ある日、相続が発生した。

2007年頃に起きたことをつらつらと書いてます。

再公開について

2023年03月14日 | 日記

こんにちは。お久しぶりです。
ちょっと事情があって記事を非表示にしていましたが、再公開することにしました。
いきなり記事が復活した感じになりますがご了承ください。

 

……ん?
いつの間にかエディタの行間が開いている気が……。気のせいでしょうか。

 

あ、裁判の件はケリがつきました。って、書いても良かったんでしたっけ。
もし記事が足りなければ後で付け足します(汗)

追記:

エディタの行間の件はCSS?の関係でしょうか。
改行する時にどーするか、ということだけみたいですね。

えーと……。
裁判って書いちゃったのですが……。
結果的に和解になったので晒さないようにしないとですね。
今から消してきますw


発端は多分、ここ

2009年12月04日 | 日記
実は相続の話に至るまでの話、というのがあってデスネ。
当然、相続が発生する、ということは、どなたかが亡くなっていらっしゃるわけです。
今、私が書いている相続の話は平井洋司さんと仰る方です。そして被相続人もこの方。
そして私は洋司さんが亡くなる前に離婚しましたので、私自身には相続権はありません。

そのことを知った経緯が……ちょっと普通じゃなかったんです。




箇条書きで時系列に沿って明らかになった事実だけ書こうと思います。
感情を無視して書きますので、その辺りご容赦いただければ幸いです。

○電話キタ

相続が発生したことを私が知った、8ヶ月前、母から電話がありました。
洋司さんに母親に手紙を出したのだそうです。
手紙の内容は、おれが借金を作ってトンズラし、自分たちが肩代わりしたというものです。
そっちにも責任があるのだから、金を寄越せと。

断言しますが、私はそんな手紙を出してくれとも、書けとも一切言っていませんので。
というか、その時の母親のせりふ。
「汀子さんはあんたが借金して逃げたって知らなかったんだねえ!!!」
……当たり前です。
というか、汀子さんだけでなく、洋司さんも知らなかったはずです。
両親が肩代わりすると言い出してきかなかったのですから。
私、自己破産するつもりだったのに、しちゃ駄目だと言われたんですよね。
なのにいつの間にか私は借金して逃げたことにされたようです。

話を戻します。
母親は何故、そんな手紙を出したのかは言いませんでした。
だって離婚してもう10年近く経ってるんですよ?
そして汀子さんからの返事は、洋司さんが亡くなっていると。
だからもう養育費は払えないと言われたそうです。
ですがこの段階で母親は、汀子さんが言ってることはきっと嘘だと思うんだけど、と言っていました。

○戸籍

母親はとにかく私の本籍地のデータを欲しがりました。
母親が思うデータと異なっていたからか、今度は洋司さんのデータを欲しがっていました。
理由は実際に亡くなっているかどうかを確かめるため。
子供の戸籍謄本を取得すると言っていました。

○電話

再び電話が掛かりました。
戸籍謄本をとったら、本当に亡くなっていたと。
その時に母親が言った日付は21日。


この時点で私は母親の言うことを一切信じていませんでした。
仮に信じるとしたら、母からの意味不明な手紙が原因で亡くなった可能性がありますよね?
そもそも何でそんな手紙を送ったのかが判りません。
更に養育費はもう払わない、と言われたというのですが、私、養育費を洋司さんに請求したことは1度もありません。
離婚する時にもお金のやり取りは一切しませんでした。
もし、離婚後に洋司さんが養育費を本当に支払っていたのなら、母が私に断りなく勝手に話を付けて、勝手にそうしていたのでしょう。

その上、変な手紙を出した挙げ句、養育費を払えなくなった????
いや、それ以前に、もし本当に亡くなっているのなら、お通夜とかお葬式とかは!?
私は何をどう信じて良いのか判らず、パニックを起こしていました。
なのに母からの電話はそれっきりでした。お通夜の知らせもなければ、お葬式の知らせもない。

……どうやって母親の言葉を、どこからどこまで信じろと??(汗)


○デンパメール乱舞

妹からデンパなメールが届きまくりました。
私はとにかく「動かないこと」を目標に、全て無視。
実家は金がない、おまえはあの時ああ言ったけどおまえのが非道である、なんとかしろと。いつの話だ。

○電話

いいかげん帰ってこにゃいけんでという電話が母から掛かってきました。

相変わらず、理由がありません!

