折々の想い

◇不定期更新による、のんびりエッセイです!

ゼノさんのこと

2015年09月02日 | 愛なる神さま

◇今日も教会の社会支援活動に参加しました。今日はポーランドから移住してきた高齢の女性さんと同じテーブルでした。もうすっかり親しくなりました。水曜日のランチサービスはバンド演奏がある日です。オールディーズの中でも、ビートルズが主です。踊り出す人もいます。

◇食事をしながら、もうひとりのポーランドからの移住者さんとお話をしました。「私はマキシミリアノ・マリア・コルベ神父を尊敬しているのです!」と話すと、「彼は日本で活動した人ではないのか?」と聞くので、「長崎で聖母の騎士修道会を組織して活動した神父様です。」と答えました。

◇「アウシュヴィッツの聖人」と称されたコルベ神父様のことは、既にご存じの人も多いかと思いますが、詳しくは下記サイトをご覧ください。

http://kolbe-museum.com/?mode=f2

◇さらに私が、「その修道会でコルベ神父様と共に働いたゼノ・ゼブロフスキー修道士を、とても尊敬しているのです!」と言うと、知らない様子でした。そこで第二次世界大戦後にゼノ修道士が日本の復興のために果たした役割について説明をし、「私はポーランド人を、心から尊敬しているのです!」「ぜひ、いつかポーランドを訪問したいのです!」そう伝えました。ほんとうにそう願っているからです。

◇「ゼノ、休む暇ない。天国へ行って休みます!」が口癖で、多くの人びとから親しみを込めて「ゼノさん!」と呼ばれたゼノ修道士について語り出すと、もう延々と書き綴らなければなりませんので、詳しくは下記サイトをご覧ください。この福祉施設へは、これまで何度も訪れたことがあります。

http://www.zeno.or.jp/zeno.html

◇ひとつだけ紹介します。ある中学生がゼノさんのことを詩に書きました。心に染みる美しい詩ですね。

私たちは 神さまを知らない
でも 神さまを知っているという人の
目のやさしさが 心にしみる


Spring has come !

2015年09月01日 | 愛なる神さま

◇今日は朝からキリスト教会での活動でした。皆が「さぁ、今日から9月だねぇ。春が来たよぉ!」と語り合っていました。そのごとくに、うららかな一日でした。

◇午前中は、教会メンバーたちを対象とした「恵みの分かち合い」と「祈り」の集いが行われ、お互いの恵み(感謝の出来事)を皆で分かち合い、気になるメンバーのために心を込めて祈りました。あるひとが私のために祈って下さいました。また、この教会の社会支援活動に参加している人たちのためにも祈りました。参加者の多くは失業者や高齢者、そして身体・知的・精神面で弱さを抱えておられる人たちだからです。

◇ちょうどモーニングティーの時間だったため、地域の福祉支援機関から集ってこられた人たちへの、お茶とケーキのサービスが行われていました。私にとっては涙が出るほどに麗しい光景でした。

◇ご承知かもしれませんが、チャリティ(Charity)のラテン語訳がカリタス(Caritas)であり、これは神さまの愛(ギリシア語でアガペー)を意味します。つまりは絶対愛です。報いや見返りを求めようとしない愛です。支える愛です。だから支援者というのです。

◇さて、今日の昼食支援サービスには30数名の人びとが集いました。牧会者のひとりが、いつも集っている人びとで、今日、来ることの出来なかった人の消息について皆に伝え、祈りをささげました。

◇私のテーブルには、ギリシアから移住してきて、もう50年になる、という3人の女性が座り、楽しい語らいのひとときを持ちました。3人が、ついギリシャ語で話し始め、「あっ、ゴメン!」と言うので、「ボクはもうギリシャ人になったからOKだョ!」と言ってあげると、皆、楽しそうに笑いました。実際、身振り手振りで、およその内容は分かるからです。

◇別のテーブルには中国から移住してきた女性がポッンと座っていたため、少し話をしました。聞くと、これまで中国ではまったく英語を学ぶ機会がなかったそうで、週に3日間、英語を学んでいるとのこと。移住者たちのための無料の英語クラスがいくつもあるのです。彼女もこれからこの国で生きてゆくんだなぁ・・。

◇午後にはランチに集った人たちを対象とした分かち合いの集いが持たれました。


誹謗中傷

2015年08月31日 | エッセイ

佐々木かをりさん、ありがとうございます!
昨晩は素晴らしい皆さんから勇気を頂きました。
さあめげずに頑張ろう・・・

◇これは安倍昭恵さんが昨日、綴ったFBの文章です。以下は私個人の推測に基づくコメントです。

◇以前、安倍昭恵さんが山口の味を知ってもらう目的で開店したご自分のお店のことで、やはり週刊誌で激しく誹謗中傷をされたときのことを読んだことがあります。あまりにも事実無根に基づくねつ造記事で、辛くて悲しくて泣いたのだそうです。

◇誹謗中傷とは、自分は物陰に隠れながら石を投げ、相手が傷つくのを見ながらも、「われ関せず!」とばかりに立ち去ろうとする卑怯なる行為です。

◇「火のない所に煙は立たぬ!」とばかりに、のぞき見趣味の人たち(要するに大衆一般ですが)に内容を誇張しつつ、センセーショナルな記事を作成し、それが売れさえすれば良い、といった類(たぐ)いです。

◇匿名掲示板等では、そうした性格特性(「自己肯定 and 他者否定」もしくは「自己否定 and 他者否定」)を有する人たちでいっぱいなのだと思います。そして、それらの人びとの多くが、日常生活においては温和で誠実そうな一般人として生きているのだと思います。私自身を含め、人間というのは、まことにもって罪深い存在だと思うのです。

◇私自身もそうありたいと願っている者の一人ですが、可能な限りにおいて相手とは同じ土俵に立たないこと。すなわち「言われても言い返さないこと」「やられても同じ事を相手に対してやり返さないこと」を旨としつつも、さぞかし辛いことと思います。

