☆ 1189年 〜 十字軍に、
大河兼任の乱 :
鎌倉時代の、エドワード一世や、ルイ9世 :
歴史拾遺 ヒロイ ;
源平合戦ってあるけど、
大体は、 源氏員ら、と、
平氏員ら、との戦いみたいになるけど、
源氏 ✖ 平氏 ✖ 奥州藤原氏 、の、
三つ巴だった、 と、 思うんだよね。
ちょっと、三国志っぽいと思うんだけど。
平氏と藤原氏が、組んだりする、
可能性って、 なかったのかな? ;
2: 日本@名無史さん 2019/5/1 ( 水 ) ;
15:51:5.27 ;
源義経氏を匿っていたりしたから、
源氏に擦り寄る事は、 考えていたんだろう、
けど。
平家に近づこうとは、
思わなかったのかね。
@ 藤原秀衡氏が、 はじめに、
義経氏を匿わなくて、 平氏へ、
差し出していたら、 源氏は、
天下を取れたかな?。
@ 義経氏が死んだあとの、
鎌倉幕府 ✖ 奥州って、
鎌倉の圧勝だったの?。
@ 奥州藤原氏は、
天下は、 狙っていなかっただろうね。
将軍として、 奥州での覇権を、
というのが、 基本で、
将軍としての権威性は、
朝廷が、 根拠として、 重要でもあり。
@ 奥州藤原氏は、 奥六郡の、
安倍氏の系譜員ら、で、 全国への指向性は、
無かった、 と思う。
東北モンロー主義。
@ いっそ、 北海道方面を開拓して、
王国を作っちゃえば、良かったのにね。
@ 丁度で、 鎌倉に入ったあたりから、
全国的に寒冷化する❗ 、
ので、 厳しいね。
@ そもそも、 義経氏を差し出したのに、
奥州が、 鎌倉軍に攻め込まれたのは、
なんでなの?。
@ 将来に、 鎌倉幕府に逆らう、
謀反人を、 奥州藤原氏がかくまう、
かもしれんな。
予防のために、 潰しておくか
by 源頼朝氏。
@ 奥州合戦も、 9月で終わった、
みたいだけど、 雪が降るまで、
耐えられていたら、 また、
違った展開になっていたかもな。
@ なんか、 平家って、
あっけなさすぎない?、 もっと、
粘れなかったんだろうか?
奥州藤原氏も、 源氏と平家が、
削りあって、勢力が落ちるのを、
狙っていたんじゃないかな。
@ 平氏は、 天下を取ってからは、
都に君臨するのみで、 支持基盤の、
西国への施案 セア ; ケア ; 、
を、 なおざりにしていた。
平氏が、都を追われて、西国へ逃れたら、
西国の武士らに、、そっぽを向かれた。
それをみていたから、 頼朝氏は、
京都に住まず、 鎌倉を本拠地とし続けた、
度合いも、あるのだろう。
@ 平家方は、 倶利伽羅峠で、
その侍大将位案 クラン ; クラス ;
、が、 吹き飛んだにしては、 粘った方。
@ 奥州藤原氏の目的は、
東北地方の自治で、 それ以上でも、
それ以下でも、ない。
@ だったら、 源氏が、天下を取った、
時点で、 義経氏を、 即座に、
鎌倉方へ、差し出すべきだろう。
@ 今から考えれば、本当は、
そうすべきだった、 と思う。
しかし、 藤原秀衡氏は、 義経氏を、
かわいがって育てた、 第二の父親だ。
窮鳥、 懐 フトコロ に( 略 、 という、
ことわざもあるが、 義経氏を斬って、
鎌倉へ首を送るのが、
忍びなかったのだろう。
また、 頼朝氏が、 もし、
奥州へ攻めてきたら、 義経氏を大将にして、
迎え撃つ、という、 貨兌 カダ ;
カード ; 、 を残しておくことで、
頼朝氏らの、 奥州への征伐を、
思いとどまらせたい、 という、
気持ちもあったり ;
( もとは、 義経氏を、 秀衡氏が、
かくまった時は、 平家の天下だが、
万が一にも、 平家が、 奥州、への、
征伐を起こしたら、 義経氏を旗頭にして、
源氏の蜂起を狙っていたのでは、
とも、考えられる ) 。
☆ 誰が、 鎌倉方の総帥に成っても、
京都の朝廷側、 と、 奥州の勢力とからの、
自らへの挟み撃ち、の、 あり得る度合いを、
減らし去る上では、
奥州への征伐を成すべき、
必要性がある、 からには、
朝廷側への、
足止めをして置いてから、ならば、
奥州への征伐をする事は、
時間の問題な事であって、
義経氏を、 奥州側が、
軍司令官に据えるべき、 必要性が、
奥州側には、あった。
@ 藤原秀衡氏って、
平清盛氏や、 源頼朝氏と比べても、
遜色がないぐらいの政治家だよね?。
@ 奥州藤原氏は、
広大な土地を支配していたが、
兵士の動員力は、 2~3万程度に、
過ぎなかった。
当時の東北地方は、 米の生産量は、低く、
人口が少なかった❗ 、 ためだ。
辺境地帯の有力者ではあるが、
中央の貴族の平家や、
関東の穀倉地帯の覇者である、
源頼朝氏とは、 比較にならなかった、
と、思う。
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、
公卿に上った平家や、
源頼朝氏らとは、 格が違った。
@ 平家みたいに、
貿易とかは、してなかったの?。
@ やってるぞ❗。
日本海での交易に噛んでて、
『 渤海 』、 とも、交易していた。
@ そういえば、 奥州藤原氏には、
黄金が、 沢山にあったわけでしょ。
金の力で、 何とかならんかったのかな。
@ 公家員ら、が、 天下を掌握していた、
頃は、 奥州の金を献上して、うまく、
付き合いが、できていた。
頼朝氏に、 その手は、通用しなかった。
平清盛氏の場合は、 もとからの、
勢力基盤の西国とか、 貿易の相手の、
海外には、 関心が高くても、
関東より先へは、 関心性が低かった。
@ 奥州藤原氏が、 東北に、
君臨できたのは、 朝廷 ;
( 院・摂関家 ) 、
平家が、 京都にいて、 遠方であったから、
中央に、ある程度は、 従順な、
辺境の有力者として振舞えたからだろう。
中央貴族とも、友好な関係性を、
築いていた。
関東という、 至近距離に、
強大な軍事力を持った、
武家政権ができたことが、
奥州藤原氏にとって、 命取りになった。
@ 奥州藤原氏が滅びた後って、
誰が、 東北を支配したの? 。
鎌倉幕府から、 誰か、
派遣されたわけでしょ? 。
@ 奥州への征伐の後に、
頼朝将軍が、 奥州を、
関東の御家人らに分け与えた❗ 。
蘆名氏は、 三浦氏の分家。
相馬氏は、 千葉氏の分家。
伊達氏 ➕ 葛西氏 、は、
豊島氏の分家。
@ 幕府の宿老、な、大江広元氏の子孫も、
東北に所領をもらっているね。
長井荘とか、 寒河江荘を拝領して、
室町時代まで続いている。
@ たとえば、 頼朝氏は、
平家を倒すときに、 裏から、
藤原氏が攻めて来るかも❗ 、
って、警戒してたりは、したんだろうか?。
@ 朝廷から、 木曽義仲氏、への、
追討のために、 頼朝氏の上洛を求められた、
時には、 留守を、
奥州藤原氏に狙われるから、 という、
理由で、 断ったりしている❗ 。
奥州藤原氏は、 義経氏を匿うなどし、
源氏に、 好意的だった一方で、
平氏政権からは、 陸奥守に任じられる、
などし、 平氏とも、付き合いはあった。
奥州藤原氏とすれば、
源氏と平氏のどっちが勝っても、
上手に立ち回れるように、
外交したんだろうが、 頼朝氏らからは、
潜在的脅威と認識されるようになった、
と、 思われる。
@ 頼朝氏は、 挙兵したころは、
いったんは、 奥州へ逃れる、
案も、あったらしいから、
奥州藤原氏は、 友好的な勢力、
と、 考えていた可能性が、 高い❗ 。
奥州で、かくまわれていた義経氏が、
頼朝氏の陣に加わる為に、出征する時も、
藤原秀衡氏は、 義経氏へ、
従者をつけてくれた❗ 。
@ ってことは、 味方だった、
藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ、天下を取る人は、 非情だね。
@ よく、 漫画やドラマだと、
義経氏が、 逃避行の末に、
奥州の平泉へ、いきなり、 押しかけて、
秀衡氏が、 情にほだされて、
義経氏を保護した、 という、
お話になっているけど、 実際は、
奥州藤原氏の家来か、 御用商人 ;
( 金売り吉次氏? ) 、 が、
秀衡氏の密命を受けて、 畿内で、
行き場を失った義経氏を、
奥州平泉へ、 密かに案内したのではないか、
と思う。
@ 義経氏は、 異母兄な、
頼朝氏との戦いを決意して、
後白河法皇から、 頼朝氏、への、
追討の院宣を得た際に、 畿内や、
九州の兵力を当てにしていたようだ。
義経氏が都落ちする時も、
奥州へは、 向かわず、 正反対の、
九州へ向かおうとした❗ 。
これは、 豊後 ; ( 大分県 )、の、
緒方氏を、 味方と頼んだからだ。
しかし、 船が難破して、
九州行きは、 失敗❗ 、 京都は、
鎌倉軍に占領され、
緒方氏も、 鎌倉に降伏❗ 。
義経氏は、 畿内の、公家や、
寺社に密かに匿われて、転々としていた、
が、 その間に、
義経氏、への、 合力者で、
和泉に勢力を持っていた、 源行家氏、や、
大和に勢力を持っていた、 源有綱氏、とか、
義経氏への家臣で、 伊勢の山賊の出の、
伊勢三郎氏が、 鎌倉軍に、 相次いで、
見つかって、 討ち取られ、
義経氏は、 再起の道筋が見えず、
途方に暮れていた、 と、 思われる。
そんな中で、 頼朝将軍は、
奥州藤原氏に、圧力をかけていた❗ 。
それまで、 奥州藤原氏は、京都の朝廷へ、
直に、 献金していた、
