下さったので、チャレンジしてみました。結局、大腸の右半分と癒着した小腸の一部を全摘出、ダグラス窩の鶏卵大の腫瘍はこれです。肉眼と手で触って確認できる腹膜播種(米粒大のがんの種)も、この様に切除可能なものはすべて取りました。バイパスも何とか完成し、人工肛門はありません。残念ながらこの状態で肝臓に手をつける事はできませんでしたし、播種があったということは、残った大腸内に肉眼で見る事の出来ないがんの種は、間違いなく残っているでしょうが、当面これで回復すれば食事を普通に取り自宅での普通の生活が戻ります。今後は体力の回復を待って抗がん剤治療になるでしょう。自分で言うのもなんですが、自分なりには完璧な手術でした。」との事。
自分達の信頼する先生にやってもらって本当に良かった。これから、まだまだ戦いは始まったばかりだけれど、家に帰り普通の生活をさせてあげる事ができる。

病気の事をBlogに書いた理由

2006年10月05日 | 大腸がん 母の闘病
すべきでないと最初は思っていた。
もちろん文書にするには、しんどすぎる部分もある。

正式な告知を1人ぼっちで受けた時、自分が何の悪い事をしたのだろう、
母が何の悪い事をしたのだろうとやるせなかった。
家庭を大切に平凡が一番の幸せとかみ締めて生きてきただけなのにと
どこに思いをぶつけていいかも分からなかった。

私はどんな状態でも、母や家族と1日1秒を大切に懸命に生きてきて、
これからもそうである事には変わりはない。

そう決意した時、
今日の1日があった事を忘れないように文書に残しておこうと決心した。
母が少しでも快方に向かう事を祈りつつ。
自分も最後まで諦めない事を言い聞かせつつ。。。

新しい先生の所見

2006年10月04日 | 大腸がん 母の闘病
Dr.Yは母の診察後、本人には丁寧にバイパス手術の方法や切除する場所によっては人工肛門の可能性もある事など、時間をかけて丁寧に説明してくれた。
その後私達兄弟が残された。
Dr.Y「思った以上に、お腹の状態は相当よくないです。原発層の10cm程大きくなったしこりが腸のさまざまな部分に癒着し、腸閉塞寸前です。お母様のがんは、正確には上行結腸ガン(盲腸ガン)で、こんなにひどくなるまで我慢できてしまったのは、盲腸は大腸の入口部分なので、ここを排泄物が通過する際は水状です。それから大腸内で水分が吸収されて直腸に近くなるほど固形化されるので、血便とか腸閉塞とかの兆候がなかったのです。原発以外にも肝臓にも画像でみて6個程大小の転移、また親指頭大のダグラス窩(直腸と子宮または直腸と膀胱の間の内臓をおおう膜と腹壁膜の間)転移もあり、腹膜播種(ガンが米粒大にそこらじゅうに播かれている状態)もみられるので、まず根治手術は無理です。かといって、手術をしないと、腸の癒着部分がひどくなり食事が全く取れなくなるのも時間の問題でしょう。現在も殆ど食事が喉を通らない状態なので、今回はせめて、腸のよい部分を切って繋げたバイパス手術を試みて、食事がきちんと取れる状態にしましょう。そうすれば、元気に自宅に帰る事もできますから・・・・・。
ただし、実際お腹を開けてみて手の施しようのない状態の場合も考えられますので、ご家族は覚悟しておいて下さい。」との説明。
どうかバイパス手術が上手く行きますように・・・・・。せめて、また元気に何でも食べられるようになって家に帰してあげたいと願う。

夫はこうも頼りないものか?

2006年10月02日 | 大腸がん 母の闘病
母転院~。ここまで、一体他の家族は何をしていたのか?
母には、長女の私の他に長男、夫→父がいる。
長男である私の弟は自営業なのでお勤めで動けない私の代わりに、紹介状や画像を取りに行ったり、I病院の予約を取ったり忙しく動き回っていた。
私は先生に会うときの為に、~がん~という病気、治療法について、寝る間を惜しんで本やネットで勉強した。
問題は父~、先週たった1人で告知をされてしまった私は他の家族にどこまで話してよいものか?どのように話せばよいのか考えた末、一番に事実を知る権利があるのは配偶者であると結論を出し、知らされた事実を正確に伝えようと決めた。結果、無理もないが、父が一番ショックを受け動揺し、簡単に言えばうろたえるだけで何も出来ずにいた。
こんな時こそ、父に一番しっかりしてもらいたいが、母の病気を受け入れるのに時間がかかるのだろう。こうなったら、私達兄弟で、先生とよく相談しある程度の段取りを決めたのち、父に最終決断を下してもらうことにしよう。
母は転院してすぐに手術の為の検査・診察がある。明後日先生が私達にも診察の結果と今後の治療方針の話をしてくれるという事だ。