【 我々でもあり、 我々を含む、
観念系らへ対する、 外因性ら、 と、
内因性ら、 と、 へ、 宛 ア てがわれて成る、
一定度合い以上の、 分析型の、 体系知ら、
を、 我彼 ワレカレ へ、 思い構えて観せる 、
思案系らを成す事を、 無しに、
仏教の、 元々の、 解脱 ゲダツ へ、
宛てがわれて、 ある、 方法の体系ら、 なり、
方法論の体系ら、なり、 を、
誰彼へ、 説いても、
その、 あり得る、 説きようら、 においては、
観念性の、 観念な、 質としての内容を、
観念系らから、 与えられて、
それ自らの成り立ちを得る、 内因性のものら、と、
そうした、ものら 、 を 、
喚起し、 呼び起こしは、 し得ても 、
観念らを構成する、 感ら、の、そのもの、
でも、無く、
観念な、 覚えようら、に、 感じようら、 や、
観ようら、 などの、 そのもの、 でも、 無い 、
が、 ゆえに、
それ自らを、 それらの各々のそのものにおいて、
現し得ない、 で、 来てある 、
外因性ら 、なり 、
外因性のものら 、 なり 、 とを 、
より、 区別を、 し得ない、
より、 思い分けて観る事の、 できない、
度合い、 を、 成し宛てる事になる。
ナ-ガールジュナ師 ≒ 竜樹師 、 らの、
空 クウ 、の、 理論において、
特定の観念ら、 の、 規定性ら、なり、
秩序性ら、なり、 に、 よっては、
『 無いもの 』 、 として、 観られる、
物事ら、が、
別の、 規定性ら、や、 秩序性ら、 から、 成る、
別の、 観念ら、の、
その、 規定性ら、や、 秩序性ら、 に、 よっては、
『 有るもの 』 、 として、 観られる 、
ものら、 であり、
どちらの観ようら、も、 正しくも、 あり、
正しからざるも、 ある、 様 サマ ら、 を、
思い分けて観られ得べくもある 、
宛居 アテイ ・ 対象 として、 あったり、
在り得たりする、 度合いがある事 、 などが、
述べられ得ていたり、
示唆 シサ され得ていたりしてあっても、
観念系らへ対する、 外因性ら 、 と 、
内因性ら 、 とへの、 区別性 、 など 、 へ 、
宛てた 、 その、 情報な事らを含んで 、 成る 、
一定度合い以上の、 分析型の、 体系知ら 、
を、 言葉らへ、明らかにし得ては、居なくとも、
より、 それらの何彼を、 準 ナゾラ え得て、
あるようには、 ある、 実態らから成る 、
思案系らにおいても、
そうした事らが、 成されて、 居なければ、
居ない程に、
そうした事らは、
より、 観念系らへ対する、 外因性ら、と、
内因性ら、 の、 何彼らについての、
分析型の、体系知ら、を、 思い構え得ていない 、
観念系の主ら、 が、
単に、 それらを、 その各々の、 規定性なり、
秩序性なり、 によって、 区別する、
だけでは、 無く、
互いに、 矛盾し合い、
相反 アイハン し合う、 度合い 、 を、
成し合っていたり、 成し合い得たりする 、
観念な、 規定性らなり、 秩序性らなり、 へ、
特に、 心を向けて、
それらを覚え宛てるようにし 、
それらの、 一方や、 両方を用いて、
秩序立てられる、 あり得る、 観念な、
物事ら、の、
論理性なり、 意味の筋道なり、を、
成しての、
あり得ようら 、 や、 欠け得ようら 、 を 、
能 ヨ く 、 思い分けて観てゆく事を通して 、
観念系らから、 観念性の、 質としての内容を、
与えられて、 それ自らの成り立ちようらを得て、
来てある、 物事ら、 が、
そうした、質としての内容に現れ得ないで、
来てある、 外因性ら、と、
そうした、 質としての内容に現れ得て来てある、
ものら、を、 含む、 内因性ら、 と、 によって、
在り得て来てある、 様ら、 を、
観念し宛てて、成る、 分析型の、体系知ら、を、
構築する事へ対して、
より、 観念性の無い、 もの、や、事、
として、 観念される、
全く、 観念性、の、 質としての内容、を、
観念系らから、 与えられて、
それ自らの成り立ちようら、を、 得る、
物事ら、へ、 宛てがわれて、 成る、
余計な、 区別性 、 などを含む、
体系知ら、を成す、
その、 負の度合いらに応じて 、
より、 直 ジカ に、 足しに成り得る 、
可能的な度合いを、 欠いてしまう事に成る 。
いずれにせよ、
日本国民たちは、 より早くに、
日本国民たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、 与野党の、
主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、