◇私は現在、ダウンロード購入による電子書籍を利用しているのですが、その中で最近読んだ、友納尚子さんによる『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)は深く心に残る書籍でした。雅子妃に対して、これほどまでの無理解・曲解・歪曲・誤解が長期間にわたって積み重ねられれば、どれほど皇太子が懸命に防御し、自身もセルフコントロールを働かせようとしても、ひとは容易に壊れてゆくのだ、ということがよく理解できました。美智子皇后も激しいバッシングを受け続けてこられましたが、反論できない立場を有する人たちは、ほんとうに気の毒です。悲劇的な生涯を歩んだダイアナ妃もそうでした。

◇私が言いたいのは、今回の安倍昭恵さんへのバッシング行為のように、たとえ言論の自由とは言え、匿名性の高い閉鎖的空間において、必要以上に他者を激しく批判しても良いのだとする立場には賛同できないということです。なぜなら、人はそんなことのために叡智を与えられたのではないと思うからです。


ある夢のこと

2015年06月15日 | エッセイ

◇数日前に、私が最初に勤務した大学の夢を見ました。ときどき同じ夢をみるのですが、そのときの夢も、その大学で自分が再び働いているといった夢でした。嬉しさいっぱいでした。じっさい、「また勤めてみたいなぁ!」と思ったことも何度かあったのです。むろん現実的には無理な話でしたが・・。

◇「3年間は自分の研究ができますが、4年目からは学科の教務係を2年間した後に、学科主任(後に学科長)を3年間してもらいます!」その大学に赴任した直後に先輩教員からそう言われ、驚きました。みると、皆、忙しそうに動き回り、難しい業務をこなしていました。

◇事実、4年目からは一度として切れることなく役職業務の連続で、最後は大学全体の教職課程の教務主任と大学院研究科長との兼務でした。専決権限など何ひとつなく、また役職手当の支給も1つだけでした。そして「次は教務部長か学部長だね!」などと言われ出したため、「このままでは心身が持たない!」本気でそう考え、公募採用で別の大学に転任することにしたのです。そして13年間、勤務したその大学を離れたのです。学長は「このまま、この大学にいれば良いのに・・」と言ってくれましたが、私はもう限界でした。ちなみに、そのとき受け取った退職金は、その全額を姉妹都市(美幌町)との交流基金を設立するためにケンブリッジ(ニュージーランド)に寄付しました。

◇当時は理事会が機能せず、「教員給与委員会」という内部組織が自分たちの給与額を決めていました。かくのごとく、極端なまでの民主的な大学運営だったため、役職業務は単なる雑務の連続で、心がすり切れてしまい、疲弊するのみでした。ある時などは、私の後の学科長が決まらず、とうとう卒業式のあとに、調整役として学長同席で学科会議をしたりもしました。皆、激職である学科長就任をためらったからです。要するに「NO!」と言えないことが多い私に消去法で役職業務が回ってきたということです。

◇牧歌的と言えばそうですが、当時は(私を含めて)多くの教員たちが大学キャンパス内の教員住宅に住んでいました。「教員住宅を提供する」との規程に基づき、キャンパス外に居住する場合も、自己保有の自宅以外は車で20分以内に居住しなくてはならず、大学が賃貸物件を提示し、敷金・礼金も大学が支払うようなシステムでした。その結果、大半の教員たちが職住近接状態にあったため、会議もエンドレスで、夕食を摂るために一時帰宅してから再び大学に戻って会議や仕事を続けるのが当たり前でした。「暁の教授会」などと揶揄(やゆ)された教授会は議論が長引くことが多く、事実、年に数回は午前零時を回りました。いつも激しい議論が続き、あるときは学長が教授会の席上で倒れてしまい、そのまま救急車で病院に搬送されてしまったこともありました。

◇あるときの「暁の教授会」の議案は「指紋押捺制度は差別政策だから法務省に是正を求めるための文書を提出すべきか否か?」といった難しい問題でした。当時、複数の外国人の専任教員たちが指紋押捺拒否裁判を闘っていました。ある米国人教員はスタディツアーで出国し、再び日本に入国しようとしたら空港の入管に入国が拒否されたため、そのまま韓国へと向かい、姉妹大学で1年間を過ごさねばなりませんでした。むろん当時の指紋押捺制度は在日朝鮮人・韓国人をターゲットにした差別政策でしたが、その米国人教員はキリスト者としての信仰的な視点から裁判を起こしたのです。実に立派な態度でした。そして韓国の姉妹大学も全面的にバックアップしてくれたのです。

◇それはともあれ、多くの教員たちと同じく、私もまた「指紋押捺制度は明らかな差別法ゆえ、法務省に対して断固抗議文を提出すべき!」と主張しました。紛糾したのは「こうした裁判を起こし、今また法務省に抗議文書を提出した場合、大学や学生たちに(例えば補助金や就職等で)不利益が生じないだろうか?」といった現実的な懸念(報復措置?)でした。後で判明したことですが、法務省にこうした抗議文を提出したのは、私の勤務先の大学以外には、ただ1校だけでした。ちなみに、この差別法は1992年に一部撤廃がなされ、2000年に完全撤廃に至りましたが、そこに至るまでには、こうした苦難の歩みがあったのです。

◇今思うと、私がこの大学に在職中にもっとも多くを学んだのは差別や人権、そして権利擁護の視点だったかもしれません。被差別(地区)での研修も行われましたが、歴史的に被差別を有さない道産子の私には、アイヌ民族差別問題とは異なる根深い差別の構造に戸惑いを感じ、理解が容易ではありませんでした。その後、人権国家であるニュージーランドで私自身の視点をさらに強固にしてゆきました。

◇かくのごとく、13年間の在職中は激動の日々が続きましたが、それでも(と言うのか、それゆえに)思い入れが強く、多くの教員たちと同じく、「この大学は自分が支えているのだ!」との意識で働いていました。余談ですが、退職する頃になって、ようやく公務員並みの給与条件が整備されました。

