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伊豆大島の風景② 伊豆大島元町大火(1965/01/11) と炭焼 藤井工房

2025-01-05 16:32:35 | 日記

出典 藤井工房

伊豆大島元町大火 - 検索 動画

元町大火。瞬間最大風速36.2メートルの強風下、11日午後11時10分頃出火、翌12日午前6時45分鎮火。

全焼584棟418戸、公共建物の全焼は図書館、大島支庁、郵便局、法務局大島出張所、農協等。
焼失面積16万5,000平方メートル。罹災世帯408世帯1,273人。被害総額20億7,000万円。12日災害救助法適用。

3月までの全国からの見舞金総額1億2,880万円。2月元町大火の登記簿焼失で回復登記始まる。

大島都市計画事業・元町火災復興土地区画整理事業決定。(都予算5億5,000万円)(出典 大島町史)

 

中央下のお寿司屋さんから失火。

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島の林業 椿炭     ウバメガシ 備長炭

何年か前に東工大(→東京科学大)の松木客員教授と院生の平井さんから東海汽船の山崎社長にあわせてほしいとの依頼がありました。

金融業だった松木さんが東海汽船の椿山を買いたい そして炭窯を作りたい と。.......炭窯復興の島の仕掛け人は 藤井表具店さん 渡口まり子さん 藤井工房さんです。

伊豆大島には歴史的に 炭焼きの技術が豊富に蓄積されています。古くは浦方・ 海方(元村・岡田村)は 山方を釜の者 釜百姓と蔑視 炭焼き 塩焼きをバカにした時期がありました。釜=竃=竈。泉津  野増  差木地の山方・竃方三ケ村が 漁業権を得るまでは主に林業・塩焼きに従事してきました。

島薪 三尺 大島炭はそれら林業の産物です。長さ三尺の三尺は剥材に使われ 材は主に椿 ミズキ イズサ サクラ。薪の太さの単位はコザイ 長さ1尺3寸 同じ長さでも7寸5分は大ザイ 等 諸々の単位がある。明治35年頃の相場は1圓につき800本~850本。島薪の産出は 元村(新嶋村→元村 明治41/03) 明治30年1600~1700万本 明治35年900万本 昭和8年に350万本に減少。

「薪船」という帆船 百石積で搬送 明治以降になって東京 霊岸島 大島間の郵便船は薪船の帰り船を利用。薪船は御用船と呼ばれ 株は新嶋今の元町に5艘 岡田3艘 野増に2艘 後に波浮の平六が1艘の特許を得た。生魚は「押送り船」に水主(かこ)ほか7~8人が乗り込み帆走した。江戸着が遅れるときは三崎で人を入れ櫓で漕ぎ それでも遅れる時は本牧で魚を売り払った。

炭焼き竃は カタと呼ばれる堅い火山灰層の火山灰と粘土を混ぜて作る。新島の抗火石も利用。カタは火山礫を含んだ凝灰岩(火山灰の固まった岩石) 火山豆石凝灰岩の互層で水蒸気爆発の産物。竃の大きさは奥行き1丈幅9尺程度 中は奥が2寸下がるように勾配を付け 突き当りに煙突がありクドという。

本木(立木)2尺を縦にぎっしりと並べ その上にサシキを横にして填める。本木はミズキ イズサ サクラ ツバキ等 。いま島の何軒かで炭を焼いているが 本木は専らツバキ。椿炭  1俵15kg    先ず竃 入り口の 小竃で1日竃を暖め 次に4~5時間強火で炊いて いよいよサシキに着火。サシキから徐々に 本木(立木)に燃え移る 空気が通る穴を除いて入り口を泥土で密閉。50時間焼く。

沖山 公彦さんは煙で焼成状況を判読。燃え尽きたあと70時間放置すると 竈の温度が下がり 充分炭化した炭が出来上がる。沖山炭窯の窯出しを3回 他竃2回経験。入り口のレンガを外した一瞬の期待感が楽しい。名人に失敗はない。曲がりくねった可愛いいサシキの細炭も おまけ。節のあるコブ炭が混ざっていたりする。(文責 内堀 昇一)

 

 

以下3枚の写真の出典は 藤井工房

 

