東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

キリスト教映画「逆境の甘美」抜粋シーンその五「なぜ中国共産党は『2014年山東招遠カルト殺人事件』をでっち上げたのか」

2019-07-21 20:48:44 | キリスト教映画

 

キリスト教映画「逆境の甘美」抜粋シーンその五「なぜ中国共産党は『2014年山東招遠カルト殺人事件』をでっち上げたのか」
「2014年山東招遠カルト殺人事件」の公判の後、見識ある人々はすべてこの事件は全能神教会を故意に犯人に仕立て、同教会の名声を傷つけるために中国共産党によって完全にでっち上げられた事件と理解した。それは捏造された事件で正義の悪用だった。中国共産党がこれを行うに至った悪意のある動機は一体何か。

もっと知る:

キリスト教徒の家族を脅してキリスト教徒を強制する中国共産党の戦略 | キリスト教映画「逆境の甘美」抜粋シーンその一


真の携挙とは何か。

2019-07-20 08:38:45 | 書籍

真の携挙とは何か。

参照聖書箇所

「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 19:9)

関連する神の言葉

「『引き上げられる』とは、人間が想像するように低い場所から高い場所へと連れて行かれることでは無い。それは大きな間違いである。引き上げられるとは、わたしが予定し、選択することを指す。それは、わたしが予め定め、選んだ者たち全てを対象とする。…このことは、人間の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家に入ることのできる者は皆、わたしの前で引き上げられた者である。これは絶対に真実であり、決して変わることが無く、誰も反論できない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予定した者は誰でも、わたしの前で引き上げられるのだ。」

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

真の携挙
「フィラデルフィアの教会が成立したのは、ひとえに神の恵みと憐れみのおかげであった。聖徒たちは神への愛を示し、自分たちの霊的な道から外れることは決して無かった。唯一の真の神が肉となったこと、神が万物を支配する宇宙の長であることを固く信じなさい。それは聖霊により確証された鉄則である。それが変わることは、決して有り得ない。

…………

あなたは今日全ての教会、すなわちフィラデルフィアの教会を完成させました。それはあなたの六千年にわたる経営(救いの)計画が実現されたものです。聖徒たちは今、あなたの前で謙って服従出来るようになりました。彼らは霊において互いに結ばれ、愛の中を共に歩みます。聖徒たちは泉の源に繋がっています。生けるいのちの泉は絶えることなく流れ、教会のすべての穢れと汚泥を洗い流して浄化し、あなたの宮を再び清めます。わたしたちは実践的な真の神を知り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分を認識し、自らを教会のために費やすためにできる限りのことを行いました。あなたの意志がわたしたちのうちで妨げられないように、わたしたちはいついかなる時もあなたの前に静まり、聖霊の働きに心を留めるべきです。聖徒たちの間には互いへの愛があり、ある聖徒たちの長所は他の聖徒たちの短所を補う。いかなる時も霊によって歩み、聖霊の啓示と明察を得なさい。真理を理解し、それを直ちに実行に移しなさい。新たな光に遅れることなくついて行き、神の足跡をたどりなさい。

…………

積極的に神と協力し、協調して仕え、一体となりなさい。全能神の旨を満たし、いち早く聖い霊の体となり、サタンを踏みつけ、その命運を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前で携挙され、神の栄光のうちにその姿を現す。」

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

「主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における命の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ神に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」を受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私達は落ち着いた心でひんぱんに祈ることができるし、さらにひんぱんに集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。

…………

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。.…

…………

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。……

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

…………

私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より


「歌とダンスで神を讃美せよ」

2019-07-19 08:26:40 | 歌とダンスの動画シリーズ

 

礼拝賛美ダンス「歌とダンスで神を讃美せよ」日本語字幕

終わりの日のキリストは
働き、人を救うために現れた
彼は人に水を与え、養い、導くことで
神の愛をあらわす
神の言葉には温もりと力があり
私たちの心を征服する
私たちは神の言葉を飲み食いし楽しみ
祝宴に参加する
神の言葉を飲み食いし
それらについて熟考し、交わることで
聖霊は私たちに啓示を与え
私たちは真理を理解する
私たちは世のしがらみを振り捨てて
本分を尽くす
神の国へ入ることは
なんという祝福だろうか!
歌とダンスで神を讃美せよ
神を讃美せよ
人生の道に導いてくれた神に感謝せよ
私たちは毎日、神の言葉を楽しみ
神の御前で生きている
神の義を讃美し、証しするのを
決して止めないだろう!

