さて浅間神社をさらに過ぎて三叉路を左に曲がりしばらく行くと、右側に永吉公民館の入口表示があり、その細い道を少し行くと左側に平野神社が鎮座しています。永吉公民館は、こちらの境内入口を鳥居を入った右にございます。
12段ほどの階段を上がると朱塗りの鳥居が、これをくぐるとこちらも朱塗りの艶やかな、拝殿が広い境内の奥に、大きなご神木に映える素敵な景色となっています。
こちらは永吉村の村社で氏子さんは78戸と少し大きい。祭神は仁徳天皇と、大山咋命。創立年代は不明ですが、延宝年間(1673~1681)に記された棟札があるようです。これは時代としては江戸時代で4代将軍家綱から5代綱吉への代替わりの頃。元禄時代の直前となります。
こちらには伝説として平将門がこの地に滞在したとして、平親王野とか将門山とも称されるとか。したがって創立は平安時代以前に遡ると推察されます。こじつけですが京都の平野神社は22社の一つとして有名な神社ですが、桓武天皇の母である、高野新笠(たかののにいがさ)の祖先である百済の聖名王である、今木の神を奈良から京都に遷祀したのが、起こりとなっています。遷祀にあたり、今木神に加えて久度神(竈の神)、古開(ふるあき)神、姫神の三座を加え4座の神様が祭神となっています。
平安時代中頃からこの4座の神様に対して、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏、姫神は大江氏がそれぞれ氏神として崇拝したことが伝わっています。いずれも天皇家から賜姓された皇別氏族であり、将門もその関係で崇拝したのかもしれないと、私見ですが想像してしまいます。尤も将門の時代はその少し前かもしれませんが。
そしてこの神社には平将門の愛妾である桔梗の前の桔梗塚がございます。元々は浜野ゴルフ場(吉野台)にあったものを、移設したものです。桔梗伝説はいろいろと小説になっていますので、ご興味のある方はご覧になってくださいませ。
ただこちらの石碑は23夜月天の表記があり、江戸時代に盛んだった23夜月を愛でるための場所が、吉野台であったのかもしれませんね。
道筋は変わり、瓦窯通りを辰巳に向かい辰巳通りと交差する右側に諏訪神社がございます。住所としては市原市久々津。旧久々津村の村社で氏子さんは31戸。御祭神は諏訪大社と同様に健御名方神と下照姫命。健御名方神は大国主の子息で、国譲りに際し鹿島に鎮座するタケミカズチに追われ信州諏訪に至った神様です。信州諏訪大社より勧請されたと口碑には残っていますが、書類がなく年代などは定かではないとのこと。私がちはら台に住み始めたころに、銅板で葺かれたばかりのピカピカだった屋根も今は風合い良く錆びて、隣のお寺との風情も良いおやしろです。
さて、最後はちはら台の北東に隣接する瀬又の旧村社、八幡神社です。瀬又の旧道に面した鳥居から少し小高いところに鎮座し、御祭神は当然誉田別命で、境内には稲荷神社と子安神社が鎮座します。こちらも氏子さんは125戸と多いですね。こちらも創立年代などは不詳ですが、江戸時代後期に旧地頭である池田地頭池田吉重郎、藤原長置の信仰厚く社領を寄進されているとの資料がのこっているようです。
一の鳥居をくぐり、二の鳥居を抜け70段の整備された階段を上がると、瓦ぶきの拝殿が。その後部の本殿も含めて本格的な神明造りとなっています。
階段の登り途中右側の石造りの稲荷社、左右の狐が可愛いいのです。
さて、これらは市原市内(旧国名上総)の旧村社ですが、ちはら台の北と西に隣接する下総となる現千葉市には茂呂、中西、椎名などの旧村があり、それぞれに神社や、社が鎮座されています。
千葉、市原を含めこの辺りは大宮神社の摂社にもございますが、熊野神社がけっこう多いそうです。小田様のお住いの小田部にも、立派な熊野神社があり、中西にもございました。大宮神社の摂社では出雲の熊野大社からの熊野講によるものではと申し上げましたが、どうもその親戚筋にあたる紀伊の熊野信仰から、紀州からこちらに流れてきた人々によるものではないかとの、小田様のご意見を付け加えて、本稿を終えたいと思います。