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折々の想い

◇不定期更新による、のんびりエッセイです!

チーム・ミニストリーズ

2023年03月23日 | エッセイ
「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(エペソへの手紙・第4章11-12節「新改訳聖書2017」 )
 
◇これは、いわゆる「五役者(ごえきしゃ)」のことです。
 
◇さて私自身は、かなり以前からキリスト教会にはソーシャルワークの働きを担うべき専門職が必要である、との考えを有し、そのことを事あるごとに表現してきました。しかし私自身の非力さゆえに、あまり関心を寄せてもらえませんでした。ただ、さすがに高齢化やバリアフリー思潮が浸透してきたためか、福祉的配慮について関心を寄せる教会が増えてきたことは感謝です。しかし、例えば教会に集う人たちの中で、家庭内でのネグレクト&虐待問題や学校や職場に馴染むことができずに苦しんでおられる人たち、あるいは経済的な困窮度の高い人たちに対するキリスト教会の姿勢や、そのことに対する福音理解は、はたして充分でしょうか?
 
◇誤解を招くことがないように書き添えますが、キリスト教信仰に基づく社会福祉実践の歩みをみるとき、わが国においても大きな貢献がなされてきたことをキリスト者のひとりとして誇らしく思っています。
 
◇ところで学校にはカウンセラー職が配備されていますが、10年あまり前からはソーシャルワーカー職も配備されるようになりました。しかしいまだに認知度は低く、学校ソーシャルワーカーが何をする人で、カウンセラー職とは何が異なるのかについての理解が進んでいないことを現業に就いている者として悲しく思っています。
 
◇任用の必須要件に学校ソーシャルワーカーの基礎的資格である精神保健福祉士&社会福祉士の国家資格を定めている自治体は、ようやく半数程度の状態で、ひどい自治体では、ただ単に教育に関心がある人であればOKといった状態です。そうした人たちにソーシャルワーカーの役割機能やカウンセラーとの相違点についての説明を求めても理論的・実践的に返答できないのは当然です。
 
◇同じくキリスト教会でも、牧師職にある牧会者が聖書信仰に基づくカウンセリング(これを牧会カウンセリングと称します)を行うことをホームページ等で謳(うた)ってはいても、ソーシャルワーク的な支援を行います、との表現に触れたことは、少なくとも私はありません。牧師はソーシャルワーカーではないからです。ところがカウンセリングはできると思われている(らしい)のです。
 
◇キリスト教会のホームページをみると、カウンセリング的視点をベースとした牧会活動であるとか、メッセージ(礼拝説教)を強調している教会はよくみかけます。つまりは聖書信仰に基づく自己理解(受容)と他者理解(受容)の在り方であるとか、「ありのままの、あなたが神さまから無条件、かつ絶対的に愛されているのです!」を強調しようとするスタイルです。語る方も聴く方も、まことに「心地よい」トーンであり内容です。それに対してソーシャルワークが取り扱う諸問題は、語る側もそれを聞く側も「心が重くなる」内容が多いのです。その結果、教会が福祉問題を重視しようとすると教会内が福音宣教の働き以上に社会&政治活動に比重を置くような雰囲気や傾向が強くなったりもします。バランスが難しいですね。
 
◇「五役者」を換言すればチーム・ミニストリーズです。学校では「チーム学校」と称されますが、同じくチーム・ミニストリーズを標榜するキリスト教会において、そこにソーシャルワーカー的な機能が必要なのではないか、私はそう考えているのです。

折々の想い・・

2020年01月01日 | エッセイ

◇ここには、私が折々に想い、感じた事柄を、徒然なるままに書き綴ったショート・エッセイを載録してあります。特に何かポリシーや目的をもって綴っているわけではありません。折々に思い至った自分の気持ちを整理したり、確認するためにランダムに書き綴っているにすぎません。

◇そのため、私自身が想い、感じたことを連続的に書き綴ることもあれば、ずいぶんと間隔が開いてしまうこともあります。要するに不定期更新です。そのことをご理解いただきながら、お読みいただけると感謝です。


モグラたたきゲーム

2015年11月10日 | アイヌ文化・歴史

◇こうした民族差別問題に限らず、どんなに些細な問題でも、無知に起因する偏見・差別・権利侵害事象を見逃してはなりません。むかし先輩の同僚教員が、「ケースワークは、まるでモグラたたきゲームのようだ!」と嘆息気味に語っていたことを思い出します。だからといって、歩みを止めてはならないのです。その同僚教員も終生、そうした歩みをされました。立派な先輩教員でした。

◇「イメージなんだから、そんな細かい文言(もんごん)までチェックしたり、クレームをつけたりしなくても良いではないか・・」との顰蹙(ひんしゅく)のまなざしを向けられることを覚悟の上で、一つひとつの偏見・差別・権利侵害事象を、ポコッ&ポコッとばかりに、つぶしてゆかねばなりません。モグラが減るのかどうかは定かではありませんが、出てくる頻度は確実に減るからです。

◇アイヌ協会も、アイヌという名称を使用することにためらうような状況が長く続いたために、ウタリ協会と称してきました。ウタリとは「同胞」との意味です。ニュージーランドの先住民族はマオリ民族です。マオリとは「人間」という意味です。アイヌも同じく「人間」という意味です。

◇ニュージーランドの公用語をご存じですか? 英語とマオリ語と「手話」です。非核法により、永遠に原発に依存しない国家です。人権国家とはそうしたものです。

◇ニュージーランド国歌を聴いたことがありますか? 必ずマオリ語の歌詞を最初に歌うのです。下記の私のサイトから聴くことができます。

http://www.yamaki-web.com/aotearoa.html

◇言うまでもなく、北の大地はアイヌランドです。和人の一人として、今回の配慮に欠けた事象を申し訳なく思うと共に、さらなる共存共栄のために手を携えて歩みたいと強く思うのです。

新千歳空港の広告 日ハム撤去
11月10日 00時36分(NHKウエブニュース)

 プロ野球・日本ハムは、北海道の新千歳空港に掲げている「北海道は、開拓者の大地だ。」と書かれた広告について、先住民族であるアイヌ民族に対し「配慮に欠けていた」などとして、9日夜、撤去しました。この広告は、日本ハムがことし6月から新千歳空港のロビーに掲げていた垂れ幕型の広告の1つで、栗山監督の写真とともに「北海道は、開拓者の大地だ。」と書かれています。これについてアイヌ民族の団体「北海道アイヌ協会」が、8日球団に対し、「広告の表現からは先住民族としてのアイヌ民族の存在が読み取れず配慮が足りない」などと電話で伝えたということです。これを受け日本ハムは対応を検討していましたが、9日この広告を撤去することを決め、夜8時すぎに作業員が撤去作業を行いました。日本ハムが発表した文書では指摘を受けた表現について「プロ野球界において常に先進的な取り組みをし、新たな領域を切り開くチームであり続ける意図を込めた」と釈明しています。そのうえで「アイヌ民族に対して配慮に欠けたことはお詫びすべきだ。今後も歴史認識を深め、敬意をもって発展的な関係構築に努める」などとしています。


生き延びた者として・・

2015年10月26日 | 3.11

 

