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おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

春  桜 見物

2008年03月28日 | Weblog
私達は意見の違う事に敏感です。同じ意見の人と居ると安心するのではありませんか。自我にとって「同じ」か「違う」かという事は一大事です。そして意見の違うものを排斥しようとし始めます。あなたのこの自我の働きが、あなた自身に多くの災いをもたらしています。あなたのこの排斥作用が、反作用としてあなたに戻ってくるものとして、あなたは他人からの拒絶を体験しています。人からの拒否や拒絶におびえるあなたに申し上げます。あなたはどうして意見の違いに怯えるのですか? 人は意見の違いを違いとして感じなくなった時に、初めて他人を受け入れることが出来るようになります。そして他人からの拒否、拒絶が消えていきます。

 他人からの拒絶を恐れるあなたにとって、真のあなたの敵は、あなたのとる「正しい」「間違い」の判断にあります。あなたの下す「嘘」「本当」の判断にあります。「嘘」もなければ「本当」もありません。あるものは、あるがままの姿、ただ単に今そこにあるもの。変わり続ける宇宙の流れの瞬間があるだけです。全ての事象を、空に漂う雲の流れのように捉えてみませんか。私は2度同じ雲を見たことがありません。どうして意見の違いにこだわりますか。その理由は、あなたは他人と同じ空間に住んでいると誤解しているからです。あなたは自分の目にごまかされているだけです。万華鏡をのぞき込んだときのように、ただそう見えているだけ、といった捉え方をして下さい。

感謝

2006年11月07日 | Weblog
どんな科学者も人間の生きた皮膚の1部分も製造することが出来ないのである。
 生命の智慧の偉大さよ。
 私達の生活万全の問題に、神の修正作用は行われるのである。
  神の修復作用が八方から起こってくるのである。私達が[我]のはからいで、その修復作用を妨げる何事かをなしつつあるからである。
 神に祈りて、天地一切のものに感謝するとき完全にその修復作用が行われるのである。


武蔵の書

2006年09月14日 | Weblog
 二刀一流の兵法の道を、空の巻として書きあらわす事。
 空〔くう〕というのは、どんな物事でも、形なきところ、知れざることを、空と見立てるのである。もちろん、空は、空であって、無である。有るところを知って、無きところを知る、これが空である。
 世の中において、(空を)悪く見れば、物をわきまえないところを空と見るが、これは真実の空ではない。すべて迷う心である。
 この兵法の道においても、武士として道を実践するに、士〔さむらい〕の法*を知らないのは、空ということではない。いろいろと迷いがあって、どうしようもないところを、空というけれども、これは真実の空ではないのである。
 武士は兵法の道を確かに覚え、そのほか武芸をよく覚え、武士の行う道にも暗からず、心の迷うところなく、日々時々に怠らず、心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨ぎ、少しも曇り無く、迷いの空〔そら〕の晴れたところ、それが真実の空〔くう〕だと知るべきである。
 真実の道を知らない間は、佛法の道であれ世俗の道であれ、それぞれ自分は確かな道と思い、善きことと思っていても、心の直道〔じきどう〕から、世の大きな尺度に合せて見れば、人それぞれの心の偏見、目の歪みにすぎず、真実の道には背くものである。
 その意味を知って、真っ直ぐになるところを根本とし、真実の心を道として、兵法を広く修行し、しっかりと明らかに、大きいところを思い取って、空を道とし、道を空と見るのである。

   空は善有りて悪無し
   智は有なり
   理は有なり
   道は有なり
   心は空なり

???

2006年07月15日 | Weblog
愛する友達よ、賢くあれ、今ただちに
 その涙を眼よりぬぐえよ
柩の上に横こはるところのものは
一滴の涙にも價ひしないものである

それは海演に打ち上げられた一片の貝殻

かってそれは、その中から真珠を生み出したが

今は唯の貝殻、何の値打もない 其処に棄てよ

真珠 ― 人間の魂 ― それが全である
今ここにそれがある。

比嘉照夫さん 文

2006年03月07日 | Weblog
私はひとつの信念のようなものをもちはじめていました。それはいまの時代は「こうありたい」という目標を掲げて、それに向かって努力すれば、たいていのこと
は実現可能だということです。
 いまはある意味では大変に恵まれた時代です。その恩恵は科学技術によってもたらされ
たといってよいでしょう。たとえばー〇〇〇メートルのタワーをつくりたいと思えば、そ
んなものはわけなくつくれます。沖縄から九州まで橋をかけたいというのであれば、浮橋
であれなんであれ、現在の技術なら可能です。経済効果などを考えて、やるかやらないか
は別にして、技術的にできないことはありません。
 昔はそういう発想が仮にあっても、技術的な制約がありました。いまは月へ飛ぼうと
いう発想が出てくると、月へ行けるわけですから、だれも不思議に思いません。しかしだ
れかがそういう発想をしなければ、いまだに月は兎の餅つきの世界にとどまっていたかも
知れないのです。いまはもう人間の考えることはおおむね実現できる時代になったといっ
てよいでしょう。得られたもうひとつの信念は、人間の考えることはすべて自然界
に存在し、科学はたんに自然の偉大さを説明する道具に過ぎないということです。
 そういう観点から眺めてみると、いったい世界はこれからどうなるのかという問題が出
てきます。まずいえることは、戦争ができない状況になってきたことです。小競りあいは
ありますが、本格的な戦争はもうだれにもできない。これまでの世界史にこんな時代はあ
りませんでした。
 戦争ばかりではありません。われわれの生き方も同じです。たとえば出世の哲学とか成
功の理論といった本を見ると、だいたいが他人に勝つことが基本になっています。出世と
いうのもその最たるもので、他人に勝たないとおしまい。だから「勝て、勝て、勝ったほ
うが正義だ」とさんざん教えています。いまでもそんなことを書いた本がベストセラーに成ったりしますがいままでの人類の歴史は戦いのなかでつくられ、勝ったほう
が正義になってきたのです。