が、 それを、 頼朝氏が仲介して、
献金すること、と、 一方的に、
言い渡してきたからだ❗ 。
頼朝氏の事実な上での挑発、 とみた、
奥州藤原上は、 「 有事 」、 に備えて、
義経氏を、 平泉で、 密かに匿う❗ 、
こと、と、 決めて、 迎えの者を、
畿内の義経氏の潜伏先へ派遣した、
のではないか、 と思う。
なぜなら、 はるばる、 畿内から、
奥州平泉まで行って、秀衡氏から、
「 いきなり来られても、匿えません 」、
と、 断られたら、 義経氏としては、
行き場を失うわけで、 そんな、
行き当たりばったりな、
ハイリスクはしない、 と、思うからだ。
@ もし、 藤原泰衡氏が、
義経氏と手を組み、 頼朝氏方の、
奥州への征伐軍と戦い、 義経氏が、
鵯越の逆落としのように、
頼朝氏の本陣を奇襲して、
頼朝氏を討ち取ったら、
どうなったのかな?。
義経氏には、 幕府を開く構想は、
ないから、 京都に住んで、
朝廷や院に仕えるだろう。
それこそ、 義経氏が、
権大納言、の、 右近衛大将となる。
泰衡氏は、 陸奥守、の、
鎮守府将軍となって、 奥州の自治を、
名実ともに、 実現かな。
@ 幕府を開く構想は、なくとも、
その頃には、 頼朝氏が、
幕府みたいなものを開いている訳だから、
幕府への構想を乗っ取るんじゃないかな。
東北に、幕府ができてたかも。
@ 鎌倉軍が、 相当な兵力を動員できた、
のに対して、 奥州は、兵力が少なく、
兵力差が、 あまりに、 大きいので、
たとえ、 義経氏を加えたとしても、
奥州側に、 勝ち目は、ない。
おそらく、 義経氏は、 泰衡氏とともに、
平泉を捨てて、 奥地へ退却して、
鎌倉軍を引き込み、
遊撃 ユゲキ 戦 ; ゲリラ戦 ;
、 に持ち込むだろう。
津軽あたりまで、 引き込み得た所で、
季節が、 冬になり、大雪が降れば、
鎌倉側の騎馬隊は、 立ち往生する❗ 。
恐らく、 その頃合いで、 義経氏は、
頼朝氏の本陣を奇襲する、 と思う。
@ 木曾義仲氏の残党員ら、って、
どうなったの?、
頼朝氏側に吸収されたの?。
@ 頼朝氏側に吸収❗ 。
北陸系は、 比企氏じゃねえかな。
@ 平家 ✖ 頼朝氏 ✖ 木曾義仲氏
✖ 奥州藤原氏 ✖ 朝廷 。
この5勢力って、感じだったのかな?。
平家の中では、
勢力争いみたいのは、なかったの?。
@ ざっくりで、
宗盛氏派 ✖ 池殿派 ✖ 小松殿派 。
清盛氏の跡は、 宗盛氏が継ぎ、
同母弟の知盛・重衡氏が、
宗盛氏を支えた。
これに対して、 宗盛氏の長兄な、
重盛氏の子である維盛・資盛氏らな、
小松家、
清盛氏への異母弟な、 平頼盛氏らな、
池家とは、 微妙な関係であった。
@ 摂関家も、 松殿 ✖ 近衛
✖ 九条 、で、 それぞれが、
独自な路線を歩んでて、
朝廷は、もう、 むちゃくちゃ。
@ 後付けだが、奥州藤原氏が、
生き残るために、やるべきだったことは、
源平合戦が、 長期化・泥沼化するよう、
工作すべきだった。
都落ちして衰退した、 平氏に、
奥州藤原氏が、 黄金や軍船、に、
軍馬を用立てても、よかった。
@ 頼朝は、 激怒するだろう。
でも、 頼朝氏が、 東国と京を維持しつつ、
西国の平家と、 奥州藤原氏の両面を、
同時に、 相手にして戦うのは、
無理だから、 奥州藤原氏の、
「 勝手な 」、 振る舞いにも、
ある程度は、 我慢して、
交渉するほかにない。
@ 当時は、 奥州の藤原氏、以外にも、
関東には、 志太先生義広氏、
上総介広常氏、などの、
独立勢力があった。
これらな、独立勢力らは、
源頼朝氏に対しても、 強い自尊心、
独立心で、 接しており、やがて、
頼朝氏に 危険視されて、滅ぼされていく。
頼朝氏の鎌倉幕府は、
東国での独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のそれのような、
緩やかな支配のほうが、 まだ、
奥州藤原氏には、 都合が、よかった。
@ 反頼朝勢力は、基本的に、
古利根川の東側が、 本拠地なんだよな。
今でも、 そうだが、 茨城 ➕ 栃木 ➕
千葉の、 東関東 ; ( 方言学用語 ) 、
は、 文化的に、 東北に通じるものがある。
他方で、 神奈川 ➕ 東京 ➕ 埼玉
➕ 群馬 、の、 西関東は、
中部地方との、つながりが、強い。
地理的な関東地方は、 実は、古利根川 ;
( 正確には、 古渡良瀬川 ) 、 で、
人文的には、 東西に分断されている。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、
実際には、 箱根以西を、 辺主 ベス ;
ベース ; 、 とする、
東海政権としての、 雰囲気が、 強い。
この、「 東海→西関東→東国政権 」、
という流れは、 北条執権の政権、
堀越公方、後北条氏、徳川氏と、
断続的では、あるが、 ずっと続く。
この話、 昔に、 この板でやったら、
なぜか、 「 関東は、 一つだ❗ 」 、
と、 激怒して、 猛反論する奴がいて、
大荒れになったんだよなw。
後の古河公方、な、 足利成氏氏による、
享徳の乱にしても、
中央室町側の西関東 ➕ 山梨伊豆 ;
( 上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆 )
✖ 在野の、 成氏氏への支援の、
土着な武士らの、 東関東 ;
( 下野、常陸、下総、上総、安房 ) 、
との、 争いになっている❗ 。
むしろ、 関東は、 南北よりも、
東西での争いが、 割と多いのは、
歴史的にも、 結構と、 有るし、
千葉は、 首都圏となっているとしても、
栃木と茨城は、 言語学者によっては、
関東よりも、 東北方言に含める人もいる ;
( 勿論な事に、 異論や反論も多いが ) 。
@ 鎌倉幕府にとっては、
頼朝氏が健在で、 勢いがあるうちに、
奥州政権を潰せて、 楽機 ラッキ ;
ラッキー ; 、 だったよね。
下手に、 大勢力として臣従されちゃうと、
揉め事の種が、増えるだけだし。
@ あれだけ、 黄金を持って、
大陸とも交易してるんだから、
大陸から、 数万人を、 お金で雇って、
奥州に連れてきて、
奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝氏側と、戦えば、 よかった。
@ 黄金は、食えないからね。
@ 秀衡氏は、 自分の死後に、
その長男な、 国衡氏、と、 次男で、
跡継ぎの泰衡氏が争うことを恐れて、
泰衡氏の母を、 国衡氏に嫁がせる❗ 、
という、 ミラクルをやって、
争いを防ごうとした。
その結果にて、 国衡氏と、
泰衡氏の争いは、 起きなかったが、
代わりに、 泰衡氏は、 自分の弟な、
4人の中の、 3人を斬って、
粛清してしまった❗ 。
そして、 父な、 秀衡氏の遺言を破って、
義経氏も斬ってしまった❗ 。
とてもではないが、 頼朝氏と、
太刀打ちする器は、ない。
@ 頼朝氏方が、 攻めてきたら、
義経氏を大将、国衡氏を副将にして、
迎え撃たせる。
泰衡氏は、 平泉の留守を守る、と称して、
平泉に残り、密かに、 奥州の砂金を、
大船に満載し、 シナ語がわかる、
僧侶や商人たちを、 船に乗せておく。
義経氏方が、 大敗し、
奥州藤原軍の壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡氏は、 すぐに、 船に乗って、
シナへ逃げる❗ 。
@ 大陸へ渡るよりも、
蝦夷地へ渡る方が、 安全ではないか?。
奥州藤原氏は、 蝦夷地、への、
航路を知っていた可能性がある。
また、 家臣団とともに、
武器を持って行けば、
蝦夷地への支配者として、
存続することもできる。
函館あたりを拠点にすれば、いいだろう。
@ 奥州藤原氏は、 平家側について、
頼朝氏の勢力が、 まだ小さいうちに、
攻め滅ぼしておけば、
よかったのではないか?。
石橋山の合戦の当時なら、
奥州藤原氏が、 本格的に、
平家側に加勢すれば、 頼朝氏側は、
かなりに、 不利になる❗ 。
関東が、 割拠状態にあるほうが、
奥州は、 安泰になる。
@ 奥州が、 京都から遠すぎるんだよな。
せめて、 日本海あたりに進出して、
もっと、 勢力をふやせなかったのかな?。
初期に、 頼朝氏側と組んで、
日本海側から、 京都に攻め入ってたら、
いい感じで、 天下を三分できたんじゃ、
ないだろうか?。
@ 奥州藤原氏側は、
日本海には、 進出している❗ 。
渤海国とも交易している❗ 。
この時期に、 飢饉の京都に入ったら、
木曽義仲氏の二の舞は、避けられないよ。
@ 奥州藤原氏には、
血統による正統性がなかったからな。
所詮は、 俘囚の長ってだけだし。
@ 奥州藤原氏は、 中央貴族の、
藤原氏の一族か、縁者であることは、
間違いないのではないか?。
東北に土着して、独立した、
生活圏を作ろうとした。
その点においては、 他の関東の武士らに、
似ている、 とも思う。
異なるのは、 その支配の領域が、
広大であること、 突出した、
経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた、 化外の人々の住む、
僻地にあり、どこか、