◇数日前から取り組んできた『サザンクロス通信・第3号』を作成しています。あす、職場の教職員宛にPDFファイルで一斉メールで送ります。業務報告のようなものです。すでに作成して送付済みの「第1・2号」は下記のアドレスからアクセスして読むことができます。第3号は、たぶん10日後くらいから読めるようになると思います。仮設住宅に届いた後になりますので・・。

◇私が関係している仮設住宅にも郵送するため、できるだけ日本語のみで作成するように心がけてきました。しかし、なかなかそれは難しく、今回からは職場用と、それ以外の2つのタイプを作成することにしました。と言っても、英語表現の部分を多少、変更するだけですが・・。

http://www.yamaki-web.com/SC.html

◇さて、ある人が産業カウンセラー養成講座を終えたとのことで、思い出したことがあります。それは、かつて私自身が養成講座で学んでいたときのことです。

◇ある女性自衛官が私のグループにいました。どこの組織体も人間関係やストレス対応をする必要があるため、産業カウンセラーの資格を取得した後には、部隊内のそうした部門で相談支援業務に就く予定とのことでした。まだ幼き二人のお子さんを持つ、とても真面目で誠実な女性でした。連れ合いさんも同じ自衛官とのことでした。

◇それから数年が経ちました。あるとき、テレビ番組でその女性自衛官がインタビューに答えていたのを偶然に観ました。3.11からしばらく経ってからのことでした。

◇彼女が勤務する駐屯地は大津波の被害に遭ったため、お子さんたちのことが心配で自宅に戻りたいと強く思ったそうです。当然です。しかし事務官とはいえ、自衛官です。自分の都合で自宅に戻ることはできませんでした。それは連れ合いさんも同じでした。どちらかのご両親に預けていたとのことでしたが、安否確認もできずに不安な数日間だったそうです。そうした厳しい状況に置かれた被災地域で生活する自衛官たちも決して少なくはなかったのです。

◇やがて、ようやくにして自宅に戻ることができ、我が子の無事な姿に出会うことができて、ほっとした、と涙を流しながらインタビューに答えていました。いつの間にか私も、もらい泣きをしていました。

◇産業カウンセラー養成講座で学んでいたときには、まさかその数年後に自分自身が被災当事者になるとは予想だにできなかったことです。今日ひとひを、心を込めて精いっぱい歩むことの大切さを知らされます。

◇私は北海道網走郡美幌町という小さな田舎町で生育しました。そこには美幌駐屯地があり、私の姉も長い間、そこで働き、その連れ合いさんも自衛官でした。現在も私の姪の連れ合いさんは現役自衛官です。道産子たちの多くは自衛隊などとは呼びません。皆、親しみと信頼をこめて「自衛隊さん!」と呼びます。たぶん、ですが・・。自衛隊は街の誇りであり、自衛官は尊敬すべき人たちだからです。

◇現在、私が居住しているのは宮城県岩沼市です。そこには災害派遣部隊としての訓練に励んできた、三重県津市にある「第33普通科連隊」がレスキューにやって来ました。部隊サイトは下記です。画像のように、泥水に腰までつかりながらの捜索活動の日々でした。私は避難所のそばにテントを張る自衛官たちに話しかけました。「かなり疲れたでしょう? いつ交替するのですか?」すると「我々は災害派遣部隊なので交代要員はいません!」そう答えてくれました。涙が出ました。

http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/butai/butai/33i/

◇やがて数ヶ月が経過し、状況も落ち着いてきたため、別の部隊と交替することになりました。私はぜひ、見送りたいと思っていました。他の自治体では多くの住民たちが別れを惜しみました。しかしそうした情報が流れないままで部隊は撤収してゆきました。「まだ完全に復旧作業を終えていないため、別れのセレモニーは遠慮したい」との部隊側からの要請だったそうです。それでも、その情報を聞きつけた市民たちが手を振って感謝の気持ちを伝えたそうです。

◇ある子どもの手紙には大川小学校のことが綴られています。2011年12月24日のことでした。その日は小雪が舞う寒い日でした。私は宮城県石巻市の大川小学校にいました。その年の3月11日に、ここで多くの前途ある幼き子どもたちが命を失ったのです。画像は12月24日に撮ったものです。

◇生き延びた者の責務として、為すべき事がある筈です。まだまだ無限大にある筈なのです。臨床現場で歩み続ける、ひとりのソーシャルワーカーとしての私は、そう考えるのです。

◇自衛隊、そして自衛官たちは、私たちの誇りです!


オーストラリアにおける「慰安婦像」設置問題について

2015年10月17日 | 政治・社会問題


 ◇画像は、先日、シドニー大学に行ったときのものです。あるセレモニーが行われていたため聞くと、ディプロマコースの修了式とのこと。公開状態だったので中を覗くとチャイニーズ系学生たちでいっぱい。「これはチャイニーズを対象としたコースなのですか?」と聞くと、そうではない、とのこと。それにしても、ほぼ全員がチャイニーズ系でした。

◇シドニー市内に滞在したのは13年ぶりのことです。そのときも「チャイニーズ系が目立つなぁ・・」と思いましたが、今回の5日間の滞在で、その傾向が顕著になったことを強く感じました。オーストラリアへのチャイニーズの移住は長い歴史を持ち、それだけこの地に根を下ろしています。チャイニーズ系住民を無視しては、おそらくオーストラリアはバランスを取るのが難しいのではないかとさえ思われます。そのことは何人ものオージーたちからも聞きました。

◇さて、2011年12月14日に韓国ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されましたが、2013年7月30日にはアメリカのカリフォルニア州グレンデール市にも慰安婦像が設置されました。下記のサイトは、その像を実際に見に行った人が綴った報告です。

http://worlddeep.info/glendale-comfort-women-statue/

◇いわゆる「従軍慰安婦像」設置問題は朝日新聞社による大誤報(というより、ねつ造記事)がその原因です。その後、誤報の事実が明らかになったにも関わらず、政治利用ゆえか、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は常軌を逸したまでの執拗さをもって日本批判を繰り返しています。

◇この慰安婦像設置問題は実に根が深く、在米の中国人&韓国人コミュニティグループ(の一部勢力)による反日運動と連動しています。そして、そうした運動はオーストラリアも例外ではないのです。

◇以下の報告は、オーストラリアの最大都市であるシドニー郊外のストラスフィールド市を舞台とした「歴史戦争」の生々しい内容です。概略~詳細記事の順に関連サイトをご紹介しますが、3つめの「豪州発 日本人よ目覚めよ! 慰安婦像計画完全阻止を緊急報告 山岡鉄秀(AJCN代表)」は、その緊迫度がひしひしと伝わってくるような内容です。長文ですが、ぜひお読みください。

http://www.sankei.com/politics/news/150811/plt1508110022-n1.html

http://www.sankei.com/life/news/150107/lif1501070004-n1.html

http://www.sankei.com/politics/news/150923/plt1509230001-n1.html

◇話は変わりますが、朝日新聞は昨年の5月20日から、それまで世界中から賞賛を浴びていた、いわゆる「フクシマ50(フクシマ・フィフティ)」に関しても意図的な大誤報(「所長命令に違反して現場の9割の所員が撤退した」)を発信し続け、そのことによって吉田昌郎所長(当時)を先頭に、命がけで福島第一原発の事故対応にあたった当時のスタッフたちの名誉を地に落とすかのように陥れました。私もそのキャンペーン記事を読みましたが、ほんとうにひどい誤報でした。やがて他社もその資料を入手し始め、その意図的な誤報(やはり、ねつ造記事)が明らかとなりました。