◇当時の所属学科には、人格識見共に優れた先輩教員たちが多くおられたため、それまで福祉系の大学や大学院で学ぶ機会がなかった私は、ソーシャルワークの基礎理論の手ほどきや、ソーシャルワーカーとしての視点を学ばせてもらいました。皆、英国での在外研究経験を有する人たちでした。つまり私がみる夢は、いつもその当時に、自分がアクティヴ、かつ忙しそうに働いている夢なのです。

◇その後、時代の趨勢と共に、この大学も大きく変貌してしまったような感じがします。良き時代に働かせてもらったことに感謝するのみです。


早朝の恵み

2014年07月16日 | エッセイ

◇ある人と話をしていたときに、ストレス解消法について問われました。その人は「家に帰って酒を飲んで寝てしまう」のだそうです。(笑)

◇体質の関係もあり、飲酒の習慣を持たない私は、少し考えた後に、「教会の集会に行ったり、お祈りをすると癒されるのです」と答えました。確かにそうだなぁ、と思えるからです。

◇さて、2011年は激変の年でした。被災当事者の方々が「語らずにおられない!」とばかりに語り続ける悲しみに満ちた話を聴き続け、それに連動して私自身も「うつ状態」に陥っていました。毎日のように涙がこぼれ落ちる自分を、精神保健福祉士(PSW)でもある自分が、「泣けている間は大丈夫!」と冷静に見つめていました。そんな状態が1年あまりも続きました。

◇「すべて愛なる神さまがなされる善きこと」であるとは信じていたものの、「それにしても、あまりにも・・」というのが実感でした。それでも「ソーシャルワーカーとして、自分に託されている働きをするのみ」と考えて歩んできました。神さまの御用(ごよう)をさせていただいている、という意識がそこにありました。ときどき被災住民さんたちから、「どうしてここまで良くしてくれるの?」と訊かれることがあります。「皆さんに会いたいから!」そう答えるようにしています。実際、そうなのですから・・。

◇ところで、必ずしも毎朝、というわけではありませんが、早朝散歩が日課になっています。近くの公園まで歩くのです。朝5時頃には、まだそれほど出会いませんが、6時頃に行くと同じように散歩をしている人たちによく出会います。

◇軽いストレッチ運動をしてから、聖フランシスコが唱えたと言われている『平和を求める祈り』を小さく口に出して祈ります。クリスチャン・ソーシャルワークのエッセンスがすべて含まれているような珠玉の祈りです。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように

わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから


ディベートと受容

2014年05月03日 | エッセイ

◇門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所 2012年)を読みました。380ページにおよぶ、実に読み応えのあるドキュメンタリーでした。

◇その中に、当時の首相であった菅直人氏のことが、本人へのインタビューを交えて書かれてあります。その一部をご紹介します。

 司会役を務めた細野補佐官からマイクを受けとった菅は、「ここにはもうマスコミはいないな?」そう前置きしてこう話し始めた。有名な、およそ十分にわたる演説である。

         -中略-

 この時、総理の演説だけに、多くの人間がメモにペンを走らせている。
 「副本部長は、海江田大臣と清水社長だ」菅がそう言うと、海江田が立ち上がり、礼をした。次第に菅の口調が激しくなる。
 「事故の被害は甚大だ。このままでは日本国は滅亡だ。撤退などあり得ない! 命がけでやれ」
 テレビ会議映像には、菅のうしろ姿しか映っていない。だが、声はマイクを通じて響きわたっている。左手を左腰のうしろにあて、向き直ったり、さまざまな方向を見ながら、菅はしゃべりつづけた。
 言うまでもなく吉田以下、福島第一原発の最前線で闘う面々にも、表情こそ見えないものの、興奮した菅のようすがわかった。
 その現場の人間の胸に次の言葉が突き刺さった。
 「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げきれないぞ!」
 逃げる? 誰に対して言っているんだ。いったい誰が逃げるというのか。この菅の言葉から、福島第一原発の緊対室の空気が変わった。
 (なに言ってんだ、こいつ)
 これまで生と死をかけてプラントと格闘してきた人間は、言うまでもなく吉田と共に最後まで現場に残ることを心に決めている。その面々に、「逃げてみたって逃げきれないぞ!」と一国の総理が言い放ったのである。(262・263頁)

◇震災直後の混乱した状況の中で、菅直人氏が強行した福島第一原発への現地視察の是非について判断する材料も、またその意図も私にはありませんが、その後の避難所等への訪問の映像を見るたびに気になったことがあります。

◇おそらくは日頃からのクセなのでしょうが、「左手を左腰のうしろにあて」と、この本にも書かれてあるように、手を腰に当てたままで話をするポーズが、しばしばTV画面に映し出されました。私はその映像を見ながら、「このポーズは逆効果だなぁ・・。だれか、このポーズを指摘してあげると良いのになぁ・・」と思いました。要するに、このポーズで相手に対すると威圧的に映るであろうからです。相手とは、むろんのこと被災当事者さんたちです。

◇すべての政治家たちがそうであるのかどうかは定かではありませんが、舌鋒鋭く相手に対してゆく人たちが多いような気がするのです。「あなたのお気持ちも分かりますよ・・」では論戦に勝てないであろうからです。つまりは論理・論法で相手を言い負かすようなディベートは得意でも、ときには理不尽なことを言われても、静かにその言葉を受けとめようとする受容のまなざしが希薄である、ということです。

◇それに対して、天皇皇后をはじめとした皇族たちの対応姿勢からは教えられることが多くありました。腰や膝を折り、相手と目線を合わせながら静かに微笑みかけ、相手と呼吸を合わせるかのようにして被災者たちの声を真摯に聴こうとする誠実なる姿勢は、まさに「共感的理解に基づく受容と傾聴」のお手本だったからです。

◇いずれにせよ、私には政治家は到底、無理のようです。


アサーション

2013年11月26日 | エッセイ

◇先日、2日間にわたり、アサーション・トレーニングを受ける機会がありました。とても充実したセミナーでした。また2年前には、半年間にわたり、交流分析理論(Transacional Analysis:TA)を学びました。これも有益なるセミナーでした。

◇アサーション(Assertion)については平易で読みやすい書籍が何冊も出ていますが、ここではアサーション・トレーニングを主催している組織体のホームページから引用させていただきます。

