中学や高校の頃、家族のいる家は私にとって悪魔の城でした。
でも考えてみると、もしかしたら当時の私の本当の意味での『家』は、学校だったのかも知れません。
高校一年生の春。
新設校で新任の先生を多く迎えたうちの学校では入学早々に、某所で研修なるものが行われました。
で、うっかりものの私は遅刻しそうになって焦って集合場所まで走ってしまいました。
喘息出した私は集まった教師を慌てさせました。夜中には担架で先生の部屋に運ばれる始末。
研修ではカッター訓練などがあったのですが、私は三日間のカリキュラムの全てを見学ということになりました。
オリエンテーリングでは体育科の先生と仲良く散歩です。
のんびりと山道を歩きながら、無理するなー、とか言われつつも、私はそれなりに山の景色を堪能することが出来ました。
保健室の先生は新任の若い先生でした。
最初にいきなり喘息の発作を起こした生徒が発生。そりゃさぞかし焦ったでしょう。
んでもって私は、それからもちょくちょく、保健室に担ぎ込まれる羽目になるのですが。
ある時、酷い発作を起こして、私は保健室に行きました。
保健室の先生……仮にY先生とします。Y先生は私にこう訊ねました。
「早退する?」
そうですね。学校では病気は治せませんし、酷い場合には早退させるのがルールです。
ところが私の返事はこうでした。
「いや、家に連絡すると怒られるから」
(本当に怒られます。早退理由が喘息だろうが腹痛だろうが、病気で学校を早退するのは父母の機嫌を損ねるし、下手をすると説教を食らうので出来ればしたくなかったんです)
その時、Y先生は少し間を置いてから、じゃあ休んで良いよと言いました。
当時、今のように虐待やDVといった事件があきらかにされることもなく、下手をするとそういう法律が整っていなかった可能性もあります。
言葉そのものはあったかも知れませんが、認知度が低く、苛めなどは当たり前にあった時代でしたから。
ついでに暴露すると、私の妹様は苛め側に属していたようです。
その事実をまるで自慢のように私に語ってみせたので、全力で説教をしました。
さらに万引きもしていたようですね。その事実を聞いた時も全力で説教し、2度とするなと言ったのですが、多分理解できていないでしょう。
……そんなことを繰り返していたから、リンチを食らったんだと思いますがね。ま、これはあくまでも私感です。
おっと、話が逸れすぎました。
私が保健室に行って早退をしたくない、と訴えたところまででしたね。
では話を戻します。
Y先生は私の返答から何かあると察したのでしょう。
黙って保健室で休ませてくれました。
考えてみると色々と妙なことがあるのです。
私、授業中に寝るのは得意技でした。
教卓の真ん前で机に伏せて爆睡とかもよくありました。
何しろ家(悪魔の城の方w)では殆ど寝ていないのです。
何をしていたのかといえば……小説を書いていたんですね。
(だって眠れないしねえ。それなら書いた方がいいし)
だもんですから、私は学校では寝ていることが多かったのです。
だって悪魔の城で寝たら明日無事に起きられるかどうか判らないんですよ。
その恐怖は小学生の頃からずっとありました。
寝る前に……明日無事に生きていられますように、と祈っていました。
誰に、なのかは私自身も判りませんでしたがw
通常、教室で生徒が居眠りをしていた場合。
怒りますね?
