「ロードムービー」の名作っていうのは、バディの衝突と、なし崩し的なお互いの受容を経て、とにかくこの面子で「移動していくこと」が最後には目的化する、っていうのが常道。
当面の目的があったりするのだが、どこかにたどり着くことで、到着で何かが解決するようでは、「ロードムービー」とは言えない( ・ิω・ิ)b
本来の目的がどんどんズレていって、いつの間にか「移動」が目的に取って代わる。「目的地」はいつだって「中継地点」であり、どこまでも「中間」でしかありえない。映画には尺があるので、ひとつの「旅」について、ある種のタイプを鮮やかに削り出すことができれば、あるいは特異点を描写で十分に切り取ることができれば、それをもって作品の完成とすることはできる。時間的に映画は終わるが、映画的「旅」は終わらず、終劇の後にも「継続中」ということに(*‘ω‘ *)
到着することが解決であり、結論であり、大団円となるなら、それはきっと「ロードムービー」とは呼ばれないのだ( ・ิω・ิ)b
もちろん、なんにでも例外はあるし、典型というのは理論値的で、個別の作品はそこから少しズレたところでシーンやストーリーを具体化しているわけなので、一概には言えないのだけれど、映画にはすでにして膨大な前例がストックされており、伝統的なメソッドやそこに基づいたセオリーがあって、ショットひとつが何か別の映画のシーンに結びついたり、反発しあったりということがママ起こる。
まったく新しい画面というのは創造的ではあるのだろうが、それをもって映画が成功するか?というと、それはどこまでも未知数で、本来的な意味で冒険的となる。が、仮にそれが大成功したとしても、その成功さえも公開後の世界に包摂されていくのだから、昨今、そんな冒険的映画がどこまで許されるか?と言えば、投げる前に予定することは、かなり難しい。。。
なんでこんなことをぼんやり考えてしまったか?というと、それはたいへん遅まきながらも、「すずめの戸締まり」を観てしまったせいでして(^o^;)
「すずめの戸締まり」の冒頭を何度も何度も繰り返し見ていたくせに、結局、劇場にまでたどり着けず(¯―¯٥)
観るのは2年後になってしまったわけだが、公開前に話題になっていたほどには、公開後の話が聞こえてこなかったなぁということを、ぼんやりと思い出していた。
だが、今年。
辰年の今年、見返すべき映画であることを、直接的なきっかけを得て、思い出したひとたちがたくさんいたはずで。
その前まで、世間ではどういう受け止め方をされてきたのかは、僕にはさっぱりわからないのだけど(^o^;)
斬新な切り口で、でも人の手に余る大きすぎるテーマを、既視感ばかりのシーンで手際よくまとめ上げた。そこにある種のプロフェッショナルを認めるとしても、なかなか「君の名は。」を超えられない理由というのも、その手際ゆえのことなのかなぁと思ったり(*‘ω‘ *)
そう。新しく、美しい画面を観ているのに、目の前の映像とは何か別の、古い映画のことが次から次へと思い出される。
本編とは直接に関係のないエピソードが、例えば構造的近似から呼び出される。
だいたい、あの「扉」からして、誰もが「ドラえもん」を真っ先に思い出したはずで(*^ω^)/
「何を見ても何かを思い出す」的な、どこかで見たことある?!という既視感でいっぱいの、でも「新しい」映像で溢れていて、なんならよくよく聴いたことのある「歌」までが、そのまんま放り込まれている(・。・)?!
まるで、先行する数々の映画作品のプロットに、むしろ積極的につながろうとしているかのよう。作品をひとつひとつ、名指しでオマージュしているかの如し。
徹底した「オリジナリティの放棄」とも取れるこの態度は、逆説的に監督の特異性を際立たせている。が、これが興行的戦略などというものではなく、何かまったく別次元の、ちょっと鬼気迫る切実さを感じさせる。これは僕の気の所為っていうわけではないだろうと。
個人的な思い出は大事だが、そのすべてを掬い上げることを意図したとき、それは途方もない仕事になる。
今は失われた、かつてそこに暮らした人々の思いをすべて掬い上げること。そんなことが可能なのだろうか?