ぶち切れた私はそれ以来、電話の電源を切りました。
そこで私の方も彼らの情報は直接には更新されなくなりました。
(子供とはメールのやり取りで連絡を取り合っていました)


そして。
親友がある日、子供達3人とお祭りに出かけたそうです。
その足で私の実家を訪れた親友は、実際に戸籍謄本を見たそうです。
洋司さんの名前のところに大きな×印があり、死亡届けの日付は2月22日になっていたそうです。

親友から聞いた話を箇条書きに。


○ちとせから聞いていない? とか言われた親友が、聞いていませんとシラを切ると、母親は汀子さんから電話があってねえ、と話をし始めたようです。
電話を取ったのは父親だと。
そこで洋司が亡くなったと聞いたと。

○やたらと強調されていたのが、「死因は事故や病気じゃない」と。
何かあったんですかね、と親友が心配顔で訊いたところ、黙ったらしいです。

○こんなことになるんなら会わせてやっておけばとしつこく。
そして私に電話していた理由が墓の場所を知りたいからだと。

○その話を聞いてから、ご飯がしばらく不味くてねえ、と。
誰もそんなこと訊いてない、というのが親友の感想。

○あれから汀子さんには連絡はとれない、と。
電話が不通になっている、と。
きっとあの家には洋司さんだけが暮らしていて、汀子さんはよそに暮らしていたと思う、と。

○実家は改装され、二階には3つの子供部屋が並んでいるらしいです。
そして子供は食事が済むととっととに二階に行き、3人にで仲良く遊んでいるようです。特に長女の戸籍母への態度は素晴らしく素っ気ない模様です。


さて。
起こった事をざらっと書きました。

まずは私の感想を書きます。
洋司さんが実際に亡くなっていて残念です。そして寂しいし、惜しいなと。

でも一番に思ったのは。
あいつらマジでやってやがった………………。


この件が発生した折、私は猛烈な恐怖感に襲われました。
人殺しだと思ったんですよ。
マジでやんの……。
友はさすがにそこまでのことはないだろうと思っていたようですが、私と親友は想像の翼をはためかせ、最悪の事態を予想していました。

そして彼らは恐らく。
遺産の件を既に片付けているというか……。

本籍地などが欲しかったのは、遺産相続の件が発生したから。そう考えると自然です。
そして私に電話を掛けた時には既に、書類は手元にあったのではないかと思うのです。
そうでなければあれだけしつこく戸籍が違うとか言いません。
実は3人の子供の本籍地は、私が思っていたのとは異なっていました。そう、親権を移す際にあちらに赴いた時、私は何故か子供の本籍地を動かしていたようなのです。
今の子供の本籍地は父母のいる魔物の家が建っている場所です。
母親は私に電話をしてきた時、多分、その書類を実際に目で見ていたのです。
だからあれだけしつこく「結婚したら戸籍は変わるはず」と言い張り、私が断固として「私の戸籍はここだ」と言ったら、今度は質問を変えたのです。
母親は答えが欲しかった訳ではありません。
同意が欲しかっただけなのです。

そして手紙は実際に書かれ、送られている。
そこを嘘を吐いて出来ることは、私を追い詰めることです。
ですが、それだと辻褄が合いません。リスクが幾らなんでも高すぎる。得られるものが少ない。そしてそれで私に確実にショックを与えられるかどうかも判らない。
日付の謎は、恐らく母親の手元には死亡届が出された日が記載された書類、そして実際に亡くなった日のデータが手元にあった、ということだと考えると解けます。
母親は私に電話してきた段階で、死亡届の提出された日と、実際に亡くなった日にずれがあることを知っていたのです。