神の言葉は剣のようで
私たちの本性をむき出しにする
傲慢、独善、欺瞞が光にさらされる
裁きと刑罰を味わって
自分自身を知るようになる
堕落した性質が清められ
新たな人となる
他人と調和して働き、本分を尽くす
失敗して倒れ、真理を求める
神の言葉と真理はあまりにも貴く
私たちを清めてくれる
サタンの影響から解放され
神の称賛を得る
歌とダンスで神を讃美せよ
神を讃美せよ
人生の道に導いてくれた神に感謝せよ
私たちは毎日、神の言葉を楽しみ
神の御前で生きている
神の義を讃美し、証しするのを
決して止めないだろう!

キリストが真理であることを確信し
不屈の決意をもって彼に従う
神を証しするために使命を果たし
神に忠誠を尽くす
どんな嘲笑、中傷、断罪も
私たちを退かせることはできない
本分を尽くして神を満足させ
神の栄光を第一とする
サタンに捕らえられても、おじけずかない
ひどく迫害されても
いつも忠誠を尽くすだろう
試練や患難を通じて、神への愛は強くなる
赤い大きな竜に完全に背き
証しの声を鳴り響かせる
歌とダンスで神を讃美せよ
神を讃美せよ
人生の道に導いてくれた神に感謝せよ
私たちは毎日、神の言葉を楽しみ
神の御前で生きている
神の義を讃美し、証しするのを
決して止めないだろう!
歌とダンスで神を讃美せよ
神を讃美せよ
人生の道に導いてくれた神に感謝せよ
私たちは毎日、神の言葉を楽しみ
神の御前で生きている
神の義を讃美し、証しするのを
決して止めないだろう!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い