異質性を感じさせることだ。
@ 奥州藤原氏が、 号令をかけても、
奥州、 以外からは、 兵は集まらない、
と、 思うけどな。 なぜか?、 それは、
俘囚だからとしか言いようがない。
☆ 大河兼任 オオカワ・カネトウ の乱 : は、 1189年でもある、 文治 5年、
の、12月から、 翌る年の3月にかけて、
鎌倉政権と、奥州藤原氏の残党員な、
大河兼任氏ら、 との間で、
東北地方にて行われた戦いだ。
1189年な、 文治 5年に、
奥州合戦に勝った、 源頼朝
ミナモトのヨリトモ 氏は、 9月22日に、
葛西清重氏を、奥州総奉行に任じ、
28日に、 奥州から、鎌倉へ帰った。
陸奥 ムツ の国内では、
奥州藤原氏に従属していた武士団が、
土地を没収されて、 清重氏を始め、
多くの東国武士らが、地頭職を与えられた。
一方で、 多賀城国府では、
在庁官人らによる、国務の運営が継続し、
戦場にならなかった、今の秋田県などの、
出羽国の内陸部では、
旧来の在地の豪族らが、
勢力を保持しており、
東国武士勢と在地勢らとの間に、
軋轢が生じる様になる。
1189年の12月になると、
死んだ筈の、源義経氏や、
木曾義仲氏の子息や、 藤原秀衡氏の子息が、
同心して、鎌倉へ進軍する、
という、風説が流れた❗ 。
翌年の正月になると、 反乱の首謀者は、
藤原泰衡 フジワラのヤスヒラ 、氏、
への、 郎従で、 八郎潟の東岸 ;
≒ 今の、秋田県は、 五城目町の付近 ;
、を本拠とする、 大河兼任氏❗ 、
と、判明する。
兼任氏は、 前年の12月から、
義経、と称して、
出羽国は、海辺庄に現れ、
源の木曽義仲氏の嫡男の、 朝日冠者 ;
≒ 源義高氏 ; 、と称して、
出羽の山北郡で、挙兵する、などして、
鎌倉方を撹乱していた、
が、
「 親類・夫婦への仇を討つのは、
通常の事であるが、 未だ、
主人への仇を討った例 タメシ はなく、
その例を始める❗ 」 、 として、
七千余騎の軍勢を率いて、
鎌倉へ向けて、進んだ。
その経路は、 河北の、秋田城を経由して、
大関山 ;
≒ 笹谷峠 ; 、 を 越えて、
多賀城、 という、国府へ出ようとする、
物であった、
が、 八郎潟を渡る際に、
氷が、いきなり、 割れて、
五千人余りが溺れ死んだ❗ 、 という。
兼任氏は、 進路を変えて、
小鹿島や、津軽の方面に向かい、
鎌倉方の、 由利維平氏や、
宇佐美実政氏を討ち取った❗ 。
正月の7日に、 兼任氏の弟で、
源頼朝氏の御家人となっていた、
忠季氏や、
新田三郎入道らから、 報告を受けた、
頼朝氏は、軍勢を遣る事を決断し、
相模から西の、 御家人らに、
動員令が下された❗ 。
正月の8日に、 千葉常胤氏が率いる、
東海道軍や、
比企能員 ヨシカズ 氏が率いる、
東山道軍が、 奥州に向けて、 発ち、
正月の13日には、 追討使として、
足利義兼氏が出陣し、
大将軍として、千葉胤正氏も出陣する。
奥州に所領を持つ御家人らと、
上野や信濃の御家人らも、次々に下向した。
頼朝将軍は、 個々の御家人が、
手柄を競って、 寡兵 ;
≒ 少ない兵 ; 、で、
敵に挑む行為を戒め、 兵力を結集して、
十分に、 準備を進めてから、
事に当たる様に、指示をした❗ 。
大河兼任軍は、 津軽から、
陸奥の中央部に進んで、 平泉に達し、
奥州藤原氏の残党員ら、を配下に加えて、
一万騎に膨れ上がった❗ 。
この形勢を見て、
多賀城の国府の留守所も、
兼任氏側に同調した。
大河兼任氏らが、
鎌倉幕府軍と戦っていた頃に、
西の一神教徒らは、
1192 良い国 、 奪おう、 な、
『 第3回の十字軍 』、 を成した側と、
受けて立った側とが、
1189年 ~ 1192年を、
戦い合っていた❗ 。
アイユーブ朝の始祖で、
「 イスラムへの擁護者 」、 と目された、
サラーフッディーン氏 ;
≒ サラディン氏 ; 、に征服された、
聖地のエルサレムを奪還すべく、
ヨーロッパのキリスト教国らの者らが、
第3回の十字軍を成す。
神聖ローマ皇帝の、フリードリヒ1世 ;
≒ 赤髭王 ; 、も、
ローマ教皇の、 アルバヌス8世、 からの、
呼びかけに応え、
十字軍の第一陣として、
1189年に、 本国を出発した。
フリードリヒ1世は、 その途上で、
サラーフッディーン氏、と、
秘密の協定を結んでいた、
東ローマ帝国の皇帝の、
イサキオス2世アンゲロス、 による、
敵対的な行為に直面したので、
十字軍の将兵らは、
東ローマ領を急いで通過した。
その後の、1189年5月18日に、
クルチ・アルスラーン2世が治める 、
ルーム・セルジューク朝の首都の、
イコニウムを占領し、
1190年の6月10日に、
フリードリヒ1世が、 キリキアの、
サレフ川で、 溺れ死んだ。
彼らは、 数の上では、
サラーフッディーン氏側より多かったが、
フリードリヒ1世を失った事から、
十字軍を解散した❗ 。
一部の者らは、向かった先のシリアで、
戦いに敗れた。
英国の、リチャード1世と、
フランスの、フィリップ2世による、
アッコンへの征服があったりした。
1190年の、
2月12日に、 大河兼任軍は、
栗原郡の一迫 ;
≒ 今の、 栗原市 ; 、で、
足利義兼氏が率いる、 鎌倉軍と激突し、
壊滅的な打撃を受け、 敗れ走った❗ 。
兼任氏は、 残存した5百余騎を率いて、
衣川で、反撃するが、敗れ、
北上川を越えて、 外ヶ浜、と、 糠部、
との間にある、 多宇末井の懸橋の近くの、
山に立て籠もった、
が、 足利義兼氏らの急な襲撃を受けて、
行方をくらました。
大河兼任氏は、 花山に、千福や、
山本、などの、各地を転々とした後に、
亀山を越えて、栗原に戻った、
が、 3月十日に、 栗原寺で、
錦の脛巾を着て、
金作りの太刀を帯びた姿を、
地元の樵 キコリ 、に怪しまれ、
斧で、 斬り殺された。
その首への実検は、 千葉胤正氏が行い、
約3ヶ月に及んだ反乱は、 終息した。
1190年でもある、 建久 元年 、の、
3月15日に、 頼朝将軍は、
大河兼任氏に同意した、
多賀城の国府の留守所に替えて、
伊沢家景氏を、 留守職に任じた。
以後の陸奥では、
平泉の周辺を基盤として、
軍事や警察を担う、葛西清重氏と、
多賀城の国府を管轄する、
伊沢家景氏、 との、
二元的な支配体制を成して、
鎌倉幕府の勢力が浸透してゆく。
葛西清重氏の戦況の報告を聞いた、
頼朝将軍は、 その報告の中に、
橘公業氏が、討ち死に、
由利維平氏が、逃亡 、
とあった事に対し、
2人の人となりから推して、
由利維平氏が、 討ち死に、
橘公業が、逃亡 、の、間違いだろう、
と、推察して観せた。
翌る日に、 後発の詳細な報告が到着し、
頼朝将軍の推察の通りだった事から、
その場にいた一同は、感嘆した❗ 、
という ;
≒
『 吾妻鏡 』 :
建久元年の正月18日、19日の条 クダリ 。
源頼朝氏が、 御家人ら、の、
それぞれの見るべき所らを含む、
属性らを熟知していた事の、
例として、 この事は、 知られる。
由利氏は、 出羽国の沿岸の中部の、
由利地方 ;
≒ 今の秋田県は、 由利本荘市 ;
、の豪族だった、 と言われる。
由利氏は、 家伝によれば、
大中臣良平氏が、源義家氏に従い、
由利半郡を賜ったのが、始まり、
と、されている。
『 吾妻鏡 』、 に、二度を記載されており、
一度目は、 奥州合戦の時に、
藤原泰衡氏の郎党として登場し ;
≒ 由利八郎氏 ; 、
二度目は、
この大河兼任氏の乱の時に、
御家人として現れる ;
≒ 由利中八維平氏 。
一部には、 『 吾妻鏡 』、の、
頼朝氏の挙兵の時の記事にある、
中八維平氏を、後者と同一人物と見るも、
八郎氏と中八氏の二人を、
別人とする見解もある。
その見解では、 八郎氏は、
御家人となった後の記録が、無く、
彼とは別人の、 中八氏は、
奥州合戦で、由利地方を、
恩賞として賜ったとする。
八郎氏は、奥州合戦において、
泰衝氏の命により、 出羽口を、
田河行文氏や、 秋田致文氏ら、と、
守っていた、
が、 鎌倉軍に敗れ、
宇佐美実政氏により、 生虜りになった。
捕虜の身でありながら、
「 運尽きて、 囚人と為るは、
勇士の常❗ 」 、と、堂々とした態度で、 梶原景時氏の無礼をたしなめ、
畠山重忠氏が、 礼を尽くすと、
その尋問に応じた。
それを見ていた、 源頼朝氏も、
「 勇敢の誉れ有るに依って 」、
罪を許した❗ 。
二度目の記載では、
大河兼任氏の乱に際して、
3度目の、正直ならぬ、
十字軍が始まった、1189年でもある、
文治 5年 、の、 12月24日に、
工藤行光氏や、宮六仗国平氏らと、
陸奥国に先発し、
小鹿島の大社山の毛々左田の辺り ;
≒ 今の、秋田県は、 秋田市の、
大森山の新屋の付近か? ; 、で、
討ち死にした❗ 、 とある。
子の維久氏は、 和田合戦に連座して、
所領を没収された、と言われるが、
子孫員、は、 由利地方に土着し、
『 滝沢氏 』、 と称し、
由利十二頭の一として、 後に、
最上氏の配下になり、 続いて、
六郷氏の配下となり、幕末に至った。
@ 大河兼任氏の乱があった建久年間は、
文治年間の後で、 正治年間の前を占める。
1190年から、 1198年までの、
