写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

新幹線・・・ウラ話

2018年05月05日 | 随想

『都市の盛衰を分けたのは、新幹線整備だった』・・・・・これは、浮沈(2013年06月24日)のところで紹介した、京都大学大学院 藤井聡教授の言葉だが、記事中のリンク先が切れているようなので、同じく、藤井教授の執筆である今こそ、全国新幹線ネットワーク「第二期・整備計画」を、を紹介しておきたい。

 

「日本列島改造論」に見る45年前の未来図を見て、如何に田中角栄が壮大なビジョンを持っていたのかに改めて驚嘆する(もう少し下のほうで詳述)のだが、チンケな左巻連中が騒いでいた「金権政治」なるものも、アメリカ的に見てみれば金権のキにも入らないほどチャチなものだし、角栄ほどの構想と実行力を備えた政治家が未だ出現していないことを鑑みると、この国では、ときとして進むべき道を見間違うことが往々にしてあるんだなぁ、ということをしみじみと感じる。その原因が、いつも「きれい事」という机上の論から来ていることにも、大きな懸念を持つ。

 

なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史、というサイトが4ページにわたってアップされている。

本格的な人口統計がはじまった1872年の人口第一位が広島県で、当時、広島は江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市だったとのこと。金沢が5位だったということは浮沈(2013年06月24日)のところで紹介していたとおりであり、このとき、富山がなんと9位だった。(10位は仙台)

1877~81年は石川県が人口第一位であり、その理由が「口減らしのためにかつて日本中の多くの農村でみられた「間引き(赤ちゃんを殺すこと)」や身売りが非常に少なかったため、人口はどんどん増えていった」という解説となっている。実は、我が地域でも「間引き」は、少し前までは行われていたことで、小さいときにそれらしい噂をよく、いや「よく」というほどでもないが、いくつか聞いたことがあったものだった(どこの家かということは都合良く忘れてしまっている)。

ただし、ここでの石川県は、富山県と福井県(嶺北地方)を含んだ一帯である。このとき、同じように、鳥取、奈良、香川、徳島、佐賀、宮崎の各県もない。



この地図を見て思い出したのが、47を25に・・・県(2014年02月11日)金沢県。これからの我が国が人口減少の道を走るとすれば、早急に、こういう県や市の再編が必要になってくるだろう。・・・で、いつも対応に遅れるのもデフォ、なんだよなぁ。なんでチャッチャとできないんだろ・・・・。

 

 

新幹線が都市の盛衰を分ける、ということが明確になっている訳だが、ここに注目すべき記事がある。

 

富山新聞2018年(平成30年)3月19日号の3面には「平成のとやま」という特集で北陸新幹線のことについて掲載されていた。

出だしが如何にも「井の中の蛙」的な書き方であり、何故この日の記事に?という詮索は抜きにして、少し記事を抜粋すると、

北陸新幹線の構想が浮上したのは、東海道新幹線開通の翌年に当たる1965(昭和40)年のこと。提唱者は、中越パルプ創業者で、当時、砺波商工会議所会頭だった岩川毅氏である。岩川氏は9月26日に、金沢市で開かれた「一日内閣」の際、佐藤栄作首相に「北回り新幹線」の建設を訴えた。67年には北回り新幹線建設促進同盟会が結成され、建設へ機運が高まっていった。

「あの頃は地元でも中央でもいろんな意見が出て、活気にあふれていた」と当時を語るのは、県商工会連合会の石澤義文会長(86)だ。石澤氏は当時、1期日の若手県議だった。北回り新幹線をめぐっては、各地からルートについてさまざまな意見が出た。後に首相になる田中角栄氏は地元の長岡市を通るルートを主張し、当時の富山県知事中田幸吉氏は長野県の部長職を務めた経歴から、長野県を通過する経路を示した。富山県選出の衆院議員佐伯宗義氏(立山黒部貫光創業者9は、立山連峰直下にトンネルを掘る道筋を示した。活発な議論が交わされる中、72年に基本計画が定まる。石澤氏は「最初は半信半疑だった計画だが、次第に期待が高まってきていた。県議会も決定に沸き立ったことを覚えている」と懐かしそうに話す。