しかも母親は私の親友に向かって「事故や病気じゃない」と、自分から言ったそうです。
つまり自殺だとほのめかしているのです。

親友に与える嘘データの数を単純に減らしたからと言って、筋が通ると考えているところが甘い。
他人に話す際に、その上にデータを乗せているということは明白です。何故ならこの話だけでは筋が通らないからです。
つまり母親は私が洋司さんを殺したようなものだと他人に言い触らしているということですね。

そして、先日の親友と私の会話。

親友「○○○山ってところなん?」

私「は? ○○○山?」

親友「墓はそこにあるん?」

私「いや、なに、○○○山って」

親友「ええ? だってばーさん(私の母親)が、ちとせから聞いたって……」

私「いやいやいいや! 私、あれから連絡とってないし! そもそも○○○山ってなにー!?」

親友「いやあああああああああああああ! こわいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃい!!」

母は私から、洋司さんの墓の位置は「○○○山」なるところだと聞いた、と言ったそうです。
そしてその墓は洋司さんの親戚が管理しているんだと。

実際にその住所は存在するようです。
Q県○郡です。ええ、確かに洋司さんの父親のお墓は、○郡にあります。それは覚えています。
ですが、私は毎年の墓参りでいちいち住所なんぞ気にしたことはありません。つまり、お墓のある場所の住所は知らないのです。

墓参りに行く際は車を使っていました。
高速道路に乗って、そこから更に山に向かって走ります。
このルートを洋司さんは住所ではなく、目で覚えていました。そして同乗していた私も、目で記憶しました。
ですから2人とも、その場所の住所なんぞ気にしたことはありません。
ついでに言えば、一度だけ、親友も同行したことがあります。長い道のりを楽しい話をしながらみんなでお墓参りに行きました。


私「一回、行ったろ? その時に私ら、住所確認とかしてた?」

親友「そういえばしていないね」

私「だろ? 住所なんて知らんて。車運転しながら目で覚えてるんだから」


つまり。父母は既に墓の位置を知っている。
それは何故かと言えば、私以外の誰かと連絡を取っているということなのです。
墓の位置が判るなら、行けばいいのに。

そう。父母は子供に墓参りをさせたい訳ではありません。
自分がいきたいのです。
墓に行ったって亡くなった方は戻りませんよ。
そしてやらかしたことはなかったことには出来ないのです。

連中のこの頃の怯え方や焦り方に、何となく説明がついた気がしました。
そうね。
普通の神経だったら怯えるかも知れませんね。焦るでしょうしね。
でもそんな態度でいるということが、実際にやらかしたといういい証拠です。




……というような経緯がありまして。
そして相続の話が私の耳に入ってきました。

洋司さんが亡くなった本当の理由は今の私には判りません。
私は母親の手紙が原因だと思っていたのですが、母親がまともな文章を書けない人であることが今現在は判明していますので、送った手紙の内容もきっと訳が判らないものだったと思います。
実際に手紙を見てみないことにはなんとも言えませんが。

それまで私は手紙を送ったという母親の発言すら、信じていいものなのかどうか判らなかったのです。
洋司さんが本当に亡くなっているのなら、それどころでは済まないだろうとも思っていました。
だから洋司さんが亡くなったことも、親友に確認してもらって初めて判ったのです。

それから私は子供の本籍地を移しました。
もう2度と同じ手は使えないとは思いますが、念のためです。
Q県のローカルルールでは通用するかも知れませんが、J県の役所では正しい手順を踏まなければ、個人データを勝手に引き出すことは不可能です。


願わくば、父母が人様にご迷惑をお掛けするような犯罪をやらかしませんように……(泣)