自らもまた、 オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、 緊縮 、 を、
繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としての日本国民たちへ、
物価だけではなく、 その労働らへの賃金らの水準へも、 より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、 押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、 解消し去ってゆく、
と共に、
日本国民たちの防衛性の度合いを飛躍的にも高めてゆくべき、 ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、 あり得る、
災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、 避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、 それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
人々を誘導する事に類する行為であり、
日本の主権者として、 日本国民たちの一般 、
へ対する、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
日本国民たちの一般の、 あり得る、 福利ら、を、 より、 能くも、 最大限にも、 成す事を、
約束して、 日本の社会に、 存在し、 存続する事を、 日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、 不作為型の、
行為であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い 】 。
◇ 負電荷な 電子対なら 奪う、酸
逆な、 陽子を 引き取る、塩基・・。
☆ 湧き水の 濁りに続く 山津波
無い、水どもが 湧くも、先触れ・・。
◇ 連れ去るに 浜から沖へ 離岸流
脇へ泳げば ひろえる命・・。
☆ 水に塩 糖分も欠け 熱を去る
風も欠ければ 沸く、 熱射病・・。
☆ 根途記事 ➕ 論弁群 ➕ ;
☆ 仏教の用語である、 空 クウ 、
の、 原語は、
サンスクリットの形容詞の、
シューニャ ( śūnya ) 、 で、
その名詞形は、 シューニャター
( Śūnyatā ) 、 であり、
後者は、 「 空なること 」 、を、
意味するために、 しばしば、
空性 、 と、 漢訳される。
śūnya 、 は、 舜若 ( しゅんにゃ ) 、と、
音写し、
śūnyatā 、 は、 舜若多 ( しゅんにゃた )
、 と、 音写する。
◇ インドにおける、 シューニャの概念 ;
シューニャ
( サンスクリット語: शून्य, śūnya ) 、は、
śū ( = śvA, śvi、
成長・繁栄を意味する動詞 ) 、 から、
つくられた 、 śūna 、 から発展し、
「 …を欠いていること 」 、 という、
意味だ。
また、 「 膨れ上がった 」 、や、
「 うつろな 」 、 を意味する。
転じて、 膨れ上がったものは、
中空であるの意味も、あり、
初期の仏典にも、 その意味で、
登場することがある。
シューニャ 、 は、 インドの数学における 、
0 ( ゼロ ) 、 への、 名称でもある。
@ 空 = 無 、は、 間違い。
空 > 無 。 有 ⇔ 無 、であって、
空は、 そのらへの、 上位概念 。
@ 無 、 というのは、
観念な、 時間や空間を含む、
全ての存在の、 全てか、 一定の部分についての、
欠如態の事であり、
観念上の設定存在らの一つであるから、
ヒトは、死んでも、
無には、成る事が、できない。
仏教の本来のものに近い考え方では、
人たちは、 世界精神めいた、
『 大きな海の波たちの一つ一つの様な存在で、
ヒトが死ぬ、 という事は、
その波が、 砕けて、
大海原へ溶け入る様な現象 』 。
これは、 自分の愛する人たちとは、
波たちの様な者らとして、 この世に在る間だけ、
会う事が出来て、
各々の波が、大海原へ溶け入った後では、
その人格性が再構成される事は、
二度と、 無いので、
永遠に、 再び、 会う事は、 できないから、
一期一会の、 この世で会える、
愛する人たちの事は、
永遠に会えなくなる、 その時まで、
より、大切に、尊く思い扱う様にしよう、
といった、 あり得る、 思い構えよう、らを、
産むもとに成り得る、 考えようでもある 。