いや。
不可能だ。
要石が移動しただけ。
「要石を抜いて、要石を追いかけて、要石をさす」という、ロードムービー。
それだけだった。。。と言った方がいっそスッキリする。そんな気もするのだが、もしも、これを目的として完遂したとするなら、前述の理由により、「ロードムービー」としてはかなり物足りないことに。。。
「要石」を追いかける間に、少しズレた位置に別種の目的が浮かび上がる。スズメちゃんが「あの日」のことを確かめるには、この道しかなかった。他の選択肢など端からなかった。
こうも言える(*‘ω‘ *)
ある意味、スズメちゃんにとっての「必然の旅」。
わたくし的には「時の支配者」という、フランスの古いアニメを思い出したりしたが。
だが、その目的も完遂する。
というか、その目的だけは完璧に果たされる。
目的地は、実は初めから示されていたようなものだし、途中の道行きは、寄り道のようでいて、実はまったく迷いなく、最短距離を進んでおり(*‘ω‘ *)
目的は、複合的に重なりはするが、まったく矛盾することはなく。
この「ロードムービー」の道行きに、迷いはまったく感じられない。
まっすぐに、いろいろを了解していく(*‘ω‘ *)?
きっと、まっすぐ過ぎるのだ。「ロードムービー」としては。
迷いを取り込むには、尺が足りなさすぎる。
だから、いろいろを置き去りにする。
いや、扱っているテーマが、すべてを掬い上げることを初めから諦めさせる。そもそも、1本の映画が掬い上げられることなんて、高が知れている。
そのことを百も承知で、だからこそ、クルマは走る。「閉じる」ための旅なのに、心の方はどんどん「開いて」いくとか。
いや、そもそも「目的」は最初から二重だった。
「扉」を「閉じる」ための旅の果てで、スズメちゃんはようやく「扉」を「開け」て、向こう側にいたあのときの自分を見つけるのだから。
「閉じられない」、屋根を開けっ放しのアルファロメオのカブリオレで。誰もが知っているはずの歌を口ずさむ、誰かの歌声を聴きながら。それが「ルージュの伝言」であるなら、「魔女」が「男の子」を助けることの成功は約束されているようなものである。
「要石」の「移動」は、長い歴史の上で繰り返されてきたということになるだろうけれど、そこには「かつて人々が暮らした場所」=「廃墟」がなければならない。
ふと思った。九州は宮崎にあるとされたあの「廃墟」は、比較的新しいものではなかったか?
あるいは長く「要石」が置かれていたその場所に、後から街が出来て、それが「廃墟」になった?とか?
「ミミズ」が発生する場所は恣意的に選択されているようで、規模もマチマチ。
スズメちゃんが最初に「ミミズ」を目撃したのは単なる「廃墟」と言うにはあまりにも大きい「街」。かつて人々が暮らした「街」全体が「廃墟」=「ミミズ」の発生源。
それが今度は「廃校」だったり、閉園して久しい「遊園地」だったり。
規模というよりは、「人々」の「思い」をクローズアップする「場」として選択されているようにも見えるが、ことごとくが、平成というよりは昭和の時代に栄えた場所を思わせる。
そこに現れる「扉」。
「昭和」的な人々の暮らしの記憶を選択的に「閉じ」て回っているようにも見える。
では、東京で、あの見慣れた景色から突如として「ミミズ」が湧き出してきた、あの事態は?
ほとんど皇居の直下と言える地下に存在した、あの神社が「廃墟」であるなら。。。
「廃墟」は表層にだけ現れるのではない。だとするなら、「廃墟」の概念は一気に拡大する。
というか、変質する。
「思い」を積み重ねた「暮らし」は、もはや「祈り」になる。だとするならば、「閉じる」べきは、うち捨てられた「祈り」?