ところが私は居眠りに関してだけは、卒業までただの1度も叱られたことがなかったのです。
生徒が居眠りをしてると猛烈な勢いで怒る古典の先生。
ところが私が寝ていると黙ってさりげなくつついて起こしてくれます。
他の教師にも叱られたことはありません。
そしてうっかり早朝練習で急ぎすぎて喘息を出すと、私は1限目から6限目まで保健室、なんてことが普通にあったのです。
3年生で卒業する段階で、私の保健室利用率はぶっち切りのトップでした。
保健のY先生は私が行くと、いつも言いました。
「本当は早退した方がいいんだけど、しないんだよね?」
「うん、ごめん」
私は学校にいる間、担当教科でない先生からもよく話しかけられていました。
おい、元気にしてるかー? あんまり無理するなよー。
あの頃の私は、何も考えずに過ごしていて、彼らがどれだけ私を気遣ってくれていたのかに気付きませんでした。
彼らは私を守ってくれていたのです。
私が修学旅行で喘息で倒れても、彼らは悪魔の城には一切連絡をしませんでした。
常識的に考えれば連絡は入れるべきなのでしょう。
ところが彼らはそれをしなかった。
そう、彼らは私の家族がおかしいことに気付いていて、だからみんなで私を庇ってくれていたのです。
3年になって卒業する頃、保健のY先生は超絶に練れていました。
多少のことではまったく動じません。
それはそうでしょう。私で相当鍛えられてるはずですから。
あの若さでそこまで練れなくても、というくらいに練れていました。
そう、彼女は3年間、私の親には何1つ報せず、黙って私を庇い続けてくれたのです。
あの頃の私の『家』は学校です。
そう、私は学校に育ててもらいました。
新設校、右も左も判らない新任の先生が多い中、彼らは最大限に出来ることを見返りなしで私に与えてくれたのです。
……もう、これは親以外の何物でもないだろう(笑)
様々な生徒がいて大変な中、ベストの方法で私を守ってくれた彼らは、戸籍親なんかよりずっと立派な親でしたよ。
全ての教師が親だとは言いません。先生にだって色々いるわけですからね。
ですが、私は学校で育ててもらったに違いないのです。
そして高校時代の友達。
みんなとても優しかったし、私が本音を言ってもまともな返答が出来る方々でした。
私の家が悪魔の城なので、そこにいる間はどんなことがあっても機嫌のいいフリをしていないといけません。
だけど学校の友達には普通に接していましたので……実は私の機嫌が激烈に悪い時があることを、友達はみんな知っていましたw
その原因は自分自身にも判らなかったため、相談することも出来ませんでしたが。
でもみんながいてくれたからこそ、私は学校で安心することが出来たのです。
それらのことを考えると、やっぱり私には学校が『家』だったのだと思います。
安らげる、くつろげる、楽しい、幸せな空間。
悲しいことや辛いこともありますが、それを含めて学校がとても好きでした。
いつか感謝をこめて、あの学校を訪問できたらいいなと思います。
でも考えてみると、もしかしたら当時の私の本当の意味での『家』は、学校だったのかも知れません。
高校一年生の春。
新設校で新任の先生を多く迎えたうちの学校では入学早々に、某所で研修なるものが行われました。
で、うっかりものの私は遅刻しそうになって焦って集合場所まで走ってしまいました。
喘息出した私は集まった教師を慌てさせました。夜中には担架で先生の部屋に運ばれる始末。
研修ではカッター訓練などがあったのですが、私は三日間のカリキュラムの全てを見学ということになりました。
オリエンテーリングでは体育科の先生と仲良く散歩です。
のんびりと山道を歩きながら、無理するなー、とか言われつつも、私はそれなりに山の景色を堪能することが出来ました。
保健室の先生は新任の若い先生でした。
最初にいきなり喘息の発作を起こした生徒が発生。そりゃさぞかし焦ったでしょう。
んでもって私は、それからもちょくちょく、保健室に担ぎ込まれる羽目になるのですが。
ある時、酷い発作を起こして、私は保健室に行きました。
保健室の先生……仮にY先生とします。Y先生は私にこう訊ねました。
「早退する?」
そうですね。学校では病気は治せませんし、酷い場合には早退させるのがルールです。
ところが私の返事はこうでした。
「いや、家に連絡すると怒られるから」
(本当に怒られます。早退理由が喘息だろうが腹痛だろうが、病気で学校を早退するのは父母の機嫌を損ねるし、下手をすると説教を食らうので出来ればしたくなかったんです)
その時、Y先生は少し間を置いてから、じゃあ休んで良いよと言いました。
当時、今のように虐待やDVといった事件があきらかにされることもなく、下手をするとそういう法律が整っていなかった可能性もあります。
言葉そのものはあったかも知れませんが、認知度が低く、苛めなどは当たり前にあった時代でしたから。
ついでに暴露すると、私の妹様は苛め側に属していたようです。
その事実をまるで自慢のように私に語ってみせたので、全力で説教をしました。
さらに万引きもしていたようですね。その事実を聞いた時も全力で説教し、2度とするなと言ったのですが、多分理解できていないでしょう。
……そんなことを繰り返していたから、リンチを食らったんだと思いますがね。ま、これはあくまでも私感です。
おっと、話が逸れすぎました。
私が保健室に行って早退をしたくない、と訴えたところまででしたね。
では話を戻します。
Y先生は私の返答から何かあると察したのでしょう。
黙って保健室で休ませてくれました。
考えてみると色々と妙なことがあるのです。
私、授業中に寝るのは得意技でした。
教卓の真ん前で机に伏せて爆睡とかもよくありました。
何しろ家(悪魔の城の方w)では殆ど寝ていないのです。
何をしていたのかといえば……小説を書いていたんですね。
(だって眠れないしねえ。それなら書いた方がいいし)
だもんですから、私は学校では寝ていることが多かったのです。
だって悪魔の城で寝たら明日無事に起きられるかどうか判らないんですよ。
その恐怖は小学生の頃からずっとありました。
寝る前に……明日無事に生きていられますように、と祈っていました。
誰に、なのかは私自身も判りませんでしたがw
通常、教室で生徒が居眠りをしていた場合。
怒りますね?