自死を思い行う前に、
自らの愛する人らや愛し得る人らと、
永遠に会えなく成る事の可能性の存在を、
とことん、 考え抜け、 という事にもつなり得る 。
@ 大体、海外の神でも、日本の神でも、
神ってのは、 本来は、 祟( タタ ) るもん。
祟( タタ )るから、 『 お鎮まり下さーい 』
って、 崇( アガ ) めるワケ 。
年に、1回を、 お参りに行って、
『 幸せにして下さい 』 って言うだけで、
神が、幸せにしてくれる、と思ったら、
大間違いだぞ。
戒律事らを守るとか、 神と契約するとか、
そういう、 身を削る事らをして始めて、
神も、民を見守ってくれるのよ。
救うとか、 赦 ユル すとかをしてくれるのは、
仏の方。 神仏習合で、
その辺をゴッチャにしちゃったから、
日本人ら一般の宗教観って、 世界基準とは、
ちょっと違っちゃってるんだよね 。
@ 仏教の当初の教義は、罪を赦す事じゃない。
罪を犯すのも、罪人を恨むのも、
欲から来るもので、 それが、
苦しみら、への、 原因になっているから、
欲たちを捨て去れって教えだ。
言い換えれば、 人間性を捨てる事を主旨とした、思想体系だな。
ありもしない罪をでっち上げた場合も含めて、
罪を赦す事を教義としたのは、 キリスト教 。
@ そうした人間性を、人間が捨てる事には、
無理があるから、
人間性を捨てたかの様な、思い成しようや、
行動の系を、 意図的に、 作り出して、
自らの人間性の生のままの盛り猛りを打ち消す、噛ませ波として、 作用させる、
方法の体系としての面が、
当初の仏教には、観受けられる。
悟り何ちゃらは、
そうした、 過程事らをこなしてゆく上で、
観えて来るかもしれない、
自らの精神系の、在りよう 。
その手の人間性は、 生きて在る内は、
生活の前提として、必ず、 在り続けるから、
無くす恐れは、 全く、 無い 、ので、
安心して、 それらを打ち消す、
噛ませ波を興して、好いし、
死後は、 波が、大海原へ砕け入る様に、
精神系めいた世界へ溶け込んでゆく、と。
仏には、 阿弥陀仏もあるが、
阿弥陀仏は、 時宗では、
人々を、生まれながらにして、
極楽浄土へ導く事を予定している方だから、
一方的に、 人々を救う存在 。
観念系らへ対する、 外因性ら、 と、
内因性ら、 と、 へ、 宛 ア てがわれて成る、
一定度合い以上の、 分析型の、 体系知ら、
を、 我彼 ワレカレ へ、 思い構えて観せる 、
思案系らを成す事を、 無しに、
仏教の、 元々の、 解脱 ゲダツ へ、
宛てがわれて、 ある、 方法の体系ら、 なり、
方法論の体系ら、なり、 を、
誰彼へ、 説いても、
その、 あり得る、 説きようら、 においては、
観念性の、 観念な、 質としての内容を、
観念系らから、 与えられて、
それ自らの成り立ちを得る、 内因性のものら、と、
そうした、ものら 、 を 、
喚起し、 呼び起こしは、 し得ても 、
観念らを構成する、 感ら、の、そのもの、
でも、無く、
観念な、 覚えようら、に、 感じようら、 や、
観ようら、 などの、 そのもの、 でも、 無い 、
が、 ゆえに、
それ自らを、 それらの各々のそのものにおいて、
現し得ない、 で、 来てある 、
外因性ら 、なり 、
外因性のものら 、 なり 、 とを 、
より、 区別を、 し得ない、
より、 思い分けて観る事の、 できない、
度合い、 を、 成し宛てる事になる。
ナ-ガールジュナ師 ≒ 竜樹師 、 らの、
空 クウ 、の、 理論において、
特定の観念ら、 の、 規定性ら、なり、
秩序性ら、なり、 に、 よっては、
『 無いもの 』 、 として、 観られる、
物事ら、が、
別の、 規定性ら、や、 秩序性ら、 から、 成る、
別の、 観念ら、の、
その、 規定性ら、や、 秩序性ら、 に、 よっては、
『 有るもの 』 、 として、 観られる 、
ものら、 であり、
どちらの観ようら、も、 正しくも、 あり、
正しからざるも、 ある、 様 サマ ら、 を、
思い分けて観られ得べくもある 、
宛居 アテイ ・ 対象 として、 あったり、
在り得たりする、 度合いがある事 、 などが、
述べられ得ていたり、
示唆 シサ され得ていたりしてあっても、
観念系らへ対する、 外因性ら 、 と 、
内因性ら 、 とへの、 区別性 、 など 、 へ 、
宛てた 、 その、 情報な事らを含んで 、 成る 、
一定度合い以上の、 分析型の、 体系知ら 、
を、 言葉らへ、明らかにし得ては、居なくとも、
より、 それらの何彼を、 準 ナゾラ え得て、
あるようには、 ある、 実態らから成る 、
思案系らにおいても、
そうした事らが、 成されて、 居なければ、