期間を指す。
この時代の帝は、 1221年に、
承久の乱を起こす、 後鳥羽、と、
土御門帝。
文治 6年 4月11日 ;
≒ ユリウス教皇暦の、1190年5月16日 ;
、に、
三合により、 改元 ;
≒ 『 百錬抄 』 。
建久 10年 4月27日 ;
≒ 1199年 5月23日 ; 、に、
正治に改元。 :
@ 名の出典は、 『 晋書 』、 の、
「 建久安於万歳、 垂長世於元窮 」、
と、
『 呉書 』、 の、
「 安国和民、 建久長之計 」 、 より。
勧進者は、 文章博士の藤原光輔氏。
@ 1192年 ;
≒ 建久 3年 :
源頼朝氏が、 征夷大将軍になり、
鎌倉幕府を開く❗ 。
建久4年 :
曾我兄弟が、富士の裾野の狩場にて、
父への仇を討つ。
建久7年の政変 :
頼朝将軍と連携していた、
九条兼実氏が、 関白を罷免される。
1198年 ;
≒ 建久9年 :
後鳥羽帝が、 土御門帝に譲位し、
上皇となって、 院政をしく。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
最悪の政府
2019-12-02 08:41:32
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年末特別講演会「京都大学大学院教授、元安倍内閣・内閣官房参与 藤井聡様」
2019年12月4日(水) 18:45~ 東京都新宿区
【MMT (現代貨幣理論)を学び、日本経済を展望する】
三橋TV第168回【民主制に国民国家は必須で、民主制と皇統は矛盾しない!】
本日はチャンネル桜「Front Japan 桜」に出演します。
先日、ルソーが「社会契約論」に、
「人民が減り、衰微してゆく政府が最悪の政府である。」
と書いていたことをご紹介しましたが、衰微とは具体的には「貧困化」「困窮」という話だと思います。
ルソーの生きた18世紀は、今と比べれば生産性が低く、人々がモノ不足に苦しめられることは多かったのでしょう(それでも、イギリスなどは時折デフレになってましたが)。
いずれにせよ、国民が貧しくなり、人口が減る国の政府は「最悪の政府」ということになります。まさに、今の安倍政権です。
『19年の出生数が急減 1~9月、5.6%減の67万人
少子化のペースが加速している。厚生労働省が26日発表した人口動態統計(速報)によると、1~9月に生まれた子どもの数は67万3800人と前年同期に比べ5.6%減った。年間の出生数が5%を上回る減少となったのは直近では1989年。2019年は30年ぶりの大幅減となる可能性がある。政府は土曜日の共同保育の推進など少子化対策の拡充を急ぐが、人口減に歯止めをかけるのは簡単ではない。
速報値には日本人に加え、日本生まれの外国人や海外生まれの日本人も含む。日本生まれの日本人に限ると、出生数は速報値よりも年間で3万人程度少なくなる。
18年の日本生まれの日本人は91.8万人で、現在の減少ペースが今後も続くとすると、19年の出生数は87万~88万人程度になる可能性がある。10年前に比べて20万人程度少ない。1899年の統計開始以来、最少だ。(後略)』
少子化の原因は、しつこいですが、結婚した夫婦が産む子供の数が減っていることではありません。結婚が減っていることです。
しかも、安藤先生が「三橋TV 第162回」で解説して下さったとおり、
「結婚が減っているため、少子化になっている」
ことを裏付けるデータの多くは、少子化対策白書に掲載されているのです。少なくとも、少子化対策白書を書いた官僚は、「事実」を認識しているはずです。
三橋TV第162回【PBある限り日本の亡国は止まらない、弱者救済も不可能という現実】
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。
【令和元年版 少子化社会対策白書 全体版(PDF版)】
令和元年版少子化対策白書には、結構、怖いデータが載っており、例えば「50歳時の未婚割合」を見ると、1970年には男性3.3%、女性1.7%だったのが、2015年は男性23.4%、女性14.1%。
わたくしと同い年の男性の四分の一近くが未婚ということになります。
とはいえ、「未婚者(18歳~34歳)のうち「いずれ結婚するつもり」と答えた者の割合」は、男性が85.7%で、女性が89.3%。過去三十年、ほぼ変わっていません。
つまりは、日本人が「結婚したいが、できない」状況に追い込まれた結果、少子化が進んでいるのです。結婚を望む国民に、「それすら」与えようとしない政府に、存在価値があるのでしょうか。
そして、日本人がなぜ結婚しなくなっているのか。様々なデータをご紹介しましたが、大きくは二つ。
1.実質賃金の低下
2.東京一極集中
所得関係でいえば、30歳代の男性は、1997年は年収500万円~699万円が約25%と最も多く、二番目が400万円~599万円(20%)でした。
それが、2017年は300万円~399万円が約20%と最大。(令和元年少子化対策白書、以下同)
女性が結婚相手に求める年収は、400万円~500万円が26.2%と最大。次が500万円~600万円(22.9%)。
要するに、男性の年収が低すぎ、結婚が減り、少子化になっている。
そこに、東京一極集中の影響が被さってきます。
【2017年 日本の都道府県別合計特殊出生率】
子供が生まれる地方から、子供が生まれない東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)に「若い世代」の人口が移ってきているのです。これでは、少子化が止まるはずがありません。
東京一極集中の主犯は、というか主犯「も」政府です。何しろ、政府は緊縮財政の下で公共投資について「選択と集中」をしており、選択された東京圏(南関東)以外は見捨てられた状況にあるのです。
【地域別公共投資の状況(2018年まで)兆円】
厄介なのは、
〇 国民の実質賃金を引き下げる
〇 公共投資の選択と集中
について、安倍政権は「やむを得ずやっている」わけではない、という点です。むしろ「政策」として、少子化推進の実質賃金引下げ(※消費税増税含む)や東京圏への投資集中が行われています。
つまりは、安倍政権は「故意」に日本人を減らしていっているのです。いや、さすがに「日本人を減らそう」と思っているわけではないでしょうが、確実に減る政策を推進している。業務上過失致死、という感じでしょうか。
一応、書いておきますが、安倍政権が終わったとしても、次の政権でも「実質賃金引下げ」「選択と集中」の政策が続く限り、少子化に歯止めは効きません。つまりは、安倍政権には、
「誤った政策で、日本人を減らした」
責任を取る形で、終焉を迎えてもらいたいのです。安倍総理に「勇退」などされた日には、次なる政権下でも路線の転換は不可能です。
それにしても、ジャン・ジャック・ルソーが現在の日本にタイム・スリップしてきたら、安倍政権をいかに評するのでしょうか。
「私は18世紀の欧州で様々な最悪の政府を見てきた、下には下がいるもんだ」
と、むしろ感心するような気がいたします。
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
大河兼任の乱 :
鎌倉時代の、エドワード一世や、ルイ9世 :
歴史拾遺 ヒロイ ;
源平合戦ってあるけど、
大体は、 源氏員ら、と、
平氏員ら、との戦いみたいになるけど、
源氏 ✖ 平氏 ✖ 奥州藤原氏 、の、
三つ巴だった、 と、 思うんだよね。
ちょっと、三国志っぽいと思うんだけど。
平氏と藤原氏が、組んだりする、
可能性って、 なかったのかな? ;
2: 日本@名無史さん 2019/5/1 ( 水 ) ;
15:51:5.27 ;
源義経氏を匿っていたりしたから、
源氏に擦り寄る事は、 考えていたんだろう、
けど。
平家に近づこうとは、
思わなかったのかね。
@ 藤原秀衡氏が、 はじめに、
義経氏を匿わなくて、 平氏へ、
差し出していたら、 源氏は、
天下を取れたかな?。
@ 義経氏が死んだあとの、
鎌倉幕府 ✖ 奥州って、
鎌倉の圧勝だったの?。
@ 奥州藤原氏は、
天下は、 狙っていなかっただろうね。
将軍として、 奥州での覇権を、
というのが、 基本で、
将軍としての権威性は、
朝廷が、 根拠として、 重要でもあり。
@ 奥州藤原氏は、 奥六郡の、
安倍氏の系譜員ら、で、 全国への指向性は、
無かった、 と思う。
東北モンロー主義。
@ いっそ、 北海道方面を開拓して、
王国を作っちゃえば、良かったのにね。
@ 丁度で、 鎌倉に入ったあたりから、
全国的に寒冷化する❗ 、
ので、 厳しいね。
@ そもそも、 義経氏を差し出したのに、
奥州が、 鎌倉軍に攻め込まれたのは、
なんでなの?。
@ 将来に、 鎌倉幕府に逆らう、
謀反人を、 奥州藤原氏がかくまう、
かもしれんな。
予防のために、 潰しておくか
by 源頼朝氏。
@ 奥州合戦も、 9月で終わった、
みたいだけど、 雪が降るまで、
耐えられていたら、 また、
違った展開になっていたかもな。
@ なんか、 平家って、
あっけなさすぎない?、 もっと、
粘れなかったんだろうか?