「Noと言いたいのにNoと言えない」「つい言い過ぎてしまって後悔することが多い」「コミュニケーションが苦手で人付き合いがうまくいかない」こういったことはありませんか?? これらを解決する有効な方法の1つにアサーションがあります。・・アサーションとは自分も相手も大切にしながら、自分の意見、考え、気持ちを率直に、正直に、その場にふさわしく表現することです。・・アサーション・トレーニングとは、対人関係の中で、不本意に自分を押し殺して後悔してしまったり、反対に感情的・攻撃的になって後味の悪い思いを持たないように自己表現するにはどうしたらよいかを考え、身につけていくトレーニングです。http://www.nsgk.co.jp

◇以下に述べることは、アサーションやTAの理論体系や方法論を否定しようとするものではありません。

◇アサーションやTAは、その前提として個々人のキャラクターは可変性を有する、との考えがそこにあるように思われます。つまり「多くの人たちは言いたことがスムーズに言えないキャラクターを有している」との前提があるように思えるのです。そしてそれはかなりの妥当性を有していると思われます。「思える・思われます」と曖昧な言葉を用いるのは、アサーション理論に関して私自身の理解がまだ浅いからです。

◇それに対してエニアグラムは、「個々人には9つの異なるタイプのキャラクターが存在し、そのタイプの本質的側面は不変である」との前提があります。例えば「タイプ8」の人は活火山のごとくに「これが言わずにおれようか!」とばかりに直截的な表現方法を得意とします。逆に「タイプ6」の人は、まさに「言いたいことが言えない」のです。したがって、本質的にそうしたタイプを有する人に同質的なアサーションを求めると、かなりのストレス感を及ぼしてしまうのではないかと思われるのです。なぜなら「タイプ8」の人は、本質的に自らの弱さや優しさを人前で素直に表現するのを不得手とするタイプであり、中庸を旨とする「タイプ6」の人は「言えるものなら言ってみたいけれど、自分には無理だよなぁ・・」となるからです。その他の7つのタイプのバリエーションも、それぞれ異なります。

◇交流分析の「P・A・C」も同じで、NP・CP・A・FC・ACの5分類を変化させながら相手に対応しようとします。そのため、たとえば「あなたはNP的な側面が強いので、その部分をもっと弱く!」などと言われて、「はい、それではこれからはそのように自分を変化させて対応します!」とはならないように思うのです。少なくともそうした演技が不得手な私には無理です。もっともアクテイヴ・リスニングなどの場合には、「この人の考え方は、とても受け入れられないなぁ」と感じることがあっても、共感的理解のまなざしをもって「そうですかぁ・・」と肯定的な対応をするのは当然ですが・・。

◇エニアグラム的な考え方でアサーションをとらえるならば、9つのタイプ(より正確にはウイングを加えた18タイプ)の本質的な特性を活かしたアサーションということになります。「親分肌・あねご肌」的な本質を有するタイプ8と、「中庸・控えめ」的なタイプ6とでは、アサーティヴの表現方法が異なるのは当然だからです。

◇私の場合は、というと、思いは強くあれども、言葉を飲み込んでしまうことが多いのです。なかなか「ノー!」と言えないのです。しかし自分自身の内には「Yes・No」の価値判断がハッキリしているのです。そうしたキャラクターを有しているのです。したがって自分なりのアサーティヴな表現方法に習熟したいと考えているのです。


エニアグラムのこと

2013年10月26日 | エッセイ

◇先日、1年生たちを対象とした少人数の授業で、ほんの少しだけエニアグラムを紹介しました。すると、それから何人もの学生たちが研究室にやって来て「もっとエニアグラムのことを知りたい!」と言うのです。それを聞き、驚くと共に嬉しくなりました。とりわけ20歳前後の若者たちは「自分とは何か?」に関心が深いのでしょう。もっとも私などは、もうずっと「自分とは・・」への関心が持続したままなのですが・・。

◇エニアグラム(Enneagram)のエニア(ennea)はギリシャ語で数字の「9」を、グラム(gram)は「図」を意味しており、円周上に9つの点を持つ図形のことです。この図は20世紀初頭に、ロシアの神秘思想家G.I.グルジェフによって発見されたものだと伝えられています。グルジェフはこの図をアフリカから中近東のどこか(修道院とも言われていますが)で発見したとのことですが、事の真偽は定かではありません。

◇エニアグラムは一般的に性格類型論として位置づけられていますが、私自身はそれを超えた深い智慧ととらえています。より正確には、神(大宇宙?)から人類に授けられた智慧ではないかと考えているのです。ただ、そこまで言ってしまうと大学の授業で紹介するのが適当かどうか、といった判断を迫られるため、あまり詳しくは表現をしないようにしています。

◇私がエニアグラム理論を知ったのは、シスターである鈴木秀子さんの著書からです。その後、シスター鈴木が主導してきたコミュニオンのセミナーを通して、より実践的に学んできました。しかしタイプチェックを重ねる中で、何か物足りなさを感じてきました。すなわちシスター鈴木はエニアグラムを説明するうえで、サブタイプであるウイング(wing)概念を「あえて」除外してきたからです。これについては昨年のコミュニオンのセミナーで、「エニアグラム理解の混乱を回避するため」と、あるファシリテーターから説明があったのみでした。

◇その後、エニアグラムの代表的な研究者であった、ドン・リチャード・リソ(Riso,D.R)をはじめとして、シスター鈴木の著書以外のエニアグラム関連の文献に触れたり、エニアグラム学会主催の研修セミナーでウイング理論に触れたりするうちに、それまでの「もやもや感」が消失し、見事なまでに私自身のタイプが明確化されたのです。ちなみにリソは13年間、イエズス会に所属していたカトリック信者でした。

◇ウイングとは文字どおり、自分のタイプの両隣のタイプの影響を受けている、との考え方です。ただし両方の影響を受けているとする研究者と、どちらか片方のタイプの影響を受けているとする研究者がいます。

