折々の想い

◇不定期更新による、のんびりエッセイです!

生き延びた者として・・

2015年10月26日 | 3.11

 

◇数日前から取り組んできた『サザンクロス通信・第3号』を作成しています。あす、職場の教職員宛にPDFファイルで一斉メールで送ります。業務報告のようなものです。すでに作成して送付済みの「第1・2号」は下記のアドレスからアクセスして読むことができます。第3号は、たぶん10日後くらいから読めるようになると思います。仮設住宅に届いた後になりますので・・。

◇私が関係している仮設住宅にも郵送するため、できるだけ日本語のみで作成するように心がけてきました。しかし、なかなかそれは難しく、今回からは職場用と、それ以外の2つのタイプを作成することにしました。と言っても、英語表現の部分を多少、変更するだけですが・・。

http://www.yamaki-web.com/SC.html

◇さて、ある人が産業カウンセラー養成講座を終えたとのことで、思い出したことがあります。それは、かつて私自身が養成講座で学んでいたときのことです。

◇ある女性自衛官が私のグループにいました。どこの組織体も人間関係やストレス対応をする必要があるため、産業カウンセラーの資格を取得した後には、部隊内のそうした部門で相談支援業務に就く予定とのことでした。まだ幼き二人のお子さんを持つ、とても真面目で誠実な女性でした。連れ合いさんも同じ自衛官とのことでした。

◇それから数年が経ちました。あるとき、テレビ番組でその女性自衛官がインタビューに答えていたのを偶然に観ました。3.11からしばらく経ってからのことでした。

◇彼女が勤務する駐屯地は大津波の被害に遭ったため、お子さんたちのことが心配で自宅に戻りたいと強く思ったそうです。当然です。しかし事務官とはいえ、自衛官です。自分の都合で自宅に戻ることはできませんでした。それは連れ合いさんも同じでした。どちらかのご両親に預けていたとのことでしたが、安否確認もできずに不安な数日間だったそうです。そうした厳しい状況に置かれた被災地域で生活する自衛官たちも決して少なくはなかったのです。

◇やがて、ようやくにして自宅に戻ることができ、我が子の無事な姿に出会うことができて、ほっとした、と涙を流しながらインタビューに答えていました。いつの間にか私も、もらい泣きをしていました。

◇産業カウンセラー養成講座で学んでいたときには、まさかその数年後に自分自身が被災当事者になるとは予想だにできなかったことです。今日ひとひを、心を込めて精いっぱい歩むことの大切さを知らされます。

◇私は北海道網走郡美幌町という小さな田舎町で生育しました。そこには美幌駐屯地があり、私の姉も長い間、そこで働き、その連れ合いさんも自衛官でした。現在も私の姪の連れ合いさんは現役自衛官です。道産子たちの多くは自衛隊などとは呼びません。皆、親しみと信頼をこめて「自衛隊さん!」と呼びます。たぶん、ですが・・。自衛隊は街の誇りであり、自衛官は尊敬すべき人たちだからです。

◇現在、私が居住しているのは宮城県岩沼市です。そこには災害派遣部隊としての訓練に励んできた、三重県津市にある「第33普通科連隊」がレスキューにやって来ました。部隊サイトは下記です。画像のように、泥水に腰までつかりながらの捜索活動の日々でした。私は避難所のそばにテントを張る自衛官たちに話しかけました。「かなり疲れたでしょう? いつ交替するのですか?」すると「我々は災害派遣部隊なので交代要員はいません!」そう答えてくれました。涙が出ました。

http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/butai/butai/33i/

◇やがて数ヶ月が経過し、状況も落ち着いてきたため、別の部隊と交替することになりました。私はぜひ、見送りたいと思っていました。他の自治体では多くの住民たちが別れを惜しみました。しかしそうした情報が流れないままで部隊は撤収してゆきました。「まだ完全に復旧作業を終えていないため、別れのセレモニーは遠慮したい」との部隊側からの要請だったそうです。それでも、その情報を聞きつけた市民たちが手を振って感謝の気持ちを伝えたそうです。

◇ある子どもの手紙には大川小学校のことが綴られています。2011年12月24日のことでした。その日は小雪が舞う寒い日でした。私は宮城県石巻市の大川小学校にいました。その年の3月11日に、ここで多くの前途ある幼き子どもたちが命を失ったのです。画像は12月24日に撮ったものです。

◇生き延びた者の責務として、為すべき事がある筈です。まだまだ無限大にある筈なのです。臨床現場で歩み続ける、ひとりのソーシャルワーカーとしての私は、そう考えるのです。

◇自衛隊、そして自衛官たちは、私たちの誇りです!