アランの幸福論には、わかりやすく、すぐにでも実践してみれば
人生が変わる実感を感じることのできるような、いくつもの珠玉の
言葉に満ちているので、それらの中から自分の気に入った言葉を
見つけ、それに線を引いたり、メモ書きなどをしていけば、ちょっとした
自分流の「幸福論」にすることができる。
そんな読み方ができるところにも、アランの『幸福論』の価値がある。
そこで、コメントは控えて、まずは日経ビジネスの連載サイトである
「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」を紹介していきたい。
全文を読むには会員登録(無料)が必要だが、できれば会員登録
して読破されんことを願う。それだけの価値はある、と確信するからである。
連載は93回に及んでいるが、数回に分割して掲載してみたい。
(一度読んだら、あとは順番に出てくるのだが、とりあえず一覧表を
作ってみた、というだけのことである。)
最初は、第1回目から30回目を。
不機嫌な人には道理を説いたりせずに、椅子をすすめることだ。長いこと立ちっぱなしでいたためかもしれない。 |
赤ん坊が泣いてどうにも手がつけられないと、乳母はその子の性質や好き嫌いについて、いろいろとうまいことを思いつく。ついには遺伝まで持ち出して、この子はいまからお父さんそっくりだ、などと言う。原因はおむつに刺さったピンだったのである。ピンをさがすことが重要だ。 |
|
怒りの発作も咳の発作もたいして変わらない。どちらにも身体を動かすことが効く。 |
飲みそこなって喉につかえると、全身でむせ返ることがよくある。体中のあちこちに差し迫った危険が告げられたように、筋肉は縮こまり、心臓までおかしくなって、一種の痙攣状態になってしまう。こんなときは、どうしたらいいだろうか。耐え忍ぶほかないのだろうか。哲学者ならきっとそう言うだろう。経験なしに語るのが哲学者なのだから。 |
|
どれほどすばらしい出来事がほほえみかけても、不幸な人間には効き目がない。幸福でいることには、一般に考えられている以上に意志の力が働いている。 |
ときには周期的な躁鬱病について考えてみるのも、悪くはあるまい。ある心理学の先生がたまたま病院で見つけたこの「悲しみのマリーと喜びのマリー」という症例は、とりわけ考えるべき点が多い。 |
|
幸福になる理由や不幸になる理由にたいした意味はない。すべては身体の調子にかかっている。 |
「自分で自分がいやになってしまう。仕事が片付いて、ブリッジも終わってしまうと、つまらないことが頭の中を駆け巡り、うれしいかと思えば悲しくなり、悲しいかと思えばうれしくなる…」 |
|
悲しみは病気に過ぎない。だからあれやこれやと理由や理屈をつけたりせず、病気として我慢することだ。 |
なるほど自分で自分を不幸だと思っているときは、心に浮かぶイメージに鋭い爪や刺が生えていて、それが自分を苦しめるのだとつい考えたくなるのかもしれない。 |
|
悲しいときに自分を責めたり呪ったりしないことだ。胃袋が意見を言っていると考えたらいい。 |
病気よりも情念の方が耐え難い。その理由はおそらく、情念はどれも自分の性格や考えから生まれるように見えるにもかかわらず、どうやっても抵抗できない必然の様相を呈しているからだろう |
|
病気を演じるのではなく、健康のふりをしなければならない。礼儀正しいふるまいや親切な行いは健康につながる。 |
病気よりも情念の方が耐え難い。その理由はおそらく、情念はどれも自分の性格や考えから生まれるように見えるにもかかわらず、どうやっても抵抗できない必然の様相を呈しているからだろう |
|
理性的な思考で想像力を押さえつけることはできない。ラム酒の方がよほど効く。 |
人間というものはただそこにいるだけで、そして感情や情念を外に表すだけで、他の人に強く働きかける。何かを目にすると、憐憫も恐怖も怒りも涙も、こちらが何か考え始める前に噴き出してくる。 |
|
起きたことは、たとえそれがどんなに悪いことであっても、起こりうることの余地をなくすという点で、もう起こらないという点で、よい面を持っている。 |
実際の不幸は足が速い。処刑人は突然やって来て、髪を切り、シャツの襟を拡げ、腕を縛り、追い立てる。それを私が長い時間と感じるのは、そのことを考え、何度も立ち帰りるからである。 |
|
ほほえみはあくびと同じように身体の深いところまで届き、喉、肺、心臓を次々に楽にする。 |
ほんの些細なことが原因で、たとえば靴擦れのせいで、せっかくの一日が台無しになることがある。そういうときは何をやっても楽しくないし、頭もうまく働かない。だが治療法は簡単である。 |
|
不調の大半は、注意しすぎ心配しすぎるせいである。いちばん確実な治療法は、胃や腎臓の病を足のまめ以上に恐れないことだ。 |
「まず必要なのは、できるだけ満ち足りた気分でいることだ。次に、身体そのものを対象にした心配を追い払う。そういう心配は、生命の維持に関わる機能を必ず混乱させてしまうものだからね」 |
|
不機嫌に対して知性は役に立たない。礼儀作法に頼り、義務的なほほえみに助けを求めるのがよい。 |
動物が人間とほぼ同じ条件の下に置かれ、同じくらい無理をさせられているにもかかわらず、病気がずっと少ないと言ってふしぎがっていた。これは、動物は不機嫌にはならないからである。 |
|
現在だけの苦痛なら何ほどのこともない。私たちは痛みを感じる以上に恐怖を感じるのである。 |