2019-07-18 11:29:48 | 書籍

肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い


これまで幾多の年月に渡って、神の霊はこの地上で働きを進める中で探りつづけている。これまで数々の時代に渡って、神は自らの働きを行うために非常に多くの人々を使ってきた。しかし神の霊には依然として、ふさわしい安息所はない。そのため神は、さまざまな人々の間を移動しながら自らの働きを行い、主に人々を用いてそれを行う。これまでの長い年月、神の働きは一度も止まったことがないのである。それは今日まで、人において絶えず進められている。神はとても多くを語り、とても多くを行ってきたが、人は依然として神を知らず、それはすべて、神が人の前に一度も現れたことがなく、形のない存在だからである。そのため神は、あらゆる人々に実際神の実際的な意義を知らせるという働きを完遂する必要がある。その目的のために、神は自らの霊を人々に明白に示し、人々の間で働きを行わなければならない。神の霊が肉的な姿を担い、肉と骨となり、人々の間を目に見える形で歩き、自らの姿をある時は現し、ある時は隠しながら、人々の生活の中に伴うという場合にのみ、人々は神をさらに深く認識できるようになる。神は、もし常に肉に留まり続けていたら、自らの働きを完全に全うできなかったであろう。神は、一定の期間において肉で働きを行い、肉で行われる必要がある職分を全うした後、肉から離れ、肉の姿で霊界での働きを行わねばならないが、それは、イエスが普通の人間性において一定の期間で働きを行い、彼が全うする必要があるすべての働きを全うした後、そのように行ったことと、ちょうど同じである。あなたがたは、『道…(5)』からそのことを思い起こすことができる――「わたしは、父がわたしに語った、『この世ではわたしの心だけを遂行し、わたしの委託だけを全うしなさい。他のことはあなたとは関係がない。』という言葉を思い出す。」この一節で何が分かるだろうか。神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神は、人間関係や人々の生活での詳細に関わることはない。神の主な職分は、霊の代わりに語ることである。神の霊が肉に実際的に現れるとき、神の行うことは、人のいのちのための施しと、真理の普及に尽きる。神は人の事柄に関わることはない。つまり、神は人間性の働きに関与することはない。人間は神性の働きを行えず、神は人の働きに関わることはないのである。神は、この世で自らの働きを行ったすべての歳月において、自らの働きを行うためにいつでも人々を使ってきた。けれども、それらの人々は肉となった神と見なされることはない。彼らは単に神によって使われる人々として見なされる。けれども、今日の神は、神性の視点から直接語り、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行うことができる。数々の時代に渡って神が用いたすべての人々は、その体を通して神の霊に働きを行ってもらっているわけだが、なぜ彼らは神と呼ばれえないのだろうか。今日の神は肉で直接働きを行う神の霊であり、イエスも肉で働きを行う神の霊だった。それら後者2つの存在は神と呼ばれる。それではその違いは何なのだろうか。代々わたって、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を持っている。彼らは皆、振る舞い方を心得ており、生活上の問題に対処する。彼らは、普通の人間の観念を保持し、普通の人々が持つべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどは、特別な才能と生来の知性を持っている。神の霊は、それらの人々を通して働きを行うことで、神からの授かりものとなる彼らの才能を生かす。彼らの才能を生かし、彼らが自らの強みを通して神に仕えるようにするのは、神の霊である。けれども、神の本質は観念や思考を持たないものである。そこには人間の考えが組み込まれておらず、人間が普通に持つものを欠いていさえする。つまり神は、人間の行為の原則を熟知さえしていない。今日の神がこの世に来るときはこのようである。神は、人間の考えや人間の思考を組み込むことなく、働きを行い、語りかけるが、霊が元々の意図を直接示し、神の代わりに直接働きを行う。それは働きを行うために霊が現れ、人の考えを組み込むことないことを意味する。つまり、肉となった神は、直接的に神性を体現し、人間の思考や観念がなく、人間行為の原則に対する理解を伴わない。もし神性の働きしかなかったならば(その働きを行う神自身しか存在しなかった場合には)、神の働きがこの世で実行されることは不可能だった。だから神は、この世に来るとき、神性における自らの働きと関連して人間性での働きを行うために自らが使う人々を幾人か備えている必要がある。つまり、神は自らの神性の働きを支えるために人間の働きを使うのである。そうでなければ、人は神性の働きに直接関わるようにはなれなかっただろう。イエスと弟子達においても同様であった。イエスはその生涯において古い律法を廃止し、新しい戒めを確立した。また彼は多くを語った。そのすべては神性において行った。ペテロ、パウロ、およびヨハネといった他の者は皆、イエスの言葉を基礎として、続く働きを行った。つまり神は、その時代に始まりの働きを行い、恵みの時代へと導いた。神は新しい時代をもたらし、古い時代を完結させ、「神は初めであり、終わりである」という言葉を実現させた。つまり人は、神性の働きに基づいて人間性の働きを行わねばならない。イエスが語るべき言葉を全て語り、地上での働きを完遂した後、人から離れた。イエスの後の人々は、神の言葉にある原則に基づいて働き、神が語った真理に従って実践した。すべての人々がイエスのために働きを行った。もしその働きをイエスが1人で行っただけであれば、どれだけ多くを彼が語ったとしても、人々は依然として神の言葉に接するようにはなれなかっただろう。彼は神性において働きを行い、神性の話を語れるだけであったからだ。普通の人が彼の言葉を理解できるように説明することは不可能であった。だからイエスは、自らの後に続く使徒や預言者に自らの働きを補足させる必要があったのだ。これが肉となった神が働きを行うための原則であり、それは、神性の働きを完遂するために受肉を使って語り、行ない、それから、神の心にかなう少数またはそれ以上の人々を使って神の働きを補うことである。つまり神は、人間性において牧養し、注ぐために、自らの心にかなう人々を使うのであり、そうして、すべての人々は真理を受け取ることができる。

