出典 藤井工房
元町大火。瞬間最大風速36.2メートルの強風下、11日午後11時10分頃出火、翌12日午前6時45分鎮火。
全焼584棟418戸、公共建物の全焼は図書館、大島支庁、郵便局、法務局大島出張所、農協等。
焼失面積16万5,000平方メートル。罹災世帯408世帯1,273人。被害総額20億7,000万円。12日災害救助法適用。
3月までの全国からの見舞金総額1億2,880万円。2月元町大火の登記簿焼失で回復登記始まる。
大島都市計画事業・元町火災復興土地区画整理事業決定。(都予算5億5,000万円)(出典 大島町史)
中央下のお寿司屋さんから失火。
10大ニュース
島の林業 椿炭 ウバメガシ 備長炭
何年か前に東工大(→東京科学大)の松木客員教授と院生の平井さんから東海汽船の山崎社長にあわせてほしいとの依頼がありました。
金融業だった松木さんが東海汽船の椿山を買いたい そして炭窯を作りたい と。.......炭窯復興の島の仕掛け人は 藤井表具店さん 渡口まり子さん 藤井工房さんです。
伊豆大島には歴史的に 炭焼きの技術が豊富に蓄積されています。古くは浦方・ 海方(元村・岡田村)は 山方を釜の者 釜百姓と蔑視 炭焼き 塩焼きをバカにした時期がありました。釜=竃=竈。泉津 野増 差木地の山方・竃方三ケ村が 漁業権を得るまでは主に林業・塩焼きに従事してきました。
島薪 三尺 大島炭はそれら林業の産物です。長さ三尺の三尺は剥材に使われ 材は主に椿 ミズキ イズサ サクラ。薪の太さの単位はコザイ 長さ1尺3寸 同じ長さでも7寸5分は大ザイ 等 諸々の単位がある。明治35年頃の相場は1圓につき800本~850本。島薪の産出は 元村(新嶋村→元村 明治41/03) 明治30年1600~1700万本 明治35年900万本 昭和8年に350万本に減少。
「薪船」という帆船 百石積で搬送 明治以降になって東京 霊岸島 大島間の郵便船は薪船の帰り船を利用。薪船は御用船と呼ばれ 株は新嶋今の元町に5艘 岡田3艘 野増に2艘 後に波浮の平六が1艘の特許を得た。生魚は「押送り船」に水主(かこ)ほか7~8人が乗り込み帆走した。江戸着が遅れるときは三崎で人を入れ櫓で漕ぎ それでも遅れる時は本牧で魚を売り払った。
炭焼き竃は カタと呼ばれる堅い火山灰層の火山灰と粘土を混ぜて作る。新島の抗火石も利用。カタは火山礫を含んだ凝灰岩(火山灰の固まった岩石) 火山豆石凝灰岩の互層で水蒸気爆発の産物。竃の大きさは奥行き1丈幅9尺程度 中は奥が2寸下がるように勾配を付け 突き当りに煙突がありクドという。
本木(立木)2尺を縦にぎっしりと並べ その上にサシキを横にして填める。本木はミズキ イズサ サクラ ツバキ等 。いま島の何軒かで炭を焼いているが 本木は専らツバキ。椿炭 1俵15kg 先ず竃 入り口の 小竃で1日竃を暖め 次に4~5時間強火で炊いて いよいよサシキに着火。サシキから徐々に 本木(立木)に燃え移る 空気が通る穴を除いて入り口を泥土で密閉。50時間焼く。
沖山 公彦さんは煙で焼成状況を判読。燃え尽きたあと70時間放置すると 竈の温度が下がり 充分炭化した炭が出来上がる。沖山炭窯の窯出しを3回 他竃2回経験。入り口のレンガを外した一瞬の期待感が楽しい。名人に失敗はない。曲がりくねった可愛いいサシキの細炭も おまけ。節のあるコブ炭が混ざっていたりする。(文責 内堀 昇一)
以下3枚の写真の出典は 藤井工房
出典 「 伊豆諸島における製炭時期とその特色」 福 宿 光 一
現在、埼玉大学名誉教授、日本地理学会評議員、日本地理教育学会顧問、立正地理学会会長、埼玉地理学会会長、埼玉文化懇話会会長等を歴任 『景観に学ぶ』『風土記埼玉―92市町村の素顔』(さきたま出版会)『地理学図説』(古今書院、共著)『航空写真集さいたま』(埼玉新聞社、共著)『論集 日本の木炭生産地域―100年の足跡―』(農林統計協会) 1926年浦和町(現さいたま市)生まれ。98歳。
季節的移住製炭業者との関係
差木地では地元以外の季節的移住者による製炭量が冬季に多いのが特色である。この季節的移住者(職人)は すべて山形県(山形市大字上宝沢・下宝沢・関沢・新井)から毎年だいたい同じ人達が来往し その多くは11月に来島して製炭を行い 翌年の4~5月に帰郷する者が多い。昭和31年冬季に67組 32年冬季には73組(うち半数が差木地)が来島し地元の元締め(企業製炭者 差木地に6戸 サカキ林産....)に雇傭されて生活の補助を受け 三原山中腹に仮小屋を作って居住し 専ら製炭に従事する。夫婦に子供1人の家族3人が最も多く 山形では製炭 農業を営んでおり 冬季の積雪期・農閑期を利用して来島するわけで 能率をあげて作業し 平均1組で8000~12000俵を製炭し 差木地の年間製炭量の46.7%(昭和31年度)を生産している。移住者の中には帰郷せずに大島に定住した者も17人(昭和34年)いる。
大正初期頃から 伊豆大島には冬季に 山形市から炭焼きのために季節的移住者が来島した歴史があります。出稼ぎではなく家族ぐるみで来島し その中には そのまま定住した家族もいました。
(出典 沖山 公彦 聴き取り、 伊豆大島圖誌 山口 貞夫 地人社 昭和11/09、 伊豆諸島における製炭時期とその特色 福宿 光一)