出典 「 伊豆諸島における製炭時期とその特色」  福 宿 光 一

現在、埼玉大学名誉教授、日本地理学会評議員、日本地理教育学会顧問、立正地理学会会長、埼玉地理学会会長、埼玉文化懇話会会長等を歴任 『景観に学ぶ』『風土記埼玉―92市町村の素顔』(さきたま出版会)『地理学図説』(古今書院、共著)『航空写真集さいたま』(埼玉新聞社、共著)『論集 日本の木炭生産地域―100年の足跡―』(農林統計協会)  1926年浦和町(現さいたま市)生まれ。98歳。

季節的移住製炭業者との関係

差木地では地元以外の季節的移住者による製炭量が冬季に多いのが特色である。この季節的移住者(職人)は すべて山形県(山形市大字上宝沢・下宝沢・関沢・新井)から毎年だいたい同じ人達が来往し その多くは11月に来島して製炭を行い 翌年の4~5月に帰郷する者が多い。昭和31年冬季に67組 32年冬季には73組(うち半数が差木地)が来島し地元の元締め(企業製炭者 差木地に6戸 サカキ林産....)に雇傭されて生活の補助を受け 三原山中腹に仮小屋を作って居住し 専ら製炭に従事する。夫婦に子供1人の家族3人が最も多く 山形では製炭 農業を営んでおり 冬季の積雪期・農閑期を利用して来島するわけで 能率をあげて作業し 平均1組で8000~12000俵を製炭し 差木地の年間製炭量の46.7%(昭和31年度)を生産している。移住者の中には帰郷せずに大島に定住した者も17人(昭和34年)いる。

大正初期頃から 伊豆大島には冬季に 山形市から炭焼きのために季節的移住者が来島した歴史があります。出稼ぎではなく家族ぐるみで来島し その中には そのまま定住した家族もいました。

(出典 沖山 公彦  聴き取り、 伊豆大島圖誌 山口 貞夫 地人社 昭和11/09、 伊豆諸島における製炭時期とその特色 福宿 光一)

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 2011年10月21日

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 炭焼き

 


伊豆大島の風景② 大晦日(2024) 乙巳(きのと み)歳首(2025)

2024-12-31 17:01:51 | 日記

12/31日 裏砂漠・奥山砂漠に孫と4時間入りフィールドワーク ヨシススキは見つかりませんでした。よかったです。

午後の高速船は全便欠航。冬のトレックは砂塵が目に入ることがあります。目薬で洗い流します。風速25mほどになりますとスコリア(黒赤っぽい軽石)が80cmほど浮き上がり移動します。

パイピング孔とガリー

2013/10/16日の豪雨で 裏砂漠の地中に染み込んだ雨水が 斜面で 噴き出し 溝が出来ました。

ハチジョウススキ

三原山   右ピークの真下が割れ目噴火 B3火口

右奥が三原山 カルデラを挟んで  中央が櫛形山 左が外輪山 白石山

櫛形山の海側斜面が「裏砂漠」

裏砂漠のジオ

裏砂漠の成りたちは 火山荒地と卓越風で説明ができます。噴火の時の降下スコリアと火山灰は株や種子が埋没の危機にさらされ水分が乏しいとか地表面の温度が高くなるとか さらに有毒の火山性ガスが地表を覆い植物は枯れ白骨化して火山荒れ地になります。新たな植物の発芽生育には最悪の環境です。

加えて大島の卓越風 南西―北東の強風が吹きます。種子が着床発芽できないほどの風の通り道が裏砂漠です。ハチジョウイタドリ ハチジョウススキ シマタヌキラン等の 先駆植物の種も風で飛ばされてしまい 生えにくい環境下にあります。三原山の斜面の剥げているところが風の通り道です。外輪の白石山と櫛形山の鞍部(コル 峠)が島で一番の強風地帯です。

(櫛形山から観る三原山の山腹 カルデラの 風紋も季節によって見どころの一つです)