奥州藤原氏も、 源氏と平家が、
削りあって、勢力が落ちるのを、
狙っていたんじゃないかな。
@ 平氏は、 天下を取ってからは、
都に君臨するのみで、 支持基盤の、
西国への施案 セア ; ケア ; 、
を、 なおざりにしていた。
平氏が、都を追われて、西国へ逃れたら、
西国の武士らに、、そっぽを向かれた。
それをみていたから、 頼朝氏は、
京都に住まず、 鎌倉を本拠地とし続けた、
度合いも、あるのだろう。
@ 平家方は、 倶利伽羅峠で、
その侍大将位案 クラン ; クラス ;
、が、 吹き飛んだにしては、 粘った方。
@ 奥州藤原氏の目的は、
東北地方の自治で、 それ以上でも、
それ以下でも、ない。
@ だったら、 源氏が、天下を取った、
時点で、 義経氏を、 即座に、
鎌倉方へ、差し出すべきだろう。
@ 今から考えれば、本当は、
そうすべきだった、 と思う。
しかし、 藤原秀衡氏は、 義経氏を、
かわいがって育てた、 第二の父親だ。
窮鳥、 懐 フトコロ に( 略 、 という、
ことわざもあるが、 義経氏を斬って、
鎌倉へ首を送るのが、
忍びなかったのだろう。
また、 頼朝氏が、 もし、
奥州へ攻めてきたら、 義経氏を大将にして、
迎え撃つ、という、 貨兌 カダ ;
カード ; 、 を残しておくことで、
頼朝氏らの、 奥州への征伐を、
思いとどまらせたい、 という、
気持ちもあったり ;
( もとは、 義経氏を、 秀衡氏が、
かくまった時は、 平家の天下だが、
万が一にも、 平家が、 奥州、への、
征伐を起こしたら、 義経氏を旗頭にして、
源氏の蜂起を狙っていたのでは、
とも、考えられる ) 。
☆ 誰が、 鎌倉方の総帥に成っても、
京都の朝廷側、 と、 奥州の勢力とからの、
自らへの挟み撃ち、の、 あり得る度合いを、
減らし去る上では、
奥州への征伐を成すべき、
必要性がある、 からには、
朝廷側への、
足止めをして置いてから、ならば、
奥州への征伐をする事は、
時間の問題な事であって、
義経氏を、 奥州側が、
軍司令官に据えるべき、 必要性が、
奥州側には、あった。
@ 藤原秀衡氏って、
平清盛氏や、 源頼朝氏と比べても、
遜色がないぐらいの政治家だよね?。
@ 奥州藤原氏は、
広大な土地を支配していたが、
兵士の動員力は、 2~3万程度に、
過ぎなかった。
当時の東北地方は、 米の生産量は、低く、
人口が少なかった❗ 、 ためだ。
辺境地帯の有力者ではあるが、
中央の貴族の平家や、
関東の穀倉地帯の覇者である、
源頼朝氏とは、 比較にならなかった、
と、思う。
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、
公卿に上った平家や、
源頼朝氏らとは、 格が違った。
@ 平家みたいに、
貿易とかは、してなかったの?。
@ やってるぞ❗。
日本海での交易に噛んでて、
『 渤海 』、 とも、交易していた。
@ そういえば、 奥州藤原氏には、
黄金が、 沢山にあったわけでしょ。
金の力で、 何とかならんかったのかな。
@ 公家員ら、が、 天下を掌握していた、
頃は、 奥州の金を献上して、うまく、
付き合いが、できていた。
頼朝氏に、 その手は、通用しなかった。
平清盛氏の場合は、 もとからの、
勢力基盤の西国とか、 貿易の相手の、
海外には、 関心が高くても、
関東より先へは、 関心性が低かった。
@ 奥州藤原氏が、 東北に、
君臨できたのは、 朝廷 ;
( 院・摂関家 ) 、
平家が、 京都にいて、 遠方であったから、
中央に、ある程度は、 従順な、
辺境の有力者として振舞えたからだろう。
中央貴族とも、友好な関係性を、
築いていた。
関東という、 至近距離に、
強大な軍事力を持った、
武家政権ができたことが、
奥州藤原氏にとって、 命取りになった。
@ 奥州藤原氏が滅びた後って、
誰が、 東北を支配したの? 。
鎌倉幕府から、 誰か、
派遣されたわけでしょ? 。
@ 奥州への征伐の後に、
頼朝将軍が、 奥州を、
関東の御家人らに分け与えた❗ 。
蘆名氏は、 三浦氏の分家。
相馬氏は、 千葉氏の分家。
伊達氏 ➕ 葛西氏 、は、
豊島氏の分家。
@ 幕府の宿老、な、大江広元氏の子孫も、
東北に所領をもらっているね。
長井荘とか、 寒河江荘を拝領して、
室町時代まで続いている。
@ たとえば、 頼朝氏は、
平家を倒すときに、 裏から、
藤原氏が攻めて来るかも❗ 、
って、警戒してたりは、したんだろうか?。
@ 朝廷から、 木曽義仲氏、への、
追討のために、 頼朝氏の上洛を求められた、
時には、 留守を、
奥州藤原氏に狙われるから、 という、
理由で、 断ったりしている❗ 。
奥州藤原氏は、 義経氏を匿うなどし、
源氏に、 好意的だった一方で、
平氏政権からは、 陸奥守に任じられる、
などし、 平氏とも、付き合いはあった。
奥州藤原氏とすれば、
源氏と平氏のどっちが勝っても、
上手に立ち回れるように、
外交したんだろうが、 頼朝氏らからは、
潜在的脅威と認識されるようになった、
と、 思われる。
@ 頼朝氏は、 挙兵したころは、
いったんは、 奥州へ逃れる、
案も、あったらしいから、
奥州藤原氏は、 友好的な勢力、
と、 考えていた可能性が、 高い❗ 。
奥州で、かくまわれていた義経氏が、
頼朝氏の陣に加わる為に、出征する時も、
藤原秀衡氏は、 義経氏へ、
従者をつけてくれた❗ 。
@ ってことは、 味方だった、
藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ、天下を取る人は、 非情だね。
@ よく、 漫画やドラマだと、
義経氏が、 逃避行の末に、
奥州の平泉へ、いきなり、 押しかけて、
秀衡氏が、 情にほだされて、
義経氏を保護した、 という、
お話になっているけど、 実際は、
奥州藤原氏の家来か、 御用商人 ;
( 金売り吉次氏? ) 、 が、
秀衡氏の密命を受けて、 畿内で、
行き場を失った義経氏を、
奥州平泉へ、 密かに案内したのではないか、
と思う。
@ 義経氏は、 異母兄な、
頼朝氏との戦いを決意して、
後白河法皇から、 頼朝氏、への、
追討の院宣を得た際に、 畿内や、
九州の兵力を当てにしていたようだ。
義経氏が都落ちする時も、
奥州へは、 向かわず、 正反対の、
九州へ向かおうとした❗ 。
これは、 豊後 ; ( 大分県 )、の、
緒方氏を、 味方と頼んだからだ。
しかし、 船が難破して、
九州行きは、 失敗❗ 、 京都は、
鎌倉軍に占領され、
緒方氏も、 鎌倉に降伏❗ 。
義経氏は、 畿内の、公家や、
寺社に密かに匿われて、転々としていた、
が、 その間に、
義経氏、への、 合力者で、
和泉に勢力を持っていた、 源行家氏、や、
大和に勢力を持っていた、 源有綱氏、とか、
義経氏への家臣で、 伊勢の山賊の出の、
伊勢三郎氏が、 鎌倉軍に、 相次いで、
見つかって、 討ち取られ、
義経氏は、 再起の道筋が見えず、
途方に暮れていた、 と、 思われる。
そんな中で、 頼朝将軍は、
奥州藤原氏に、圧力をかけていた❗ 。
それまで、 奥州藤原氏は、京都の朝廷へ、
直に、 献金していた、
が、 それを、 頼朝氏が仲介して、
献金すること、と、 一方的に、
言い渡してきたからだ❗ 。
頼朝氏の事実な上での挑発、 とみた、
奥州藤原上は、 「 有事 」、 に備えて、
義経氏を、 平泉で、 密かに匿う❗ 、
こと、と、 決めて、 迎えの者を、
畿内の義経氏の潜伏先へ派遣した、
のではないか、 と思う。
なぜなら、 はるばる、 畿内から、
奥州平泉まで行って、秀衡氏から、
「 いきなり来られても、匿えません 」、
と、 断られたら、 義経氏としては、
行き場を失うわけで、 そんな、
行き当たりばったりな、
ハイリスクはしない、 と、思うからだ。
@ もし、 藤原泰衡氏が、
義経氏と手を組み、 頼朝氏方の、
奥州への征伐軍と戦い、 義経氏が、
鵯越の逆落としのように、
頼朝氏の本陣を奇襲して、
頼朝氏を討ち取ったら、
どうなったのかな?。
義経氏には、 幕府を開く構想は、
ないから、 京都に住んで、
朝廷や院に仕えるだろう。
それこそ、 義経氏が、
権大納言、の、 右近衛大将となる。
泰衡氏は、 陸奥守、の、
鎮守府将軍となって、 奥州の自治を、