居ない程に、
そうした事らは、
より、 観念系らへ対する、 外因性ら、と、
内因性ら、 の、 何彼らについての、
分析型の、体系知ら、を、 思い構え得ていない 、
観念系の主ら、 が、
単に、 それらを、 その各々の、 規定性なり、
秩序性なり、 によって、 区別する、
だけでは、 無く、
互いに、 矛盾し合い、
相反 アイハン し合う、 度合い 、 を、
成し合っていたり、 成し合い得たりする 、
観念な、 規定性らなり、 秩序性らなり、 へ、
特に、 心を向けて、
それらを覚え宛てるようにし 、
それらの、 一方や、 両方を用いて、
秩序立てられる、 あり得る、 観念な、
物事ら、の、
論理性なり、 意味の筋道なり、を、
成しての、
あり得ようら 、 や、 欠け得ようら 、 を 、
能 ヨ く 、 思い分けて観てゆく事を通して 、
観念系らから、 観念性の、 質としての内容を、
与えられて、 それ自らの成り立ちようらを得て、
来てある、 物事ら、 が、
そうした、質としての内容に現れ得ないで、
来てある、 外因性ら、と、
そうした、 質としての内容に現れ得て来てある、
ものら、を、 含む、 内因性ら、 と、 によって、
在り得て来てある、 様ら、 を、
観念し宛てて、成る、 分析型の、体系知ら、を、
構築する事へ対して、
より、 観念性の無い、 もの、や、事、
として、 観念される、
全く、 観念性、の、 質としての内容、を、
観念系らから、 与えられて、
それ自らの成り立ちようら、を、 得る、
物事ら、へ、 宛てがわれて、 成る、
余計な、 区別性 、 などを含む、
体系知ら、を成す、
その、 負の度合いらに応じて 、
より、 直 ジカ に、 足しに成り得る 、
可能的な度合いを、 欠いてしまう事に成る 。
いずれにせよ、
日本国民たちは、 より早くに、
日本国民たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、 公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、 与野党の、
主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、 そのまま、
自らもまた、 オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、 緊縮 、 を、
繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としての日本国民たちへ、
物価だけではなく、 その労働らへの賃金らの水準へも、 より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、 押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、 解消し去ってゆく、
と共に、
日本国民たちの防衛性の度合いを飛躍的にも高めてゆくべき、 ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、 あり得る、
災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、 避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、 それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
人々を誘導する事に類する行為であり、
日本の主権者として、 日本国民たちの一般 、
へ対する、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
日本国民たちの一般の、 あり得る、 福利ら、を、 より、 能くも、 最大限にも、 成す事を、
約束して、 日本の社会に、 存在し、 存続する事を、 日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、 不作為型の、
行為であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い 】 。
◇ 負電荷な 電子対なら 奪う、酸
逆な、 陽子を 引き取る、塩基・・。
☆ 湧き水の 濁りに続く 山津波
無い、水どもが 湧くも、先触れ・・。
◇ 連れ去るに 浜から沖へ 離岸流
脇へ泳げば ひろえる命・・。
☆ 水に塩 糖分も欠け 熱を去る
風も欠ければ 沸く、 熱射病・・。
☆ 根途記事 ➕ 論弁群 ➕ ;