◇他社が資料を入手する以前に綿密な現場取材を続けてきたノンフィクション作家である門田隆将氏は、いち早く「これはねつ造記事である!」との文章を公にしましたが、それに対して何と朝日新聞社は門田氏に「当社の名誉と信用を著しく毀損している。法的措置を検討している」との抗議書を送りつけたのです。要するに脅迫です。以下のサイトにその経過が述べられています。むろん、私自身もすでに門田氏の『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所 2012年11月24日刊)を読んでいました。

http://blogos.com/article/87529/

http://blogos.com/article/88262/

◇わが国を代表するメディア組織体の一つである朝日新聞社が、なにゆえ意図的に、こうも次々とわが国の名誉を陥れようとするのかは不明ですが、これらの誤報によって廃刊状態に追い込まれつつあった朝日新聞(と、その関連メディア)が、自社への厳しい批判から国民の目をそらすかのようにして一部政党の党利党略と連動しつつ仕掛けたのが、このたびの安保法案審議における「憲法違反」「戦争法案反対」「徴兵制度反対」といった一連のキャンペーンであったと私は判断しています。やや穿(うが)った見方をすれば、「熱しやすく冷めやすい」「情緒的なワンフレーズ・キャンペーンに影響されやすい」といった、日本人のメンタリティを巧みに利用した戦略であったかのようにすらも思えます。そしてその戦略は成功したかに見えましたが、結局のところ頓挫してしまいました。必要な情報を得るための媒体としての新聞やTVの比重が相対的に低下していたために、意図するようなキャンペーン効果を得られなかったからです。遠く南半球のオーストラリアで生活する私でさえも、この程度の情報を得ることができたのですから・・。

◇実は私自身は数年前から新聞購読をしていないのですが、それ以前は朝日新聞の購読者でした。50冊を超えるスクラップブックは、すべて朝日新聞の記事ですし、深代惇郎氏による『深代惇郎の天声人語』は愛読書のひとつでした。さらにはニュースステーションのコメンテーターでもあった小林一喜氏の『テムズの川霧が消えた』(朝日文庫 1992年)は名著のひとつです。いったい、いつから朝日新聞社の迷走が始まったのでしょうか?

◇かくのごとく、政治家でも社会運動家でもない私には、目を背けたくなるような一連の出来事ですが、多民族・多文化国家として融和的な歩みを重ねようとしているオーストラリアにおいてでさえも、こうした醜悪なるロビー活動が活発に展開されている、といった国際政治の暗部を把握しておくことも正しい状況認識や判断を持つうえで必要なのかもしれません。とても哀しいことですが・・。 


パワー・ポリティクス

2015年09月22日 | 政治・社会問題

 

◇このたびの安保法制について、私自身の想いをまとめておきます。最初にお断りをしておきますが、私自身は特定の政党を支持している者ではありません。

◇「ヒゲの隊長」こと、自民党の佐藤正久参議院議員の9月20日付けブログに、以下のような記載がありました。(原文のまま、一部転記)
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佐藤も野党議員にかなり殴られたり、蹴られたが怪我はなし(蹴った野党議員からは、かなり蹴ったんだけど効かなかった直接言われましたが、委員長護衛に集中していたのであまり感じませんでした。)
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◇全文は下記です。
https://www.facebook.com/masahisa.sato.775/posts/897090147052505?pnref=story

◇私はこの文章を読んで、「さすが自衛官出身だなぁ・・」と感心しました。かなりエキサイトしているような雰囲気の中でも感情的にならずに自分の役割を果たしていたことが、この文章から読み取れたからです。そう言えば、あれほど批判され続けても冷静な答弁に終始した中谷防衛大臣も自衛官出身です。

◇日本のみならず、こうした武官出身の政治家たちの発言は、皆、共通して抑制的であることが分かります。それは海保や警察官たちも同じです。武器の携行、および使用を許されている(許されてきた)者ゆえの抑制意識です。逆に、自己抑制が効かない感情的な人物に武器携行や使用判断を許した場合の結果は悲惨です。

◇今回の大規模デモや議論での、目をつり上げて激高した人びとの表情や、政府関係者たちに浴びせかけた罵詈雑言の数々を映像でみたり、文章を読んだりするたびに悲しみをおぼえました。美しい日本語を用いつつ、お互いを理解し合おうとするまなざしは、どこに消え去ったのでしょうか?

◇以下は大臣経験者である、自民党の山本一太参議院議員のブログです。「民主党政権も真面目に悩んでいた内閣法制局とのあるべき関係」と題された、9月22日付けのブログです。同じく、その一部を転載します。
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2010年6月8日の朝日新聞に次のような記事が掲載された。
<法令解釈担当は官房長官に>
「内閣が責任を持った憲法解釈論を国民のみなさま方、あるいは国会に提示する」
8日、菅政権の組閣発表の会見。官房長官に決まった仙谷由人は、よどみない口調でこう述べた。「憲法解釈は、政治性を帯びざるを得ない。その時点、その時点で内閣が責任を持った憲法解釈論を国民のみなさま方、あるいは国会に提示するのが最も妥当な道であるというふうに考えている」鳩山内閣と同じく、内閣法制局長官に憲法解釈などの国会答弁をさせない方針を続ける、その理由の説明だった。前行政刷新相の枝野幸男が兼ねていた「法令解釈担当」を自分が引き継ぐとも表明した。(後略)
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◇ブログの全文は下記です。
http://ameblo.jp/ichita-y/entry-12075785106.html

◇後に撤回・謝罪した仙谷官房長官(当時)による「自衛隊は暴力装置」(2010年11月18日参議院予算委員会)の発言は記憶していましたが、「内閣による憲法解釈論の提示」といった発言は失念していました。もちろん民主党政権当時の発言です。今回の法改正に対する激しいまでの批判の論拠を考えると、何だか自己矛盾のようですが、攻守立場を変えると、こうなるということが示された好例のような気がします。いわゆるパワー・ポリティクス(Power politics)ですが、これについては松田公太参議院議員のブログに、下記のような興味深い実態が綴られています。
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マイクが野次などは拾わないように設定されている高性能のものなので、TVの視聴者は気づいていないと思いますが、他の反対を叫んでいた政党は意外と議場内では笑ったり、軽口を叩いたり、パフォーマンスを喜んでワイワイ楽しそうにしている人が多かったのです。壇上で真剣に(?)討論をしていた議員も、席に戻るとユーモア溢れる軽い野次を飛ばしていました。この姿を見たら、雨の中、声と力を振り絞って夜中までデモをやっている人たちはさぞかしショックを受けるだろうなーと思ったものです。
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◇全文は下記です。
http://blogos.com/article/135253/

◇以上、何だか立派なことを書き述べてしまったみたいで恐縮ですが、もしも国内にいたならば、私自身も雰囲気に飲み込まれてしまった可能性があったかもしれません。そうした中で祖国が混迷するさまを、遠く南半球の地より見つめてきたのです。

