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ちはら台近郊の神社さんたち③

2021-12-25 15:45:25 | 日記

さて浅間神社をさらに過ぎて三叉路を左に曲がりしばらく行くと、右側に永吉公民館の入口表示があり、その細い道を少し行くと左側に平野神社が鎮座しています。永吉公民館は、こちらの境内入口を鳥居を入った右にございます。

12段ほどの階段を上がると朱塗りの鳥居が、これをくぐるとこちらも朱塗りの艶やかな、拝殿が広い境内の奥に、大きなご神木に映える素敵な景色となっています。

こちらは永吉村の村社で氏子さんは78戸と少し大きい。祭神は仁徳天皇と、大山咋命。創立年代は不明ですが、延宝年間(1673~1681)に記された棟札があるようです。これは時代としては江戸時代で4代将軍家綱から5代綱吉への代替わりの頃。元禄時代の直前となります。

こちらには伝説として平将門がこの地に滞在したとして、平親王野とか将門山とも称されるとか。したがって創立は平安時代以前に遡ると推察されます。こじつけですが京都の平野神社は22社の一つとして有名な神社ですが、桓武天皇の母である、高野新笠(たかののにいがさ)の祖先である百済の聖名王である、今木の神を奈良から京都に遷祀したのが、起こりとなっています。遷祀にあたり、今木神に加えて久度神(竈の神)、古開(ふるあき)神、姫神の三座を加え4座の神様が祭神となっています。

平安時代中頃からこの4座の神様に対して、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏、姫神は大江氏がそれぞれ氏神として崇拝したことが伝わっています。いずれも天皇家から賜姓された皇別氏族であり、将門もその関係で崇拝したのかもしれないと、私見ですが想像してしまいます。尤も将門の時代はその少し前かもしれませんが。

そしてこの神社には平将門の愛妾である桔梗の前の桔梗塚がございます。元々は浜野ゴルフ場(吉野台)にあったものを、移設したものです。桔梗伝説はいろいろと小説になっていますので、ご興味のある方はご覧になってくださいませ。

ただこちらの石碑は23夜月天の表記があり、江戸時代に盛んだった23夜月を愛でるための場所が、吉野台であったのかもしれませんね。

  

道筋は変わり、瓦窯通りを辰巳に向かい辰巳通りと交差する右側に諏訪神社がございます。住所としては市原市久々津。旧久々津村の村社で氏子さんは31戸。御祭神は諏訪大社と同様に健御名方神と下照姫命。健御名方神は大国主の子息で、国譲りに際し鹿島に鎮座するタケミカズチに追われ信州諏訪に至った神様です。信州諏訪大社より勧請されたと口碑には残っていますが、書類がなく年代などは定かではないとのこと。私がちはら台に住み始めたころに、銅板で葺かれたばかりのピカピカだった屋根も今は風合い良く錆びて、隣のお寺との風情も良いおやしろです。

さて、最後はちはら台の北東に隣接する瀬又の旧村社、八幡神社です。瀬又の旧道に面した鳥居から少し小高いところに鎮座し、御祭神は当然誉田別命で、境内には稲荷神社と子安神社が鎮座します。こちらも氏子さんは125戸と多いですね。こちらも創立年代などは不詳ですが、江戸時代後期に旧地頭である池田地頭池田吉重郎、藤原長置の信仰厚く社領を寄進されているとの資料がのこっているようです。

一の鳥居をくぐり、二の鳥居を抜け70段の整備された階段を上がると、瓦ぶきの拝殿が。その後部の本殿も含めて本格的な神明造りとなっています。

階段の登り途中右側の石造りの稲荷社、左右の狐が可愛いいのです。

  

さて、これらは市原市内(旧国名上総)の旧村社ですが、ちはら台の北と西に隣接する下総となる現千葉市には茂呂、中西、椎名などの旧村があり、それぞれに神社や、社が鎮座されています。

千葉、市原を含めこの辺りは大宮神社の摂社にもございますが、熊野神社がけっこう多いそうです。小田様のお住いの小田部にも、立派な熊野神社があり、中西にもございました。大宮神社の摂社では出雲の熊野大社からの熊野講によるものではと申し上げましたが、どうもその親戚筋にあたる紀伊の熊野信仰から、紀州からこちらに流れてきた人々によるものではないかとの、小田様のご意見を付け加えて、本稿を終えたいと思います。

