記事が右往左往しているついでに、久しぶりに 『 ベルサイユのばら 』 自体について書きたいと思います。
ですが、またも、嫌な話です。
『 ベルばら 』 について書くというのは、筆者にとって 「 自分の中にしまっておけない嫌なことを吐き出す 」 ことになってしまっているようです。
最初に謝ります。ごめんなさい。
不快な思いをされる方がいらっしゃると思います。
気分の悪い話を読みたくない方は、読まないで下さい。
先日、ベルばらkids ぷらざで、
という記事がございました。
(記事抜粋)
一人の女性が、
「イザークが気のいい娼婦と結婚するじゃない?ロベルタだっけ。(略)『いくら好きでも、境遇が違いすぎると生活はうまくいかないんだな』という教訓を得たよ」
と言い出しました。(略)
「あ、あのドイツ・オーストリア・ロシアを股にかけた歴史大河ドラマを読んで、そんなめっちゃ地に足着いた、生活に密着した教訓を得ている人がいるとは…!!」
と、驚愕しつつも、(略) その後、なんと、複数の人から、
「私もイザークとロベルタのエピソードを読んで、『危ねえ危ねえ、人間、結婚相手は慎重に選ばなきゃな』と思いました」
というような話を聞いたのです。(略)
あの名作から、複数の方が同じ感想をもたれた、ということは…だんだん、池田理代子先生の「ここが描きたかった!!」という部分の一つだったのでは!?重要なメッセージだったのでは!?という気がしてきました。(略)
池田先生!!(略)貴重な人生の教訓を、ありがとうございました…!!
この記事に、筆者は怒りを覚えました。
… 「 貴重な人生の教訓 」!?
そんな甘っちょろいものではない!、と、筆者は考えているからです。
筆者は、先月初めて『 オルフェウスの窓 』を読み始めました。現在、第3部を読んでおります。
『 オルフェウスの窓 』 略して 『 オル窓 』 を読んで、今のところの感想は、「これは、『 ベルばら 』 作者がバランスをとるために書いた『 ベルばら 』のダークサイドの物語に違いない。」ということです。
煌めくような輝きと、想像をかき立てる余白を持った『 ベルサイユのばら 』 は、何度読み返してみても、「神の領域!」 としか思えない作品です。矛盾をはらみながらも、それを押し流して昇華してしまうほどのエネルギーがあります。
しかし、たくさんの疑問が残ることは、事実です。
作者・池田理代子氏にしても、実はご自分の書かれたことに疑問を持たれていたのではないか、と思います。
『 ベルばら 』 を書かれた池田氏には勿論構想があり、ネームがあって作品へと結実していったのでしょうが、モーツァルトの音楽がモーツァルトによって書かれながらも天上の音楽であるかのような作品になっているように、『 ベルばら 』は「登場人物たちが、自ら動き始めた」 としか思えない作品です。
その登場人物たちの行動には、書いておられる池田氏自身でさえ疑問を持たれるような言動があったのではないでしょうか。
オスカル・フランソワとアンドレの「愛」が絡むあたりに、何故か「幼なじみ」が急浮上するのが、とても筆者には、不自然に思えます。まるで、池田氏が、「本当に、これでいいのかしら?」と疑問を持たれながらも、動き続ける登場人物たちの行動を合理化しているかのようです。
「光と影」にしても然り。
合理化や繰り返し語られている、「2人の愛の必然性」を取り払ってあらためて見返してみると、オスカル・フランソワは、アンドレを愛することで、本当に幸せになれるのでしょうか?
その疑問に、池田氏は 『 オル窓 』 で答えていた…と、作者には思えてしまいます。『 ベルばら 』 がモーツァルトの楽曲であるとしたら、『 オル窓 』 は、ベートーベンの作品にたとえられるような重厚さと苦悩、そして、「まさに、“人の手”で書かれたもの」 という存在感があるように思えます。
最初は、「『 オル窓 』 のユリウスとオスカル・フランソワは、似ても似つかない。」と思っていましたが、彼女が成長し、恋をするにつれて、『 ベルばら 』 では描かれていなかったオスカル・フランソワの苦悩が代弁されているように思えてきました。
また、『 オル窓 』 は、俗な言葉で言えば、ユリウス、イザーク、クラウス=アレクセイの三角関係で、途中までしか読んでいないので結末は分かりませんが、ユリウスはクラウス=アレクセイを選び、クラウス=アレクセイもユリウスを選んでいます。
『 ベルばら 』 では史実の縛りがあって、フェルゼンはオスカル・フランソワを選ぶことは出来ませんでした。しかし、クラウス=アレクセイがユリウスを選んだことで、フェルゼンとオスカル・フランソワの恋もありだったのではないか…と思われて仕方がありません。
また、アンドレと重なるイザークは、「影」であるにもかかわらずオスカル・フランソワと結ばれたアンドレのことを否定するかのように、「愛する資格」を口にしたりしています。イザークの存在は、「 “自分の人生” を生きているアンドレ」を暗示しているかのようです。
『 オル窓 』 は、これ自体で読んでもなかなか恐ろしい物語ですが、『 ベルばら 』 を補完している=『 ベルばら 』 の隠れた暗い事実(ダークサイド)を間接的に語っている…ととらえて読んでいくと、とてつもなく怖い物語です。
筆者も多くの疑問を持っております。その一つが、「オスカル・フランソワは、アンドレと結ばれて幸福であり続けられたのか」という疑問があります。
結核にむしばまれたオスカル・フランソワと、失明したアンドレが、もし、7月13日・14日を生き抜いていたとしたら…?