「扉」を探して、「ミミズ」を封じ込める「閉じ師」。CLOSEする人。CLOSER。
この「閉じ師」の仕事っていうのは、新海誠監督の仕事に限りなく近いような気もしてきました(^o^;)
それなら、あの「3本足」の「椅子」に封じ込められる意味というのも、ストンと腑に落ちますな(^o^;)
ソウタ君は、監督自身かもしれんね(^O^;)
当面の目的があったりするのだが、どこかにたどり着くことで、到着で何かが解決するようでは、「ロードムービー」とは言えない( ・ิω・ิ)b
本来の目的がどんどんズレていって、いつの間にか「移動」が目的に取って代わる。「目的地」はいつだって「中継地点」であり、どこまでも「中間」でしかありえない。映画には尺があるので、ひとつの「旅」について、ある種のタイプを鮮やかに削り出すことができれば、あるいは特異点を描写で十分に切り取ることができれば、それをもって作品の完成とすることはできる。時間的に映画は終わるが、映画的「旅」は終わらず、終劇の後にも「継続中」ということに(*‘ω‘ *)
到着することが解決であり、結論であり、大団円となるなら、それはきっと「ロードムービー」とは呼ばれないのだ( ・ิω・ิ)b
もちろん、なんにでも例外はあるし、典型というのは理論値的で、個別の作品はそこから少しズレたところでシーンやストーリーを具体化しているわけなので、一概には言えないのだけれど、映画にはすでにして膨大な前例がストックされており、伝統的なメソッドやそこに基づいたセオリーがあって、ショットひとつが何か別の映画のシーンに結びついたり、反発しあったりということがママ起こる。
まったく新しい画面というのは創造的ではあるのだろうが、それをもって映画が成功するか?というと、それはどこまでも未知数で、本来的な意味で冒険的となる。が、仮にそれが大成功したとしても、その成功さえも公開後の世界に包摂されていくのだから、昨今、そんな冒険的映画がどこまで許されるか?と言えば、投げる前に予定することは、かなり難しい。。。
なんでこんなことをぼんやり考えてしまったか?というと、それはたいへん遅まきながらも、「すずめの戸締まり」を観てしまったせいでして(^o^;)
「すずめの戸締まり」の冒頭を何度も何度も繰り返し見ていたくせに、結局、劇場にまでたどり着けず(¯―¯٥)
観るのは2年後になってしまったわけだが、公開前に話題になっていたほどには、公開後の話が聞こえてこなかったなぁということを、ぼんやりと思い出していた。
だが、今年。
辰年の今年、見返すべき映画であることを、直接的なきっかけを得て、思い出したひとたちがたくさんいたはずで。
その前まで、世間ではどういう受け止め方をされてきたのかは、僕にはさっぱりわからないのだけど(^o^;)
斬新な切り口で、でも人の手に余る大きすぎるテーマを、既視感ばかりのシーンで手際よくまとめ上げた。そこにある種のプロフェッショナルを認めるとしても、なかなか「君の名は。」を超えられない理由というのも、その手際ゆえのことなのかなぁと思ったり(*‘ω‘ *)
そう。新しく、美しい画面を観ているのに、目の前の映像とは何か別の、古い映画のことが次から次へと思い出される。
本編とは直接に関係のないエピソードが、例えば構造的近似から呼び出される。
だいたい、あの「扉」からして、誰もが「ドラえもん」を真っ先に思い出したはずで(*^ω^)/
「何を見ても何かを思い出す」的な、どこかで見たことある?!という既視感でいっぱいの、でも「新しい」映像で溢れていて、なんならよくよく聴いたことのある「歌」までが、そのまんま放り込まれている(・。・)?!
まるで、先行する数々の映画作品のプロットに、むしろ積極的につながろうとしているかのよう。作品をひとつひとつ、名指しでオマージュしているかの如し。
徹底した「オリジナリティの放棄」とも取れるこの態度は、逆説的に監督の特異性を際立たせている。が、これが興行的戦略などというものではなく、何かまったく別次元の、ちょっと鬼気迫る切実さを感じさせる。これは僕の気の所為っていうわけではないだろうと。
個人的な思い出は大事だが、そのすべてを掬い上げることを意図したとき、それは途方もない仕事になる。
今は失われた、かつてそこに暮らした人々の思いをすべて掬い上げること。そんなことが可能なのだろうか?