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 2022年02月12日

月と砂漠ライン駐車場へ戻ります。意図的に孫に荷物を背負わせています。泣き言を一言も言わなかった

横浜の孫 愛おしく思います。

波浮の港

2025/01/01  巳年 元旦

06:51 波浮港隣 トーシキ園地の初日の出

松 竹 梅 マユミ 山帰来 ウメモドキ 椿 イソギク オオムラサキシキブ

爺 婆 孫3人の寂しいお正月

豆は違うが 子どもの頃の お歳取りの風景 「浸し豆と数の子」

不機嫌な「ミルク」 どうぞ 本年もよろしく。

大晦日か正月3ヶ日に毎年定点観察。赤沢(赤だれ)左岸 海を渡る蝶「アサギマダラ」の食草キジョラン群生地 

「赤だれ」のジオ    古文書「大嶋山火記」では赤沢

オオバヤシャブシ (大葉夜叉五倍子) は溶岩台地に卓越し(放線菌による窒素固定)火山裸地 荒地を再生します。

溶岩にはリン カリはあるが窒素がありません。ヤシャブシは溶岩台地の先駆植物です。直近の大規模噴火の「安永噴火」1777-1792年 は 大嶋山火記4行目 当七月廿九日暮時地中より火燃...とあり西暦で..08/31日夕方噴火が始まりました。伊豆諸島は幕府の直轄地 村役人が伊豆韮山の代官に噴火報告 代官 江川太郎左衛門(34代英征ひでゆき)が 勘定所に報告したのが旧暦八月十九日 西暦で09/20日 噴火から21日後のことです。赤だれ「赤沢の溶岩」は噴火翌年の1778/11/06日に地層切断面上部まで流れ出ました。

 

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 古文書研究会

 

赤沢右岸左岸 谷筋の植物はそのほとんどがオオバヤシャブシ。溶岩が流れていない斜面はオオシマザクラの群落です。

キジョラン

見つかったのは たった1頭のみ 2齢か 推移を観察します。

キョウチクトウ科のアルカロイド毒性が強い「鬼女蘭」の裏葉に産卵 蛹は垂蛹型で逆さづり。

例えば 2020年の成虫の初見は05/01日 去年は04/28日 春に何頭かを一どきに見ることがあり

長い旅路で翅がボロボロに傷んでいる個体と傷んでいない個体がいる。長年定時観察をしているのは

年を越す留蝶がいるのか いないのか のためです。成虫が島で越年することはありません。

幼虫は少しですが越年いたします。冬場の幼虫→蛹化→羽化→成虫の過程は把握できておりません。

越年幼虫が少なく後追いが極めて困難です。

 

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 伊豆大島でアサギマダラの幼虫が越年することが判りました

 

(撮影日不詳)

画像の種は横になっているが 実際は 下向きで 鬼女の白毛しか見えない。

(ヒヨドリバナで汲蜜中は指で挟めます。アザミ イボタの蜜も好物です。♀です。♂は黒い褐色斑があります)

左が♂

春に北上し 秋に偏西風に逆らって南下する「アサギマダラ」 名前の由来は 日本一美味しい 下仁田の葱色です。

アサギは日本の古色で「浅葱」と書きます。大島で放たれた蝶が8日目に 直線距離で1140km離れた鹿児島県奄美大島喜界島で再捕獲されています。チョモはアサギマダラに勇気をもらいます。春 渡ってきたばかりの個体は羽が傷んでいます。健気です。大島で「いのち」を繋いだチョウ達が 成虫のライフサイクル60日?で さらに北上するか定かでは ありません。

大島で成虫は越年いたしません。去年はアサギマダラの数が少なく拙宅のヒヨドリバナを訪れてくれませんでした。

気がかりなことの一つです。

 


伊豆大島の風景② チョモ87歳の誕生日

2024-12-21 21:26:06 | 日記

あっという間の人生 年齢は唯の数字 心は まだ若い。気のいい 穏やかな 人に好かれる「好好爺」には

どうしてもなれない自分と 頑固で攻撃的な「くそじじい」の自分とのはざまを これからも往来する......。

今夜はありがとうございました。

数え年の米寿 満87歳になりました。

ZiZi

 

ひばり ちゃんも.......米寿

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 2018年12月24日

伊豆大島の風景 (リアルタイム) 洞爺湖

 