その後、オイルショックのあおりを受けて計画は一時凍結。さらに地元負担の問題や、高岡の新幹線駅の場所をめぐる議論など紆余曲折を経て、開業にこぎつけた。

石澤氏は「もう、当時の県議会を知っている人はほとんどいない」とさびしそうにつぶやいた。約50年前に北陸新幹線の夢を紡ぎ出した人たちは、多くが鬼籍に入った。だからこそ、北陸新幹線の「完成形」である大阪開業の早期実現を切望している。「大阪まで開業すれば、交流人口の拡大はもちろん、企業や研究所の誘致、若者の定住促進にもつながる」と展望を語る。

 

紙面には石澤会長の写真も載っているが・・・・・老けたよなぁ。「多くが鬼籍に入った」ような世代の人だから無理ないなぁ。そんな年寄り爺ぃが思い出話として語っている部分だが、「田中角栄が長岡市を通るルートを主張してたのに、当時の富山県知事中田幸吉は長野県の部長職を務めた経歴から、長野県を通過する経路を示した」って、おいおい 中田の個人的な気分で富山県への新幹線乗入れが30年遅れた、ってことを何故、大きく問題視しなかったんだよ 当時の中田を取り巻く関係者の怠慢だぞ!大きな責任問題だぞ

角栄はすぐにでも富山・金沢と結ぶ予算付けをするって言ってたんだろ?とある筋からの話として知ってんだよ。それを、中田が長野経由じゃなきゃヤダヤダァって駄々こねたばっかしに30年の空白が富山県にできちゃったんだろそれで地域経済発展の芽もなかなか出せずにいたんだろ為政者なら、そういう、時代の責任ってもんを、懺悔録でもいいから、ちゃんと県民に示してほしいょなぁ。優雅な回顧録みたいに「懐かしく」語ってるんじゃねぇよ(このあたりは、ピエロ(2015年07月06日)の最後尾のところで「負け犬根性」の続きで論じてもいたが・・・・)

 

それと、だ。

出だしが「北陸新幹線の構想が浮上したのは、東海道新幹線開通の翌年に当たる1965(昭和40)年のこと。提唱者は、中越パルプ創業者で、当時、砺波商工会議所会頭だった岩川毅氏である。」と、さら~っとウソついてるが、「田中角栄と新幹線建設」によれば、1962年(昭和37年)5月31の第36回鉄道建設審議会で田中角栄が「今後の新線建設の進め方」として既にぶち上げている話だ。根底には、その前の3月28日に開かれた第34回鉄道建設審議会の席で明らかにされた「地方への人口分散、経済波及効果」という壮大な構想が底にあり、この一言ひとつ見てみても、田中角栄という人物は、まさに天才(by 石原慎太郎)の面目躍如といったところである。

その他にも、「赤字線を撤去すれば過疎化が一段と進む」、「国鉄は採算とは別に大きな使命を持っている」、「私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じるべきではない」など、政治の役割をきちんと認識していたことがはっきりと窺える。新幹線網と在来線との役割分担にも明確な将来像を描いていたことにも驚く。

 

記事では、「一日内閣」の際、佐藤栄作首相に「北回り新幹線」の建設を訴えた、との記載が見えるが、おぃおぃ、そもそも佐藤栄作は田中と政策的に合わずに反発しあっていたんだから、彼に提言したからこそ疎遠にされたということも否定できないだろうて。自民党だから誰でもいいってこたぁないんだから、そこら辺の勉強もちゃんとしておけよ。まぁ、どこかの誰かに言わされただけの、猿芝居の猿を演じさせられたという役回りでしかなかったのかもしれないけど・・・・。

報道機関も、もっと勉強して、出来事の奥に流れている「真実」を記事にしてもらいたいものだが・・・・ムリ、だろぅなぁ。。。。。

 

 

今、海外で最も拡散されているGIF

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