いや。
不可能だ。
要石が移動しただけ。
「要石を抜いて、要石を追いかけて、要石をさす」という、ロードムービー。
それだけだった。。。と言った方がいっそスッキリする。そんな気もするのだが、もしも、これを目的として完遂したとするなら、前述の理由により、「ロードムービー」としてはかなり物足りないことに。。。
「要石」を追いかける間に、少しズレた位置に別種の目的が浮かび上がる。スズメちゃんが「あの日」のことを確かめるには、この道しかなかった。他の選択肢など端からなかった。
こうも言える(*‘ω‘ *)
ある意味、スズメちゃんにとっての「必然の旅」。
わたくし的には「時の支配者」という、フランスの古いアニメを思い出したりしたが。
だが、その目的も完遂する。
というか、その目的だけは完璧に果たされる。
目的地は、実は初めから示されていたようなものだし、途中の道行きは、寄り道のようでいて、実はまったく迷いなく、最短距離を進んでおり(*‘ω‘ *)
目的は、複合的に重なりはするが、まったく矛盾することはなく。
この「ロードムービー」の道行きに、迷いはまったく感じられない。
まっすぐに、いろいろを了解していく(*‘ω‘ *)?
きっと、まっすぐ過ぎるのだ。「ロードムービー」としては。
迷いを取り込むには、尺が足りなさすぎる。
だから、いろいろを置き去りにする。
いや、扱っているテーマが、すべてを掬い上げることを初めから諦めさせる。そもそも、1本の映画が掬い上げられることなんて、高が知れている。
そのことを百も承知で、だからこそ、クルマは走る。「閉じる」ための旅なのに、心の方はどんどん「開いて」いくとか。
いや、そもそも「目的」は最初から二重だった。
「扉」を「閉じる」ための旅の果てで、スズメちゃんはようやく「扉」を「開け」て、向こう側にいたあのときの自分を見つけるのだから。
「閉じられない」、屋根を開けっ放しのアルファロメオのカブリオレで。誰もが知っているはずの歌を口ずさむ、誰かの歌声を聴きながら。それが「ルージュの伝言」であるなら、「魔女」が「男の子」を助けることの成功は約束されているようなものである。
「要石」の「移動」は、長い歴史の上で繰り返されてきたということになるだろうけれど、そこには「かつて人々が暮らした場所」=「廃墟」がなければならない。
ふと思った。九州は宮崎にあるとされたあの「廃墟」は、比較的新しいものではなかったか?
あるいは長く「要石」が置かれていたその場所に、後から街が出来て、それが「廃墟」になった?とか?
「ミミズ」が発生する場所は恣意的に選択されているようで、規模もマチマチ。
スズメちゃんが最初に「ミミズ」を目撃したのは単なる「廃墟」と言うにはあまりにも大きい「街」。かつて人々が暮らした「街」全体が「廃墟」=「ミミズ」の発生源。
それが今度は「廃校」だったり、閉園して久しい「遊園地」だったり。
規模というよりは、「人々」の「思い」をクローズアップする「場」として選択されているようにも見えるが、ことごとくが、平成というよりは昭和の時代に栄えた場所を思わせる。
そこに現れる「扉」。
「昭和」的な人々の暮らしの記憶を選択的に「閉じ」て回っているようにも見える。
では、東京で、あの見慣れた景色から突如として「ミミズ」が湧き出してきた、あの事態は?
ほとんど皇居の直下と言える地下に存在した、あの神社が「廃墟」であるなら。。。
「廃墟」は表層にだけ現れるのではない。だとするなら、「廃墟」の概念は一気に拡大する。
というか、変質する。
「思い」を積み重ねた「暮らし」は、もはや「祈り」になる。だとするならば、「閉じる」べきは、うち捨てられた「祈り」?
「扉」を探して、「ミミズ」を封じ込める「閉じ師」。CLOSEする人。CLOSER。
この「閉じ師」の仕事っていうのは、新海誠監督の仕事に限りなく近いような気もしてきました(^o^;)
それなら、あの「3本足」の「椅子」に封じ込められる意味というのも、ストンと腑に落ちますな(^o^;)
ソウタ君は、監督自身かもしれんね(^O^;)