神の心にかなうある数の人々を追加して神に協力させることなく、神が肉となり神性の働きを行うだけであれば、人は、神の意志を理解できないだろうし、神に接触することはできないだろう。神は、自らの心にかなう普通の人々を使って、その働きを完遂させ、教会を世話し牧養しなければならず、そうすることで人の思考や人の脳は神の働きを想像することができる。言い換えれば、神は自らの心にかなう限られた数の人々を使って、神性における働きを「翻訳」し、それを明かす、つまり神性の言語を人間性の言語に変換することによって人々は皆、全てを把握し理解することができる。もし神がそう行わなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。神の心にかなうそのような人々は結局少数に限られており、人の持つ理解能力が弱いからである。これが、神が受肉を通して働きを行うとき、この手法を選ぶ理由である。もし神性の働きしか存在しなかったら、人は神の言語を理解しないため、人は神を知りえないだろうし、神と接触できないだろう。神が、自らの心にかなう人々を使い、神の言葉を明確にすることでのみ、人はその言語を理解することができる。けれども、人間性における働きのみを行うそのような人々しかいなかった場合、それは人の普通の生活を維持することしかできないだろう。人の性質を変換することはできないだろう。神の働きは新しい出発を行えないだろう。そこには、同じ古い歌、同じ古い決まり文句しかないだろう。人々のいのちの性質が変わることができ、人々が時代と共に導かれうるのは、受肉した神により語られる必要があるすべてが語られ、行われる必要があるすべてが行われ、その後の人々が神の言葉に従って働き、経験することによってのみ可能である。神性において働くのは神を表し、人間性において働くのは神に用いられる者である。つまり、肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。同様に、この段階において、神は人を新しい時代へ導き、すべての人々に新しい始まりを与える。それをもって、肉における神の働きは完結する。

神がこの世に来るのは、神の普通の人間性を完成させるためではない。神は普通の人間性の働きを行うためではなく、普通の人間性の中で神性の働きを行うためだけに来る。神が普通の人間性と見なすものは、人間が想像するようなものではない。人は「普通の人間性」を、妻または夫、息子や娘を持つことと定義する。人にとって[a]、それらは対象者が普通の人であることを証明する。けれども神の考えは違う。神は普通の人間性を、普通の人間の思考を持ち、普通の人間の生活をし、普通の人々のもとに生まれることとして捉える。しかし神における普通性とは、人が普通性と見なす、妻または夫、および子どもを持つことを含まない。つまり、神が語る普通の人間性とは、人にとっては人間性がなく、感情がないかのようであり、肉的必要がないかのようであり、ちょうどイエスのように、単なる普通の人の外見をし、普通の人として現れることとなったが、本質的に普通の人が伴うものを完全に伴っているわけではなかった。そのことから、肉となった神の本質とは普通の人間性全体を包含するものではなく、普通の人間生活の規則と普通の人間の理知を維持するために人々が持つべき一部の事柄だけを包含する、と理解できる。ただ、それらの事柄は、人が普通の人間性と見なすものとは関係はない。それらは肉となった神が持つべきものである。肉となった神は、妻、息子や娘といった家族を持つ場合にのみ、普通の人間性を持つと言える、と主張する人もいる。家族を持たない場合、神は普通の人間ではないと彼らは言うのである。それではあなたに尋ねよう。神には妻がいるだろうか。神が夫を持つことは可能だろうか。神は子を持つことができるだろうか。それらは誤った考えではないのだろうか。それでも、肉となった神が、岩の割れ目から現れたり、空から落ちてきたりすることはありえない。神は単に普通の人間の家族に生まれうる。そのため神には親や姉妹がいる。それらは、肉となった神の普通の人間性が伴わねばならないものである。イエスの場合、そうであった。イエスには父と母、姉妹、および兄弟がいた。それは全く普通のことである。けれどもイエスに妻、息子や娘がいたなら、神は肉となった神において、自らが望んだ普通の人間性の存在とはなっていなかっただろう。その場合、彼は自らの働きで神性を表すことはできなかっただろう。彼が神性の働きを行えたのは、彼が、妻や子どもを持たないものの、普通の家族に普通の人間から生まれたためである。さらに明確に言えば、神が普通の人と見なすものは、普通の家族に生まれた人である。そのような人のみが神性の働きを行う資格がある。一方、妻、子ども、または夫がいる人は、神性の働きを行うことができない。それは、その人が神の求める普通の人間性ではなく、人間の求める普通の人間性を伴っているに過ぎないからである。神の思考と人々の理解は、しばしば大きく異なり、かけ離れている。この段階での神の働きの多くは人々の観念に反し、大きく異なる。この段階の神の働きは、すべて神性の実践によって行われ、そこでは人間性が支えとなると言って良い。自身の働きを人にさせるのではなく自分で遂行するために神は地上に来るので、その働きのために神自身が(不完全な、普通の人間として)受肉するのである。神は、新しい時代を人間に示し、神の働きにおける次の段階を人間に伝えるためにその受肉を使うのであり、それにより彼らは神の言葉が述べる道に従って実践することができる。それをもって、神は肉における自らの働きを完結する。神は人間から離れる必要があるが、普通の人間性となるその肉の中にもはや留まることはなく、むしろ自らの働きの他の部分を行うために人から移り去ってゆくのである。神はそれから、自らの心にかなう人を使い、この世における自らの働きをこの一団の中で続けるが、それは人間性における働きである。

