アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

元吉仁志さんのこと

2022-11-07 | インド映画

インド映画の紹介を始めた1980年代、共に闘った友人が亡くなりました。元吉仁志(もとよし・ひとし)さんと言い、ドキュメンタリー映画を制作するプロダクション「グループ現代」でインド関係の作品の制作に携わっていた人です。私がビデオでインド映画を見せていた1980年代、グループ現代のスペースを使って上映会ができるようにアレンジしてくれ、その後3回のインド映画祭で一緒に仕事をし、苦楽を分かち合った「同志」でした。今年の7月末に白血病が発見されて余命宣告を受け、10月に入って急速に悪化したようで、11月4日に逝去。本日地元高知でお葬式が行われました。1953年生まれなので、享年68歳か69歳。下の写真は、1988年1月、南インドのケーララ州トリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)で開催された、インド国際映画祭での元吉さんです。

元吉さんと出会ったのは、私と友人の臼田わか子さんが1978年10月から発行し始めた月刊ミニコミ誌「インド通信」を通じてでした。当時元吉さんはインド北部のラダック地方に魅せられた友人と共に「ラダック研究会」というのを作っていて、そのチラシを入れてほしい、というような話からお付き合いが始まったと思います。当時の「インド通信」の特集は、”ぐるりインド亜大陸”と題してインド各地の紹介をしていたので、1980年10月号に「ラダック地方」紹介として、ラダック研究会のお二人、東京農大山岳部OBの樫谷浩(元吉さんの当時のペンネーム)さんと学習院大探検部OBの土屋守さんに寄稿してもらいました。同じ頃元吉さんはグループ現代の仕事でラージャスターン地方に行き、帰国後の1981年1月号の「ラージャスターン州」にも、やはり樫谷浩名でプシュカールやジャイサルメールのことを寄稿してくれています。その後も、1982年の「国際交流基金映画祭 南アジアの名作を求めて」に関しても書いてくれるなど、文章も上手な人でした。

上は、「国際交流基金映画祭」で上映された『魔法使いのおじいさん』(1978)のアラヴィンダン監督と元吉さんで、1990年1月にカルカッタ(現コルコタ)でのインド国際映画祭で撮ったものです。「国際交流基金映画祭」は我々に、アジア映画にもこんなに観客が押し寄せるんだ、という新たな希望を植え付けてくれた映画祭でした。この頃私は自宅で、字幕なし、詳しいストーリー解説書付き、定員5名(!)というインド映画のビデオ上映会をやっていたのですが、もっと広いところでやりたい、と思い始め、前述のように元吉さんに提案してもらった新宿御苑前のスペース「シネマテーク現代館」での定員20名の上映会を1982年5月から始めました。そして同年秋の「国際交流基金映画祭」の成功を見て、「インド映画祭」をやろうとグループ現代の小泉代表に提案し、元吉さんのあと押しもあって企画が動き出したのです。こうして日本初の「インド映画祭」が開催され、1983年9月に労音会館ホールで4日間、その後10月後半の16日間は下北沢の鈴なり壱番館での上映で、シャーム・ベネガル監督作『芽ばえ』(Ankur/1974)、アラヴィンダン監督作『サーカス』(Thampu/1978)、ビーム・セーン監督作『ままごとの家』(Gharaonda/1977)の3本を上映しました。作品選定から16ミリプリントの買い付け契約、東京での上映など、私と元吉さんを中心に、東京外大の学生や大阪外大の卒業生、元吉さんの友人らが「インド映画祭実行委員会」を作って、グループ現代の力を借りながら字幕翻訳から宣伝、会場運営等々、あらゆることをこなしたのでした。中でも元吉さんは、私と一緒にインドに行って作品選定をするところから始まって、鈴なり壱番館での16ミリ映写も担当してくれるなど、八面六臂の活躍ぶりでした。

ですが、「インド映画祭」自体は赤字で、最初に100万ずつ出したグループ現代と私が、それぞれ追加で50万ずつ出してやっとトントン、という結果となり、グループ現代のご厚意で映画祭後のプリント貸し出し料金は我々実行委員会の収入にしていただいたものの、2回目はとてもできない相談となりました。というわけで1985年の第2回のインド映画祭は、大使館にいらしたシンさんという書記官の方のアレンジでインド本国から英語字幕付きプリントを借り、池袋の西武百貨店にあったスタジオ200というミニシアターに助けてもらって、春・秋それぞれ6本ずつ上映しました。その頃、1983年からPFF(ぴあフィルム・フェスティバル)がディレクター日比野幸子さんの方針でアジア映画を積極的に上映するようになり、1983年のPFFではアショーク・アフージャー監督作『礎石』(Aadharshila/1982)が上映されました。上の写真は、1985年のニューデリーであったインド国際映画祭の時、アショーク・アフージャー監督宅へ招かれた夜のもので、右から元吉さん、監督夫妻、そして映画評論家の小野耕世さんが写っています。こんな経緯があったからか、1986年頃から日本政府とインド政府の間で交渉が始まった1988年開催の「インド祭」では、インド映画上映をぴあが引き受けることになり、インド映画祭実行委員会もそれに協力する形で、来日した政府のお役人との交渉などに臨みました。1986年9月には、ぴあの矢内社長らと一緒にムンバイとデリーにも行き、その後25本の上映作品も決定して、1988年4月の開催を目指す怒濤のような日々が始まりました。