ところが私は居眠りに関してだけは、卒業までただの1度も叱られたことがなかったのです。
生徒が居眠りをしてると猛烈な勢いで怒る古典の先生。
ところが私が寝ていると黙ってさりげなくつついて起こしてくれます。
他の教師にも叱られたことはありません。
そしてうっかり早朝練習で急ぎすぎて喘息を出すと、私は1限目から6限目まで保健室、なんてことが普通にあったのです。
3年生で卒業する段階で、私の保健室利用率はぶっち切りのトップでした。
保健のY先生は私が行くと、いつも言いました。
「本当は早退した方がいいんだけど、しないんだよね?」
「うん、ごめん」
私は学校にいる間、担当教科でない先生からもよく話しかけられていました。
おい、元気にしてるかー? あんまり無理するなよー。
あの頃の私は、何も考えずに過ごしていて、彼らがどれだけ私を気遣ってくれていたのかに気付きませんでした。
彼らは私を守ってくれていたのです。
私が修学旅行で喘息で倒れても、彼らは悪魔の城には一切連絡をしませんでした。
常識的に考えれば連絡は入れるべきなのでしょう。
ところが彼らはそれをしなかった。
そう、彼らは私の家族がおかしいことに気付いていて、だからみんなで私を庇ってくれていたのです。
3年になって卒業する頃、保健のY先生は超絶に練れていました。
多少のことではまったく動じません。
それはそうでしょう。私で相当鍛えられてるはずですから。
あの若さでそこまで練れなくても、というくらいに練れていました。
そう、彼女は3年間、私の親には何1つ報せず、黙って私を庇い続けてくれたのです。
あの頃の私の『家』は学校です。
そう、私は学校に育ててもらいました。
新設校、右も左も判らない新任の先生が多い中、彼らは最大限に出来ることを見返りなしで私に与えてくれたのです。
……もう、これは親以外の何物でもないだろう(笑)
様々な生徒がいて大変な中、ベストの方法で私を守ってくれた彼らは、戸籍親なんかよりずっと立派な親でしたよ。
全ての教師が親だとは言いません。先生にだって色々いるわけですからね。
ですが、私は学校で育ててもらったに違いないのです。
そして高校時代の友達。
みんなとても優しかったし、私が本音を言ってもまともな返答が出来る方々でした。
私の家が悪魔の城なので、そこにいる間はどんなことがあっても機嫌のいいフリをしていないといけません。
だけど学校の友達には普通に接していましたので……実は私の機嫌が激烈に悪い時があることを、友達はみんな知っていましたw
その原因は自分自身にも判らなかったため、相談することも出来ませんでしたが。
でもみんながいてくれたからこそ、私は学校で安心することが出来たのです。
それらのことを考えると、やっぱり私には学校が『家』だったのだと思います。
安らげる、くつろげる、楽しい、幸せな空間。
悲しいことや辛いこともありますが、それを含めて学校がとても好きでした。
いつか感謝をこめて、あの学校を訪問できたらいいなと思います。