☆ 仏教の用語である、 空 クウ 、
の、 原語は、
サンスクリットの形容詞の、
シューニャ ( śūnya ) 、 で、
その名詞形は、 シューニャター
( Śūnyatā ) 、 であり、
後者は、 「 空なること 」 、を、
意味するために、 しばしば、
空性 、 と、 漢訳される。
śūnya 、 は、 舜若 ( しゅんにゃ ) 、と、
音写し、
śūnyatā 、 は、 舜若多 ( しゅんにゃた )
、 と、 音写する。
◇ インドにおける、 シューニャの概念 ;
シューニャ
( サンスクリット語: शून्य, śūnya ) 、は、
śū ( = śvA, śvi、
成長・繁栄を意味する動詞 ) 、 から、
つくられた 、 śūna 、 から発展し、
「 …を欠いていること 」 、 という、
意味だ。
また、 「 膨れ上がった 」 、や、
「 うつろな 」 、 を意味する。
転じて、 膨れ上がったものは、
中空であるの意味も、あり、
初期の仏典にも、 その意味で、
登場することがある。
シューニャ 、 は、 インドの数学における 、
0 ( ゼロ ) 、 への、 名称でもある。
@ 空 = 無 、は、 間違い。
空 > 無 。 有 ⇔ 無 、であって、
空は、 そのらへの、 上位概念 。
@ 無 、 というのは、
観念な、 時間や空間を含む、
全ての存在の、 全てか、 一定の部分についての、
欠如態の事であり、
観念上の設定存在らの一つであるから、
ヒトは、死んでも、
無には、成る事が、できない。
仏教の本来のものに近い考え方では、
人たちは、 世界精神めいた、
『 大きな海の波たちの一つ一つの様な存在で、
ヒトが死ぬ、 という事は、
その波が、 砕けて、
大海原へ溶け入る様な現象 』 。
これは、 自分の愛する人たちとは、
波たちの様な者らとして、 この世に在る間だけ、
会う事が出来て、
各々の波が、大海原へ溶け入った後では、
その人格性が再構成される事は、
二度と、 無いので、
永遠に、 再び、 会う事は、 できないから、
一期一会の、 この世で会える、
愛する人たちの事は、
永遠に会えなくなる、 その時まで、
より、大切に、尊く思い扱う様にしよう、
といった、 あり得る、 思い構えよう、らを、
産むもとに成り得る、 考えようでもある 。
自死を思い行う前に、
自らの愛する人らや愛し得る人らと、
永遠に会えなく成る事の可能性の存在を、
とことん、 考え抜け、 という事にもつなり得る 。
@ 大体、海外の神でも、日本の神でも、
神ってのは、 本来は、 祟( タタ ) るもん。
祟( タタ )るから、 『 お鎮まり下さーい 』
って、 崇( アガ ) めるワケ 。
年に、1回を、 お参りに行って、
『 幸せにして下さい 』 って言うだけで、
神が、幸せにしてくれる、と思ったら、
大間違いだぞ。
戒律事らを守るとか、 神と契約するとか、
そういう、 身を削る事らをして始めて、
神も、民を見守ってくれるのよ。
救うとか、 赦 ユル すとかをしてくれるのは、
仏の方。 神仏習合で、
その辺をゴッチャにしちゃったから、
日本人ら一般の宗教観って、 世界基準とは、
ちょっと違っちゃってるんだよね 。
@ 仏教の当初の教義は、罪を赦す事じゃない。
罪を犯すのも、罪人を恨むのも、
欲から来るもので、 それが、
苦しみら、への、 原因になっているから、
欲たちを捨て去れって教えだ。
言い換えれば、 人間性を捨てる事を主旨とした、思想体系だな。
ありもしない罪をでっち上げた場合も含めて、
罪を赦す事を教義としたのは、 キリスト教 。
@ そうした人間性を、人間が捨てる事には、
無理があるから、
人間性を捨てたかの様な、思い成しようや、
行動の系を、 意図的に、 作り出して、
自らの人間性の生のままの盛り猛りを打ち消す、噛ませ波として、 作用させる、
方法の体系としての面が、
当初の仏教には、観受けられる。
悟り何ちゃらは、
そうした、 過程事らをこなしてゆく上で、
観えて来るかもしれない、
自らの精神系の、在りよう 。
その手の人間性は、 生きて在る内は、
生活の前提として、必ず、 在り続けるから、
無くす恐れは、 全く、 無い 、ので、
安心して、 それらを打ち消す、
噛ませ波を興して、好いし、
死後は、 波が、大海原へ砕け入る様に、
精神系めいた世界へ溶け込んでゆく、と。
仏には、 阿弥陀仏もあるが、
阿弥陀仏は、 時宗では、
人々を、生まれながらにして、
極楽浄土へ導く事を予定している方だから、
一方的に、 人々を救う存在 。
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