学校と家

2009年11月27日 | 日記
中学や高校の頃、家族のいる家は私にとって悪魔の城でした。
でも考えてみると、もしかしたら当時の私の本当の意味での『家』は、学校だったのかも知れません。


高校一年生の春。
新設校で新任の先生を多く迎えたうちの学校では入学早々に、某所で研修なるものが行われました。
で、うっかりものの私は遅刻しそうになって焦って集合場所まで走ってしまいました。

喘息出した私は集まった教師を慌てさせました。夜中には担架で先生の部屋に運ばれる始末。
研修ではカッター訓練などがあったのですが、私は三日間のカリキュラムの全てを見学ということになりました。
オリエンテーリングでは体育科の先生と仲良く散歩です。
のんびりと山道を歩きながら、無理するなー、とか言われつつも、私はそれなりに山の景色を堪能することが出来ました。

保健室の先生は新任の若い先生でした。
最初にいきなり喘息の発作を起こした生徒が発生。そりゃさぞかし焦ったでしょう。
んでもって私は、それからもちょくちょく、保健室に担ぎ込まれる羽目になるのですが。

ある時、酷い発作を起こして、私は保健室に行きました。
保健室の先生……仮にY先生とします。Y先生は私にこう訊ねました。

「早退する?」

そうですね。学校では病気は治せませんし、酷い場合には早退させるのがルールです。
ところが私の返事はこうでした。

「いや、家に連絡すると怒られるから」
(本当に怒られます。早退理由が喘息だろうが腹痛だろうが、病気で学校を早退するのは父母の機嫌を損ねるし、下手をすると説教を食らうので出来ればしたくなかったんです)

その時、Y先生は少し間を置いてから、じゃあ休んで良いよと言いました。

当時、今のように虐待やDVといった事件があきらかにされることもなく、下手をするとそういう法律が整っていなかった可能性もあります。
言葉そのものはあったかも知れませんが、認知度が低く、苛めなどは当たり前にあった時代でしたから。


ついでに暴露すると、私の妹様は苛め側に属していたようです。
その事実をまるで自慢のように私に語ってみせたので、全力で説教をしました。
さらに万引きもしていたようですね。その事実を聞いた時も全力で説教し、2度とするなと言ったのですが、多分理解できていないでしょう。
……そんなことを繰り返していたから、リンチを食らったんだと思いますがね。ま、これはあくまでも私感です。


おっと、話が逸れすぎました。
私が保健室に行って早退をしたくない、と訴えたところまででしたね。
では話を戻します。

Y先生は私の返答から何かあると察したのでしょう。
黙って保健室で休ませてくれました。

考えてみると色々と妙なことがあるのです。
私、授業中に寝るのは得意技でした。
教卓の真ん前で机に伏せて爆睡とかもよくありました。
何しろ家(悪魔の城の方w)では殆ど寝ていないのです。
何をしていたのかといえば……小説を書いていたんですね。
(だって眠れないしねえ。それなら書いた方がいいし)
だもんですから、私は学校では寝ていることが多かったのです。

だって悪魔の城で寝たら明日無事に起きられるかどうか判らないんですよ。
その恐怖は小学生の頃からずっとありました。
寝る前に……明日無事に生きていられますように、と祈っていました。
誰に、なのかは私自身も判りませんでしたがw

通常、教室で生徒が居眠りをしていた場合。
怒りますね?
ところが私は居眠りに関してだけは、卒業までただの1度も叱られたことがなかったのです。

生徒が居眠りをしてると猛烈な勢いで怒る古典の先生。
ところが私が寝ていると黙ってさりげなくつついて起こしてくれます。
他の教師にも叱られたことはありません。
そしてうっかり早朝練習で急ぎすぎて喘息を出すと、私は1限目から6限目まで保健室、なんてことが普通にあったのです。
3年生で卒業する段階で、私の保健室利用率はぶっち切りのトップでした。