 

 

 

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ちはら台近郊の神社さんたち②

2021-12-25 14:55:25 | 日記

さて、小田様の本拠でもある潤井戸の白幡神社。学園通りからスーパービバホームともりまちショッピングセンターの間を抜け、潤井戸橋を渡り市津消防署を過ぎて三叉路を右に。茂原街道を横切り市津郵便局前を過ぎて左に鎮座されています。潤井戸は茂原街道の内房、外房のちょうど中間地点にあたり、駅が設けられていた地です。結構栄えており昔は銭湯もあったとのことです。当然それなりの人口を抱え、氏子さんも280戸と周辺では最も大きな神社です。社伝によれば第29代欽明天皇13年の創立で、代々の武将並びに領主の崇敬厚く、例祭には年々神輿の渡御が行われるとのことです。

欽明天皇は継体天皇の子息で、その4代後の天智天皇により大化の改新が行われ、その弟である天武帝により律令政治が完成されることになります。言ってみれば、現天皇家の直系のご先祖にあたります。まあなんと古いご由緒と・・・。

明治元年にそれまでの白幡大明神から、白幡神社に改称され、今日に至ります。

白幡神社という社名は関東にはいくつかございまして、源氏の白旗からイメージされるように、源の頼朝や、八幡太郎義家などが祭神となっていますが、こちらはなんせ清和源氏なんぞは遥か遠くの欽明天皇時代の創立でありますので、当然御祭神は異なります。

こちらの御祭神は誉田別命。すなわち八幡神社さんと同じ、神話では日本武尊の孫にあたり、明治以前に神様として崇められた唯一の天皇であらせられる、応神天皇でございます。

社殿は昭和54年に改築されており、本当に小奇麗で清冽な社殿です。ことに桜の季節は見事な景観で桜の花弁で境内は薄桃色に覆われます。

ご祭礼は10月13日ですが、今年はコロナのゆえにこじんまりと内内でとのことなのでしょう。

  

(その二)

市津消防署から三叉路を左に、市津公民館を抜けると通りから少し入ったところに、こじんまりと、でも何か素敵な瓦ぶきの、いかにも神社という立たずまいが。こちらは下野の村社であった浅間神社でございます。氏子さんは31戸とのこと。こちらも子安神社が境内に。祭神は浅間神社ですので、日本一の美女神様の木花佐久夜姫命(このはなさくやびめのみこと)でございます。祭神の雰囲気そのままのなにか美しい社殿と感じます。

こちらは元和2年(江戸時代初期1616年)3月に領主永井尚政転封の際、本神社創建と社伝にございますので、この付近では比較的新しい創建となりますね。

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ちはら台近郊の神社さんたち①

2021-12-25 14:20:15 | 日記

その一)

大宮神社の8摂社をご紹介したブログで、付近の神社を調べてみると申し上げました。千葉の神社庁にこの周辺の神社の神主さんを問い合わせを致しましたところ、潤井戸の白幡神社の神主である、小田様をご紹介戴きました。

電話で事情を説明しましたところ、快く訪問に応じて戴き、市原市小田部のご自宅にて、10月27日にお話を伺うことができました。

雨上がりの湿った風情がよく似合う、木の御門を入ると注連縄も厳かな表玄関にいざなわれ、気さくにご対応を戴き、こちらも楽しい時間を過ごさせていただきました。

早速取り出されたのは千葉県の神社の言わば総覧ともいうべき、立派なご本。これを見せて戴き、私がウォーキング中に気になった、ちはら台周辺の神社の記事を写真に収めさせて戴きました。

小田様ご自身は70代半ば、代々続く御神職で現在はご子息とお二人で市原及び千葉市緑区の30か所の神社の神職を務められているそうで、メインは潤井戸の白幡(しらはた)神社とのこと。ご祭礼日が重なる10月と正月は相当ハードな状況とのことです。

さて、以前このちはら台は昔の行政区画で、草刈、押沼、番場より成り立っていると、紹介しましたが、明治の町村合併前は、それぞれが村という単位でした。今回紹介する7社はすべて、明治の神社の整理で村社とされた神社となります。そしてすべて小田様が宮司をお勤めになっています。