1988年4月に東京で開催され、のち各地でも上映された「大インド映画祭1988」は、何が怒濤だと言って字幕作りが本当に大変でした。というのも、映画を日本での上映にかけられるよう、日本語字幕を付けて送り出すまでがインド側の仕事、それ以降の上映は日本側の仕事、という取り決めになっているため、インド側に日本語字幕制作を任さないといけないのです。これに関してのインド側とのやり取りは、今思い出しても頭に血がのぼります。当初インド側は「電光掲示板でスクリーンの下に字幕を出す」という提案をしてきて、それを却下したら、「日本語への翻訳をインドでやって、字幕用の写植を香港で作る」と言い出し、試しにやってもらうと日本語訳がおかしい上、香港の写植担当者は”し”と”も”の区別がついてない等々、これらのやり取りでだいぶ時間を無駄にしました。結局、日本側で字幕翻訳をして写植原稿を作るところまでやり、パチ打ちはインドのラボでやる、ということになったのですが、当時は35ミリプリントの時代だったので、文字の形さえあればそれを型に取り、プリントを打ち抜けば字幕になっていくものの、日本語が全然わからない人が作業をしても大丈夫なのでしょうか? 答えは当然「ムリです!」で、結局元吉さんが3ヶ月あまりインドに出張して、プリントへの字幕打ち込みを全部チェックする、ということになったのでした。上の写真は、元吉さんが3ヶ月ほど通ったNFDC(インド映画開発公社)のラボで、元吉さんの左隣はインド側の責任者ワリンべーさん、右側はラボのサッタル所長です。この時のインドでの奮闘ぶりは、元吉さん自身が「インド通信」1989年1月号に書いてくれていますので、別途このブログにアップしておきます。

「大インド映画祭」の25本の内、確か権利がクリアできなかった2本を除き、23本が国立映画アーカイブに収蔵されたのですが、実はこの時NFDCを嘆かせたのが、「字幕に1カ所不備がある。日本語の天地がさかさまになっている」と映画アーカイブ側から指摘され、値切られたことで、元吉さんの苦労を知っている身としては本当に残念だったのでした。元吉さんの話だと、1988年のインドでは停電は日常茶飯事で、パチ打ち中に停電になると、打ち抜いたプリントを字幕クズからきれいにするため浸していた液からすぐ上げなくてはならず、それが本当に大変だったそうです。1988年当時この映画祭を見て下さった方、後年映画アーカイブが特集上映してくれた作品を見て下さった方も多いと思いますが、その陰には元吉さんのこんな奮闘があったのでした。上写真は、1986年1月にハイダラーバードであったインド国際映画祭の時、インド版NHKであるAIR(All India Radio)のヒンディー語番組に出演した時の元吉さんです。左のお二人は、番組のパーソナリティの人です。

上写真は1986年9月、ニューデリーの知人宅で帽子と聖典クルアーンを借りて、ムスリム(イスラーム教徒)の格好をしてみた元吉さんです。1990年代始めまで、元吉さんもインド国際映画祭(隔年にニューデリーで開催、その間の年は地方都市の持ち回り)に行っていたのですが、費用はほとんどが自費だったこともあってだんだん足が遠のき、私も開催時期が秋になり、場所もリゾート地のゴアになったため、2000年を最後に行かなくなりました。1990年代に私が1人で映画祭に参加していると、いろんな人から「モトヨシはどこだ? 今年は来てないのか?」と聞かれました。特に南インドの若手監督たちは、モトヨシとホテルの部屋で飲んでおしゃべりしようと待ち構えていたようで、何人もから消息を聞かれたものです。全然おしゃべりではなく、愛想もいいとは言えないのですが、誠実な人柄がわかるのかインド人に好かれ、信頼される人で、アラヴィンダン監督やシャーム・ベネガル監督らも「モトヨシ」を連発していました。最近は、以前取材したラージャスターンの芸人さんとかと再会したい、という希望が募っていたようで、病気を宣告されてからも「元気なうちにラージャスターンとアグラに行っておこう」と友人のドキュメンタリー映画制作会社山田陽明堂の本所・山田夫妻に相談し、11月8日に出発する予定だったのですが、それも叶いませんでした。

元吉さん、いろいろ本当にありがとう。ラージャスターンとアグラ経由で天国に行って、ゆっくり休んで下さいね。


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2 コメント

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Unknown (ちひろ)
2022-11-08 11:44:36
 心温まる追悼文ありがとうございました。ジーンときました。元吉さんの「爬虫類のような目から~」の名文を思い出しました。
 一緒にお酒飲みたかったな~。ご冥福をお祈りします。
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ちひろ様 (cinetama)
2022-11-08 21:50:20
コメント、ありがとうございました。
ちひろさんは1988年の映画祭当時、東京事務局の一員として大変な目に遭ったんでしたよね。
山梨の宝石商の方とか、●田サットギャンさんとおっしゃる方とかに、インドまで写植原稿の束を運んでいただいたことを思い出します。
これから元吉さんの文をアップしますので、あの頃のことを思い出して下さいね。
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