保健のY先生は私が行くと、いつも言いました。
「本当は早退した方がいいんだけど、しないんだよね?」
「うん、ごめん」

私は学校にいる間、担当教科でない先生からもよく話しかけられていました。
おい、元気にしてるかー? あんまり無理するなよー。
あの頃の私は、何も考えずに過ごしていて、彼らがどれだけ私を気遣ってくれていたのかに気付きませんでした。

彼らは私を守ってくれていたのです。
私が修学旅行で喘息で倒れても、彼らは悪魔の城には一切連絡をしませんでした。
常識的に考えれば連絡は入れるべきなのでしょう。
ところが彼らはそれをしなかった。
そう、彼らは私の家族がおかしいことに気付いていて、だからみんなで私を庇ってくれていたのです。

3年になって卒業する頃、保健のY先生は超絶に練れていました。
多少のことではまったく動じません。
それはそうでしょう。私で相当鍛えられてるはずですから。
あの若さでそこまで練れなくても、というくらいに練れていました。
そう、彼女は3年間、私の親には何1つ報せず、黙って私を庇い続けてくれたのです。

あの頃の私の『家』は学校です。
そう、私は学校に育ててもらいました。
新設校、右も左も判らない新任の先生が多い中、彼らは最大限に出来ることを見返りなしで私に与えてくれたのです。

……もう、これは親以外の何物でもないだろう(笑)
様々な生徒がいて大変な中、ベストの方法で私を守ってくれた彼らは、戸籍親なんかよりずっと立派な親でしたよ。
全ての教師が親だとは言いません。先生にだって色々いるわけですからね。
ですが、私は学校で育ててもらったに違いないのです。

そして高校時代の友達。
みんなとても優しかったし、私が本音を言ってもまともな返答が出来る方々でした。
私の家が悪魔の城なので、そこにいる間はどんなことがあっても機嫌のいいフリをしていないといけません。
だけど学校の友達には普通に接していましたので……実は私の機嫌が激烈に悪い時があることを、友達はみんな知っていましたw
その原因は自分自身にも判らなかったため、相談することも出来ませんでしたが。
でもみんながいてくれたからこそ、私は学校で安心することが出来たのです。

それらのことを考えると、やっぱり私には学校が『家』だったのだと思います。
安らげる、くつろげる、楽しい、幸せな空間。
悲しいことや辛いこともありますが、それを含めて学校がとても好きでした。


いつか感謝をこめて、あの学校を訪問できたらいいなと思います。

自己紹介の代わりに

2009年11月22日 | 日記
さて、と。
この辺りでひとつ、新たな記事を追加しないと意味が判らなくなりそうですね。

私は虐待を受けて育ちました。
暴力には3種類あるといいます。殴る蹴るなどの身体的暴力、言葉の暴力、そして性的暴力、です。
私の父は3種コンプリートしています。つまり全クリです。
母は前の記事にあるような人です。言葉の暴力ですね。
妹は2人に同調していたので、苛めたつもりはないでしょうが、母親の操り人形と化してメールなどによって私に攻撃を加えたため、言葉の暴力を揮ったことになります。

しかもこの状態は現在もなお、続いています。
その状況に耐えきれずに離れて暮らしているのに、彼らはなお、私の悪口を言って過ごしているそうです。
ただまあ、遠くで悪口を言われるだけなら私は別に構わないんですがね。

問題はそこに私の子供3人がいること、です。
結婚生活を10年程度で続けられなくなったのは、借金が多かったからでした。その理由は生活費が足りなかったため、です。
そして私は自己破産するために離婚して家を出ました。子供を置いて出た理由は簡単。
私1人でも食い扶持に困る可能性があるのに、これから栄養豊富な環境で成長が必要な子供を連れて行けなかったから、です。
そして結果的には元主人は子供の面倒をみることが出来ず、3人は私の父母が保護することとなりました。
私はものっすごい嫌だったのですが、他にあてもないし、私が攻撃対象のままであれば、3人にはそれほどの被害は出ないだろう。孫は可愛いだろうし、ということでやむを得ずその手段をとることにしました。
そして親権は元主人から私に移すことになりました。
父親曰く「そうしないとお前は逃げるから」だそうです。
そして私は義務的に盆暮れには父母のいる家に行っていました。子供に会えるのはとても嬉しいのですが、あの家に対する拒絶反応はもの凄く、行く予定になっている日の前後一ヶ月くらいは、私は本当に使い物にならなくなります。
それでも入学式などの行事のたびに、拒絶反応を我慢して行っていました。