名実ともに、 実現かな。
@ 幕府を開く構想は、なくとも、
その頃には、 頼朝氏が、
幕府みたいなものを開いている訳だから、
幕府への構想を乗っ取るんじゃないかな。
東北に、幕府ができてたかも。
@ 鎌倉軍が、 相当な兵力を動員できた、
のに対して、 奥州は、兵力が少なく、
兵力差が、 あまりに、 大きいので、
たとえ、 義経氏を加えたとしても、
奥州側に、 勝ち目は、ない。
おそらく、 義経氏は、 泰衡氏とともに、
平泉を捨てて、 奥地へ退却して、
鎌倉軍を引き込み、
遊撃 ユゲキ 戦 ; ゲリラ戦 ;
、 に持ち込むだろう。
津軽あたりまで、 引き込み得た所で、
季節が、 冬になり、大雪が降れば、
鎌倉側の騎馬隊は、 立ち往生する❗ 。
恐らく、 その頃合いで、 義経氏は、
頼朝氏の本陣を奇襲する、 と思う。
@ 木曾義仲氏の残党員ら、って、
どうなったの?、
頼朝氏側に吸収されたの?。
@ 頼朝氏側に吸収❗ 。
北陸系は、 比企氏じゃねえかな。
@ 平家 ✖ 頼朝氏 ✖ 木曾義仲氏
✖ 奥州藤原氏 ✖ 朝廷 。
この5勢力って、感じだったのかな?。
平家の中では、
勢力争いみたいのは、なかったの?。
@ ざっくりで、
宗盛氏派 ✖ 池殿派 ✖ 小松殿派 。
清盛氏の跡は、 宗盛氏が継ぎ、
同母弟の知盛・重衡氏が、
宗盛氏を支えた。
これに対して、 宗盛氏の長兄な、
重盛氏の子である維盛・資盛氏らな、
小松家、
清盛氏への異母弟な、 平頼盛氏らな、
池家とは、 微妙な関係であった。
@ 摂関家も、 松殿 ✖ 近衛
✖ 九条 、で、 それぞれが、
独自な路線を歩んでて、
朝廷は、もう、 むちゃくちゃ。
@ 後付けだが、奥州藤原氏が、
生き残るために、やるべきだったことは、
源平合戦が、 長期化・泥沼化するよう、
工作すべきだった。
都落ちして衰退した、 平氏に、
奥州藤原氏が、 黄金や軍船、に、
軍馬を用立てても、よかった。
@ 頼朝は、 激怒するだろう。
でも、 頼朝氏が、 東国と京を維持しつつ、
西国の平家と、 奥州藤原氏の両面を、
同時に、 相手にして戦うのは、
無理だから、 奥州藤原氏の、
「 勝手な 」、 振る舞いにも、
ある程度は、 我慢して、
交渉するほかにない。
@ 当時は、 奥州の藤原氏、以外にも、
関東には、 志太先生義広氏、
上総介広常氏、などの、
独立勢力があった。
これらな、独立勢力らは、
源頼朝氏に対しても、 強い自尊心、
独立心で、 接しており、やがて、
頼朝氏に 危険視されて、滅ぼされていく。
頼朝氏の鎌倉幕府は、
東国での独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のそれのような、
緩やかな支配のほうが、 まだ、
奥州藤原氏には、 都合が、よかった。
@ 反頼朝勢力は、基本的に、
古利根川の東側が、 本拠地なんだよな。
今でも、 そうだが、 茨城 ➕ 栃木 ➕
千葉の、 東関東 ; ( 方言学用語 ) 、
は、 文化的に、 東北に通じるものがある。
他方で、 神奈川 ➕ 東京 ➕ 埼玉
➕ 群馬 、の、 西関東は、
中部地方との、つながりが、強い。
地理的な関東地方は、 実は、古利根川 ;
( 正確には、 古渡良瀬川 ) 、 で、
人文的には、 東西に分断されている。
頼朝政権は、関東政権と言われるけれど、
実際には、 箱根以西を、 辺主 ベス ;
ベース ; 、 とする、
東海政権としての、 雰囲気が、 強い。
この、「 東海→西関東→東国政権 」、
という流れは、 北条執権の政権、
堀越公方、後北条氏、徳川氏と、
断続的では、あるが、 ずっと続く。
この話、 昔に、 この板でやったら、
なぜか、 「 関東は、 一つだ❗ 」 、
と、 激怒して、 猛反論する奴がいて、
大荒れになったんだよなw。
後の古河公方、な、 足利成氏氏による、
享徳の乱にしても、
中央室町側の西関東 ➕ 山梨伊豆 ;
( 上野、武蔵、相模、甲斐、伊豆 )
✖ 在野の、 成氏氏への支援の、
土着な武士らの、 東関東 ;
( 下野、常陸、下総、上総、安房 ) 、
との、 争いになっている❗ 。
むしろ、 関東は、 南北よりも、
東西での争いが、 割と多いのは、
歴史的にも、 結構と、 有るし、
千葉は、 首都圏となっているとしても、
栃木と茨城は、 言語学者によっては、
関東よりも、 東北方言に含める人もいる ;
( 勿論な事に、 異論や反論も多いが ) 。
@ 鎌倉幕府にとっては、
頼朝氏が健在で、 勢いがあるうちに、
奥州政権を潰せて、 楽機 ラッキ ;
ラッキー ; 、 だったよね。
下手に、 大勢力として臣従されちゃうと、
揉め事の種が、増えるだけだし。
@ あれだけ、 黄金を持って、
大陸とも交易してるんだから、
大陸から、 数万人を、 お金で雇って、
奥州に連れてきて、
奥州藤原軍の兵力を水増しして、
頼朝氏側と、戦えば、 よかった。
@ 黄金は、食えないからね。
@ 秀衡氏は、 自分の死後に、
その長男な、 国衡氏、と、 次男で、
跡継ぎの泰衡氏が争うことを恐れて、
泰衡氏の母を、 国衡氏に嫁がせる❗ 、
という、 ミラクルをやって、
争いを防ごうとした。
その結果にて、 国衡氏と、
泰衡氏の争いは、 起きなかったが、
代わりに、 泰衡氏は、 自分の弟な、
4人の中の、 3人を斬って、
粛清してしまった❗ 。
そして、 父な、 秀衡氏の遺言を破って、
義経氏も斬ってしまった❗ 。
とてもではないが、 頼朝氏と、
太刀打ちする器は、ない。
@ 頼朝氏方が、 攻めてきたら、
義経氏を大将、国衡氏を副将にして、
迎え撃たせる。
泰衡氏は、 平泉の留守を守る、と称して、
平泉に残り、密かに、 奥州の砂金を、
大船に満載し、 シナ語がわかる、
僧侶や商人たちを、 船に乗せておく。
義経氏方が、 大敗し、
奥州藤原軍の壊滅の知らせが聞いたら、
泰衡氏は、 すぐに、 船に乗って、
シナへ逃げる❗ 。
@ 大陸へ渡るよりも、
蝦夷地へ渡る方が、 安全ではないか?。
奥州藤原氏は、 蝦夷地、への、
航路を知っていた可能性がある。
また、 家臣団とともに、
武器を持って行けば、
蝦夷地への支配者として、
存続することもできる。
函館あたりを拠点にすれば、いいだろう。
@ 奥州藤原氏は、 平家側について、
頼朝氏の勢力が、 まだ小さいうちに、
攻め滅ぼしておけば、
よかったのではないか?。
石橋山の合戦の当時なら、
奥州藤原氏が、 本格的に、
平家側に加勢すれば、 頼朝氏側は、
かなりに、 不利になる❗ 。
関東が、 割拠状態にあるほうが、
奥州は、 安泰になる。
@ 奥州が、 京都から遠すぎるんだよな。
せめて、 日本海あたりに進出して、
もっと、 勢力をふやせなかったのかな?。
初期に、 頼朝氏側と組んで、
日本海側から、 京都に攻め入ってたら、
いい感じで、 天下を三分できたんじゃ、
ないだろうか?。
@ 奥州藤原氏側は、
日本海には、 進出している❗ 。
渤海国とも交易している❗ 。
この時期に、 飢饉の京都に入ったら、
木曽義仲氏の二の舞は、避けられないよ。
@ 奥州藤原氏には、
血統による正統性がなかったからな。
所詮は、 俘囚の長ってだけだし。
@ 奥州藤原氏は、 中央貴族の、
藤原氏の一族か、縁者であることは、
間違いないのではないか?。
東北に土着して、独立した、
生活圏を作ろうとした。
その点においては、 他の関東の武士らに、
似ている、 とも思う。
異なるのは、 その支配の領域が、
広大であること、 突出した、
経済力・文化力を持っていたこと、
俘囚と呼ばれた、 化外の人々の住む、
僻地にあり、どこか、
異質性を感じさせることだ。
@ 奥州藤原氏が、 号令をかけても、
奥州、 以外からは、 兵は集まらない、
と、 思うけどな。 なぜか?、 それは、
俘囚だからとしか言いようがない。
☆ 大河兼任 オオカワ・カネトウ の乱 : は、 1189年でもある、 文治 5年、
の、12月から、 翌る年の3月にかけて、
鎌倉政権と、奥州藤原氏の残党員な、
大河兼任氏ら、 との間で、
東北地方にて行われた戦いだ。
1189年な、 文治 5年に、
奥州合戦に勝った、 源頼朝
ミナモトのヨリトモ 氏は、 9月22日に、
葛西清重氏を、奥州総奉行に任じ、
28日に、 奥州から、鎌倉へ帰った。
