アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

『あまねき旋律(しらべ)』監督インタビュー(上)

2018-10-08 | インド映画

q『あまねき旋律(しらべ)』、もう連休中にご覧になりましたでしょうか。アヌシュカ・ミーナークシ監督とイーシュワル・シュリクマール監督に来日時インタビューさせていただいたのですが、映画公開初日の10月6日(土)にアップが間に合わず申し訳ありません。(6日・7日は、自宅でアジアン・バザールをやっておりました。ご来場下さった皆様、ありがとうございました!)でも、ご覧いただいてから読んでいただく方が、よくわかるかも知れませんので、遅れたお詫びをしつつ、アップ致します。なお、以前のこのブログでのご紹介はこちらです。

お二人がよく話して下さったため、インタビューが長くなったので2つに分けました。『あまねき旋律(しらべ)』の映画情報を最初に知りたい方は、公式サイトへまずどうぞ。

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インタビューの通訳をして下さるのは、昔からよく知っている藤岡朝子さん。ドキュメンタリー映画を中心に、映画コーディネートや通訳の仕事している人です。(下写真右)


まず最初に、日本でインド映画がいろいろ公開されている、ということを見ていただくために、『ダンガル きっと、つよくなる』↖『バーフバリ 王の凱旋』そして、TUFS Cinemaで上映された『あるがままに』等のチラシを持参しました。

イーシュワル:『あるがままに』は、インドでもすごく好評だった。たくさんの劇場で上映されていたよ。好成績をあげたと思う。
(『バーフバリ』のチラシを見て、声を挙げるお二人)
イーシュワル:『バーフバリ』の音響担当のアルウィン・レゴたちは、『あまねき旋律』も同時にやってくれていたんだ。だから、僕たちは彼らから、『バーフバリ』のストーリーや進行状況をよく聞かせてもらっていた。聞いていて、すごく面白かったよ。

:同時進行だったんですかー(うらやましい)。では、インタビューを始めたいと思います。まず、お二人のご出身地と母語をうかがいたいのですが。
アヌシュカ:実は私の出身地はボンベイ(現ムンバイ)なんです。その後、ハイダラーバードやデリーにも住んで、最終的にチェンナイに落ち着いて20年になります。でも、今は私たち2人はポンディシェリーに住んでいるんですけどね。


:ある記事で、チェンナイで家を探したけれども見つからず...という話を読んだのですが。
アヌシュカ:(笑って)その後、チェンナイで家が見つかって、2人で住んでいました。で、昨年ポンディシェリーに引っ越したんです。というのも、親しくしている2つの劇団がポンディシェリーで活動していて、場所も静かだし、芸術家がいっぱいいるし、というわけで、ポンディシェリーに引っ越したわけです。

:チェンナイでは、男女2人が住むには「結婚証明書」が要ったりして窮屈だったのでは? 『OK Darling』(2015)という映画でちょっと知ったんですが。
(2人とも笑い出す)
イーシュワル:その通り、たいていの物件では要求されるね。

:イーシュワルさんはデリーのお生まれですね。
イーシュワル:そうです。その後、トリヴァンドラムにしばらく住んで、それからタミル・ナードゥ州、そして海外留学でインドを離れていて、戻ってからはチェンナイに15年ぐらい住んでいました。でも、僕の母語はテルグ語なんです。父親はタミル語が母語だけどね。

:アヌシュカさんの方が先に映像制作に関わっていらしたそうですが、どうして映像制作に関わろうと思われたのですか?
アヌシュカ:チェンナイの大学でジャーナリズムを勉強したのですが、友人のうち数人が、大手マスコミには行きたくないよね、ということで意気投合していたので、チェンナイで小さな映像制作プロダクションを立ち上げました。当時はまだ、社会教育団体のための映像制作というのはそれほど盛んではなかったんです。私たちは、大学を卒業したばかりだし、ということで、安い値段で小さな仕事をいろいろ請け負いながら、少しずつ実績を積み上げていきました。それが、映像制作に興味を持つようになったきっかけですね。

:イーシュワルさんは、俳優とのことですが。
イーシュワル:そうですよ。

:IMDb(世界映画データベース)に出ていたのですが、これがご経歴でしょうか(と、プリントアウトした紙を差し出す)。R.マーダヴァン主演のタミル語映画『13B』(2009)や、『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』(2013)なども入っていますが。
(イーシュワル監督、なぜか苦笑い。傍らでアヌシュカ監督がアハハと笑っている)
イーシュワル:はい、その通りです。

:どうして俳優になられたんですか?
イーシュワル:どうしてなったかって? 僕は悩んでいたので、他人になれるならば、と思って俳優になったんですよ、アハハ。(傍らでアヌシュカ監督も笑う)

