春の花
私達は意見の違う事に敏感です。同じ意見の人と居ると安心するのではありませんか。自我にとって「同じ」か「違う」かという事は一大事です。そして意見の違うものを排斥しようとし始めます。あなたのこの自我の働きが、あなた自身に多くの災いをもたらしています。あなたのこの排斥作用が、反作用としてあなたに戻ってくるものとして、あなたは他人からの拒絶を体験しています。人からの拒否や拒絶におびえるあなたに申し上げます。あなたはどうして意見の違いに怯えるのですか? 人は意見の違いを違いとして感じなくなった時に、初めて他人を受け入れることが出来るようになります。そして他人からの拒否、拒絶が消えていきます。
他人からの拒絶を恐れるあなたにとって、真のあなたの敵は、あなたのとる「正しい」「間違い」の判断にあります。あなたの下す「嘘」「本当」の判断にあります。「嘘」もなければ「本当」もありません。あるものは、あるがままの姿、ただ単に今そこにあるもの。変わり続ける宇宙の流れの瞬間があるだけです。全ての事象を、空に漂う雲の流れのように捉えてみませんか。私は2度同じ雲を見たことがありません。どうして意見の違いにこだわりますか。その理由は、あなたは他人と同じ空間に住んでいると誤解しているからです。あなたは自分の目にごまかされているだけです。万華鏡をのぞき込んだときのように、ただそう見えているだけ、といった捉え方をして下さい。
他人からの拒絶を恐れるあなたにとって、真のあなたの敵は、あなたのとる「正しい」「間違い」の判断にあります。あなたの下す「嘘」「本当」の判断にあります。「嘘」もなければ「本当」もありません。あるものは、あるがままの姿、ただ単に今そこにあるもの。変わり続ける宇宙の流れの瞬間があるだけです。全ての事象を、空に漂う雲の流れのように捉えてみませんか。私は2度同じ雲を見たことがありません。どうして意見の違いにこだわりますか。その理由は、あなたは他人と同じ空間に住んでいると誤解しているからです。あなたは自分の目にごまかされているだけです。万華鏡をのぞき込んだときのように、ただそう見えているだけ、といった捉え方をして下さい。
どんな科学者も人間の生きた皮膚の1部分も製造することが出来ないのである。
生命の智慧の偉大さよ。
私達の生活万全の問題に、神の修正作用は行われるのである。
神の修復作用が八方から起こってくるのである。私達が[我]のはからいで、その修復作用を妨げる何事かをなしつつあるからである。
神に祈りて、天地一切のものに感謝するとき完全にその修復作用が行われるのである。

生命の智慧の偉大さよ。
私達の生活万全の問題に、神の修正作用は行われるのである。
神の修復作用が八方から起こってくるのである。私達が[我]のはからいで、その修復作用を妨げる何事かをなしつつあるからである。
神に祈りて、天地一切のものに感謝するとき完全にその修復作用が行われるのである。


二刀一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす事。
空〔くう〕というのは、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、空であって、無である。有るところを知って、無きところを知る、これが空である。
世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないところを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。
この兵法の道においても、武士として道を実践するに、士〔さむらい〕の法*を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。
武士は兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸をよく覚え、武士の行う道にも暗からず、心の迷うところなく、日々時々に怠らず、心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨ぎ、少しも曇り無く、迷いの空〔そら〕の晴れたところ、それが真実の空〔くう〕だと知るべきである。
真実の道を知らない間は、佛法の道であれ世俗の道であれ、それぞれ自分は確かな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう〕から、世の大きな尺度に合せて見れば、人それぞれの心の偏見、目の歪みにすぎず、真実の道には背くものである。
