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安土(近江散歩2)

前回の近江東部散歩に続き、少し南下した安土のお話です。 

随分前ですが、出張で少し空き時間がありましたので、いつもは素通りするだけの安土に降車してみました。駅前には安土城を造った織田信長の凛々しい銅像がお出迎えをしてくれます。(写真1)駅前にある観光案内所で珈琲を戴きながら、短時間で歩ける先を伺うと、安土城址までは行けそうもなく、県立安土城考古博物館や、信長の館までも無理そう。

最も駅から至近の安土城郭資料館と、沙沙貴神社なら行けそう。近くの浄厳院は休日に事前申し込みが必要とのことで、断念。

安土駅(東海道線)を横断する地下道を潜り、反対側に出ると、目の前に町立の安土城郭資料館は入場料200円。

受付の方がたった一人の私のために、安土城紹介の13分のビデオを上映して下さり、終わると20分の一縮尺の再現模型を内部鑑賞のために、左右に開けて戴きました。これは一見の価値は十分です。豪華絢爛な内部もきちんと再現されています。ルイス・フロイトの記録などで下調べをされていけば、鑑賞も更に楽しめるでしょう。かなり精密な構成となっており、5層目には信長さんも座って、琵琶湖方面を眺めている。

各種の資料で気になったのが、周辺の地理模型。なんと東海道線の線路を挟んで、非常に近距離に観音寺城跡が。なるほど、沙沙貴神社も近くであるわけで・・・。

ここ安土周辺は信長に滅ぼされる前は、佐々木氏の本領でもあるわけです。

宇多天皇の皇児である敦實親王を発祥とし、この地に土着した所謂、宇多源氏(近江源氏、佐々木源氏とも称される)の本拠地であり、佐々木氏嫡流の六角氏が、信長との戦いで最後に籠ったのが、主城であるここ観音寺城で、信長はその琵琶湖にちょっと向かったところに、天下布武の最後の居城安土城を造営したんですね。

 信長の数々の事績のなかで、楽市・楽座による商業流通も有名ですが、政策として斬新なこの制度も六角氏によりこの地で興ったとも。

信長はその因縁からも、六角氏には近しい気分を持っていたとも想像するのですが、信長の誘いには乗らずに、六角氏は本来は敵であったにも関わらず先に誘われた三好三人衆に肩入れし、五個荘を囲む観音寺城、和田山城、箕作城にて信長軍を迎え撃ちます。

本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置します。

戦は箕作城に羽柴秀吉が攻め入り、善戦しますが夜襲により落城。それを知った和田山の将兵は戦わずに逃亡。観音寺城もそれに落胆し、防備に問題があったことも悟り、六角氏得意の甲賀でのゲリラ戦を標榜し落ち延び、以降再び戻ることなく、佐々木本流の六角氏は消え去ります。

さて、沙沙貴(ささき)神社まで駅からは徒歩10分。

沙沙貴神社はもともと神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君がその祖先とされる大彦命を祭り、後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していたとされます。

佐々木氏は宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に下向し、その地に土着した孫の経方が佐々木を名乗ったことから始まるとされていますが、源平合戦の時代、平治の乱での源義朝の討死で、相模まで落ち延びてきた佐々木氏が、頼朝に従属しその挙兵に最初から従ったのが、隆盛の元であります。因みに鈴木さんのルーツは紀州で、渡辺さんは大阪であります。そのうちにご紹介できれば良いですね。

木曽義仲との決戦で、いわゆる宇治川の先陣争いを、名馬「磨墨」を駆る梶原景時と名馬「生月」との間で競った佐々木高綱。嫡流でなく京極氏ではありますが、前回犬神郡で紹介した、ばさら大名として有名な佐々木高氏(道誉)もこの一族であります。

その末流としては、岡田准一の大河ドラマの主人公である黒田管兵衛や、山中鹿之助を含み、近隣の尼子その出自がある山陰の戦国大名尼子氏。角倉了以や今井宗久。下って明治の乃木希輔大将なども佐々木氏であるそうです。

全国の佐々木さんが結構お参りに見えるこの神社。山門(写真2)が非常に美しく、境内外の「なんじゃもんじゃの木」が丁度花をつけ始めた時期でもあり、ちょいと古代から戦国にかけての風情に浸った2時間でありました。

    

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