最近、池田氏は「オスカル・フランソワが血を吐いたのは、喀血でなく吐血。」とおっしゃり、結核否定発言をされているようですが、
① 『 ベルばら 』 連載終了後、池田氏と同時代に活躍していた木原敏江氏が、『 ベルばら 』 に触発されて書いたに違いないフランス革命を背景にした作品で。主人公が肺を患っていること
② 『 オル窓 』 でイザークの妹が結核であること
から、『 ベルばら 』執筆当時、池田氏はオスカル・フランソワを結核として描いていた、と考えられます。
オスカル・フランソワは、爵位も領地も、もちろん国王に任命された地位も職も捨てることを高らかに宣言しました。しかし、彼女は、貧しい庶民の暮らしをどれほど想像できていたのでしょうか。
ただでさえ、電気もガスも水道もない18世紀の生活です。オスカル・フランソワは、黒い騎士事件の時、再会したロザリーのあかぎれだらけの手にショックを受けますが、それは、地位も身分も財産もなくした時、彼女自身の身にもふりかかってくることだと、彼女は想像していたでしょうか。
アンドレはオスカル・フランソワの精神的な支えであると同時に、生活の実際面でも彼女の役に立ってくれていましたが、それも「伯爵家」という安定した生活の基盤の上でのことに過ぎません。そして、光を失っては、彼女の身の回りの世話さえ、もうできません。
だんだんと深まるイザークとロベルタの溝を見ていると、生活の中でオスカル・フランソワとアンドレが直面する苦悩と少しずつ蓄積していく鬱屈を見ているようで、いたたまれない思いがします。
美しくもなく、過去は娼婦であったロベルタと、オスカル・フランソワをすぐにオーバーラップさせることは難しいですが、「娼婦」 と 「聖処女」 は、「特定の男性に属さない」という点で、実は表裏一体なのではないかと思われます。
そのロベルタが、困窮の果てに、毛嫌いしていた男に金のために身を任せるシーンでは、血が凍る思いがしました。娼婦であったデュ・バリー夫人を(具体的な記述はないですが、おそらく)蔑み、身を売ろうとしたロザリーを哀れんだオスカル・フランソワが、殺伐とした世情の中で、弱っていく身体で働けもせず、その日の糧にさえ事欠くようになった時、アンドレを養うために、…と想像すると、身の毛がよだちます。
また、ロベルタは金のために男に身を任せる時に、イザークの子を妊娠しています。これにも、筆者は戦慄しました。…オスカル・フランソワは、7月12日の夜、確実に子を授かっている…筆者は、「生物学的側面」からも、これは間違いないと思っています。イザークの子を孕むロベルタは、アンドレの子を身ごもるオスカル・フランソワのメタファーであるように思えて、仕方がありません。
ロベルタとオスカル・フランソワをすぐに結びつけて考えるのは難しい一方で、イザークとアンドレの相似性は明確です。
「ピアノを弾く」 =自己の存在理由 を喪失したイザーク=力を失った夫
「オスカルを見守る」=自己の存在理由 を喪失したアンドレ=力を失った夫
『 オル窓 』 のイザークとロベルタの物語は、
「オスカル・フランソワが生き延びていたら、絶対に幸福な生活を送ることは出来なかった。」
「動乱の時代に、盲目の夫を抱え、肺を病んで、かつ妊娠している、家事も、ましてや外での仕事もままならない女が、生きるために、最後の手段として何をするか…」
を、冷酷に突き付けているように思われて仕方がありません。
オスカル・フランソワが亡くなった時、池田理代子氏が受けたファンからの抵抗はただならぬものだったとお聞きしています。
池田理代子氏は、『 オル窓 』で、「ほらね。社会的な背景が違う相手と、困難な生活を送ることは不可能なのよ。オスカル・フランソワは、あの時死んだからこそ、美しく幸せだったのよ。」と、宣言しているように筆者には思われます。
…だからといって、オスカル・フランソワにこの世を去ってほしくなかった…
マリー・アントワネットとフェルゼンの不幸との対価を持つ宿命を負って生まれた人物である、ことが大前提なのだ、としても。
池田理代子氏は、「 死を覚悟していた 」 とおっしゃっていますが、筆者には、どうしてもオスカル・フランソワが、そしてアンドレが 「 生きたい。生き続けたい。」 と願っているようにしか思われません。
時を超え、メディアを超え、オスカル・フランソワの物語が生き続けているのも、そんな 「 生 」 への渇望のエネルギーによるもののような気がして、仕方ないのです。