◇このようにウイングとは、両隣のタイプのことですが、私の場合は(異なる設問による)タイプチェックを何度やってみても、隣り合わせの2つのタイプに顕著な傾向がみられたのです。例えば20のチェック項目があったとしたら、タイプ〇が18で、タイプ△が15といった順序で・・。しかも隣り合わせのタイプが突出して、です・・。それ以外の7つのタイプは、すべて一桁なのです。そのため、「はたして自分のタイプはどっちなのだろう?」と考えあぐねてきたのです。それがウイング概念を知ることによって、すっきり整理されたのです。ちなみに、「あなたはタイプ〇なのでは?」などと言われることがあるのですが、それは2番目のタイプであり、私自身のチェックでは、その隣のタイプがもっともフィットしているのです。以上、やはりエニアグラムを深く(正確に)学ぶためにはウイング概念を理解する必要があると考えています。

◇また、これはコミュニオンと共通していますが、エネルギーの根源が類似しているということで、タイプ「8・9・1」は「直感・本能」を重視する「ガッツセンター」と称し、タイプ「2・3・4」は「感情(ハートセンター)」で、タイプ「5・6・7」を「思考(ヘッドセンター)」と称します。さらには、それぞれの「囚われ(こだわり)」は「ガッツセンター(怒り)」⇒「ハートセンター(恥)」⇒「ヘッドセンター(恐れ)」です。

◇タイプ「9⇒6⇒3⇒9」は正三角形で、お互いに影響し合っています。具体的にはタイプ9の人が自分本来の特性を活かした生き方ができている場合にはタイプ3の良い部分を取り入れながら生きることができますが、落ち込んでいるときにはタイプ6の弱い部分(囚われ)が出てしまうのです。同じくタイプ「1⇒4⇒2⇒8⇒5⇒7⇒1」の順番は、タイプ本来の生き方ができていない場合に「とらわれてしまう(こだわる)」方向性を示しており、その逆のタイプ「7⇒5⇒8⇒2⇒4⇒1⇒7」は良い方向性を示しています。すなわち、タイプ7が自分らしく生きている場合にはタイプ5の良い側面を取り込むことができるのです。

◇エニアグラムの基本構造を説明するには、これだけでは不充分ですが、私の信仰理解に基づくならば、エニアグラムは、9つのタイプがそれぞれの特性を活かし、互いに補い合いつつ、調和的に歩むことができるようにと、神さまが人類に備えてくださった叡智(摂理?)ではないかと考えているのです。


英国のこと

2013年10月13日 | エッセイ

◇この1ヶ月あまり、対応が難しい事案や、非生産的な出来事が連続的に生起して心身のバランスを保つのに苦労しています。

◇メンタルの部分で難しい事案は、かなり疲労感が伴います。気がつくと、ため息をついている自分がいます。こころが弱り果てていることを自覚しています。

◇私の場合は(あくまでも自分なりにですが)、一つひとつの事案に対して誠実に、そして丁寧に、を心がけています。「こう表現したり、対応したりすると疎(うと)んじられるだろうなぁ・・」と悩みつつも、どうしても必要なことは表現するようにしています。その結果として予想通りに疎んじられたりすると、分かってはいても、ひどくこころが痛みます。生き方が、まことに不器用なのです。要領よく立ち回ることができないのです。

◇それでも、と考えるのです。不器用でもいいから、できるだけまっすぐに歩もう、と・・。愚直なまでに、と・・。損なことも多いけれど、誤解されることも多いけれど、否、ときには批判や誹謗されることもあるけれども、自分を誇れないような歩みは、できるだけしたくはないのです。そうです。あくまでも自分に対してなのです。他者の在り方は、あまり影響しないのです。じっさい、他者の在り方(生き方)を変化させることは、ほぼ不可能なのですから・・。そうした操作不可能なる他者の存在によって、自分自身がダメージや影響を受ける必要などないからです。とは言え、現実的には無理ですが・・。

◇そんな日々ですが、ある必要があって、しばらく前から英国事情について調べを進めています。私の英語能力では論文等の難しい文章を読むのは疲労感が強いのですが、インターネットを通して、英国各地の地域情報や交通事情、さらには福祉支援機関や大学等の情報を調べているのが楽しくて熱中しています。大半は文字情報ですが、画像や動画を眺めているのも楽しいのです。

◇かつてニュージーランドに在外研究に行くために現地情報を調べようとしても情報が乏しくて困りました。しかしその分だけ未知の世界が広がっていました。当時は航空郵便の時代でした。それからファクシミリの時代がやって来て、電子メールになりました。

◇日本では、まだ電子メールが使われていなかった当時に、すでにニュージーランドでは電子メールが普及しつつありました。ただ、そのときは「エーマイル」と言いながらパソコン画面を見せられたため、私にはそのシステムが理解できませんでしたが・・。要するに「E-Mail」のことです。キーゥイ・イングリッシュでは「イーメール」が「エーマイル」になってしまったからです。それが今では電子メールが、ごく日常的なコミュニケーション・ツールになってしまいました。

◇それでも、ずっと以前、2週間ほど英国に滞在していた当時の情報と比較すると、ずいぶんと様変わりをしてしまったことに気づきます。とりわけ英国の大学の様子が大きく変わったことに驚いています。むかし英国留学を願って、国際返信用の切手を同封して数多くの資料を送ってもらっていたことを思い出し、感傷的になったりもしています。

◇先述したように、現実的な日々は、まことに難しい状況下にあるのですが、一定時間でも、こうしてファンタジックな空間に我が身を置くことによって得られる平安は私にとって貴重なのです。それゆえ、しばらくはインターネットを通した英国情報の集積に我が身を浸したいと考えているのです。


小さき夢

2013年09月12日 | エッセイ

◇先日、数年ぶりに岩手県花巻市にある宮沢賢治記念館を訪れました。この記念館は、何か特徴のある資料を展示している訳ではないのですが、見学をしているうちに胸が詰まってきて、思わず泣きそうになりました。否、正確には泣き出しそうになりました。

