来年1月3日(金)から公開される『マニカルニカ』のチラシをいただきました。実は今、この映画の宣伝のお手伝いをしていて、それもあってブログ更新が滞っている(と、言い訳^^)のですが、その関連でツインさんが送って下さったものです。『マニカルニカ』のお仕事では、インドの歴史をあれこれ勉強し直す場面も多く、久しぶりに学生時代に戻ったかのような気分になっています。それはさておき、まずはチラシの両面を付けておきましょう。
この副題の「ジャーンシーの女王」なのですが、原題は「Manikarnika The Queen of Jhansi」で、副題はインドでのヒンディー語表記「Jhansi Ki Rani(ジャーンシー・キー・ラーニー)」の英語訳が使ってあります。「キー」は「~の」、「ラーニー」は「Queen」と同じく、「女王、王妃」のどちらにも使える単語です。それで、訳語をツインの担当者の方(ものすごく熱心な勉強家!)と相談したのですが、マニカルニカの年譜を見てみると次のようになります。
マニカルニカ/ラクシュミー・バーイー略年表(上の画像はWiki「Rani of Jhansi」より)
1828年11月19日 ヴァラナシで僧侶の娘として誕生(=バラモン階級の娘)
イギリス軍により、ビトゥールに逼塞させられていたマラーター王国の宰相
バージーラーオ2世にかわいがられて育つ
剣や弓矢、乗馬などを習い、武士階級の男性のような力をつける
1842年5月 藩王国ジャーンシーの王ガンガーダル・ラーオと結婚
名をラクシュミーと改める(ラクシュミー・バーイーと呼ばれる)
? 王子を出産するが死亡する
1853年 養子アーナンド・ラーオを迎え、ダーモーダル・ラーオと命名
1853年 夫ガンガーダル・ラーオ病没
1854年3月 イギリスが藩王国ジャーンシーを併合、城を明け渡すよう命じられる
1857年3月29日 マンガル・パーンデー、バィラクプルで蜂起(のちにイギリス軍により処刑)
1857年5月10日 メーラトでも蜂起、「インド大反乱」全土に広がる
1858年6月18日 ラクシュミー・バーイー、グワーリヤル近郊での戦いで戦死
映画の中にも描かれているのですが、ジャーンシーの藩王が亡くなったあと、ラクシュミー・バーイーは寡婦として生きることよりも、養子ダーモーダルの後見人として王国を統べることを選び、寡婦の装いを拒否します。その後ジャーンシーはイギリスに併合されて王宮を追われるものの、ずっと藩王国のトップとしてイギリスとも交渉していきます。また、以前は日本で「セポイの反乱」と呼ばれていた「インド大反乱」に際しては、ジャーンシーで女子軍を含む軍隊を組織し、最高司令官として戦うわけで、これは、「王妃」というよりも実質的な「女王」であろう、ということから、日本語の副題は「ジャーンシーの女王」となりました。「王妃」とすると、どうしても「王あっての王妃」というイメージになりますからね。このあたり、ぜひ予告編でご確認下さい。
インド史上最も有名な”戦う王妃”映画『マニカルニカ ジャーンシーの女王』予告編
また、何度か紹介記事をアップする予定ですが、新宿ピカデリーでの上映は、上のチラシ裏にもあるように2週間限定の予定です。お正月早々に見るには、戦闘場面が少々血なまぐさいのですが、なるべく早くご覧になって下さいね。