陸奥 ムツ の国内では、
奥州藤原氏に従属していた武士団が、
土地を没収されて、 清重氏を始め、
多くの東国武士らが、地頭職を与えられた。
一方で、 多賀城国府では、
在庁官人らによる、国務の運営が継続し、
戦場にならなかった、今の秋田県などの、
出羽国の内陸部では、
旧来の在地の豪族らが、
勢力を保持しており、
東国武士勢と在地勢らとの間に、
軋轢が生じる様になる。
1189年の12月になると、
死んだ筈の、源義経氏や、
木曾義仲氏の子息や、 藤原秀衡氏の子息が、
同心して、鎌倉へ進軍する、
という、風説が流れた❗ 。
翌年の正月になると、 反乱の首謀者は、
藤原泰衡 フジワラのヤスヒラ 、氏、
への、 郎従で、 八郎潟の東岸 ;
≒ 今の、秋田県は、 五城目町の付近 ;
、を本拠とする、 大河兼任氏❗ 、
と、判明する。
兼任氏は、 前年の12月から、
義経、と称して、
出羽国は、海辺庄に現れ、
源の木曽義仲氏の嫡男の、 朝日冠者 ;
≒ 源義高氏 ; 、と称して、
出羽の山北郡で、挙兵する、などして、
鎌倉方を撹乱していた、
が、
「 親類・夫婦への仇を討つのは、
通常の事であるが、 未だ、
主人への仇を討った例 タメシ はなく、
その例を始める❗ 」 、 として、
七千余騎の軍勢を率いて、
鎌倉へ向けて、進んだ。
その経路は、 河北の、秋田城を経由して、
大関山 ;
≒ 笹谷峠 ; 、 を 越えて、
多賀城、 という、国府へ出ようとする、
物であった、
が、 八郎潟を渡る際に、
氷が、いきなり、 割れて、
五千人余りが溺れ死んだ❗ 、 という。
兼任氏は、 進路を変えて、
小鹿島や、津軽の方面に向かい、
鎌倉方の、 由利維平氏や、
宇佐美実政氏を討ち取った❗ 。
正月の7日に、 兼任氏の弟で、
源頼朝氏の御家人となっていた、
忠季氏や、
新田三郎入道らから、 報告を受けた、
頼朝氏は、軍勢を遣る事を決断し、
相模から西の、 御家人らに、
動員令が下された❗ 。
正月の8日に、 千葉常胤氏が率いる、
東海道軍や、
比企能員 ヨシカズ 氏が率いる、
東山道軍が、 奥州に向けて、 発ち、
正月の13日には、 追討使として、
足利義兼氏が出陣し、
大将軍として、千葉胤正氏も出陣する。
奥州に所領を持つ御家人らと、
上野や信濃の御家人らも、次々に下向した。
頼朝将軍は、 個々の御家人が、
手柄を競って、 寡兵 ;
≒ 少ない兵 ; 、で、
敵に挑む行為を戒め、 兵力を結集して、
十分に、 準備を進めてから、
事に当たる様に、指示をした❗ 。
大河兼任軍は、 津軽から、
陸奥の中央部に進んで、 平泉に達し、
奥州藤原氏の残党員ら、を配下に加えて、
一万騎に膨れ上がった❗ 。
この形勢を見て、
多賀城の国府の留守所も、
兼任氏側に同調した。
大河兼任氏らが、
鎌倉幕府軍と戦っていた頃に、
西の一神教徒らは、
1192 良い国 、 奪おう、 な、
『 第3回の十字軍 』、 を成した側と、
受けて立った側とが、
1189年 ~ 1192年を、
戦い合っていた❗ 。
アイユーブ朝の始祖で、
「 イスラムへの擁護者 」、 と目された、
サラーフッディーン氏 ;
≒ サラディン氏 ; 、に征服された、
聖地のエルサレムを奪還すべく、
ヨーロッパのキリスト教国らの者らが、
第3回の十字軍を成す。
神聖ローマ皇帝の、フリードリヒ1世 ;
≒ 赤髭王 ; 、も、
ローマ教皇の、 アルバヌス8世、 からの、
呼びかけに応え、
十字軍の第一陣として、
1189年に、 本国を出発した。
フリードリヒ1世は、 その途上で、
サラーフッディーン氏、と、
秘密の協定を結んでいた、
東ローマ帝国の皇帝の、
イサキオス2世アンゲロス、 による、
敵対的な行為に直面したので、
十字軍の将兵らは、
東ローマ領を急いで通過した。
その後の、1189年5月18日に、
クルチ・アルスラーン2世が治める 、
ルーム・セルジューク朝の首都の、
イコニウムを占領し、
1190年の6月10日に、
フリードリヒ1世が、 キリキアの、
サレフ川で、 溺れ死んだ。
彼らは、 数の上では、
サラーフッディーン氏側より多かったが、
フリードリヒ1世を失った事から、
十字軍を解散した❗ 。
一部の者らは、向かった先のシリアで、
戦いに敗れた。
英国の、リチャード1世と、
フランスの、フィリップ2世による、
アッコンへの征服があったりした。
1190年の、
2月12日に、 大河兼任軍は、
栗原郡の一迫 ;
≒ 今の、 栗原市 ; 、で、
足利義兼氏が率いる、 鎌倉軍と激突し、
壊滅的な打撃を受け、 敗れ走った❗ 。
兼任氏は、 残存した5百余騎を率いて、
衣川で、反撃するが、敗れ、
北上川を越えて、 外ヶ浜、と、 糠部、
との間にある、 多宇末井の懸橋の近くの、
山に立て籠もった、
が、 足利義兼氏らの急な襲撃を受けて、
行方をくらました。
大河兼任氏は、 花山に、千福や、
山本、などの、各地を転々とした後に、
亀山を越えて、栗原に戻った、
が、 3月十日に、 栗原寺で、
錦の脛巾を着て、
金作りの太刀を帯びた姿を、
地元の樵 キコリ 、に怪しまれ、
斧で、 斬り殺された。
その首への実検は、 千葉胤正氏が行い、
約3ヶ月に及んだ反乱は、 終息した。
1190年でもある、 建久 元年 、の、
3月15日に、 頼朝将軍は、
大河兼任氏に同意した、
多賀城の国府の留守所に替えて、
伊沢家景氏を、 留守職に任じた。
以後の陸奥では、
平泉の周辺を基盤として、
軍事や警察を担う、葛西清重氏と、
多賀城の国府を管轄する、
伊沢家景氏、 との、
二元的な支配体制を成して、
鎌倉幕府の勢力が浸透してゆく。
葛西清重氏の戦況の報告を聞いた、
頼朝将軍は、 その報告の中に、
橘公業氏が、討ち死に、
由利維平氏が、逃亡 、
とあった事に対し、
2人の人となりから推して、
由利維平氏が、 討ち死に、
橘公業が、逃亡 、の、間違いだろう、
と、推察して観せた。
翌る日に、 後発の詳細な報告が到着し、
頼朝将軍の推察の通りだった事から、
その場にいた一同は、感嘆した❗ 、
という ;
≒
『 吾妻鏡 』 :
建久元年の正月18日、19日の条 クダリ 。
源頼朝氏が、 御家人ら、の、
それぞれの見るべき所らを含む、
属性らを熟知していた事の、
例として、 この事は、 知られる。
由利氏は、 出羽国の沿岸の中部の、
由利地方 ;
≒ 今の秋田県は、 由利本荘市 ;
、の豪族だった、 と言われる。
由利氏は、 家伝によれば、
大中臣良平氏が、源義家氏に従い、
由利半郡を賜ったのが、始まり、
と、されている。
『 吾妻鏡 』、 に、二度を記載されており、
一度目は、 奥州合戦の時に、
藤原泰衡氏の郎党として登場し ;
≒ 由利八郎氏 ; 、
二度目は、
この大河兼任氏の乱の時に、
御家人として現れる ;
≒ 由利中八維平氏 。
一部には、 『 吾妻鏡 』、の、
頼朝氏の挙兵の時の記事にある、
中八維平氏を、後者と同一人物と見るも、
八郎氏と中八氏の二人を、
別人とする見解もある。
その見解では、 八郎氏は、
御家人となった後の記録が、無く、
彼とは別人の、 中八氏は、
奥州合戦で、由利地方を、
恩賞として賜ったとする。
八郎氏は、奥州合戦において、
泰衝氏の命により、 出羽口を、
田河行文氏や、 秋田致文氏ら、と、
守っていた、
が、 鎌倉軍に敗れ、
宇佐美実政氏により、 生虜りになった。
捕虜の身でありながら、
「 運尽きて、 囚人と為るは、
勇士の常❗ 」 、と、堂々とした態度で、 梶原景時氏の無礼をたしなめ、
畠山重忠氏が、 礼を尽くすと、
その尋問に応じた。
それを見ていた、 源頼朝氏も、
「 勇敢の誉れ有るに依って 」、
罪を許した❗ 。
二度目の記載では、
大河兼任氏の乱に際して、
3度目の、正直ならぬ、
十字軍が始まった、1189年でもある、
文治 5年 、の、 12月24日に、
工藤行光氏や、宮六仗国平氏らと、
陸奥国に先発し、
小鹿島の大社山の毛々左田の辺り ;
≒ 今の、秋田県は、 秋田市の、
大森山の新屋の付近か? ; 、で、
討ち死にした❗ 、 とある。
子の維久氏は、 和田合戦に連座して、
所領を没収された、と言われるが、
子孫員、は、 由利地方に土着し、
『 滝沢氏 』、 と称し、
由利十二頭の一として、 後に、
