ヒンディー語の恩師、ラクシュミーダル・マーラヴィーヤ先生が逝去されました。5月10日(金)朝のことで、数日前からちょっとご体調がすぐれず、寝ておられる間にそのまま亡くなられたようです。インドのサイトに載ったヒンディー語の追悼記事によると、低血糖症によるもの、とありました。この記事にはお写真も掲載されていて、何十年ぶりかで先生の笑顔を拝見しましたが、私たちが教えていただいていた1970年頃とまったく変わらないお顔で、髪や髭は白くなられたものの、教室で授業をして下さっていたお姿をまざまざと思い出してしまいました。別のサイトに1934年生まれとあったので、享年は84か85でいらしたのでは、と思います。
私が大阪外国語大学--現在は場所も箕面市に変わり、大阪大学に統合されてしまっていますが、その頃は大阪市天王寺区上本町八丁目にあった大阪外大に入学したのは1967年。確かマーラヴィーヤ先生も、その年から大阪外大の客員教授として赴任なさったのでは、と思います。従って日本語はまったくと言っていいほどおできにならず、1年生である我々にとっては先生の授業は五里霧中状態でした。当時の我々は、ヒンディー語はもちろんのこと英語もまったく話せず、マーラヴィーヤ先生も英語での説明はなさろうとはせず、というわけで、毎回ヒンディー語だけの授業は「何が何やら...」という感じでした。
今でも憶えているのは、ある時間に、次の例文が出てきた時のことです。「Talab mein machhli hai./ターラーブ・メーン・マチュリー・ハィ」この例文を黒板に書いて何度か読み上げられた先生は、しきりに中庭の方を指さされます。中庭には何があるのか、というような先生のしぐさに、我々も池があることに気がつき、「”ターラーブ”は池やで~(ほとんどが関西出身の学生でした)」とささやき合いました。「メーン」は「~の中に」、「ハィ」は「~である、~がある、~がいる」というのはもう習っています。「”マチュリー”て、何やねん?」「ボウフラとちゃうか?」
ちょっと弁明しておくと、当時の大阪外大は国立大とは言っても、予算は全国立大の下から3番目だったか4番目だったかで、街中の狭いキャンパスに大正時代から残る校舎もまだ使っていた、という貧乏大学でした。前述の中庭は生協食堂に降りる所にあって、小さな小判型の池があったものの、お世辞にもきれいとは言えず、我々の印象では「防火用水」という感じでした。というわけで、「”マチュリー”は”ぼうふら”」という連想をしてもおかしくなかったのです。結局、学生の反応が変だ、と思われたマーラヴィーヤ先生のおかげで、最後に「マチュリー」=「魚」(そう言えば、池には赤い金魚が数匹いました)とわかるのですが、何となく気まずいまま終わったこの授業は、あとあとまでずーっと心にひっかかっていたのでした。
池のあった狭い中庭に模擬店を出した大学祭(1967年か1968年)
後年、自分がヒンディー語を教えたりする立場になるたびにこの時の授業を思い出し、マーラヴィーヤ先生に申し訳なく思っていましたが、こんな学生たちだったにもかかわらず、先生はいつも一級の授業をして下さいました。特に文学を朗読なさる時は、うっとりしたような声の調子で読んで下さり、こちらの心にもその言葉の意味がよく響いたものです。何の詩だったか、「sansanana/サヌサナーナー」という言葉が野原を吹き渡る風の音として使われているくだりが出てきた時には、「サヌー、サヌー!」と片手で風を切るしぐさをしてこの音を発音して下さり、崖の上の野原に一人立っているような気分を味わいました。マーラヴィーヤ先生のほか、古賀勝郎先生、谷村干城先生にヒンディー文学を指導していただいたおかげで、私の心はだんだんとヒンディー文学に傾いていったのです。
で、結局、当初は卒業後中学か高校の国語か英語の教師になろうと思っていたのに、それをやめて大学院に進むことにするのですが、大阪外大の大学院はできたばかりで誰も学生がいないから、ということで東京外大の大学院に進むよう勧められ、1971年に当時は北区西ヶ原にあった東京外大の大学院に入りました。すると、その年からだったと思うのですが、マーラヴィーヤ先生も東京外大に異動していらしたのです。国立大学の外国人客員教授の任期が4年とかに決められていたのかも知れません。当時、インドから優れた客員教授を招聘するのは簡単ではなく、優秀な人材ということで東京外大に請われて、さらに日本に滞在なさることを承諾なさったのでは、と思います。
東京外大では、主として土井久彌先生と田中敏雄先生に教えていただき(土井先生は私がインド娯楽映画と出会うきっかけを作って下さいましたし、田中先生には今も何かにつけてお世話になっています。本当に、師に恵まれている私です)、マーラヴィーヤ先生の授業は、学部の3、4年生との合同授業でした。確か、5限目とかの遅い時間にある授業だったと思います。授業が終わるとマーラヴィーヤ先生は我々の何人かを誘って下さり、都電で西ヶ原4丁目から大塚駅まで行って、「駅前会議」を開いて下さいました。その頃には結構日本語もお上手になっていて、「エキマエ・カイギ」と言っておられたと思うのですが、駅の売店から缶ビールを買ってきて、我々にご馳走して下さるのです。代金を払おうとすると、「いや、これは君たちにおごるわけじゃない。私から君たちへの投資だから」といつもおっしゃり、学生の心の負担を軽くして下さいました。大塚駅南口の、退勤の人たちが行き交う広場でビール片手にあれこれおしゃべりをして、夕方の一時を過ごしたことは忘れられません。
マーラヴィーヤ先生、あの先生の投資のお陰で、私は今でもヒンディー語に関わる仕事をしています。この40数年間、今、あの時の教室に座っていたら、もう少しマシな学生として先生とお話ができたのに、と思う機会が何度かあり、ヒンディー語を教えていただいたことをたびたび感謝しました。そんな御礼を直接お伝えできず、本当に申し訳ありません。
東京外大の任期を終えてから、また関西に戻られたマーラヴィーヤ先生は、それからずっと関西で暮らされたようです。ご自身の研究もたゆまず続けられ、何冊かの本を出しておられることは、今回インドのサイトを検索してみて知りました。12日のご葬儀はご遺志なのか、お香典も供花もご辞退なさった、とうかがいました。不肖の弟子は、心の中で手を合わせて感謝し、ご冥福をお祈りするばかりです。श्रद्धांजलि |
亡き人を想いガンジス河に流した花輪