苦痛というものは見られたがりである。誰にも見てもらえず考えてももらえないときは、苦痛は全然感じられもしない。一瞬で過ぎ、忘れ去られる苦痛は苦痛とは言えない。 |
|
出来事が劇的に脚色されるのは、あとになって思い出して恐怖を感じるからである。 |
このたびの大きな難破事件で助かった人たちには、おそろしい思い出が残された。舷窓に迫ってくる氷の壁。一瞬のためらいと希望。船首が下がり始め、あかりが突然消え、1800人の乗客の悲鳴が上がる。 |
|
自ら手を動かして働く人々が平和を愛するのは、けっして偶然ではない。彼らの生きる時間は充実して確信に満ちており、絶えず死に打ち克っている。 |
自ら手を動かして働く人々が平和主義者なのは、けっして偶然ではない。彼らは一瞬ごとに勝利を収めている。この人たちの生きる時間は充実して確信に満ちており、絶えず死に打ち克っている。 |
|
お辞儀やほほえみといった動作には、反対の動作、たとえば怒りや不信や悲嘆を表す動作をできなくする、という好ましい効果がある。 |
あらゆる心の病に、そして体の病気の初期症状にも必要なのは、体を柔らかくして動かすことである。この治療法でたいていのことには間に合うはずだが、誰もそうは思っていないらしい。 |
|
手のひらは、開くか閉じるかどちらかしかできない。手を開くとき、あなたは拳の中に握りしめていた怒りや苛立ちをすっかり逃がしてやることになる。 |
だから悩みごとがあるときは、理屈で考えようとしてはいけない。自分で考えた理屈が自分を鋭く責めることになるだろう。それよりも、腕の屈伸運動をやってみたら、その効果にきっと驚くにちがいない。 |
|
正しくひざまずき怒りを追い出す姿勢をとれば、必ず安らぎが得られる。 |
ところが人間は、情念に身をまかせたとたんに大馬鹿者になってしまう。誰かに侮辱された人は、そのことを証拠立てようとあれこれと理屈をつけ、相手を一層悪者に仕立てる理由を探しては見つける。 |
|
炉端で犬があくびをしたら、それは、心配事は明日に回しなさいという猟師たちへの合図である。 |
炉端で犬があくびをしたら、それは、心配事は明日に回しなさいという猟師たちへの合図である。何の遠慮会釈もなく手足を伸ばすこの生き生きした力は、見ていて気持ちがよく、ついまねをせずにはいられない。 |
|
寒さに対抗する唯一の方法は、寒さに満足することである。 |
激怒を端的に表す動作と言えば、我と我が身をかきむしることである。これは自分で自分を痛めつけ、自分で自分に復讐する動作である。そして不機嫌のしかけた罠に落ち込む。 |
|
不機嫌になった自分を許してあげなさい。他人を許すには、まずは自分を許すことが大事である。 |
誰でも、風向きや胃の調子によって機嫌が悪くなるものだ。扉を蹴飛ばす人もいれば、扉に八つ当たりするように無意味な言葉を吐き散らす人もいる。心の広い人は、こうした出来事を忘れてしまう。 |
|
何はともあれ出発することだ。どこへ行くかはそれから決めればよい。 |
いったい誰が、行き先を選んでから出発しただろうか。誰も選びはしなかった。誰でも最初は子供だったのだから。誰もがまず何かやってみて、そうして環境に応じて自然に向き不向きができていった。 |
|
私たちは自分たちの気分を開墾し整地する必要がある。気分のままにまかせるのをやめなければいけない。 |
大事なのは、ものごとを整理し、簡単にし、切り捨てることである。半醒半睡の神懸かり状態など、眠りの中に投げ込んでしまう方が人間らしいと私は思う。すぐさまぐっすり眠り込むのが健康のしるしである。 |
|
予言や占い師の言葉は希望を殺しかねない |
ものごとのつながりや因果関係をよく理解していないと、運命に押しつぶされることになる。予言や占い師の言葉は希望を殺しかねないし、予兆だの神学的観念だのはどこにでも転がっている。 |
|
未来を知りたがる病は退治する必要がある |
知り合いの男が手相を見てもらったことがある。退屈しのぎに運勢を知りたくなっただけで、信じるつもりはないと言っていた。だがもし事前に相談されていたら、きっと私は止めていただろう。 |
|
意気地のない生き方はぐずぐず時間をかけて死ぬことにほかならない。 |
ヘラクレスの難業を子供たちに暗唱させたらよいと思う。ヘラクレスの生き方こそ生きるということであり、意気地のない生き方はぐずぐず時間をかけて死ぬことにほかならない。 |
|
小さなきっかけで新しい世界が開ける |
「想像力とはすごいものだ。君は戦わないうちに負けている。自分の手の届かないところまで考えない方がいい。問題の途方もない大きさと人間の無力さを考え始めたら、何もできやしない」 |
|
社会は、求めない者には何も与えない。そして「求める」とは、ずっと求め続けることである。 |
若者は何もせずに僥倖を待っていたりする。だが幸運が天から降ってくることはない。人が望むものは、むしろ山に似ている。山は待っていて、けっして逃げたりはしないが、しかしこちらがよじ登らなければならない。 |
|
欲しいものが手に入らない原因は、ほんとうには望まなかったせいであることが多い。 |
体つきや身ぶりによって衣装にひだやしわができるように、何事にもその人らしさが現れる。机も書斎も寝室も家全体も、人間の手一つで片付きもすれば乱雑にもなる。事業も、やる人次第で大きくもなれば小さくもなる。 |
|
習慣はこちらが従うから威力を発揮するという点で、偶像と似ている。 |
一度でも絶望を味わうと、思い込みが確信に変わり、強固な主張となって、もはや和らげることができない。この幻想としか言えない信念が生まれるのも当然かもしれない。 |
つづく