:舞台と映画では、どちらがお好きですか?
イーシュワル:もちろん舞台です(とキッパリ)。映画は見ている分には楽しいですが、映画製作の現場はあまり楽しくありません。僕は短編映画に25本、長編劇映画に7~10本出演しましたが、脚本があったのは短編映画の2、3本だけです。長編劇映画は脚本などありませんでした。だから、自分が一体何を演じているのか、全然分かりません。スターには脚本が与えられますが、端役にはないんです。だから、演じるのがすごく難しかった。自分らしさを出せないし、僕にとっては困難な仕事でした。それとは違って、舞台はもっといろんなことが得られます。みんなで作り上げているという感覚とかね。だから、舞台の方が好きですね。


:お二人はどうやって知り合われましたか?
アヌシュカ:二人とも、今所属している演劇集団の仲間ですから、私たちは舞台にかかわる中で知り合いました。2011年に初めて一緒に映画を作る以前から、たくさんの舞台の仕事を一緒にしていたんです。

:映画を作るきっかけとなったプロジェクトで、インド各地をまわられたわけですね。大体何カ所ぐらい回り、またどういうパフォーマンスと出会いましたか?
アヌシュカ:(笑いながら)私たち、数えてないの。何カ所ぐらい回ったのか、わからないわ。
イーシュワル:8州か、9州かな? どの州でも、2~4箇所で撮影したと思う。
アヌシュカ:旅を始めた時には、ヒマーチャル・プラデーシュ州やラージャスターン州など、観光地として知られている場所で撮影しました。その後、タミル・ナードゥ州やケーララ州を回るようになって、知人を介して、知り合いがいるところを訪ね歩くようになったんです。

:その調査の中で、特に思い出深い場所やパフォーマンスがありましたか?
アヌシュカ:私にとっては、北方の町スピティ(ヒマーチャル・プラデーシュ州)ですね。そこで聞いた労働歌が、とっても印象深かったんです。崖の上に古い仏教寺院があったのですが、そこから下の田んぼを見下ろすと、人々が働いているのが見えました。何もこちらの耳には聞こえてこないのだけど、人々が体を動かすリズムがわかって、あれは一体何だろう、と不思議に思ったんですね。それで下に降りてみると、歌が聞こえました。1日しか撮影しなかったんですが、その後編集する時にこのフッテージを繰り返し眺めていて、何度も見たくなる映像になってしまいました。これが、ナガランドでの撮影の種になったんだと思います。

:ナガランドについて、予備知識はありましたか?
アヌシュカ:もちろん、ある程度は知っていました。ですが、ごくありきたりの知識でしたね。たとえば、紛争地であるとか、キリスト教の文化が入ってきたことによって、その紛争も含めて文化をどのように変えていったかとか、あと稲作についてもですが、さほど知識があったわけではありません。新聞等を通して、インドの他地域の人々が得ているような情報-美しい大地、風景があって、ナガランドの独立運動もあることは頭に入ってはいましたけどね。デリーにはナガランドの人たちも住んでいて、友人と言える人たちも何人かいましたが、その人たちとはやはり仕事の話や日常の話に終始することが多くて、具体的なナガランドについての話はほとんど聞いていませんでした。

:映画の中で音が素晴らしくて感動したのですが、山の中では、あのポリフォニックな歌は実際にはどう聞こえましたか?
アヌシュカ:あの声ですけど、私たちが山の中で聞いたのと、この映画で聞くのとは、やはり違うだろうと思います。私たちも、録音していく過程でいろいろ学んだという経緯があるので、初めの年に録音した音と、今録音する音では全く違っていると思いますね。そういう、学びながら撮っていったという経験をしたんです。例えば、音源からの距離とか、自分自身の体の動かし方とか、様々な要素によって聞こえ方が違ってきますが、そのことは撮っている当時は気づきませんでした。ですが、サウンド・デザイナーの熱心な仕事のおかげで、素朴な音源が素晴らしいものになっていったんです。例えば、遠くから聞くと、個々の声がまるで編み込まれた総体のように聞こえてきて、人間の声とは思えない、魔法の声のようでした。でも、近くで聞くと、まさしく人間の声なんですね。これが映画の中でうまく再現できたかどうかわかりませんが、現場ではそんな感じでした。
イーシュワル:編集の最終段階に入ってから、ラフカットをみんなでいろいろ見ていく中で、見た人が「すごい映像だね」と言ってくれるんです。これは視覚がより重視されている、という印象を与えたのだと思いますが、それは村人に対して失礼だな、と私たちは思ったんです。それよりもこの映画を通して、歌の記憶を見る人の脳裏に焼き付けたい、と思ったので、そこでプロのサウンドデザイナーの必要性に気がつきました。サウンドデザイナーが助けてくれたおかげで、音の重なり合いとか、深みや明快さ、そういった微妙なニュアンスが再現できるうようになったと思います。それは、この映画にとって、本質をつかむことができた、いい仕事でした。


(つづく)


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