まずは神無月公園をバス通りから別れ、まっすぐ村田川にかかる押沼橋を渡り、豪壮なお屋敷の集落を抜けて市津から瀬又に抜ける道に面して、高台にあるのが押沼神社です。立派な鳥居と整備された階段を上がると、小ぶりな社殿がございます。境内には子安神社がかわいい。旧押沼村の村社で、くだんの総覧発行時の氏子さんは40軒ほど。

御祭神は日本武尊。近江(滋賀県)一宮の建部大社や、摂津(大阪府)一宮の大鳥神社の御祭神として有名ですが、千葉県を含む関東にも多い、御祭神です。ブログの最初に房総の二宮で紹介致しました、茂原の橘樹神社の御祭神弟橘姫の旦那様でございます。

  

残念ながら明治6年の火災により、本殿・拝殿、さらに記録類がすべて焼失してしまい、ご由緒などは詳細不明となってしまっていました。境内からはちはら台が遠景できます。ご本殿左右の軒下には、龍の彫物が厳めしい。

 

次にちはら台整形外科さん横の三叉路を市津方面に抜け、さらに永吉に向かう道と、瀬又方面に行く三叉路を左に行くとすぐに左側にあるのが、番場神社です。鳥居には「山王大権現」のへん額が掲げられ、38段の急な階段を上ると横に広がる拝殿があります。

御祭神は大宮神社の摂社のうち、日枝神社と同様の大山咋命。近江大津の日吉神社より勧請されたものです。明治以前は天台系のお寺とご縁があったのでしょうか。こちらは氏子さんは43戸ほどと記録に残っています。こちらも境内に子安神社が祭られています。

ご本殿の右後ろには小さな稲荷さんも祀られています。

  

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伊勢物語と高階家②

2021-12-18 15:44:58 | 日記

事件の発端は、狩の使者として業平が伊勢に下向するところから始まります。貞観5年(863年)と推定されます。恬子内親王は斎宮下向後2年目満年齢で15歳。

業平君は左近衛権少将で38歳の男盛りです。

恬子内親王には、母静子から「狩り使いが行くけど、いつもの使いよりも労わってあげてね」ってな文が届きます。まあ静子からすれば、姪っ子の旦那だから宜しく。みたいな感じだったのでしょうか。

 

親に言われて、結構頑張ってお世話をするわけです。具体的には斎宮というのは、相当大きな組織であり、官人はどうも男女合わせて500人にも及ぶお役所であったらしい。そこのトップである斎宮さまが、個人的にどういったお世話をしてあげたのは、ちょっと想像に余ります。

 

が、この38歳のプレイボーイ業平君、自分の娘くらいの、しかも妻の従妹であり、絶対的な処女性を求められる伊勢神宮の巫女である、斎宮に懸想してしまうんですね。

この時代から後の光源氏の時代を含めて、妻問婚が基本で和泉式部に例を取るまでもなく、現代から較べても割合にその辺りは自由闊達というイメージはありますが、神に仕える巫女さんしかも伊勢神宮の斎宮の内親王さんはいくらなんでもまずいと思うのは、さえない初老の私のやっかみでありましょうか。

 

伊勢物語では、寝物語だけで、翌日は狩りの使いが来ていると耳にした、伊勢の守が宴会を催し業平が忍べずに、夜が明けようとする頃恬子内親王が盃の皿に歌を記して渡します。

「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」

業平がその皿に下の句 「又あふ坂の関はこえなむ」 としるし、夜が明けて尾張の国に向かった。更に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王(みこ)の妹。

と記されて、終わっております。

 

伊勢物語では、なまめかしくせつないシーンはてんこ盛りですが、行為には至っていないことと、高階峯緒とみられる伊勢の守の強引な宴による横槍が書かれています。

つまり、証拠隠滅の匂いが芬芬なのは、この伊勢物語の作者が紀氏に連なる紀貫之という説(諸説あり)にも繋がります。

 

しかし、世間の噂では、このときに恬子内親王が身ごもり、翌年に男子が生まれたことと、伊勢権守の高階峯緒がその子を自身の子息茂範の養子として育てたというのが定説となっております。