伊豆大島の風景② 大山詣り

2024-12-15 22:18:45 | 日記

                出典 伊勢原市 大山阿夫利神社

 

江戸庶民の信仰と行楽の地
~巨大な木太刀(きだち)を担いで「大山詣」~大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木太刀(きだち)を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝である。そうした姿は歌舞伎や浮世絵にとりあげられ、また手形が不要な小旅行であったことから人々の興味関心を呼び起こし、江戸の人口が100万人の頃、年間20万人もの参拝者が訪れた。
大山詣りは、今も先導師(せんどうし)たちにより脈々と引き継がれている。首都近郊に残る豊かな自然とふれあいながら歴史を巡り、山頂から眼下に広がる景色を目にしたとき、大山にあこがれた先人の思いと満足を体感できる(出典 日本遺産ポータルサイト)

良弁 - Wikipedia   

大山阿夫利神社に残る、願いの歴史 - 大山阿夫利神社



12/15日  

丹沢は むかし すいつきのよい草鞋(わらじ)・ 鳶が履く こはぜが多い地下足袋で沢登り 登り切れず 反転して滝つぼへ飛び込み 落っこちた記憶がよみがえります。当時 ビブラム靴はなく金属鋲のついた ナーゲル靴 滑ってしまい沢登には不向きでした。

丹沢のジオ  フォッサマグナは東北日本と南西日本の境目となる大きな亀裂帯。 陸のプレートは糸静構造線を境に北米プレートとユーラシアプレート 海のプレートはフィリピン海プレートと太平洋プレート 日本列島は4つのプレートがひしめき合う特殊なエリアに位置しています。プレートの沈み込み境界は海溝・トラフです。伊豆弧の本州弧への衝突 伊豆弧を載せたフィリピン海プレートは かって ほぼ北向きに運動していました。伊豆弧の北上により櫛形山 御坂 丹沢山地 伊豆半島が 次々と本州に衝突。いまからおおよそ600~400万年前に丹沢山地が本州に衝突し、200~100万年前に伊豆半島が 丹沢山地に衝突しました。この衝突境界は箱根山地の北側 JR御殿場線と東名高速自動車道の通る丹沢山地の南縁です。伊豆半島が今の形になったのが50万年前頃といわれています。しかしフィリピン海プレートはおよそ300万年前に 北から北西方向へ運動方向を変えました。本州が東西短縮に変わりました(東西短縮 出典 産総研 高橋雅記)

25年前に住んでいた 横浜の家は旧大山街道に面し 2階の風呂場から 遠景の大山と富士山が見えていました。講の集団が家の前を連れだって 大山を目指していたと思うと....感慨ぶかい。長女と2人で68年ぶりの大山詣り 小田急線伊勢原駅前からバス 女坂経由表参道ルート→山頂→復路は見晴台ルートで下山(地図出典 ヤマケイ)

歩行距離 約9km弱 登り 約940m  所要時間 4.5H

丹沢は鹿が増えすぎ  伊豆大島・千葉の滑川 は キョンが増え過ぎ その食害で ともに住民に迷惑を与えています。大島で年間駆除数は5000~6000頭 幾何級数的に増えるキョン。生き物の尊い命 キョンのジビエを 真剣に考えてほしいです。日常の「食料」として 災害時の「備蓄タンパク」「観光食材」として。行政は権力からの指示でないと 動かない。多忙過ぎて 余計なことはしたくありません。サラリーマン時代のチョモもそうでした。年寄は冒険が苦手。「突破力」があり失敗を恐れない 「若い行政ビト」に夢を つなげる おもいです。

十丁目で終わりと思いきや 二十八丁目迄 がんばーれ。

28丁目迄続きます。

木太刀

ヤビツ峠は懐かしい。

声でもかけようものなら..........(急登で重荷 〇 ろされるかも)。上社迄の歩荷 さん 後でお聴きしたら

55kg~75kg背負うそうです。目視では缶ビール350ml 2ケース48本 水500ml 3ケース ほか 

3名の方が健在 とのこと すごいことです。

「歩荷(強力 剛力)」 なんと読むんでしょうか。劔・穂高 等の山小屋への 建築資材 燃料 食料  糞尿等の

ヘリ搬送 搬出が1960年代から始まりました 多分 ? それまでは ボッカが荷物を運びあげていました。

左裾野 雲の中央下の高まりが宝永山  1707/12/16日に宝永噴火 49日前に東海 東南海 南海連動型地震(宝永地震M8.6)