◇おそらくそれは、賢治が有する「弱者に対する篤きまなざし」のパワーを記念館の中で強く感じたからではないかと思うのです。弱者とは、身体的・精神的・社会的、そして霊的な側面で弱さをおぼえたり、あるいは、それがために偏見や無理解、さらには不当なる抑圧や差別を受けている人たちを意味します。

◇賢治の作品の中で、私がもっとも好きな作品は「よだかは、実にみにくい鳥です」から始まる、短編童話の『よだかの星』です。読むたびに切なさがひしひしと伝わってくるからです。

◇さて、私はもうずっと前から、やがて大学での働きを退いた後には各地の図書館に通い続けて読みふけってみたいと願っているジャンルの本があります。それは「童話」や「絵本」です。さらには「おとぎ話」や「むかし話」です。世界中の童話や絵本を読んでみたいのです。山口県長門市仙崎にある「金子みすゞ記念館」には何度も行きましたし、デンマークのオーデンセにある、アンデルセンの生家を訪れたこともあります。

◇賢治が理想郷を意味するイーハトーブと呼んだ岩手県には、民話のふるさととして知られる遠野があります。ちなみにイーハトーブとは「岩手(いはて)」から連想した賢治の造語です。実は「民話」も好きで、できれば民話の語り部になりたいと考えているのです。子ども向けの民話を幼子(おさなご)たちに語るボランティア活動をしてみたいのです。子どもたちへの語りかけは、ちょっぴり自信があるのです。さらには民話や童話を創作してみたいとも考えているのです。かくのごとく、わが小さき夢は、果てしなく広がってゆくのです。

◇作品をどこかに発表してみたいとか、金銭的な報酬を得る必要のない、まったくの個人的趣味の世界ですので、楽しみながら童話や昔話を存分に読みふけったり、童話を執筆してみたいと考えているのです。

◇未曾有の大災害から2年半が経過し、ようやく私もこうした軽いタッチの文章を綴るゆとりが生まれてきたようです。


自己理解のまなざし

2013年08月22日 | エッセイ

◇カトリックのシスターである渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)が100万部を超えた、といったニュースに触れました。

◇私自身は、もうずっと以前からシスター渡辺の考え方に惹かれ、そこから人としてのあり方を学んできました。ちなみに「置かれた場所で咲く」とは、健全なる自己受容のまなざしを意味します。さらには、健全なる自己受容と他者受容は、自己理解と他者理解に連動しています。留意すべきは自己受容&自己理解が先であるということです。なぜなら自己受容(理解)なくして他者受容(理解)は成立しないからです。

◇昨年9月にNHKの「こころの時代」で、「ふがいない自分と生きる」と題された60分のインタビュー番組が放映されました。かつて熱中して読みふけった当時に書かれている珠玉の言葉の数々に加えて、さらに円熟味が増したシスター渡辺の自己受容のまなざしから深い学びを得ました。

◇シスター渡辺に加えて、同じくシスターである鈴木秀子さんや、そこにつながるカトリック信者である佐藤初女さんの考え方に触れるに至り、「あぁ、これこそが自分が探し求めてきたまなざしだったのだなぁ・・」と深い感動を覚えました。これらの人たちが織り成す深い思索や洞察、加えて自らの真摯なる歩みに基づく実践的なまなざしは、ソーシャルワーク理論やカウンセリング理論の学びとは質的に異なる満足感を私に与えてくれました。共通しているのは「いま、ここ」のまなざしです。自らの過去や他者のあり方を変えることはできません。変えることができるのは「いま、ここ」の自分のあり方だけです。ゆえに、私たちは永久(とわ)に善きものとして変化しうる存在なのです。そこに救いがあり、希望があるのです。

◇さて、対人支援論を換言すると他者理解ということでもあります。前述したように、深い他者理解のためには、その前提として、より深い自己理解がなされなければなりません。なぜなら自分自身の認識次第で外界や他者の見え方や、有り様(よう)も変化するからです。

◇平易な比喩を用いて、これを説明してみます。たとえば降雨の朝に、健康上の不安を感じて医療機関に受診に行くことを想定してみます。健康不安を抱えていると、つい「あぁ、なんてうっとうしい雨なんだろう・・」と、さらに心が沈むかもしれません。

◇受診や検査の結果、幸いなことにすべてOKが出て、晴れ晴れとした気持ちで外に出ました。外は相変わらず雨が降り続いています。「朝からの雨に打たれて、木々も鮮やかな緑になっているなぁ。あぁ、なんてステキな雨なんだろう!」思わずそう叫んでしまうかもしれません。降雨自体は何も変化がないのです。自分自身の心のありよう(自己理解)が変化しただけなのです。要するに自己理解が変化すると、それに連動して周囲の見え方(すなわち他者理解)も変化するということです。

◇少し恥ずかしいのですが、教室のホワイトボードに残された乱雑な走り書きを提示してみました。ある授業の後で、自分のメモ用に撮影しておいたものです。そこには「自己=像・尊重・愛・実現」といった単語が並んでいます。その時の授業ではバウンダリー理論についても紹介しましたが、これは「自分も相手も大切にする自己実現」を意味するアサーション(Assertion)理論にもつながっています。

◇左側には、以前の授業でワークを行った「ジョハリの窓」のイメージが描かれてあります。すなわち「自分自身の認識と他者がとらえる自分への認識とが一致している状態を拡大することが望ましい」とする考えです。これはロジャーズ・カウンセリング理論の「カウンセラーの自己一致」とも連動しています。ソーシャルワーク理論では「共感的理解」です。相手が抱えている困難性に対して心からの共感的理解のまなざしを持つべし、との視点です。「ふむふむ。なるほど、分かりますよぉ・・」などと言いながら、「この程度の問題で、どうして悩んでいるんだろう?」などと批判的にとらえてはならないということです。これは自分自身による相手に対する価値判断であり、不誠実なる対応(すなわち自己不一致状態)だからです。ソーシャルワーカーであれ、カウンセラーであれ、そうした人は、支援を求める相手への「同意」ではなく「絶対的・無条件での共感的理解」のまなざしで対する必要があるのです。