峰雄こそ、神祇伯まで登りますが、いわゆる受領階級で以降も地方官主体の高階家ではありますが、この子師尚は父(?)業平同様の従4位右近衛中将にまで昇っております。

 

これをもって、一条天皇の時代に高階の一族に連なる親王は、伊勢神宮に憚りがあるとて、道長の娘彰子の子後一条天皇の即位の因縁となるのであります。

尤も、この時代に狩りの使者の任命記録が認められないなどの、この説を疑問視する見方もございます。

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伊勢物語と高階家①

2021-12-18 15:39:59 | 日記

少し間が開いてしまいましたが、藤原道長に関わることで、高階家と伊勢神宮の関係をお約束しておりました。

今回は、伊勢物語に端を発する伊勢神宮に障りあるところを主点に、高階という一族の成り立ちを考えてみたいと思います。

 

伊勢物語は「昔男ありけり」で始まる、在原業平とおぼしき貴公子を主人公とする、歌物語であり、作者は紫式部の昔よりさまざまに取沙汰されてきました。

 

なぜ伊勢となったかが、伊勢神宮の斎宮との第六九回のエピソードに起因しているという説もあり、本稿のテーマでございます。

 

主人公は恬子(やすこ、てんし)内親王(848?~913)。

文徳天皇を父に、紀静子を母に持ち同母兄弟には惟喬親王、惟条親王、述子内親王、珍子内親王。異母兄清和天皇即位に際し、卜定にて斎宮に選ばれ十三歳(頃)に伊勢へ向かったのが861年でございます。

 

もう一方の主人公、在原家の五男坊で、小野小町などと並び後に藤原定家に六歌仙と讃えられた、略して在五中将(右近衛権中将)とも呼ばれる、平安初期の大プレイボーイであります。

 

伊勢物語の中ではホンマかいなくらいの勢いで、手当たり次第。お江戸にも業平橋の地名を残しておりますが、実在の業平は薬子の乱に関わり割を食ってしまった、平城天皇の第2子である阿保親王の5男坊であり、生まれた翌年(826年)に次男仲平、鍋で有名な三男行平、守平(四男)と共にまとめて在原朝臣を賜姓され臣下となっています。

 

嵯峨天皇の子仁明天皇の晩年に左近衛将監、蔵人として仕え849年に24歳にして無位から、従五位下に直叙されますが、文徳天皇時代は鳴かず飛ばずでどうも官にも就いていなかったようです。

ところが、清和天皇に譲位された後は862年37歳にして、従五位上に昇位し左兵衛権佐(今でいえば大佐に近い中佐)に任官し、そのまま左近衛権少将、右近衛権中将と武官としてトントン拍子に出世しています。

 

そしてもう一人の主役が、高階峯緒。藤原4兄弟に一族もろとも自害させられた、左大臣長屋王の玄孫で峰緒王。843年に高階真人姓を賜り、臣籍降下。その後従五位下に叙任し下野介、伊予守、肥後守等の地方官、所謂受領を歴任しています。

その後左中弁から大蔵大輔といった京官になり、従四位下に昇進し、恬子内親王が斎王になった861年5月に伊勢権守に任官しており、斎宮守も兼任したようです。

 

背後関係と人間関係を整理します。

事件のあった時代は清和天皇の御世。藤原氏では北家が次第に台頭してきています。

文徳天皇が858年に崩御され、清和天皇が8歳で即位。外祖父である藤原良房が太政大臣として後見。

業平の正妻は紀有常の娘、名は伝わっておりません。紀有常は恬子内親王の母紀静子の兄弟であり、業平の妻には叔母となります。

紀氏は古代有力貴族であり、蘇我氏、葛城氏、平群氏などと同様に武内の宿禰の子孫として、大化以前の朝廷を形造った一族ですが、この時期は藤原氏にほぼその機能を奪われています。

 

恬子内親王の同母兄、惟喬親王が文徳天皇の第一子で、天皇に可愛がられながらも、即位できなかったのも、4男惟仁親王の母が右大臣藤原良房の娘、明子であり生後8か月という前例に無い年齢での立太子だったことが、この時代には紀名虎(静子と有常の父)よりも良房の方が相当有力であったのでしょう

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