オスカル・フランソワとアンドレを、一種の 「心中」 と見なす見方もあるようですが、オスカル・フランソワは、「生きるため」 のみならず 「幸福になるため」に、戦いに身を投じたとしか、筆者には思えません。
あの時代、たとえフェルゼンと結ばれても、ジェローデルと結ばれても、彼女は幸せにはなれなかったとは思いますが…。でも、ジェローデルには、一縷の望みがあるように思えます。ジェローデルと結ばれていたら、結核に罹患することなく、生き急がない人生があったように思えます。
ロザリーは、オスカル・フランソワにとって、「女性としての自分」を投影した存在ではなかったかと思います。美しい貴婦人として宮廷に出るロザリーは、オスカル・フランソワのドレスを着た、オスカル・フランソワの女性性の分身であったように思います。
その分身のロザリーに、自分のカウンター・パートナーになり得たベルナール・シャトレを譲ってしまった時に、オスカル・フランソワの人生の歯車は悲劇へと向かい始めたのかもしれません。
ロザリー、今からでも遅くないから、アンドレとくっついてくれない?
…すみません、オチはこれでした。
私は、フランス語全く出来ないけれど、一連の貴女の「ベルサイユのばら」に関する興味深い考察、拝読させていただきました。
ところで、オスカル様の最後の1年、ジェローデルと結婚していたら、結核に罹患しなかったのでしょうか?ルイ・ジョゼフ王太子が、結核性の脊椎カリエスに罹ったのはいつ頃なのでしょうか?もし、比較的早目の幼少時だったら、オスカル様、近衛にいた頃から、ルイ・ジョゼフ王子を頻繁に見舞っていたと考えられるのですよ。そこで、オスカル様、結核に感染してしまったのかもしれませんね。王子からキスされたくらいで、強感染してしまうでしょうか?私は、オスカル様の王子への頻繁な見舞いが、オスカル様への感染を招いたと考えているのです。
そして、club_3様が、「地位・身分のフランス語表記・表現②」に書かれているように、最後の半年で、感染していた肺結核を、(痩せて骨ばった体付きによる体力のなさと栄養不良によって)爆発的に発病させていったのではないでしょうか?
だから、ジェローデルとの婚約話があった頃は、もう結核に感染していたわけで、もしかしたら、衛兵隊での不規則で健康的でない生活により、発病は「時間の問題」だったかもしれませんよ。
だから、オスカル様の相手がアンドレでありジェローデルであっても、オスカル様、生き永らえる事、出来なかったかもしれません。
club_3様、私の考え、どう思うわれますか?
コメントありがとうございました。
大変遅レスで申し訳ございません。
年末は本業で多忙を極め、自分のブログに全く来られずにおりました。
(2008年は、ブログを更新できないのが年末だけ・・・でもなかったのですが;;;)
Oさまの最後の1年・・・実は、私がOさまに出会ったのは、最後の1年が閉じようとしている時期でございました。
中学生のお姉さんがいる友達が「百合をしょってるアランに唇を奪われているOさま」のシーンを読んでいるのを見て、子どもながらに衝撃を感じ『ベルばら』を読み始めたのでございます。
ご承知のように、ストーリーはクライマックスに向けて劇的に進行し、あっという間にOさまはこの世の方ではなくなってしまわれました。
・・・子どものお小遣いでコミックスの単行本を買いそろえ、やっと全編を読んだのは『ベルばら』連載が終了してからでございました。つまり、生きておられるOさまを人生の大半を知ったのは、Oさまを失ってからだったのです。
Oさまは、私の中では、未だ永遠の存在です。
何十年も『ベルばら』を読んでいなかったのに、自分のフランス語力では歯が立つはずのないフランス語版を読んだとき、形状合金のようにほとんどすべての台詞が蘇り、その記憶を頼りにフランス語を理解できたほどに、自分の中に物語がしみこんでいたのでございました。
そして、長い時を超えて、愚かだと思いながら物語を反芻し、Oさまが亡くなったあの日のショックを埋めるように、「別の展開」を模索してしまう自分がいるのでございます。
前置きが長くなりました…
(申し訳ございません。悪い癖なのです。)
クリスティーヌさまがご指摘になったOさまのご病気の原因、確かに考えられる線だと思います。