最上氏の配下になり、 続いて、
六郷氏の配下となり、幕末に至った。
@ 大河兼任氏の乱があった建久年間は、
文治年間の後で、 正治年間の前を占める。
1190年から、 1198年までの、
期間を指す。
この時代の帝は、 1221年に、
承久の乱を起こす、 後鳥羽、と、
土御門帝。
文治 6年 4月11日 ;
≒ ユリウス教皇暦の、1190年5月16日 ;
、に、
三合により、 改元 ;
≒ 『 百錬抄 』 。
建久 10年 4月27日 ;
≒ 1199年 5月23日 ; 、に、
正治に改元。 :
@ 名の出典は、 『 晋書 』、 の、
「 建久安於万歳、 垂長世於元窮 」、
と、
『 呉書 』、 の、
「 安国和民、 建久長之計 」 、 より。
勧進者は、 文章博士の藤原光輔氏。
@ 1192年 ;
≒ 建久 3年 :
源頼朝氏が、 征夷大将軍になり、
鎌倉幕府を開く❗ 。
建久4年 :
曾我兄弟が、富士の裾野の狩場にて、
父への仇を討つ。
建久7年の政変 :
頼朝将軍と連携していた、
九条兼実氏が、 関白を罷免される。
1198年 ;
≒ 建久9年 :
後鳥羽帝が、 土御門帝に譲位し、
上皇となって、 院政をしく。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
最悪の政府
2019-12-02 08:41:32
三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ blog」
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チャンネルAJER
『歴史という国民のメモリーを守り伝えるー前編(1)』三橋貴明 AJER2019.11.26
12月21日(土)シンポジウム「令和の政策ピボットは実現可能なのか?」が開催されます。
また、メルマガ「令和ピボットニュース」が始まりました。皆様、是非とも、メルマガ登録を!
一般参加可能な講演会のお知らせ。
年末特別講演会「京都大学大学院教授、元安倍内閣・内閣官房参与 藤井聡様」
2019年12月4日(水) 18:45~ 東京都新宿区
【MMT (現代貨幣理論)を学び、日本経済を展望する】
三橋TV第168回【民主制に国民国家は必須で、民主制と皇統は矛盾しない!】
本日はチャンネル桜「Front Japan 桜」に出演します。
先日、ルソーが「社会契約論」に、
「人民が減り、衰微してゆく政府が最悪の政府である。」
と書いていたことをご紹介しましたが、衰微とは具体的には「貧困化」「困窮」という話だと思います。
ルソーの生きた18世紀は、今と比べれば生産性が低く、人々がモノ不足に苦しめられることは多かったのでしょう(それでも、イギリスなどは時折デフレになってましたが)。
いずれにせよ、国民が貧しくなり、人口が減る国の政府は「最悪の政府」ということになります。まさに、今の安倍政権です。
『19年の出生数が急減 1~9月、5.6%減の67万人
少子化のペースが加速している。厚生労働省が26日発表した人口動態統計(速報)によると、1~9月に生まれた子どもの数は67万3800人と前年同期に比べ5.6%減った。年間の出生数が5%を上回る減少となったのは直近では1989年。2019年は30年ぶりの大幅減となる可能性がある。政府は土曜日の共同保育の推進など少子化対策の拡充を急ぐが、人口減に歯止めをかけるのは簡単ではない。
速報値には日本人に加え、日本生まれの外国人や海外生まれの日本人も含む。日本生まれの日本人に限ると、出生数は速報値よりも年間で3万人程度少なくなる。
18年の日本生まれの日本人は91.8万人で、現在の減少ペースが今後も続くとすると、19年の出生数は87万~88万人程度になる可能性がある。10年前に比べて20万人程度少ない。1899年の統計開始以来、最少だ。(後略)』
少子化の原因は、しつこいですが、結婚した夫婦が産む子供の数が減っていることではありません。結婚が減っていることです。
しかも、安藤先生が「三橋TV 第162回」で解説して下さったとおり、
「結婚が減っているため、少子化になっている」
ことを裏付けるデータの多くは、少子化対策白書に掲載されているのです。少なくとも、少子化対策白書を書いた官僚は、「事実」を認識しているはずです。
三橋TV第162回【PBある限り日本の亡国は止まらない、弱者救済も不可能という現実】
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。
【令和元年版 少子化社会対策白書 全体版(PDF版)】
令和元年版少子化対策白書には、結構、怖いデータが載っており、例えば「50歳時の未婚割合」を見ると、1970年には男性3.3%、女性1.7%だったのが、2015年は男性23.4%、女性14.1%。
わたくしと同い年の男性の四分の一近くが未婚ということになります。
とはいえ、「未婚者(18歳~34歳)のうち「いずれ結婚するつもり」と答えた者の割合」は、男性が85.7%で、女性が89.3%。過去三十年、ほぼ変わっていません。
つまりは、日本人が「結婚したいが、できない」状況に追い込まれた結果、少子化が進んでいるのです。結婚を望む国民に、「それすら」与えようとしない政府に、存在価値があるのでしょうか。
そして、日本人がなぜ結婚しなくなっているのか。様々なデータをご紹介しましたが、大きくは二つ。
1.実質賃金の低下
2.東京一極集中
所得関係でいえば、30歳代の男性は、1997年は年収500万円~699万円が約25%と最も多く、二番目が400万円~599万円(20%)でした。
それが、2017年は300万円~399万円が約20%と最大。(令和元年少子化対策白書、以下同)
女性が結婚相手に求める年収は、400万円~500万円が26.2%と最大。次が500万円~600万円(22.9%)。
要するに、男性の年収が低すぎ、結婚が減り、少子化になっている。
そこに、東京一極集中の影響が被さってきます。
【2017年 日本の都道府県別合計特殊出生率】
子供が生まれる地方から、子供が生まれない東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)に「若い世代」の人口が移ってきているのです。これでは、少子化が止まるはずがありません。
東京一極集中の主犯は、というか主犯「も」政府です。何しろ、政府は緊縮財政の下で公共投資について「選択と集中」をしており、選択された東京圏(南関東)以外は見捨てられた状況にあるのです。
【地域別公共投資の状況(2018年まで)兆円】
厄介なのは、
〇 国民の実質賃金を引き下げる
〇 公共投資の選択と集中
について、安倍政権は「やむを得ずやっている」わけではない、という点です。むしろ「政策」として、少子化推進の実質賃金引下げ(※消費税増税含む)や東京圏への投資集中が行われています。
つまりは、安倍政権は「故意」に日本人を減らしていっているのです。いや、さすがに「日本人を減らそう」と思っているわけではないでしょうが、確実に減る政策を推進している。業務上過失致死、という感じでしょうか。
一応、書いておきますが、安倍政権が終わったとしても、次の政権でも「実質賃金引下げ」「選択と集中」の政策が続く限り、少子化に歯止めは効きません。つまりは、安倍政権には、
「誤った政策で、日本人を減らした」
責任を取る形で、終焉を迎えてもらいたいのです。安倍総理に「勇退」などされた日には、次なる政権下でも路線の転換は不可能です。
それにしても、ジャン・ジャック・ルソーが現在の日本にタイム・スリップしてきたら、安倍政権をいかに評するのでしょうか。
「私は18世紀の欧州で様々な最悪の政府を見てきた、下には下がいるもんだ」
と、むしろ感心するような気がいたします。
「安倍政権は『責任をとる』形で退陣せよ!」に、ご賛同下さる方は、
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☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
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