
今日はたまたま札幌の郊外へ出かけました。
途中の道に、前から気になっていた場所があったので寄ってみました。
2011.10.7
時々
たまに 
気になっていた場所とは、札幌市の隣町、北広島市にある『旧島松駅逓所』です。
駅逓は、駅舎と人馬を備えて宿泊と運送の便を図るため設置されたもので、開拓期の北海道で重要な役割を果たしたそうです。



島松駅逓所は明治6年、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置されたもので、明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵氏が経営にあたっていたそうです。


当時北海道では米づくりが不可能とされていたらしいのですが、米づくりにチャレンジした男こそ、中山久蔵氏だったそうです。
中山久蔵氏は、「赤毛種」と呼ばれる寒さに強い稲の試作をはじめ、水温を一定に保つため昼夜を問わず管理し苦労を重ね、米づくりを成功させたそうです。
明治6年の秋には反当り345kgの米を収穫。これが北海道の米づくりの夜明けとなったそうです。



明治9年、札幌農学校(現北海道大学)に初代教頭として着任したクラーク博士は、多くの教訓を残しました。
別れの日、島松駅逓所まで見送りにきた学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志をいだけ)」の言葉を残していきました。

この有名な言葉は誰もが知るところですが、その舞台となったのがここだったそうです。

明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所になったそうです。

駅逓屋外の脇には陛下に供した『御善水の井戸』も保存されていました。


つかの間の晴れ間でしたが、永い事気になっていた『旧島松駅逓所』と『クラーク博士の碑』を見ることが出来ました。

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途中の道に、前から気になっていた場所があったので寄ってみました。
2011.10.7



気になっていた場所とは、札幌市の隣町、北広島市にある『旧島松駅逓所』です。
駅逓は、駅舎と人馬を備えて宿泊と運送の便を図るため設置されたもので、開拓期の北海道で重要な役割を果たしたそうです。



島松駅逓所は明治6年、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置されたもので、明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵氏が経営にあたっていたそうです。


当時北海道では米づくりが不可能とされていたらしいのですが、米づくりにチャレンジした男こそ、中山久蔵氏だったそうです。
中山久蔵氏は、「赤毛種」と呼ばれる寒さに強い稲の試作をはじめ、水温を一定に保つため昼夜を問わず管理し苦労を重ね、米づくりを成功させたそうです。
明治6年の秋には反当り345kgの米を収穫。これが北海道の米づくりの夜明けとなったそうです。



明治9年、札幌農学校(現北海道大学)に初代教頭として着任したクラーク博士は、多くの教訓を残しました。
別れの日、島松駅逓所まで見送りにきた学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志をいだけ)」の言葉を残していきました。

この有名な言葉は誰もが知るところですが、その舞台となったのがここだったそうです。


明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所になったそうです。

駅逓屋外の脇には陛下に供した『御善水の井戸』も保存されていました。


つかの間の晴れ間でしたが、永い事気になっていた『旧島松駅逓所』と『クラーク博士の碑』を見ることが出来ました。

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