肉となった神は永遠に人に留まることはできないが、それは神にはすべきことが他にもたくさん存在するからである。神が肉に縛られることはない。神は自身がなすべき働きを肉のイメージで行うが、肉を捨ててそれをしなければならない。神は、この世に来る時、普通の人が死んで地上を離れるまでに達すべき状態まで待つことはしない。彼の肉体年齢に関係なく、自らの働きが完遂するとき、神は人を離れて行く。神には年齢というようなものはなく、人の寿命に基づいて自らの年齢を数えることはない。その代わり神は、自らの働きの段階に従って、肉での生涯を終える。肉となった神は、ある段階に発達し、大人になり、老年に達し、肉体が機能しなくなる場合にのみ去るはずだ、と思っている人がいるかもしれない。それは人の想像であり、神はそのようには働きを行わない。神は自身がすべき働きを行うためだけに肉となるのであり、両親のもとに生まれ、成長し、家族を形成し、就職し、子どもを持ったり、または人生の浮き沈みを経験したりといった、普通の人生のさまざまなことを経験することがその目的ではない。神が地上に来るということは神の霊が肉となることであり、肉に入るということであるが、神が普通の人間の生活をする訳ではない。神は自身の経営(救いの)計画の一部を遂行するのためだけに来る。その後、神は人間から去る。神が肉に入るとき、神の霊は肉における普通の人間性を全うすることはない。むしろ、神があらかじめ決めた時に、その神性は直接に働きを行う。それから、神が行う必要のあるすべての事柄を行い、自らの職分を完遂した後、その段階における神の霊の働きは完了し、神の肉がその寿命を全うしたか否かにかかわらず、肉となった神の人生が終わる。つまり、その肉が人生のいかなる段階に到達していようと、それがこの世で生きた期間がどれだけであろうと、すべては霊の働きによるのである。それは人が普通の人間性と見なすものとは関係がない。イエスを例にとってみる。イエスは肉となって33年と半年を過ごした。人間の体の寿命から言えば、その年齢で死に、去るべきではなかった。けれども神の霊にとってそれは問題ではなかった。神の働きが終わったとき、その体は取り去られ、霊とともに消えた。これが、神が肉で働きを行う原則である。そのため、厳密にいえば、肉となった神には普通の人間性がない。もう一度言うが、神がこの世に来るのは普通の人間の生活をするためではない。神は、初めに普通の人間生活を作り上げてから働きを始めるのではない。むしろ神は、普通の人間の家族に生まれる限り、神性の働きを行うことができる。神には人の考えが少しもない。神は肉的でなく、社会の流儀を適用したり、人の思考や観念に関わったりすることはなく、ましてや人生哲学とは関わらないのである。これが肉となった神が望む働きであり、神の受肉の実際的な意味である。神が肉に入るのは、主に、肉で行われる必要がある段階の働きを行うためである。神は他の取るに足りないプロセスを踏まず、普通の人の経験をすることもない。肉となった神が行う必要のある働きは、普通の人間の経験を含まない。それだから、神が肉に入る目的は、神が肉で達成する必要がある働きを達成することのみである。他の事柄は神とは関係がない。神はそのような取るに足りないプロセスを経験することはない。自身の働きが完了すれば、神の受肉の意味は終わる。この段階を完了することは、神が肉で行うことが必要な働きが終わり、神の肉の職分が完成したことを意味する。ただ、神はいつまでも肉で働きを続けることはできない。神は働きを行うべき他の場所へ向けて、その肉の外に出てゆかねばならない。そのようにしてのみ、神は自らの働きを完遂し、さらにその働きを拡大することができる。神は自身の計画に従って働きを行う。神は、自らが行う必要のある事柄と、自らが完遂した事柄をよく知っている。神は自身があらかじめ定義した道に沿って全ての人を導く。誰もそれを逃れることはできない。神の霊の導きに従う者だけが、安息を得られるだろう。後の働きにおいては、神が肉において語ることで人を導くのではなく、触れることのできる霊が人の生活を導くかもしれない。そのとき初めて人は実際に神に触れ、神を見、神が求める現実に入り、実際の神によって完全なものとされるだろう。これが神が成し遂げたい働きであり、神が長きに渡り計画してきたことである。そこからあなたがたはみな、進むべき道を知るべきである。

