前に踏み外した経験から慎重さが増しているだけで、バランスが取れていないとかうっかり段数を間違えるとか、そういうのが改善されたということはどうやらない。むしろ軽いめまい的なことは増えている感触で、そんなときには常に手すりを支えにするように習慣が変わっただけだった。
家の階段への耐性は上がったが、というか、「経験値」が上がっただけで一般スキルはどちらかといえば落ちているのだから、そのことを肝に銘じて謙虚に暮らしていかなくてはならない。
痛いの痛くないのって、「何かおかしいな」と気が付いたのが去年の5月連休の頃で、諸情報により「たぶんこれが『五十肩』なのだろう」と思って、ただ一年を過ごしてきた。これには特に治療というものがなく、自然治癒を待つだけのものらしい、と入ってきた情報が、もしかしたら誤っていたのではないか、と一年を過ぎて思う。痛くてもできる限り動かしたほうがよいとか、温湿布がよいとか、言われてみれば心当たる節がある。
それで、遅まきながら、特に意識して動かす機会を増やすことにし、併せて、五十肩の緩和を効能にうたう武田「アリナミンEX」60錠を律儀に3錠×20日間飲用した。少しよくなったような気もするけどあくまでも運動の効果のような気もするし、とりわけ冬の寒さが体に悪かっただけで機構的には何ら治っていないという疑念も残っている。治った気になっても、やっぱり不意の急な動作で悶絶する。
動かすのがよいのは、経験上からもどうやら確からしい。
午後に「出血を伴う手術」を行う予定がありながら、午前中に「血小板成分献血」をしたことがある。手術といっても健康上の理由があったわけではなく、歯科の「インプラント」、つまり歯茎に土台を仕込んで強力な差し歯をするような、そんな話。
いざ手術となったとき、「血が止まりにくいことがあるから、念のため、先に血液をいくらか確保しておき、そのときには自分の血液で止血を試みる」とのことで、まず採血をされた。まさに午前中に吸い取られた血小板だ。本番は、結局血が止まらないこともなく無事に済んだと聞いたから、まあ、献血というのはよっぽどの安全側に立った採血基準をもって、普通の生活を送る限りは特段の悪影響が出ない程度の量しか抜いていないのだとわかる。悪影響が出るのはせいぜい10万人に何人とか何十人とか、そんなところである。献血の帰りに出血を伴う交通事故に遭う可能性だってあるわけだし、献血をしたせいで簡単に死ぬ、などという話はついぞ聞いたことがないから、献血後の注意事項、「激しい運動はするな」「飲酒・喫煙は控えめに」「重い荷物を持たないこと」などは、本当に「念のため」なのだろう。400ml全血献血をした日にランニング練習をする人の話をネット上で見たことがありますしな。
トラック運転手が、休憩時に缶コーヒーを飲み、配送先で出されて缶コーヒーを飲み、始終缶コーヒーを飲んでいたがために糖尿病を患った、という話を聞いた。日頃から清涼飲料水、炭酸飲料をむやみやたらに飲んでいたことが原因でなった、と言う人もいる。また、言うことを聞かないおじいさん糖尿病患者について病院の人から聞いたのは、その人が病床を抜け出しては好きな大福を買いに行って、まったく病気の自覚がないし、多少よくなって退院しても家で好きなものばかり食べるからすぐに病院に戻ってくる、とこぼす様子。
最近、ヤマザキの「ういろう」をよく食べていた。職場そばのスーパーマーケットで昼に1個買い、ほぼ毎日のように通算50個くらい買ったろうか。その後、補充が大量入荷されたと同時に購入をやめたら、このところずっと売り場に山積みである。そんな遊びをしていたのもそもそも甘いものが好きだというバックボーンがあるからだ。特にこの頃は、体調不良の気配を感じたときに高カロリー摂取をもって予防線を張ることを作戦する次第で、世の中の平均的水準をはるかに超えて、甘いものを食べていると思う。いや、当初はその作戦だったが、今や体調に関係なく、甘いものを食べる。休日出勤時に少しずつ食べようと思って5個入り大福を持っていったのがうっかり油断して1時間そこそこで食べきってしまうし、最近は昼に「ういろう」に代えてヤマザキ「みたらし団子」(串3本に刺さったやつ)を残業に備えるつもりで買っているが、どうも昼に全部食べきってしまう勢い。食べながら、先述の糖尿病おじいさんの大福のことなどを思い出すのだけれども、自分もこういう食事様式を重ねていると糖尿病が間近なのか、ことによると自覚のないまま突入してしまっているのかもしらん。
学生の頃、「お前は一人暮らしをしたら死ぬ」と、友人に言われた。思えばその当時から甘いものはずいぶん食べていて、土産の12個入り赤福を、他の誰も食べないからその友人と二人して一度に空けたことがあるが、お前こそ人のことを言えた立場か。とりあえず、明日から気をつけよう。
同級生が大病に襲われ、年下が糖尿病を患い、そういえばいとこの死亡時年齢を超し、まあ、そういう年頃になってしまっているのだな、と思う。精神をこじらせた同級生もいるが(毎日のように職場に電話がかかってくるものの、今のところ、幸い、自分とは接点を持たずに済んでいる)、これに関しては幅広い年齢層に発症するので特に年齢を意識させられることはない。ただ、中でも我々の年代が最も、その身勝手さを最大限に発揮し、要求の理不尽さにおいて群を抜いているように思う。そんな年頃である。
一か月ほど前から肩が痛くて、ネットで見る限り、これが五十肩(四十肩とも)なのか腱鞘炎なのかを知るためには医師の判断を仰がなくてはならないことがわかる。そして、五十肩というのが、単に加齢にともない普通に起こる症状、くらいに思っていたら、どうやらその程度ののんきな病気ではなさそうなことも。とりあえず、痛みが落ち着いてきたところから希望的観測をするに、五十肩ではなかったのだろうとは思っているが、しかし寄る年波は感じるもの。
「歯医者は、虫歯にならない方法を知っているが、患者には秘密にしている」という噂話を耳にしたことがあります。歯医者のような特権的、専門的職業の人々の言葉は盲目的に信用してしまうのが凡人の常。全面的に信頼を置いているとはいいませんが、普通の人の言葉よりも説得力があります。積年の疑問を尋ねる機会がついに訪れまして、その答えは、「歯医者も虫歯になる。何ならずともブラッシングがすべての基本である」とのことでありました。
もしかすると、まだ何かを隠しているかもしれません。
そこそこに混雑をした店で品物を眺めていたら、一人の警官が店に来て店長を呼んで話を聞いたのち、店内を見て回っていました。何か通報があってやって来た印象。
決して自分が何かをしたわけではなく特段に何も感じることはなかったのですが、心情のシミュレーションとして、仮に自分が万引きであるとか盗撮(ペン型カメラが流行)であるとか器物損壊であるとかをまさにしている状況、監視の対象が自分であることを想定してその警官を意識してみると、なるほど、落ち着かないものです。
世の中では、街や鉄道車両内に監視カメラを設置する話が出るたび、「これで安全・安心に」「治安向上」「冤罪撲滅」など賛成が(おそらく)多数の中、「プライバシーの侵害」「監視社会が自由を封殺」など、ことに日本では特にある一部の種類の人々がまず一様に反対の姿勢を見せるのは、いわゆる「統合失調症」の一症状を除いては、それが、何か悪事を働いているか、働こうとしている気質や計画のある人なのだろうな、と実感を伴って確信するところであります。