goo blog サービス終了のお知らせ 

おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

筍料理  水上 勉さん文

2005年04月14日 | Weblog
 笥の季節である。
 笥は何といっても、わかめとの炊きあわせだろう。米のとぎ汁か、ぬかーつかみに赤
唐辛子を少々入れた水に、穂先と根元を切り捨ててからよくゆでるのだが、串を通して
みて、ゆでかげんを見るころに、ぷーんと鼻にせまるあの匂いは何ともいえない。上の
中でうずくよっていた五月の竹の生気がゆで汁の中で煮えあふれ、上の産む生きものの
精が泡立ってくる感じだ。
 よくゆでたのを根の方からーセンチぐらいの輪切りにして、昆布だしに、醤油、砂糖
で煮つめる。しあがり前にわかめを加えるのだが、山根の葉でも飾って、朱の椀に入れ
て出そうものなら、笥のクリーム色が朱に浮いて、わかめは新葉のような彩りを見せる。
見ただけで、つばが出てくる。穂先のやわらかいところは、若笥汁に、時にはわかめも
厭いてくると、しようがといっしょに、笥はやわらかいところを短冊に切っていためてみ
たりした。さらに、あえものにもするけれど、やはり、このなかでいちばん好かれるの
はしょうがといためたものか。不思議に、あくの消えた甘味が、しょうがの辛さとマツチして、めしにまぶせば何杯喰えるかきりがない。

コウノトリ

2005年04月09日 | Weblog
 国の特別天然記念物で、絶滅危惧種に指定されているコウノトリが福井市内の水田に飛来しているのが七日、確認された。県内では一九八六年に美浜町で確認されて以来十九年ぶり。
  このコウノトリは体長 約一メートルで、水田で餌をついぱんでいるのを地元の
 人が発見した。
  国内のコウノトリは江戸時代までは各地で繁殖していたが、狩猟や生育環境の悪化などによって七壱年に野生種が絶滅。現在は冬鳥として、大陸から年一、二羽が飛来しているが、この秋から冬にかけては、少なくとも五羽が確認されている。
  
武生市で一九七一年に保護され、、兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷公園で飼育されている最高齢のコウノトリから今月七日までに六個の卵を産んだ。うち一個から六日、ひながふ化した。

挑戦。。

2005年04月06日 | Weblog
ちょっと体が疲れてくるとすぐやめたくなったり逃げたくなったりするけど、こんな
思いも一夜過ぎると又新たな自分になっていてフッと忘れてしまえるのはありかたい
ことだ。時という奴はなんてうまくできてるんだろうと驚いてしまう。
 人にきらわれたり、人を好いたり、おどしたりおどされたり、とにかく現実はスリ
ルとサスペンスがある。考えて見れば、こんな面白いところはない。極楽へ行ったっ
てあんまりめぐまれたところでは、変化がなくって自分みたいな奴はすぐいやになっ
ちやうだろうとおもう。いってみれば、人生は一つのスポーツだといってもいい。少々
危険があるが、この危険があるから身をひきしめることになっていいのだ。やっぱし
危険なことへ向かうとおもしろい。困難なものというのはとにかくおもしろいのだ。
挑戦してみたくなるのだ
 スポーツも挑戦するところにおもしろいところがあるが、芸術だっておんなじこと
だ。挑戦だ。自分を見つける、新しい自分を開拓するという意昧での挑戦だ。自分と
いう奴はなかなかつかみにくいもので、つかまえたと思った瞬間スルリとぬけてどっ
かへ行ってしまう。海にいるクラゲみたいなもので、なかなかつかみにくい。何回も
何回もあくことなく追い求めることになる。不思議なもので、自分という奴は無限な
ほどある。奥も深いし、犬きいし、これは探すのに価値あるものだ。
        佐藤 勝彦 文


助け合い

2005年03月31日 | Weblog
縦糸だけでは着物にはならない。縦糸と横糸、この二つは別々ではない。
二つで一つの布を組み立てる。縦糸のわがままは横糸が制している。横糸のずれは縦糸が押えている。
助け合いもする。
いましめ合いもする。押え合いもする。二つでーつのすばらしい役目を果たす。
自由がわがままにならぬように戒めよう。制限が行きすぎて窮屈にならぬように親切で補いた
い。
助け合いといましめ合い、この二つが調和してたいせつな目的を完遂する。二つが常に合わ
せてーつてある。これが大白然の教える秩序である。
よく切れる包丁はまな板の加勢を受ける。両方切れたら野菜は切れない。
よく勁く車は、動かないレ-レールの助けを受ける。レールまで動けば汽車は走れない。
自分の意見がいつでも正しいとはいえない。相対立する意見の中に尊さを見い出すこのゆとり、
この英知、 これが人間の世を拓く。大利るする相手を生かす。伸ばす。助ける。許す。
 そこに自分の生きる道がある。

花筺

2005年03月21日 | Weblog
『花筺』
 琴引山から眺める味真野の里は、夢のように美しかった。南にひときわ高く日野山がそびえ、それをとり巻く連山のかなたには、根尾の桜も今頃は咲いている筈だ。
この「淡墨桜」は、「あの淡墨桜」の子孫であろうか。それとも昔の好事家が、同じ名前で呼んだにすぎないのか。
植物に詳しくない私にはわからないが、継体天皇の伝説が、桜と結びついていることに私は興味を侍った。やはり「花筺」は世阿弥の創作ではなかったのだ。花というからには、それは桜に違いないし、切花ではなくて、生きた名本だったかも知れない。小さな花籠にしたのは、象徴的といわれるお能の常套手段である。少し想像をたくましゅうすれば、味真野に美しい豪族の姫君がいて、皇子はそこに滞在し、一子をもうけたのではあるまいか。花筺は、桜を現わすとともに、「忘れ形見」の意もふくんでいたのではないかと思う。越前はお能が盛んな所で、能面も沢山残っており、面打ちも大勢すんでいた。その縁故で、世阿弥はこの土地に伝わる伝承を知っており、それを元に一篇の恋物語を脚色したに違いない。
      (白洲正子「古典の細道」より)談

心ともつれ

2005年03月17日 | Weblog
いくらもつれてても、糸は、つまり人間関係は 全部ていねいに使わないと、もったいないでしよう。
もつれた糸をほどくのには、ふわっとかかえこんで、ふわーふわー(笑)。あっち引っぱり、こっちほぐしするのがいいものです。
脳みも、それに似たところがありましてね、ふわふわっとやっているのが、もどかしいようでも、結局一番の解決法だったりします。
以前、相談に来られた方にそんな話しまして、あとで言われたことがあります。「あのとき、こっちは生きるか死ぬかなのに、もつれた糸をふわふわ1っとはなにごとか1.と思いました」って(笑)。でも「結局あとになって、ほんとうにそうだなと思いました」と言っておられましたが。
不思議なことに、ふわふわっとやっていると、ほどける時にはパラパラっと一気にほどけるんですよね。ほんと不思議だけど。

嵐もいつか終わりが「希望を失わないこと。。