個人的な考えですが、音には音の気持ちがあるのではないか、と思うことがしばしばあります。
聴きとる、あるいは、よみとる、という方がよいのでしょうか、音と関係する行為の積み重ねのなかで、自己の内面を表すのとは一線を画した表現がダンスには可能なのではないかと思うこともあります。音は地球に関係していると思います。僕らも地球とは分かたれ難い存在です。
また、音は僕らの感情を絶えず左右します。同じ場所に居てもそこに響く音によって湧き上がる感情が変わります。音は場所そのものさえ変化させてさえいるように感じます。
竜安寺の庭で雷雨が降ったことがありますが、その体験は、思えば僕の耳にとっては、非常に強い転換点になっている気がします。
シュタイナーの実験建築の内部に居たときは、建物の構造から自分の声が変質してきこえ、ソレを聴いていると別次元にいるような、あるいはドッペルゲンガーに話しかけられているような気がしました。
また、音と音のあいだには、ただの間隔ではなくて可聴域をこえてもさらに無数の音があり、それら全てがダンス的想像の対象になるのでは、という考えが僕にはあり、舞台やクラスにも影響しているかもしれません。
さらに音の作業をと思います。
聴きとる、あるいは、よみとる、という方がよいのでしょうか、音と関係する行為の積み重ねのなかで、自己の内面を表すのとは一線を画した表現がダンスには可能なのではないかと思うこともあります。音は地球に関係していると思います。僕らも地球とは分かたれ難い存在です。
また、音は僕らの感情を絶えず左右します。同じ場所に居てもそこに響く音によって湧き上がる感情が変わります。音は場所そのものさえ変化させてさえいるように感じます。
竜安寺の庭で雷雨が降ったことがありますが、その体験は、思えば僕の耳にとっては、非常に強い転換点になっている気がします。
シュタイナーの実験建築の内部に居たときは、建物の構造から自分の声が変質してきこえ、ソレを聴いていると別次元にいるような、あるいはドッペルゲンガーに話しかけられているような気がしました。
また、音と音のあいだには、ただの間隔ではなくて可聴域をこえてもさらに無数の音があり、それら全てがダンス的想像の対象になるのでは、という考えが僕にはあり、舞台やクラスにも影響しているかもしれません。
さらに音の作業をと思います。