ところが。
元主人が亡くなった時に掛かってきた電話から雲行きが怪しくなりはじめました。
その前の年の4月、父親が私に「身売りしろ」と言った時点で、もう2度とあの家に行くことはないだろうと思っていたのですが……。
とにかく帰れコールが来るんです。しつこく。理由も言わず。留守電攻撃から妹によるメール攻撃まで、散々に食らった挙げ句、私は携帯電話を解約しました。
3人の子供達とはメールで連絡が取れますから構いません。彼らとの直接的な会話を断絶したのです。

そして、相続が発生した話になります。
これで話が大体繋がったと思います。
そして出来れば相続関係で困っていらっしゃる方、これから相続が発生する可能性のある方、とにかく色んな方々に見て欲しい。

私達は戦えるんです。

たかが1人の人間、ですが、戦い方はあります。あるんです。
肩書きのある相手の言うことを鵜呑みにしてはいけません。信用出来るかどうかは自分の目で確かめるべきです。人任せにしてしまったら、取り返しのつかないことになる可能性だってあるんです。
面倒かも知れません。時間も掛かります。
戦いの間に嫌な物を見るかも知れません。想像もつかないような歪みにも遭遇する可能性があります。
でも、それって意外なところにあったりして、冷静に観察するとなかなか面白いです。

ではではそういうわけで、戦いの記録、続行してみましょうか。

どの口が言うか

2009年11月22日 | 日記
そういえばソレ系の話で一つ、新たに気が付いたことが。
実は私の妹は、ごく普通に娘として親に接してもらっていたんですね。
それを聞いた親友がいつも言うんです。
「そこが判らん! 何で○○(私の名前)だけなん!? 妹は娘に見えとるんじゃろ!?」
うーん、そうなんですよね~。親友の指摘はその通りなんですけどね~。

何だろう、と考えてたら。
ルームメイトがさくっとひと言。

「そりゃ、苛めのターゲットが○○で足りてたからじゃない?」

……。
え!?!?!?!?
私、苛められてたの!?
うわ、気付かなかった……。そういうこととは無関係だと思ってたんだけど。

ちなみに私はソレ系のこといっぱい書いてますけど。
残念ながらというか、個別に恨んだりとかないんですよ。全然。
親とか妹って、私にとっては環境の一部ですからねえ。
環境から学んだことがたくさんあるので、恨むとかはちょっと……。
正当に切り返すってんならまた話は別ですけど。

でもこれ。私のケースは穏やかだからいいですけど、酷い事態になると切った切られたになると思うんですよ。
実際に犯罪が起こったりもしてるじゃないですか~……。
でもこれって溜まったモノが噴き出してきた結果のような気もします。家庭内暴力とか虐待とか、今はニュースでたくさん取り上げられますけど、一昔前だとそれを罰する制度の方が整っていなかったような気がしますしね。


そうそう。笑える話を一発。

いつだったか私が、実家に行ってた時の話。
テレビで児童虐待のニュースが流れていました。
それを見た私の父親のセリフ。


「いけんのう……。こういうのは駄目じゃ。近頃の若い奴らはろくな事をせん」


さあ、みなさんご一緒に!


おまえが言うなーーーーー!!!!!


いやあ。人間ってその気があれば学び続けることが出来ますが。
学ぶことを拒絶し続けることも出来る動物なのです(笑)