◇以下は、最近、読んだ書籍(電子書籍版)の一部です。なお、発行年月日は電子書籍版が発行された年月日です。

◯清谷信一著『国防の死角 わが国は「有事」を想定しているか』(PHP研究所 2014年07月17日)

◯小川和久著『日本人が知らない集団的自衛権』(文藝春秋 2015年03月20日)

◯堀栄三著『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』(文藝春秋 2015年08月07日)

◯早坂隆著『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(文藝春秋 2015年08月28日)


不器用さ

2015年09月12日 | 原発のこと

◇私はもうずっと以前から、他者(ひと)と同じように生きることが難しいタイプの人間であることを強く自覚してきました。「こうすれば上手に生きることが出来るだろうになぁ・・」とは思えども、現実的には、なかなか難しいのです。そのことで思い悩むこともありましたが、あるときから「自分らしく歩むことが大切なのだから・・」との確信を得ることができ、ずいぶんと楽になりました。それはニュージーランドの文化に出会ったからでした。つまりは権利擁護や人権思想が高度に進展している多民族・多文化国家であるニュージーランドの雰囲気が、私にはとてもフィットしていたからです。今現在はオーストラリアで生活しているのですが、同じく、とてもフィットしていることを感じています。

◇実は今回、私は英国のある大学からも招聘状を受け取っていました。正直、とても魅力的な内容でした。かねてから英国の伝統的なソーシャルワーク理論や、その実際を学びたいと願っていた私にとって、英国での生活は魅力的に映りました。しかし結局、私はオーストラリアを選びました。理由はきわめて単純です。ニュージーランドと同じく、オーストラリアも原発に依存しないエネルギー政策をもって歩んでいる国だからです。

◇私は、これまで原発避難者さんたちが生活する飯舘村や浪江町、南相馬市の仮設住宅において交わりを深めてきました。そうした中で、「原発は人類が造り出した叡智の所産などではなく、モンスターである!」との確信に至りました。

◇「だって気流が自分たちの村の方に流れてきたんだもの・・」によって、当該地域の人びとが、それはもう悲惨なくらいに各地を転々とするような悲劇を招いたのです。もしも風の向きが私が居住する岩沼市(宮城県)や、職場のある名取市に向いていたならば、私も同じく逃げ回り、働き場も機能しなくなってしまったであろうからです。ただ単に風の向きによって、です。

◇最初の2年間は、職場のある名取市の仮設住宅で、被災住民さんたちに懸命に関わりました。大津波によって、そのすべてを失ってしまった人たちが大半でした。まさに「聴くも涙、語るも涙」の日々でした。そのいっぽうで、いつも原発避難者さんたちの苦しみに思いをはせていました。そして、ようやく3年目の2013年4月から飯舘村や浪江町の人びとにも関わることができるようになったのです。そこには、こころ優しい人びとが、ひっそりと生活を重ねる温かなコミュニティがありました。

◇ご承知かも知れませんが、例えば名取市の被災住民さんたちは、市内に設置された仮設住宅で生活しています。しかし飯舘村や浪江町の人びとは、あっちの自治体にひとつ、こっちの自治体にひとつ、といったように分散して生活しているのです。親しい人に会いたくても、峠を越えて遠くまで行かなければならないのです。あるとき飯舘村の村議会議員選挙が行われ、候補者の選挙演説を聞いたことがあります。しかし選挙活動ができるのは仮設住宅の敷地内だけなのです。理由は、そこが他の自治体の所有地だからです。つまりは二重三重に不便な生活を強いられているのです。

◇さて、1997年当時、私は福井県敦賀市から30分ほど離れた滋賀県内で生活をしていました。ご承知のように、敦賀市は数多くの原発が設置されている地域です。そこで私は、知人たちと、ボランティア活動で関わっていた福祉作業所の屋根に太陽光パネルを取り付け、それで電力をまかない、余剰分を関西電力に売電するといった活動に参加しました。しかし多くの人びとは、そうした活動に関心を寄せることはありませんでした。俗に言うところの「原発安全神話」です。

◇つまり私自身の原発に対する思いは、ずっと以前からだったのです。そのため、これまでニュージーランド各地の代替エネルギーの様子を定期的に調べてきたりもしました。個人的にはそうした経緯があります。それゆえ、原発を有する英国での生活にはどうしても踏み切ることができなかったのです。まことに不器用な私です。

◇ご承知のように、わが国政府は、とうとう原発再稼働に踏み切りました。「世界唯一の被爆国として原発の廃棄に踏み切りました!」と宣言する機会を自らが失ったのです。そして順次、再稼働を進めてゆくことでしょう。やがて人びとの多くは「厳しい安全基準を満たしたのだから・・」と容認姿勢を見せ始めることでしょう。「核廃棄物の処理問題? ・・ それは後世の人びとの叡智に委ねようョ!」といった姿勢をもって・・。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」かのように・・。

◇数多くの悲しみの涙を知ってしまった私には無理なのです。これほどまでに数多くの人びとの人生をねじ曲げ、安寧なる生活を困難に陥れ、地域崩壊を招いたモンスター(原発)に依存するような国の在り方を是認するようなまなざしを持ち、歩むことは・・。たとえ不器用と言われようとも・・。


難民問題に思う

2015年09月11日 | 難民問題

◇コミュニティセンターで開催されている在豪日本人たちの集いに参加しました。皆さん、在豪生活が長い方々ばかりで、もっとも長い人は、もう50年だそうです。

◇あまり細かなことを書くことはできないのですが、皆さん、それぞれの想いを篤く語ってくださいました。

◇皆さんが口々におっしゃるのは、「この国で生活してきて良かった!」ということでした。もっとも、やや、うがった見方をすれば、オーストラリアでの生活に批判的な人は、すでにこの国を離れ去ったのだろうし、たとえ居住していたとしても、こうしたサークルには参加してこないだろう、ということです。

◇「この国で生活してきて、どういったところが良かったのか?」については、「この国では自分なりの生き方が尊重されるから!」といった共通項がありました。「いい加減に見えても、やるべきときには、しっかりやってくれる国だから!」というのも、まさに言い得て妙でした。「ファーストネームで呼び合うような平等主義国家だから!」というのもその通りだと思いました。

◇私がニュージーランドの人びとに、「以前、ニュージーランドで1年間を過ごし、これまで17回もこの国を訪問してきたので、国内で知らない場所は、ほとんどない!」と言うと、驚かれることがよくあります。ニュージーランド国歌のマオリ語の歌詞も、何も見ずに歌えますし・・。そして「この国が、そんなに好きなのか!」とばかりに、すぐに仲良くなることができます。

◇現在はオーストラリアで生活しているため、「私の中の33%は日本人で、33%がキーウイ。そして34%がオージーだ!」と言うようにしています。心からそう思っているからです。もっとも「1%」の部分は「受け狙い」ですが・・。(笑)

◇この国に来て、「まったく物価は高いし、シャワートイレもないし、お風呂にも浸かれないし、アバウトなことばっかりだし、それからそれから・・」では、とても無理です。大切なのは敬意のまなざし、すなわちリスペクト(Respect)だからです。

