goo blog サービス終了のお知らせ 

九寨溝ツアー|九寨溝現地ツアー|成都現地ツアー|成都パンダツアー|成都パンダボランデイア|成都現地旅行会社

雅安碧峰峡基地ツアー九寨溝ツアーと四姑娘山と成都観光成都現地旅行会社http://www.pandatabi.com

成都 観光 地図

2018-03-12 14:00:20 | 海外旅行
望江公園
成都の錦江の西岸にある。唐代の女流詩人薛涛ゆかりの公園。 清代の光緒15(1889)年に薛涛をしのんで建てられた高さ30m余りの優美な4層の楼閣、望江楼(崇麗閣)を中心に詩人にゆかりの詩吟楼、竹園などが配置されている。 薛涛は貧しい生まれながら詩の才能が認められ、同時代の詩人白居易、元槇らに賞賛された。彼女がここで井戸の水を使って詩箋をつくったと伝えられ、のちに「薛涛箋」として人気を集めたという。 使った井戸も"薛涛井"と名付けられ、石碑が立てられている。また、薛涛は竹が大好きで、そのため公園は竹を特色として百数十種の竹が集められており、五雲仙館の後ろの竹林には薛涛の像が立てられている。
成都望江楼
成都の錦江の西岸にある。唐代の女流詩人薛涛ゆかりの公園。 清代の光緒15(1889)年に薛涛をしのんで建てられた高さ30m余りの優美な4層の楼閣、望江楼(崇麗閣)を中心に詩人にゆかりの詩吟楼、竹園などが配置されている。 薛涛は貧しい生まれながら詩の才能が認められ、同時代の詩人白居易、元槇らに賞賛された。彼女がここで井戸の水を使って詩箋をつくったと伝えられ、のちに「薛涛箋」として人気を集めたという。 使った井戸も"薛涛井"と名付けられ、石碑が立てられている。また、薛涛は竹が大好きで、そのため公園は竹を特色として百数十種の竹が集められており、五雲仙館の後ろの竹林には薛涛の像が立てられている。
杜甫草堂
唐代の詩人・杜甫が成都に住んでいた時の居所。759年から約4年間、安禄山の乱を逃れた杜甫が樹齢200年以上の柏の木の下に仮小屋を造り、質素な生活を送った場所。彼の全作品1400首のうち代表作を含む247首がここで生まれた。唐の末、杜甫を記念するために仮小屋の跡に草堂が建てられ、明代に再建されて今日に至る。今も杜甫草堂はひっそりと竹林の中に質素なたたずまいを見せている。庭園式の建物で大門をくぐり、蓮花池を渡ると、木の生い茂る中に三重の庁堂がある。草堂書屋には古今の杜甫詩集などの書物が展示されている。ほかに梅園や花径など時間をかけて歩きたい。
http://www.sctabi.com

三星堆博物館+金沙遺跡博物館+郷土料理(昼食)ツアー

2018-03-12 13:40:09 | 海外旅行
三星堆博物館+金沙遺跡博物館+郷土料理(昼食)ツアー
三星堆遺跡
成都市から30キロ離れた広漢市で発掘された遺跡。最初に発見されたのは1931年だったが、学者たちの数十年の努力によって、現在遺跡の面積は12キロ平方メートル、そのうち古城城址の面積は3平方キロメートルと判断された。1986年には大量の金器、青銅器、玉器、陶器、象牙などの文物が発掘され、世界的な話題となった。この「三星堆遺跡」の出土品を公開するために、博物館が建てられ、出土品の一部は海外でも巡回展示されている。展示場面積は4000キロ平方メートルもあり、千点以上の展示物がある。中でも注目されるのは、目が飛び出たような独特な造形の仮面「青銅縦目面具」や、高さ3.95メートルもある「青銅神樹」、高さ2.62メートル「青銅立人像」など。その他高度な技術によって製作されたものが多数展示されている。これらは黄河文明とは明らかに異なっており、殷末ごろに長江上流域で発達した文明の遺産とも推定されている。館内の売店で写真集、絵葉書、青銅器像のミニチュアのレプリカが買える。
金沙遺跡(きんさいせき)は、中国の四川省成都市にある殷周時代の遺跡。面積は5 平方kmを越える。 2007年4月16日に金沙遺址博物館(金沙遺跡博物館)が開館され、 遺跡の祭祀区発掘現場と発掘文物を展示している。 概要[編集]. 成都市の城西の青羊区金沙街道に位置し、2001年2月8日、蜀風花園の住宅開発に伴う下水道工事中に発見された。 21世紀最初の中国における考古学的大発見で、その後の発掘調査により、基本確認部分でも5平方kmに及ぶ大型遺跡である。 ここからはすでに金器200余点・
http://www.sctabi.com

成都 観光地

2018-03-12 10:51:16 | 海外旅行
都江堰
古代中国が開発した4大水利計画の1つ。すでに2000年以上の歴史がある。 四川省は米作が盛んである。一説によると日本の米もこの四川省から伝播したのではないかとも言われている。秦・漢の時代も同じく米が作られていた。蜀の繁栄もこの米にあると行っても過言でない。そして米作りに必要な治水技術も、きちんとなされていたことは驚きである。川を外江と内江の二つに分離させる遺構。それにしても雄大な川である。
都江堰の生みの親である李氷父子を祭るために、玉壘山のふもとに建てられた廟。南北朝時代に創建され、"崇徳祠"と名づけられたが、宋代以後の歴代の朝廷は二人を王として封じたため二王廟と言われるようになった。現存の建物は清代に修復されたもので、都江堰を守るように建てられている。李氷は秦の蜀郡守(知事)だったが、岷江の水利事業で功績をあげた。廟は緑に覆われ、大殿と後殿には二人の像があり、廟内の石壁の間に李氷治水の要領"深掏灘、低作堰"、"遇湾截角、逢正抽心"などが記されている。楼閣の最上階からは岷江の分流地点である魚嘴やつり橋の安瀾橋などが間近に眺められる。
http://www.sctabi.com