写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

看脚下

2017年04月23日 | 随想

 たかが電気・・・」、と うそぶいたのがアホの坂本龍一。自分の音楽が「電気」を使わなければ生成し得ないことや、周知とかアピールができないことにも気付かないほどのボケに加えて、自らのガン治療に放射線という電気の権化みたいな装置を使っているという自己矛盾にも全く気がついてなくて、せっせと「反日」運動にいそしむ・・・ミンシン党の支持者ってのは、ホント、こんなんばっかりだよなぁ、などと思っていたらまたぞろ蛆虫のごとく湧いて出てきた・・・

 

日本学術会議 「軍事研究反対の声明

 

己らほど軍事研究の成果に由来する技術を享受している環境もない、というほどの恵まれた世界でバカをさらけ出している訳だが、はてさて、それらの研究に反対するというのであれば、軍事由来の技術やら物品などの全てを拒否して暮らしたり実験したりする様子を聞かせて欲しいものだ。少なくとも「我こそは軍事と無関係な世界で生きます。」という「気概」とか、我が身の依って立つ位置というものを表明してみてほしい。なぁに、「看脚下」の一言で喝破してあげるから。

 

たかが電気より命の方が大事」とか、「人の命は地球より重い」とか・・・・「命」より大切なものを見つけられずにいる現代人は、ある意味では不幸であり、悲劇でしかない。・・・学者とかいうアホ集団に加わらずにいてホントよかった、とつくづく思わされた話題であった。(負け惜しみっぽいかも・・・)

ところで、「軍事とは無関係な世界で生きる」ということは、どんな世界なのかをちょっと考えてみたい。

看脚下の「」という字は、(2017年4月22日)のところでの「看護婦」で使った字だが、そこでは看護婦というもの、あるいは制度というものがクリミア戦争(1853~1856)に由来することを述べた。無茶ぶりになるが、病院に行っても看護婦さんがいなければ、医者だって単独では存在できねぇぞ、ってことで医療機関が無い世界で生きてね。

ティッシュペーパーは軍事用に開発されました。」ということなので、ティッシュペーパーも使用禁止、だな。・・・・っと、皮肉ばかり書いていてもしょうがない。身の回りの物品・機器・技術等々のほとんど全てが、何らかの由縁で軍事関係由来の技術と結び付いている。地名でも霧中(2017年4月日)のところで少し触れた「霞ヶ関」とか、お台場とか、これも数え切れないほど存在している。

・・・などと、まぁ、前触れのつもりだったのだが、あまりにも膨大になりそうだったので中断せざるを得なくなったのだが、何を書こうとしていたかというと、実は「GPS」(全地球測位システム:Global Positioning System)のことである。

 

「GPS」をシンプルに解説(音量注意!)という約3分半ほどの動画サイトがある。わかりやすい。全てが「数学」のおかげ、と何度も強調しているが、例えば地球表面の重力と、GPS衛星の重力の差は一般相対論による補正がかけられているし、GPS衛星の速度による時計の遅れは特殊相対論で補正されていたりする。

そのGPSを駆使した技術で日常生活にも溶け込んでいるのがカーナビ。もっとも、ホンダ1981年に世界で初めて実用化したカーナビゲーションシステム(米電気電子学会(IEEE)から歴史的な業績だとして「IEEEマイルストーン」に認定)は、GPSを使ったものではなくて、透過型の地図シートなるものが採用されていた、という。こういう非ディジタルの技術分野では、日本の企業の職人魂がうずくらしく、まぁソニーのトリニトロンTVもそうだったが、高度な技術に酔いしれていると簡単な理屈によるディジタル技術に足元をすくわれたりするところが、情けないというか可愛らしいというか、とにかくGPSが民間に開放されて(当然、軍事技術の一部なので核心部分は開放される訳がない。)、一気にGPSを使ったカーナビが普及することとなった。(世界初のカーナビから27年、GPSカーナビの登場から18年2008年当時の記事。)

普段、何気なく使っているカーナビGPSを使ったカーナビは1990年にパイオニアから発売)が、数多くの人工衛星と高度な数学などの科学・技術に裏付けられた商品だということを意識することなく使っている、そういう最先端の技術の恩恵に浴しているということが、どれだけ凄いことなのかということを改めて見つめ直してみたい。(進化を続ける「カーナビゲーション」の歴史年表

実は、これもどこかで書いていると思うが、TVという機器も、もの凄い技術の積み重ねの上に成り立っている。そのTVシステムで流れる内容というのが、これまた情けないほどの低俗品である。開発や製造に関わってきた人たちの涙ぐましいまでの努力は、ほんの少しながら承知しているつもりだが、その人たちが知ればどんな顔をするだろうか、と慮ると下を向くしかない。