◇そうは言っても、私たちはどうしても自分自身が保有する価値観で相手を理解しようとするため、なかなか相手のあり方を尊重しようとする視点が持ちにくいのです。そこに「みんな違って、みんないい!」(金子みすゞ)とするエニアグラム理論があるのです。

◇私が育った家の二階に陶器の皿が飾ってありました。その皿には野菜の絵とともに、武者小路実篤による、「君は君 我は我なり されど仲良き」といった言葉が書かれてありました。私は幼い頃からその言葉を眺めながら育ってきました。つまりは、それがエニアグラムが指し示す深きまなざしでもあるのです。

◇交流分析理論(TA)に、エゴグラム指標や、ストローク・プロフィール指標があります。あるいは前述した「ジョハリの窓」には他者からの認識指標があります。自己理解の指標を数値(データ)で示されると、何となく自分のあり方を理解したような気持ちになりがちです。しかし自己理解や、それに連動する他者理解のまなざしを深めるためには、こうした数量的・分析的なとらえ方は、きわめて精緻さに欠けるのです。人の心はそんな単純なものではないからです。それゆえ、あくまでも「ひとつの指標」として認識すべきなのです。

「自分たちの今していることは、大海の一滴にすぎないと思っています。けれど、もしその一滴がなかったら、大海もその一滴のぶんだけ少なくなってしまうでしょう。ものごとを大規模にやるという方法に、わたしは不賛成です。わたしたちにとって大切なのは、ひとりひとりです。・・」(「マザー・テレサのことば」女子パウロ会 1876年)

「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。・・貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。私たちが分かち合わないからです。・・私たちは知らなくてはなりません。ことばではなく、実際の行いのなかでどのように愛することができるのかを。」(「ほほえみ」女子パウロ会 1989年)

◇これはマザーテレサの言葉です。ニーズ型支援のまなざしがここに示されています。同じくシスター渡辺も、シスター鈴木も、そして佐藤初女さんも、自らや他者のあり方について数値(データ)に基づく分析的なとらえ方を決してしてはいません。それは大学院の指導教授であった上田薫先生の「動的相対主義的教育理論」や、北海道家庭学校の谷昌恒先生の「地を這うような、立ち尽くす実践論」も同じです。「0・1・0・1」的なデジタル思考ではなく、いわば「文章の行間を読む(読ませる)」かのごときアナログ空間にこそ、深き自己理解のまなざしが秘められているのだと私は考えているのです。


いのちの選別

2013年05月13日 | エッセイ

◇FBに画像を載せましたが、12日の礼拝で赤いカーネーションをもらいました。ちなみに私の教会では、この日を「母の日」ではなく、「家族に感謝する日」と位置づけています。

◇青山学院大学の夜間部に学士編入をして幼児保育を学んでいた時のことです。そこに人格識見ともに素晴らしい、あるクリスチャンの先生がおられました。その先生が授業で、「(自分の母親がいる、いないに関係なく)私は教会学校の子どもたち全員に赤いカーネーションをあげているのです!」と話してくれたことがありました。当時は赤と白のカーネーションを使い分けている時代だったからです。

◇以前、ある大臣が「女性は子どもを産むための機械」などといった発言をしました。失言ではなく、おそらくは、つい本音が出てしまったのでしょう。あるいは福祉施設で生活する重度の機能的制約状態を有する女性の子宮が、本人に無断で摘出されてしまったような事例が、いくつも生起した時代もありました。本質的にはこれと同じです。すなわち「女性は子どもを産んで一人前」といった差別的な発想です。私は男性ですが、「子どもを産むことが女性として一人前」などとは断じて思いません。言うまでもなく、個々人によって価値基準や事情背景が異なるからです。さらには、既婚であれ、事実婚であれ、未婚であれ、非婚であれ、その多くが自己選択・決定権の範疇(はんちゅう)にあるからです。いわゆる標準家庭などといった言葉は、単なる計量的な術語にしか過ぎないのです。

◇かつて私は肢体不自由児の臨床現場にいました。そのときには「どうしてうちの家系に・・」「どうしてこんな状態の子どもが生まれてしまったのか・・」等々の言葉に囲まれる日々でした。つまりは「こんな状態の子どもなら、欲しくはなかった!」「むしろ生まれてこなければ良かったのに!」ということです。かつての優生保護法(1948~1996年)の考え方がそれでした。要するに「いのちの選別」です。最近の出生前診断をめぐる問題提起も、「どのいのちならば祝福され、どのいのちなら・・」ということです。

◇こうしたことは、何よりも自分自身を納得させるのがとても難しいのだろうとは思うのですが、自分の生涯において、結果としてわが子が与えられずとも、あるいはどのような状態の子どもが与えられようとも、それらすべてを感謝ととらえるまなざしこそが望むべき価値意識です。そのためには、与えられたいのちは、そのすべてがプラス存在として社会全体で支えてゆく、といったインクルーシヴな価値意識の醸成がその前提となるのだと私は考えています。


美しいことば

2013年05月02日 | エッセイ

◇授業が終わり、これから300㎏のお米を研究室から運び出して自分の車に積み込みます。連休中に仮設住宅の住民さんたちにお配りするためです。

◇さて、今日の授業で「ワーカビリティ」「エンパワメント」「ストレングス」について語りました。用語の説明は省きます。ソーシャルワークの基本的な支援理論なので、検索すると容易に解説文を読むことができるからです。ちなみに“やまちゃんサービス”のお茶会は、まさにこの支援理論に基づいた当事者主軸の試み(セルフヘルプによるグループワーク活動)でもあるのです。

◇さらには「メラビアンの法則」についても語りました。これはあまりにもポピュラーな用語ですので、ご存じの人も多いかと思われます。要するに「人は外見で相手を判断し、また相手から判断されてしまう」とする理論です。メラビアンによると、相手を判断する場合は、その93%が自らの視覚(55%)と聴覚(38%)であり、わずか3%が話す言葉の内容に基づく判断であると結論づけています。つまりは「見かけの印象が大事」ということです。