その意味を知って、真っ直ぐになるところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く修行し、しっかりと明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。
空は善有りて悪無し
智は有なり
理は有なり
道は有なり
心は空なり
空〔くう〕というのは、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、空であって、無である。有るところを知って、無きところを知る、これが空である。
世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないところを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。
この兵法の道においても、武士として道を実践するに、士〔さむらい〕の法*を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。
武士は兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸をよく覚え、武士の行う道にも暗からず、心の迷うところなく、日々時々に怠らず、心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨ぎ、少しも曇り無く、迷いの空〔そら〕の晴れたところ、それが真実の空〔くう〕だと知るべきである。
真実の道を知らない間は、佛法の道であれ世俗の道であれ、それぞれ自分は確かな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう〕から、世の大きな尺度に合せて見れば、人それぞれの心の偏見、目の歪みにすぎず、真実の道には背くものである。
その意味を知って、真っ直ぐになるところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く修行し、しっかりと明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。
空は善有りて悪無し
智は有なり
理は有なり
道は有なり
心は空なり
愛する友達よ、賢くあれ、今ただちに
その涙を眼よりぬぐえよ
柩の上に横こはるところのものは
一滴の涙にも價ひしないものである
それは海演に打ち上げられた一片の貝殻
かってそれは、その中から真珠を生み出したが
今は唯の貝殻、何の値打もない 其処に棄てよ
真珠 ― 人間の魂 ― それが全である
今ここにそれがある。
その涙を眼よりぬぐえよ
柩の上に横こはるところのものは
一滴の涙にも價ひしないものである
それは海演に打ち上げられた一片の貝殻
かってそれは、その中から真珠を生み出したが
今は唯の貝殻、何の値打もない 其処に棄てよ
真珠 ― 人間の魂 ― それが全である
今ここにそれがある。
私はひとつの信念のようなものをもちはじめていました。それはいまの時代は「こうありたい」という目標を掲げて、それに向かって努力すれば、たいていのこと
は実現可能だということです。
いまはある意味では大変に恵まれた時代です。その恩恵は科学技術によってもたらされ
たといってよいでしょう。たとえばー〇〇〇メートルのタワーをつくりたいと思えば、そ
んなものはわけなくつくれます。沖縄から九州まで橋をかけたいというのであれば、浮橋
であれなんであれ、現在の技術なら可能です。経済効果などを考えて、やるかやらないか
は別にして、技術的にできないことはありません。
昔はそういう発想が仮にあっても、技術的な制約がありました。いまは月へ飛ぼうと
いう発想が出てくると、月へ行けるわけですから、だれも不思議に思いません。しかしだ
れかがそういう発想をしなければ、いまだに月は兎の餅つきの世界にとどまっていたかも
知れないのです。いまはもう人間の考えることはおおむね実現できる時代になったといっ
てよいでしょう。得られたもうひとつの信念は、人間の考えることはすべて自然界
に存在し、科学はたんに自然の偉大さを説明する道具に過ぎないということです。
そういう観点から眺めてみると、いったい世界はこれからどうなるのかという問題が出
てきます。まずいえることは、戦争ができない状況になってきたことです。小競りあいは
ありますが、本格的な戦争はもうだれにもできない。これまでの世界史にこんな時代はあ
りませんでした。
戦争ばかりではありません。われわれの生き方も同じです。たとえば出世の哲学とか成
功の理論といった本を見ると、だいたいが他人に勝つことが基本になっています。出世と
いうのもその最たるもので、他人に勝たないとおしまい。だから「勝て、勝て、勝ったほ