その他のフォーカス:

受肉の奥義(1)

受肉の奥義(2)

 


キリスト教家庭映画「わが子よ帰っておいで 」インターネット依存症少年に対する主の救い

2019-07-17 14:37:56 | 教会生活映画

 

キリスト教家庭映画「わが子よ帰っておいで 」インターネット依存症少年に対する主の救い 予告編
李新光は高校生です。彼は、幼い頃から賢く行儀の良い男の子でした。両親も先生方も彼が大好きでした。中学生になると 新光はインターネットゲームにのめり込み、 インターネットカフェに行くため頻繁に授業を休むようになりました。両親は、息子がインターネット依存を断ち切られるようできる限りのことをしましたが、残念ながらそれはひどくなるばかりでした。 彼の魂は蝕まれ徐々に堕落していきました…。両親が途方に暮れていた時、神は人を救いインターネット依存を止めさせて悪魔の堕落から解き放つことができるということを聞いたのです。そのため両親は神への信仰を決意し、神が息子を救って下さることを願いました。二人は神の言葉から、人の腐敗や堕落の根源について学びました。人の暗闇と邪悪の真の姿が見えました。そして、神だけが人を救い、悪魔の堕落と災いから解放することができるとわかりました。 新光はただ、神を信じ真理を学べばよいのでした。そうすれば、インターネット依存から解放されるのです。そして両親は 新光に福音を伝え、神の言葉を読むよう導きはじめました。二人は神に祈りをささげ、息子を救いインターネット依存から解放して下さることをお願いしました…。争いはありましたが、新光は神に祈り、神を信じるようになりました。神の言葉の導きにより、とうとうインターネット依存からも悪魔がもたらす堕落と災いからも解放されました。絶望的にインターネットゲームやインターネットカフェに惑わされていたこの息子は、ようやく家に帰ってこれたのです!

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キリスト教家庭映画「わが子よ帰っておいで」インターネット依存症少年に対する主の救い