◇ところで、皆さん方の多くが欧州の難民問題にとても関心がありました。オーストラリア政府が、新たに12,000人あまりの難民を受け入れる、との発表がありましたが、そうした姿を自分たちに重ね合わせているように私には感じられました。もちろん自分たちは難民ではないにせよ、他国からこの国に移り住んできた人間たちに対して、この国がどのような対応をするのだろうかが強い関心なのだと思うのです。しかし、さすがに多民族国家です。

◇さぁ、そこで「日本は、はたして・・」になりました。「自分たちの祖国は、そうした点で誇りに足り得る国なのだろうか?」ということです。

◇個別的なケースにおいては、もう充分すぎるほどに誇れる国です。3.11の大災害においても、被災された定住外国人の皆さんへの対応も、私が把握する限りにおいて決して差別的ではありませんでしたし、仮設住宅で生活している外国人に対しても、皆で支えている姿を見てきました。さらには、ここ数日間の集中豪雨の様子を新聞記事やYouTube等の動画サイトで見ても、皆で助け合っている様子がつぶさに分かります。

◇問題は国全体としてどうなのか、です。福島の原発避難者さんたちの苦しみを知りながらも(否、ほんとうに知っているのかは定かではありませんが)、さらなる経済的繁栄を求めようとしての今回の川内原発の再稼働は、その顕著な例です。

◇どうか日本社会が有する優しさを、難民受け入れの政治的配慮にも活かしてもらいたいと強く願うのです。

◇余談ですが、ここしばらく「安保関連法案に反対せよ!」といったメールが、私が関係する、いくつかの組織体や個人から飛び込んできましたが、難民受け入れ問題に関しては、なにゆえか沈黙状態です。こうした点でも、やはり違和感がぬぐえないのです。

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※以下は、『漂う民:安住の地求め 難民認定1%未満 際立つ日本の「鎖国」さらに厳格化、国際世論に逆行』とのタイトルで、今朝の毎日新聞(東京朝刊)に載せられた記事の一部です。すぐれた記事なので、毎日新聞さん、一部引用を、どうかお許しください!

 欧州にシリア難民らが押し寄せている問題で、各国が新たな受け入れを表明する中、難民認定が極めて少ない日本の現状に海外メディアや人権団体から疑問が投げかけられている。法務省は審査をさらに厳しくする制度見直しを検討しており、国際世論の高まりと逆行する日本の「鎖国」ぶりが際立つ格好になっている。ロイター通信は9日、「欧州は難民に扉を開き 日本はさらに厳格に」と題する記事を配信。昨年の日本の難民認定数が5000人の申請者に対しわずか11人だったことを紹介し、法務省が事実上の制度厳格化を検討していると伝えた。英紙ガーディアン(電子版)も同日、日本の難民に対する門戸の狭さを批判的に報じ、欧州の難民問題によって「日本政府への圧力が高まっている」と指摘した。・・・・日本は菅義偉官房長官が7日の記者会見で「現時点で具体的な政策を追加することは考えていない」と述べ、受け入れに及び腰だ。・・・・法務省の統計では、難民申請者数は増加しているものの、認定数の割合は2012年以降、1%未満にとどまる。


違和感補説

2015年09月08日 | 難民問題

◇今日は地域のキリスト教会が実施している支援活動に参加しました。30名ほどの人びとが集まり、皆でランチを楽しみました。その中には失業中の人や、ホームレス状態の人たち、さらにはこの国に移住してきて間もない人たちも含まれています。私に話しかけてくださる人たちも増えてきたため、笑顔いっぱいでお話を聴きます。語学力不足のために内容が理解できないことも多いため、ただ頷きながら聴くこともあります。まったく何が幸いするのか分からないものですね。(笑)

◇ある高齢の女性が欧州の難民問題のことについて話し始めました。難民たちがドイツに入ることができたので良かった、と言うので、「どこの国から移住してきたのですか?」と訊くと、「第二次世界大戦が終わった後に、10歳の時に両親と共にドイツから移住してきた」とのこと。東西両ドイツに分断されてしまう直前の移住でした。ご両親としては、さぞかし「心ならずも祖国を離れた」ことでしょう。

◇さて、昨日のエッセイで「違和感」について書きました。いったい、どれほどの人が読んでくださったのかは不明ですが、特に最後の部分は分かりにくいと思われたかもしれません。文章が下手で申し訳なく思っています。

◇違和感というのは、「日本が戦争に巻き込まれる・・」等々といった表現が飛び交う、今回の安全保障関連法案を巡るアピールについて、多民族国家であるオーストラリアの場合は、はたして「国家」をどうとらえているのかの整理が私自身、できていなかったからです。それは日本の場合も同じで、定住外国人の人たちや、在日の人たちにとって、「日本が・・日本が!」と叫ばれると、どう思うのかの整理ができていなかったからです。

◇もしも多民族国家であるオーストラリアで「この国が戦争に巻き込まれる・・」とアピールするような場合は、いったいだれがアピールをするのでしょうか? オーストラリアの永住権を持っている人でしょうか? オーストラリア国籍を持っている人でしょうか? それとも先祖代々からオーストラリアに居住してきた子孫たちなのでしょうか? ちなみにオーストラリア軍は、昨年、イラクでイスラム過激派組織(ISIS、ダーイシュ、IS)に対する空爆を実施しました。

◇ご承知のように、かつてのオーストラリアは流刑の地でした。また1975年の人種差別禁止法の制定をもって、その終焉をみた白豪主義を標榜した「負の歴史」を有しています。しかしそれ以降は、すぐれた多民族・多文化国家を構築すべく、そのための施策を推進してきました。ちなみに、この国の先住民族はアボリニジ(Aborigine)です。

◇そうした中で、現在、多民族国家であるオーストラリアで生活している私は、「日本が、日本が・・」と叫ぶ、その実態概念に違和感をおぼえたのです。はたしてその概念の中には、在日の方々や、定住外国人の方々が含まれているのでしょうか?

◇最初に書き述べたように、欧州各国からオーストラリアに移住してきた人びと、とりわけ第二次世界大戦の戦火から逃れるべく、この国に移住してきた人たちや、1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(ボスニア紛争)から逃れてきた人たちにとって、欧州の難民問題は他人事とは思えないのです。マケドニアから移住してきた人が、ユーゴスラヴィア解体後に始まった激しい混乱の様子を、あふれるばかりに私に語り続けたことを思い出します。

◇これに対して日本は、これまでどれほどの難民たちを積極的に迎え入れ、それらの人びとと協同しながら国家形成(国づくり)を行ってきたのでしょうか。確かに最近、ビザ発給条件が緩和されたことは承知していますが、それとて観光客を呼び込むための政治的措置であることは明白です。さらには不法滞在者の増加や、外国人犯罪者たちの増加問題等も承知しています。しかしその背景には、これまで日本が多民族・多文化国家の構築に熱心であったとは決して言えなかったことに根源的な原因があるように私には思えるのです。