相模湾と伊豆大島

復路は関東ふれあいの道「見晴台コース」下り急勾配 シニアは Wストックが必要です。

体重の落下を膝で受け止めなければなりません。膝を痛めます。2本杖があると 急な下りでも

ソフトランディングができ膝に負担がかかりません。

安息角をゆうに超す急斜面 関東大震災(大正12年 1923/09/01 11時58分)で山津波発生

杉の「御神木」

あったまります。ブラックコーヒー(old days) からアメリカン (here & now) に お湯の色が変った。

入湯料 1000円。

新宿駅の下り階段を降りるとき右膝が痛い。上り階段と水平歩行は なんともない。

大山詣のシニアの必携装備は2本杖。

高田馬場でヒレカツとカキフライを食べ  長女の家で熱燗三本......西友で買った大山豆腐 

雪稜同期の功ちゃんより

髙林です。

堀さん

明けましたておめでとうございます。

大山のブログ見ました。素晴らしい大山の記録を拝見し、工高時代を思い出しました。

山岳部の先輩に誘われ、三人で表丹沢・勘七ノ沢を遡行し塔岳の山頂に登り急坂のバカ尾根

を下山しました。生まれて初めての山登が沢登りで、登山の醍醐味を知りました。

学生時代は、丹沢山の沢ばかり登ってしましい大山には未登です。

最近も、浜ちゃんと大山行を予定しますが、年のせいで実行に至りません。

今年もよろしくお願いいたします。

 

12/16日(月)今回の上京目的は山の同期と4人で忘年会。うち一人が日にちを間違えて欠席。

本店で食事が出来ず 支店に移動

「雪稜山岳会」同期の生存者は5名 功ちゃんと浜ちゃん 他に吉川 岡山の佐々木 来年会えるか

さだかではない。

月曜日は美術館 博物館が休館。夜船の22時まで手持ちぶたさ 横浜の二女宅で泊まることにした。 オヤー

国道246号に月が出た。

家内が気がかりで夜船で帰島 22:00竹芝港→12/17 06:00大島岡田港  さるびあ丸(出典 東海汽船)

 


伊豆大島の風景② 都立大島公園

2024-12-09 03:56:58 | 日記

久しぶりに家内の手を引いて都立大島公園を訪ねました。公園は大島支庁 土木課 都立大島公園管理事務所に所属。

大島自然愛好会が 常日頃 ご指導をいただいております。無料で入園でき平日は 家族でゆったりと楽しめます。

ありがたいことです。公園は椿園(植物園)と動物園。ジオ的には天文噴火(1552年)の溶岩台地の上に椿園があり

その上部に「石の反り橋」「桜株」があります。動物園は安永噴火の溶岩台地の上にあります。

(観光スポット 「赤だれ」の溶岩も安永噴火翌年の1778年に流れ出ました)

産総研の火山地質図に一部加筆

「桜株」國指定の桜の特別天然記念物は2本 もう1か所は富士宮の「下馬桜」

出典 火山 伊豆大島スケッチ 田澤堅太郎 之潮     著者の田澤さんはチョモの火山学の師匠。

薬師堂の祈祷木札 大島最古の古文資料 大島郷土資料館

「椿園」 去年まで大島椿祭りのメイン会場

ユウカリ

早咲き

サザンカ

縄文早期ほぼ 今から8000年前頃に縄文人が渡来 キット 凪の日に若いカップルがウリボウを丸木舟に載せ

三浦半島から大島に漂着したに違いありません と考えます(assumption  bias   ?)   住み始めたとき

既に椿樹がありました。

動物園

おかあさんー

おかあさーん 生んでくれてありがとう。

伊豆諸島は暖かく寒暖差が少ない です。 つついっぱいの紅葉です。

第70回椿祭り メイン会場 椿プラザ(大島公園)→元町船客待合室

椿祭り早々に開花する 珍しい「金花茶」大島公園椿園温室で鑑賞できます。