うが正義だ」とさんざん教えています。いまでもそんなことを書いた本がベストセラーに成ったりしますがいままでの人類の歴史は戦いのなかでつくられ、勝ったほう
が正義になってきたのです。
は実現可能だということです。
いまはある意味では大変に恵まれた時代です。その恩恵は科学技術によってもたらされ
たといってよいでしょう。たとえばー〇〇〇メートルのタワーをつくりたいと思えば、そ
んなものはわけなくつくれます。沖縄から九州まで橋をかけたいというのであれば、浮橋
であれなんであれ、現在の技術なら可能です。経済効果などを考えて、やるかやらないか
は別にして、技術的にできないことはありません。
昔はそういう発想が仮にあっても、技術的な制約がありました。いまは月へ飛ぼうと
いう発想が出てくると、月へ行けるわけですから、だれも不思議に思いません。しかしだ
れかがそういう発想をしなければ、いまだに月は兎の餅つきの世界にとどまっていたかも
知れないのです。いまはもう人間の考えることはおおむね実現できる時代になったといっ
てよいでしょう。得られたもうひとつの信念は、人間の考えることはすべて自然界
に存在し、科学はたんに自然の偉大さを説明する道具に過ぎないということです。
そういう観点から眺めてみると、いったい世界はこれからどうなるのかという問題が出
てきます。まずいえることは、戦争ができない状況になってきたことです。小競りあいは
ありますが、本格的な戦争はもうだれにもできない。これまでの世界史にこんな時代はあ
りませんでした。
戦争ばかりではありません。われわれの生き方も同じです。たとえば出世の哲学とか成
功の理論といった本を見ると、だいたいが他人に勝つことが基本になっています。出世と
いうのもその最たるもので、他人に勝たないとおしまい。だから「勝て、勝て、勝ったほ
うが正義だ」とさんざん教えています。いまでもそんなことを書いた本がベストセラーに成ったりしますがいままでの人類の歴史は戦いのなかでつくられ、勝ったほう
が正義になってきたのです。
世界が廣くなるには周園のものと調和しなけれぱなりません。自己の存在を『個別』として見ずして全体と運関したものとして見るのであります。そして利己のみをはからず、最大多数の最大
幸幅のために奉仕する。これが民主主義であります。自分の存在を『個別』として観てゐる人は、その人の住む世界が挾いのであります。自分の住む世界を廣くするには萬遍なく調和した生活を
送るやうにしなけれぱなりません。雨が降れぱ、雨に調和する、風が吹けぱ風に調和する。縫母がゐれば縫母に調和する。養父がゐれぱ養父に調和する
調和したときには、『相手』との封立感が無くなるのであります。『相手』を白分の中へ摂取するのであります。印ち『個』が壊けて、住
む天地が廣くなるのであります。
幸幅のために奉仕する。これが民主主義であります。自分の存在を『個別』として観てゐる人は、その人の住む世界が挾いのであります。自分の住む世界を廣くするには萬遍なく調和した生活を
送るやうにしなけれぱなりません。雨が降れぱ、雨に調和する、風が吹けぱ風に調和する。縫母がゐれば縫母に調和する。養父がゐれぱ養父に調和する
調和したときには、『相手』との封立感が無くなるのであります。『相手』を白分の中へ摂取するのであります。印ち『個』が壊けて、住
む天地が廣くなるのであります。

如何なる問題が起つて來ても、常に明るい心を以つてそれに立ち向ふことが必要である。
どんな問題でも、神なら解決できるのである。自分の「我」の力で解決しようと思ふから、解決の
方法を失つてどうすることもできないやうな事になるのである。間題を神に振向け、神に肩代わり
りしてもらふがよいのである。
そのためには「神は全智全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を紳様あなたに委ねます」
と繰返し繰返し、心に念じて祈り、その問題を神に委ねるがよい。
徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその間題を解決に導き給ふのである。
それは
自分に好い考へが思ひ浮んで來ることもあれぱ、誰か、思ひがけないところから、援助の手を
差し伸べる人が出てくるときも有るのである。

赤い花、紫のすみれ、みどりの若葉、すべての色もそうである。月に似ている。元来こ
の世に赤い花はない。花は七つの色全部を太陽からもらっている。そうしてその七色
の中から赤だけをお返しする。それをわれわれは赤い花と名付けて来た。すみれの
花は紫の色をお返しする。緑をお返しする葉を青葉とよんで来た。どんな色をお返し
するか、出すか。反射するか、それでそのものの名がつけられている。すぺてのもの