◇「日本が戦争に巻き込まれる!」と叫ぶ、その「にっぽん」とは何ですか? 「にっぽんじん」とは、いったい誰のことですか? 原発事故による放射能汚染は日本の領土のみに限定された問題ではなく、世界(地球)規模での環境汚染問題ではないのですか? それを日本政府のみの判断で再稼働に踏み切っても良いのですか? 私はそこに違和感をおぼえるのです。


違和感

2015年09月07日 | 難民問題

◇内戦状態にあるシリアなどから逃れた難民や移民たちの問題が深刻化しており、その多くはドイツへの入国を願っている、との報道がありました。やがて生活が落ち着いた後には、移民国家であるこの国(オーストラリア)への移住も始まるのかもしれません。いつものことですが、領土・民族・貧困・宗教などといった要因が複雑に絡み合わさっての悲劇です。

◇もう10年あまり前のことです。ニュージーランドの南島を車で移動していた時に、マウントクック近くの休憩所で日本人の女子大生たち数名(2人だったかな?)と出会いました。「ここまでどうやって来たの?」「これからどこへ行くの?」「どうやって行こうとしているの?」と訊くと、「ヒッチハイクで来て、これからもヒッチハイクで移動します!」とのこと。そこで、「そんな危険なことをしてはいけないョ!」と言って、目的地まで乗せて行ってあげたことがありました。

◇目的地であるハーミテージホテルは日本人観光客たちも多いため、「ここからバスを使って帰るんだョ!」と言ってあげました。その数日前には北島で、やはり日本人の若い女性がヒッチハイクで移動中に、運転手の男性から乱暴され、車から放り出された、といった事件が起きたばかりでした。ニュージーランドであろうとなかろうと、こうした事は起こりえます。

◇あるとき日本の学生たちと38度線近くまで行ったことがあります。非武装地帯近くの前線基地で説明してくれたのは、兵役に就いている韓国の若い兵士でした。それに対して日本の大学生たちの緊張感に欠けた態度は悲しいほどでした。最近の南北間で生起した緊張状態でも顕著になったごとく、南北間は未だ休戦状態に置かれているだけなのです。

◇トドワラ観光で知られる別海町の野付半島に行かれたことは、おありでしょうか? そこから、わずか16キロほど向こうには何が見えるでしょうか? 言うまでもなく国後島です。さらにその向こうには択捉島があり、軍事基地化しています。

◇私は日本地図を見る機会があれば、まず最初に北方四島をチェックします。そして、もしもそこが日本の領土として記載されていなければ、必ず「クナシリ・エトロフ・ハボマイ・シコタンは日本固有の領土です!」とアピールします。ただし、これらの島々も、元々はアイヌの人びとが暮らしていたのですが・・。和人である私には申し訳ないかぎりです。

◇私の叔父は樺太(カラフト)からシベリアに抑留され、7年間強制労働を強いられました。同じく叔母は、樺太から命からがら稚内に逃れてきました。どうか稚内にある樺太島民慰霊碑(氷雪の門)を訪れてみて下さい。まさに私の叔母も電話交換手だったのです。下記は、その映画の予告編です。

https://www.youtube.com/watch?v=QFueq5PKNwo

◇余談ですが、おそらく多くの人たちは戦後、北海道分割論があったことはご存じないと思います。スターリンがそれを要求したのです。その要求が通っていたならば、オホーツク海沿岸部の網走郡美幌町で生育した私は、今、ロシア語を話し、パスポートとビザを持って日本国内への移動を許されるような立場になっていたと思います。事実、かつての東西ドイツや西ベルリン、さらには現在の朝鮮半島をみるとき、思わず身震いがしてしまいます。

◇在留届を出しているメルボルンの領事館から定期的にメールで、さまざまな情報が流れてきます。その中には「夜間外出の際には、ご注意ください!」などといった注意喚起の情報も含まれます。つまりは邦人保護関連です。私にはパスポートだけが頼りなのです。

◇私がふるさと(美幌町)にニュージーランド(ケンブリッジ)との姉妹都市提携を働きかけたのは、先住民族であるマオリ族の言語を公用語(の一つ)とするニュージーランドの文化を、同じくアイヌ文化を有する、わがふるさとに紹介したいと願ったからです。さらには姉妹都市交流を通して争いを防ぐことができるのでは、と考えたからです。幸いにして、すでに数百名を超える人びとが、お互いの地域を訪問し、深い交流の絆を結んできました。だれがいったい自分の親しい人たちが暮らしている地域との争いを願うでしょうか? 世界中の地域同士が姉妹都市の絆で結ばれたならば、どんなにか良いことでしょう! そう考えると、多民族・多文化国家の構築を推進してきたオーストラリアが果たしている役割の大きさに気づくのです。

◇ところで、「このメールアドレスは本来、こうしたことのために使われるべきではないのでは?」と思えるほどに、「愚かなる法案に反対せよ!」とのアピールが、ここしばらく、私が関係する組織体や個人からメールで流れてきます。

◇政府関係者たちを激しい言葉で罵っても容認されると信じ切り、難民の受け入れに、きわめて消極的である一方で、自分たちが母国を追われて難民状態に陥ることなど、まるでイメージできないような「我が身、安泰」的な姿勢に違和感をおぼえます。「何かが違うのではないか?」正直、そう思えてならないのです。


自分のこと

2015年09月06日 | エッセイ
◇今日は日曜日ですので、キリスト教会の礼拝に行きました。この教会のメンバーたちは、皆、とてもフレンドリーです。そのため、多くの人たちから挨拶の握手を求められます。

◇キーウイ(Kiwi)の人たちはシャイな国民性なのか、ニュージーランドでは、あまり経験したことがないのですが、オージー(Aussie)と呼ばれるこの国ではボディタッチを好む人たちが多くいるような感じです。

◇さて、実は私は昔から潔癖症的な傾向があるため、ボディタッチがとても苦手で、自分から手を差し出すことができない人間なのです。拒否すると相手に申し訳ないため、差し出された手は握り返しますが、それも「しかたなく」といった感じなのです。その感触がいつまでも残る感じがして、「さぁ、いつ手を洗おうか・・」とずっと思い続けるのです。もちろん、男女に関係なくそうなのです。

◇日本でもそうですが、やたらと肩を叩いてきたりするような人がいると、いつも意識的にその人から離れようとします。しかしそうした人に限って接近してくることが多く、困ってしまいます。

◇「昔から」と書きましたが、どうやら不登校が激しかった高校時代からのように思うのです。相手と視線を合わせることも苦手で、相手からジッと見つめられたりすると、緊張感のあまり、もう「うわの空」状態に陥ります。懇親会やパーティ等への参加も苦痛で、「いつ抜け出すことができるのかなぁ・・」と、そればかりを気にします。体質的にアルコール類も、ほとんど飲めませんし・・。ひと言で言えば、たぶん小心者で神経質なのでしょうね。

◇私自身も実際にそうだと思っているのですが、「いつも明るい笑顔ですね!」と言われることが多く、そのためか、「あなたの授業は、とっても面白いのでしょうね!」などと言われたりもします。実態はその逆で、パソコンを使うため、授業開始時刻前には必ず教室に入って準備をし、授業開始のチャイムと同時に、数秒たがわず授業を始めます。数分でも授業に遅れてきたり、私語や惰眠等、授業態度が悪い学生には何度でも厳しく注意喚起を促します。

