C E L L O L O G U E +

ようこそ、チェロローグ + へ!
いつまでたっても初心者のモノローグ
音楽や身の回りを気ままに綴っています

流山ガード

2023年06月02日 | ぼくのとうかつヒストリア
「流山ガード」の存在は昔から聞いて知ってはいましたが、実際に見たことはありませんでした。「ガード」というからには、ガーダー橋で、下には赤提灯が下がった店があるのではと思っていたのですが、常磐線開通当時からのレンガ造りの稀少なものと聞いて、連休中の風薫る日にJR北小金駅から見学に行ってきました。

常磐線は、明治29年(1896)12月25日に開通し、東葛地域には、松戸、柏、我孫子(あびこ)の3停車場が設けられました。常磐線には、当時の重要な資源であった磐城地方の石炭を東京に運ぶ目的がありました。今は電車が頻繁に走っていますが、その昔はアメリカ製の蒸気機関車が石炭列車を牽いて驀進していたことでしょう。



水戸付近を走る貨物列車(明治末~大正中期発行の絵葉書)。不鮮明ですが、機関車は日本鉄道S2/4(国有後900形、軸配置1B1、アメリカ、スケネクタディ社製タンク機関車)に見受けられます。



流山ガードは、柏~松戸停車場間(現在の新松戸・北小金駅間)に設けられました。
JR北小金駅南端から、直線でおよそ500メートルほどです。線路際を歩くと、常磐線緩行の上り電車がすぐ横の築堤を通って行きます。




じきに「流山ガード」の隧道用信号機が見えてきて、住宅街には不似合いな古めかしい小さな入口が現れました。ガードと言うよりはトンネルか水門の雰囲気です。
初対面のガードは、石とレンガ造りの小さなトンネルといった佇まいでした。しかし、その奥は常磐線の複線化、複々線化、貨物線設置に伴って増設されていった結果、複雑な様相を呈しています。



歴史を感じる隧道入口ですが、煉瓦は汚損が甚だしく痛々しくさえ感じられます。
鉄道の発展と時の経過は小さなガードに大きな影響を与え、広範囲で改変(改修、補強等)が行われているようです。



入ってすぐの部分が当初の常磐線(単線)部分でレンガ壁ですが、なぜか白く塗装されています。その奥が複線化時(大正2年=1913年)に追加された部分ですが、天井はすべてコンクリートです。



奥側の内壁(写真の中央)で、レンガ壁が残っています。逆三角形の鉄板は両者の隙間を隠蔽したものと思われます。そうだとすれば、当初は上下線で独立した築堤だったのでしょうか。



次の快速線の下はコンクリート造りの普通のトンネルとなり、一旦開放部分に出ます。(写真は、入ってきた方向を振り返ったところ)



最後の貨物支線下は「新流山ガード」と名前が変わり、コンクリート製の極くありふれたトンネルです。



新松戸側の入り口から見ると貨物線の高架が覆いかぶさって、まるで、軍艦島のような印象です。中央の車が見える場所が開放部で、右側に退避した人影が見えます。
どちら側も進入路が屈曲していて、内部でも微妙に曲がり見通しが悪い隧道です。幅員は狭く車一台が精一杯ですが、ベンツも難なく通っていました。通行量もそこそこあり、クルマが来たら歩行者は壁にへばりつくか戻る他はなく、一旦入ったら運任せです。


やっとお目にかかれた流山ガードは今まで訪れた中で最も危険な場所でした。
開通から130年になろうとする常磐線は石炭輸送から始まり、時代とともに姿を変えてきましたが、それとともにこのガードも変化した様子が分かりました。
最近は都市化という激しい変化があり、馬橋~北小金間に高速道路のインターチェンジのような貨物支線も新設されて風景が一変しました。そんな中にポツンと取り残されたような小さなガードですが、鉄路とこの地域を見守ってきた存在であることは間違いないと思います。
(撮影:2023年5月4日)


ガードの先にある下山公園。ここで休憩にしました。

Nikon D5600 / AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G ED