の本体は、絞り出したものによってきめられる。
太陽の光は無色透明といっている。この無色というのは色がないというのではない。
七つの色がいつでもある。色の無い無色ではない。どの色にも隔てがない。七つとも
平等、片寄りがない無色である。人間もそうである。その人の出したもの、お返しした
もの、それに名も実も与えられる。これが大自然の味ふかき恵みである。
毎日力を絞り出す人、世の中に力をお返しする人、これが力士である。声をお返しす
る人、これが歌手である。人々に愛と慈悲の手をのべつくし、人の世の光となっておら
れる人、これが宗祖、教祖である。
だから人間は、今日一日何を出すか。絞るか。配るか。捧げるか。これだけを考え、毎
日新しい決意で真剣に生きて行けばよいのだと思う。
の世に赤い花はない。花は七つの色全部を太陽からもらっている。そうしてその七色
の中から赤だけをお返しする。それをわれわれは赤い花と名付けて来た。すみれの
花は紫の色をお返しする。緑をお返しする葉を青葉とよんで来た。どんな色をお返し
するか、出すか。反射するか、それでそのものの名がつけられている。すぺてのもの
の本体は、絞り出したものによってきめられる。
太陽の光は無色透明といっている。この無色というのは色がないというのではない。
七つの色がいつでもある。色の無い無色ではない。どの色にも隔てがない。七つとも
平等、片寄りがない無色である。人間もそうである。その人の出したもの、お返しした
もの、それに名も実も与えられる。これが大自然の味ふかき恵みである。
毎日力を絞り出す人、世の中に力をお返しする人、これが力士である。声をお返しす
る人、これが歌手である。人々に愛と慈悲の手をのべつくし、人の世の光となっておら
れる人、これが宗祖、教祖である。
だから人間は、今日一日何を出すか。絞るか。配るか。捧げるか。これだけを考え、毎
日新しい決意で真剣に生きて行けばよいのだと思う。

極楽だけとなります。
親鸞上人の信仰は、正にその境地に生き切っておられたのであります、上人の残された数多くのご
文章のうち、どこを見ても親鴛は極楽行きに決まったから安心したという字句は全然見当りません。
逆に"地獄は一定住み家ぞかし"と決定して、しかも困ったという言葉はどこにもなくて、ただ有難い
と感謝し切りの生活であります。このことが他力信仰の真髄でもあります。善いも悪いも自分の力や
努力によってなるものは全くなくて、丸々本願他力のお救いによらないものとて何一つないのが事実
であります。信仰とは考えて判るものではなく、理屈ぬきに事実を確認することであります。考えた
のは時として動揺することもありますが、事実ほど確実で変わらないものはありません。救われている
のは事実であって解るとか解らないとかには、一切関係がないのであります。知らずにいても、又解
らないから、救われていないということもありません。解らなければ解らないまま、知らなければ知
らないままで、ただただ生かされ護られ導かれているのであります。結局人間は阿弥陀如来に全托し
て安心しておれば善くなるより仕方のない存在なのであります。
赤ん坊がお母さんの腕に抱かれて眠っておりながら、抱かれていることを気づかず、ただ安心して
眠っているようなものであります。
親鸞上人の信仰は、正にその境地に生き切っておられたのであります、上人の残された数多くのご
文章のうち、どこを見ても親鴛は極楽行きに決まったから安心したという字句は全然見当りません。
逆に"地獄は一定住み家ぞかし"と決定して、しかも困ったという言葉はどこにもなくて、ただ有難い
と感謝し切りの生活であります。このことが他力信仰の真髄でもあります。善いも悪いも自分の力や
努力によってなるものは全くなくて、丸々本願他力のお救いによらないものとて何一つないのが事実
であります。信仰とは考えて判るものではなく、理屈ぬきに事実を確認することであります。考えた
のは時として動揺することもありますが、事実ほど確実で変わらないものはありません。救われている
のは事実であって解るとか解らないとかには、一切関係がないのであります。知らずにいても、又解
らないから、救われていないということもありません。解らなければ解らないまま、知らなければ知
らないままで、ただただ生かされ護られ導かれているのであります。結局人間は阿弥陀如来に全托し
て安心しておれば善くなるより仕方のない存在なのであります。
赤ん坊がお母さんの腕に抱かれて眠っておりながら、抱かれていることを気づかず、ただ安心して
眠っているようなものであります。


ただ金もうけだけがじょうずであることは、砂の上に家を建てるのに似ている。危ない。いまの世の中には、この危ないことにあせって無理をしている人が多いようである。