◇ときおり、「〇〇先生は私語をしても、眠っても叱らないから良い先生だ!」などといった言葉を学生たちから聞くことがあります。そこで私はこう言います。「私語は、他の受講生たちの学習権を侵すことになるので、止めて下さい。また、眠っていても、それを放置するということは、その人の存在を無視するということなので、私にはそれはできません。」と・・。言葉は厳しいですが、学生たちにはきちんと敬語を使って丁寧に語りかけるようにしています。

◇偏見や差別問題、介護や病気の問題等、そもそも笑顔で語ることができるような福祉の学びなど、ほとんどないため、授業中に笑顔を見せることなど、まずありません。そうしたためか、怠惰な学生たちから逆恨みをされたり、誹謗中傷をされたことが、これまで何度もありました。

◇学生たちには「授業中は教員として接するけれど、オフィス(研究室)に戻ったらソーシャルワーカーの顔に戻るから、いつでもおいでね!」と語りかけるように心がけています。もともとオープンマインドゆえ、私が在室中は研究室のドアを広く開けたままの状態にしてあります。そのため、ドアをノックすることなく、いつでも気軽に来て、自由にお茶を飲むことができるようにしています。ある学生が「まるでお菓子の部屋だ!」と称したほどに、お菓子に囲まれています。若者たちは、いつも飢えているからです。(笑)

◇何を言いたいのかというと、こうした等身大の自分が、かぎりなく好きだ、ということです。潔癖症気味の自分も、小心者で几帳面な自分も、オープンマインドの自分も、そしてお菓子に囲まれている自分もです。(笑)

◇教会に行き、聖書の言葉に触れると、「そのままの、あなたを愛しているからね!」との、愛なる神さまからの御声(みこえ)を確かに感じ取ることができるのです。そして自分も他者(ひと)の在り方を可能な限り受け容れよう、そう思えてくるのです。

◇拙文をお読みくださり感謝します。どうぞ、いつでも南半球においでくださいね!(笑)


ゼノさんのこと

2015年09月02日 | 愛なる神さま

◇今日も教会の社会支援活動に参加しました。今日はポーランドから移住してきた高齢の女性さんと同じテーブルでした。もうすっかり親しくなりました。水曜日のランチサービスはバンド演奏がある日です。オールディーズの中でも、ビートルズが主です。踊り出す人もいます。

◇食事をしながら、もうひとりのポーランドからの移住者さんとお話をしました。「私はマキシミリアノ・マリア・コルベ神父を尊敬しているのです!」と話すと、「彼は日本で活動した人ではないのか?」と聞くので、「長崎で聖母の騎士修道会を組織して活動した神父様です。」と答えました。

◇「アウシュヴィッツの聖人」と称されたコルベ神父様のことは、既にご存じの人も多いかと思いますが、詳しくは下記サイトをご覧ください。

http://kolbe-museum.com/?mode=f2

◇さらに私が、「その修道会でコルベ神父様と共に働いたゼノ・ゼブロフスキー修道士を、とても尊敬しているのです!」と言うと、知らない様子でした。そこで第二次世界大戦後にゼノ修道士が日本の復興のために果たした役割について説明をし、「私はポーランド人を、心から尊敬しているのです!」「ぜひ、いつかポーランドを訪問したいのです!」そう伝えました。ほんとうにそう願っているからです。

◇「ゼノ、休む暇ない。天国へ行って休みます!」が口癖で、多くの人びとから親しみを込めて「ゼノさん!」と呼ばれたゼノ修道士について語り出すと、もう延々と書き綴らなければなりませんので、詳しくは下記サイトをご覧ください。この福祉施設へは、これまで何度も訪れたことがあります。

http://www.zeno.or.jp/zeno.html

◇ひとつだけ紹介します。ある中学生がゼノさんのことを詩に書きました。心に染みる美しい詩ですね。

私たちは 神さまを知らない
でも 神さまを知っているという人の
目のやさしさが 心にしみる


Spring has come !

2015年09月01日 | 愛なる神さま

◇今日は朝からキリスト教会での活動でした。皆が「さぁ、今日から9月だねぇ。春が来たよぉ!」と語り合っていました。そのごとくに、うららかな一日でした。

◇午前中は、教会メンバーたちを対象とした「恵みの分かち合い」と「祈り」の集いが行われ、お互いの恵み(感謝の出来事)を皆で分かち合い、気になるメンバーのために心を込めて祈りました。あるひとが私のために祈って下さいました。また、この教会の社会支援活動に参加している人たちのためにも祈りました。参加者の多くは失業者や高齢者、そして身体・知的・精神面で弱さを抱えておられる人たちだからです。

◇ちょうどモーニングティーの時間だったため、地域の福祉支援機関から集ってこられた人たちへの、お茶とケーキのサービスが行われていました。私にとっては涙が出るほどに麗しい光景でした。

◇ご承知かもしれませんが、チャリティ(Charity)のラテン語訳がカリタス(Caritas)であり、これは神さまの愛(ギリシア語でアガペー)を意味します。つまりは絶対愛です。報いや見返りを求めようとしない愛です。支える愛です。だから支援者というのです。

◇さて、今日の昼食支援サービスには30数名の人びとが集いました。牧会者のひとりが、いつも集っている人びとで、今日、来ることの出来なかった人の消息について皆に伝え、祈りをささげました。

◇私のテーブルには、ギリシアから移住してきて、もう50年になる、という3人の女性が座り、楽しい語らいのひとときを持ちました。3人が、ついギリシャ語で話し始め、「あっ、ゴメン!」と言うので、「ボクはもうギリシャ人になったからOKだョ!」と言ってあげると、皆、楽しそうに笑いました。実際、身振り手振りで、およその内容は分かるからです。

◇別のテーブルには中国から移住してきた女性がポッンと座っていたため、少し話をしました。聞くと、これまで中国ではまったく英語を学ぶ機会がなかったそうで、週に3日間、英語を学んでいるとのこと。移住者たちのための無料の英語クラスがいくつもあるのです。彼女もこれからこの国で生きてゆくんだなぁ・・。

◇午後にはランチに集った人たちを対象とした分かち合いの集いが持たれました。


誹謗中傷

2015年08月31日 | エッセイ

佐々木かをりさん、ありがとうございます!
昨晩は素晴らしい皆さんから勇気を頂きました。
さあめげずに頑張ろう・・・

◇これは安倍昭恵さんが昨日、綴ったFBの文章です。以下は私個人の推測に基づくコメントです。

◇以前、安倍昭恵さんが山口の味を知ってもらう目的で開店したご自分のお店のことで、やはり週刊誌で激しく誹謗中傷をされたときのことを読んだことがあります。あまりにも事実無根に基づくねつ造記事で、辛くて悲しくて泣いたのだそうです。

◇誹謗中傷とは、自分は物陰に隠れながら石を投げ、相手が傷つくのを見ながらも、「われ関せず!」とばかりに立ち去ろうとする卑怯なる行為です。

◇「火のない所に煙は立たぬ!」とばかりに、のぞき見趣味の人たち(要するに大衆一般ですが)に内容を誇張しつつ、センセーショナルな記事を作成し、それが売れさえすれば良い、といった類(たぐ)いです。