◇最初、この考えに触れたときには半信半疑でしたが、パーセンテージはともあれ、人は外見で判断される場合が多いであろうことは納得できます。したがって、もしも相手に好印象を与えたいのであれば、外的側面(表情・礼儀作法・発声・言葉遣いetc.)を整えた方が得策であるということになります。

◇先日のエニアグラムの研修セミナーで、穏やかな物腰で、美しい日本語を使う女性に出会いました。少し話をする機会があったのですが、聞くと彼女は英語を用いて仕事をしているのだそうです。なるほどなぁ、と思いました。

◇昔から、翻訳者は英語力よりも日本語力の要素が重要である、ということは知られています。それと同じで、普段、外国語を運用している人ほど日本語の運用能力も高いのだろうと思われるのです。

◇書き言葉にせよ、話し言葉にせよ、美しい言葉を運用する人は知性豊かな教養人であることは間違いありません。ウィーン在住のソプラノ歌手である鮫島由美子さんがそうですし、オノ・ヨーコさんも美しい日本語を使います。シスター鈴木(鈴木秀子さん)や、シスター渡辺(渡辺和子さん)も、品性にあふれた美しい日本語を語り、また綴ります。

◇逆に、品性に欠けた粗雑な言葉や表現を好んで使う人は、その人の内面性と連動しています。そのため、「自分は知性・品性・教養に欠けるような粗雑な人間ではない!」とアピールしたいのであれば、普段から美しい日本語の運用に心がけるべきなのです。

◇話を発展させると、攻撃的・批判的な言葉ではなく、静かで穏やかな言葉(表現)を用いるべきなのです。さらには否定的・破壊的な言葉ではなく、肯定的・受容的な言葉を用いるべきなのだと思うのです。とても難しいことですが・・。お互いに美しい日本語を使いたいものですね。


「障害者総合支援法」のこと

2013年04月16日 | エッセイ

◇この4月から、これまでの「障害者自立支援法」が、「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」としての「障害者総合支援法」へと転換されることになりました。

◇「障害者総合支援法」の基本理念は、「法に基づく日常生活・社会生活の支援が、共生社会を実現するため、社会参加の機会の確保及び地域社会における共生、社会的障壁の 除去に資するよう、総合的かつ計画的に行われることを法律の基本理念として新たに掲げる。」となっています。

◇「障害者自立支援法」が施行されたのは2006年(H.18)のことでした。当時は「自立阻害法」「自殺推進法」などと揶揄(やゆ)されたほどの、いわば「稀代の悪法」でした。その最たるものが「応益負担」の考えでした。

◇当然ながら、心身の機能的な制約状態が重い人ほど支援サービスを受ける割合が大きくなりますが、しかしそうした人ほど経済的な困難度が高いために、「応能負担」ではなく、応益負担といった制度は、状態の重い人たちにとって不利益をもたらすものであることは自明の理でした。

◇側聞するところによると、当時は介護保険制度への合流を指向しようとしたのがうまくゆかず、安上がりのコストによる制度改編(改悪?)の結果として成立したのが「障害者自立支援法」だったようです。運悪く、それが成立したのが、いわゆる「小泉郵政解散選挙後」だったため、野党のパワーが弱くなったことも、この悪法の成立を許した要因です。この悪法によって、全国各地の福祉支援機関が、どれほどの被害を被ったか計り知れません。

◇介護保険制度に合流させてしまうと財政負担が強まり、保険料の徴収年齢を引き下げる必要が生じ、それでは選挙に勝てない、との判断もあったようです。パワーポリテックスの世界のことは私には分かりませんが、福祉が常にこうした論理で左右されることの悲しさを感じます。

◇新たに成立・施行をみた、この「障害者総合支援法」とて、充分な制度設計とは言えず、理念先行型であることは、他の多くの施策と同様です。今般の消費税増税が福祉目的税としての性格を強めるとはいえ、はたして心身に顕著なる制約状況を有する当事者たちへの必要財源として、どの程度、活用されるのか不確定です。

◇いずれにせよ、今後、わが国がインクルーシヴ社会の構築を目指す、といった方向性は評価したいと思っています。


Footprints(あしあと)

2013年03月05日 | エッセイ


 

◇この画像は、大津波で激しいダメージを受けた「二の倉海岸」(宮城県岩沼市押分)で撮ったものです。撮影時期は2010年の初秋頃だったと記憶しています。いつかこの詩を自分のホームページに載録したいと考えて、砂浜に自分でつけた足跡を撮影しておいたのです。

 ◇大海原をわたってやって来る壮大な風を体いっぱいに受けながら、週に数回、自宅から車で15分くらいのところにある、この海岸の防波堤をウォーキングするのが常でした。まさかこの半年後に、このような光景を目にしようなどとは予想だにできませんでした。

 ◇『Footprints』と題された美しい詩があります。この英詩から、苦しみや困難に遭ったときには、それらを自らの内に抱え込むのではなく、信頼できるお方(愛なる神様)に委ねつつ歩むことの大切さを教えられるのです。

 ◇まことに乏しい自分ですが、もしも必要とされ、あるいは託されることがあったならば、そのすべてをもって、悲しみに沈んでいる人たちと共に歩ませていただきたいと願っています。不安や悲しみに覆われている人の傍(そば)に静かに佇(たたず)んであげたいと願っています。なぜなら、弱き私自身こそが傍に佇んでもらいたいと願っているからです。

 
 ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

 このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

 主は、ささやかれた。

 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」


 One night I dreamed a dream. I was walking along the beach with my Lord.

 Across the dark sky flashed scenes from my life. For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,one belonging to me and one to my Lord.

 When the last scene of my life shot before me I looked back at the footprints in the sand. There was only one set of footprints.

 I realized that this was at the lowest and saddest times of my life. This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.

 "Lord, you told me when I decided to follow You, You would walk and talk with me all the way. But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints. I just don't understand why, when I needed You most, You leave me."

 He whispered, "My precious child, I love you and will never leave you never, ever, during your trials and testings.

 When you saw only one set of footprints it was then that I carried you."

※マーガレット・F・パワーズ(松代恵美訳)『あしあと』(太平洋放送協会 1996年)より引用