往時、結核が王侯貴族の病であったのは、庶民と異なって住環境がよく、機密性の高い室内で過ごすことが多かったためという説もありますね。おそらくルイ・ジョゼフもヴェルサイユ宮殿で罹患したのでしょうから、Oさまも早い時期に感染されておられた可能性は高いことでしょう。
また、ジェローデルを選んでいたとしても、Oさまは革命に身を投じられたであろうし、遅かれ早かれ病を得ることも避けられなかったのかもしれません。
しかし、物語の「別の展開」を夢想する人間としては、「もしかしたら」に思いをはせてしまうことを止められないのです。
このように『ベルばら』の物語を繰り返しひもとく一方、自分なりの「別の展開」を思い描くことで、私だけでなくそれぞれのファンの皆さまにとっての『ベルばら』は止まることも古びることもなく、新たな命を持って今も生き続けているように思います。
・・・私の個人的趣味として「ジェローデルはもっと正当に評価されるべき人物!!」という思考が、私の思い描く物語にバイアスを持たせているところは多々あるかもしれませんね;;;
なかなか更新できないでいる拙ブログですが、長いスパンで続けていきたいと思っておりますので、よろしければまたクリスティーヌさまのお考えを寄せていただけると嬉しいです。
「オスカルは革命側につく」ことを池田理代子先生は初めから決めていらしたそうですね。
つまり、アンドレとロザリーとくっついたとしても、オスカルはベルナールかアランとくっついてた訳で。
ジェローデルと結ばれたらオスカルは「自己の真実にのみしたがい」生きることは出来ないですよね。
彼女は自分の信念には迷いは無かったようですが、民衆の側に寝返ることは、
☆フェルゼンへの想いを諦めてまで忠誠を尽くした王妃に刃向うことになる。
☆ジャルジェ家の家名に傷をつけ、王家を守る職務に誇りを持つ父ジャルジェ将軍を窮地に追い込むことになる。
☆戦闘現場へ出る以上、自分に命を預けてくれている部下を心ならずも死なせてしまうことになる。
実際、三部会が始まった頃から、彼女はこれらの悩みや苦しみを紛らわすように深酒を重ねます。
これらのことを考えると、彼女は自分の信念を貫く為には死ぬこともやむをえない、と思っていたと考えます。
それでも、アンドレにだけは「しっかりとそばについていてくれ」と自分とともに在ることを要求します。このあたりから、心中説も出てくるのでしょうが、個人的には心中説は取りたくありません。より自分として生きた結果、死期を早めてしまった、と思いたいです。
お返事、大変遅れて申し訳ございません。
ひねくれ者なのかもしれませんが、わたくし、どうしても、Oさまがべルナールやアランを選んでくれていた方が・・・と思ってしまうのでございます。
ベルナールやアランはそれぞれ背負っているものがあり、そしてそれゆえに良い意味でハングリーで、志がある・・・と感じるのです。
しかし、だからこそ、べルナールやアランは、決してOさまの【影】にはならないでしょう。
男性中心社会であった1970年代には、Oさまが【光】であるためには、必然的に【影】になってくれる男性を選び取ることにならざるを得なかったということなのでしょうね。
作品を2010年の視点から見ることは間違いなのかもしれませんが、わたくしは、今のこの時点でもいろいろな可能性や現在の視点で捉えなおした登場人物の魅力について、思いをはせさせてくれるのが、ベルばらの価値であり魅力でははないかと思います。
作品が、読む人それぞれの心の中で、今もなお生き続けているのだと思うのです。
これって、本当にすごいことではないでしょうか。
そしてまた時を重ね、何十年か後には、また別の読み方もできるかもしれませんね。
どうやら筆者様は、アンドレのことをオスカルの相手として役不足、とお考えのようですね。(^^;)それはさておき、個人的にはオスカルがベルナールやアランを選ぶというのは、アリだと思います。(逆に、フェルゼンやジェローデルと結ばれて貴族の夫人に収まってしまては、オスカルはここまで人気が出なかったでしょうね。)
ただ、ベルナールかアランと結ばれても、早かれ遅かれ、オスカルは革命の嵐の中で命を落としたと思うのです。バスティーユ陥落は単に革命の始まりで、その後10年間、フランスは政治的にも軍事的にも混乱が続きます。そんな時代背景を考えると、軍人であり真っ直ぐに生きることしかできないオスカルの行く先には、戦死あるいはギロチンしかなかったように思えます。このことは、「ベルばら」の続編ともいうべき「エロイカ-栄光のナポレオン-」を読んでの私の感想にすぎませんが。