◇匿名掲示板等では、そうした性格特性(「自己肯定 and 他者否定」もしくは「自己否定 and 他者否定」)を有する人たちでいっぱいなのだと思います。そして、それらの人びとの多くが、日常生活においては温和で誠実そうな一般人として生きているのだと思います。私自身を含め、人間というのは、まことにもって罪深い存在だと思うのです。

◇私自身もそうありたいと願っている者の一人ですが、可能な限りにおいて相手とは同じ土俵に立たないこと。すなわち「言われても言い返さないこと」「やられても同じ事を相手に対してやり返さないこと」を旨としつつも、さぞかし辛いことと思います。

◇私は現在、ダウンロード購入による電子書籍を利用しているのですが、その中で最近読んだ、友納尚子さんによる『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)は深く心に残る書籍でした。雅子妃に対して、これほどまでの無理解・曲解・歪曲・誤解が長期間にわたって積み重ねられれば、どれほど皇太子が懸命に防御し、自身もセルフコントロールを働かせようとしても、ひとは容易に壊れてゆくのだ、ということがよく理解できました。美智子皇后も激しいバッシングを受け続けてこられましたが、反論できない立場を有する人たちは、ほんとうに気の毒です。悲劇的な生涯を歩んだダイアナ妃もそうでした。

◇私が言いたいのは、今回の安倍昭恵さんへのバッシング行為のように、たとえ言論の自由とは言え、匿名性の高い閉鎖的空間において、必要以上に他者を激しく批判しても良いのだとする立場には賛同できないということです。なぜなら、人はそんなことのために叡智を与えられたのではないと思うからです。


ある夢のこと

2015年06月15日 | エッセイ

◇数日前に、私が最初に勤務した大学の夢を見ました。ときどき同じ夢をみるのですが、そのときの夢も、その大学で自分が再び働いているといった夢でした。嬉しさいっぱいでした。じっさい、「また勤めてみたいなぁ!」と思ったことも何度かあったのです。むろん現実的には無理な話でしたが・・。

◇「3年間は自分の研究ができますが、4年目からは学科の教務係を2年間した後に、学科主任(後に学科長)を3年間してもらいます!」その大学に赴任した直後に先輩教員からそう言われ、驚きました。みると、皆、忙しそうに動き回り、難しい業務をこなしていました。

◇事実、4年目からは一度として切れることなく役職業務の連続で、最後は大学全体の教職課程の教務主任と大学院研究科長との兼務でした。専決権限など何ひとつなく、また役職手当の支給も1つだけでした。そして「次は教務部長か学部長だね!」などと言われ出したため、「このままでは心身が持たない!」本気でそう考え、公募採用で別の大学に転任することにしたのです。そして13年間、勤務したその大学を離れたのです。学長は「このまま、この大学にいれば良いのに・・」と言ってくれましたが、私はもう限界でした。ちなみに、そのとき受け取った退職金は、その全額を姉妹都市(美幌町)との交流基金を設立するためにケンブリッジ(ニュージーランド)に寄付しました。

◇当時は理事会が機能せず、「教員給与委員会」という内部組織が自分たちの給与額を決めていました。かくのごとく、極端なまでの民主的な大学運営だったため、役職業務は単なる雑務の連続で、心がすり切れてしまい、疲弊するのみでした。ある時などは、私の後の学科長が決まらず、とうとう卒業式のあとに、調整役として学長同席で学科会議をしたりもしました。皆、激職である学科長就任をためらったからです。要するに「NO!」と言えないことが多い私に消去法で役職業務が回ってきたということです。

◇牧歌的と言えばそうですが、当時は(私を含めて)多くの教員たちが大学キャンパス内の教員住宅に住んでいました。「教員住宅を提供する」との規程に基づき、キャンパス外に居住する場合も、自己保有の自宅以外は車で20分以内に居住しなくてはならず、大学が賃貸物件を提示し、敷金・礼金も大学が支払うようなシステムでした。その結果、大半の教員たちが職住近接状態にあったため、会議もエンドレスで、夕食を摂るために一時帰宅してから再び大学に戻って会議や仕事を続けるのが当たり前でした。「暁の教授会」などと揶揄(やゆ)された教授会は議論が長引くことが多く、事実、年に数回は午前零時を回りました。いつも激しい議論が続き、あるときは学長が教授会の席上で倒れてしまい、そのまま救急車で病院に搬送されてしまったこともありました。

◇あるときの「暁の教授会」の議案は「指紋押捺制度は差別政策だから法務省に是正を求めるための文書を提出すべきか否か?」といった難しい問題でした。当時、複数の外国人の専任教員たちが指紋押捺拒否裁判を闘っていました。ある米国人教員はスタディツアーで出国し、再び日本に入国しようとしたら空港の入管に入国が拒否されたため、そのまま韓国へと向かい、姉妹大学で1年間を過ごさねばなりませんでした。むろん当時の指紋押捺制度は在日朝鮮人・韓国人をターゲットにした差別政策でしたが、その米国人教員はキリスト者としての信仰的な視点から裁判を起こしたのです。実に立派な態度でした。そして韓国の姉妹大学も全面的にバックアップしてくれたのです。

◇それはともあれ、多くの教員たちと同じく、私もまた「指紋押捺制度は明らかな差別法ゆえ、法務省に対して断固抗議文を提出すべき!」と主張しました。紛糾したのは「こうした裁判を起こし、今また法務省に抗議文書を提出した場合、大学や学生たちに(例えば補助金や就職等で)不利益が生じないだろうか?」といった現実的な懸念(報復措置?)でした。後で判明したことですが、法務省にこうした抗議文を提出したのは、私の勤務先の大学以外には、ただ1校だけでした。ちなみに、この差別法は1992年に一部撤廃がなされ、2000年に完全撤廃に至りましたが、そこに至るまでには、こうした苦難の歩みがあったのです。

◇今思うと、私がこの大学に在職中にもっとも多くを学んだのは差別や人権、そして権利擁護の視点だったかもしれません。被差別(地区)での研修も行われましたが、歴史的に被差別を有さない道産子の私には、アイヌ民族差別問題とは異なる根深い差別の構造に戸惑いを感じ、理解が容易ではありませんでした。その後、人権国家であるニュージーランドで私自身の視点をさらに強固にしてゆきました。

◇かくのごとく、13年間の在職中は激動の日々が続きましたが、それでも(と言うのか、それゆえに)思い入れが強く、多くの教員たちと同じく、「この大学は自分が支えているのだ!」との意識で働いていました。余談ですが、退職する頃になって、ようやく公務員並みの給与条件が整備されました。

◇当時の所属学科には、人格識見共に優れた先輩教員たちが多くおられたため、それまで福祉系の大学や大学院で学ぶ機会がなかった私は、ソーシャルワークの基礎理論の手ほどきや、ソーシャルワーカーとしての視点を学ばせてもらいました。皆、英国での在外研究経験を有する人たちでした。つまり私がみる夢は、いつもその当時に、自分がアクティヴ、かつ忙しそうに働いている夢なのです。

◇その後、時代の趨勢と共に、この大学も大きく変貌してしまったような感じがします。良き時代に働かせてもらったことに感謝するのみです。