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おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

世の中は 心ひとつの 置き所

2005年06月19日 | Weblog
常岡一郎文より
 極まるとあわてる。暗い心になる。心がいらだつ。絶望感でがっかりする。立ちすくむ。
これは愚かなことである。いつでも第一は心に光をつけることである。人間は心が主
体である。この心の備えが崩れたら一切が総崩れになる。達磨は(だるま)はいかに
押し倒されてもすぐに立ち直る。これは重心が低<おちついているからである。人間の
重心も心である。切り抜けたいと願っても、許されねば出来ない。その許される第一条
件は明るい心、ゆとりのある心、陽気な心、きげんのよい心、これが主体である。そこ
に切り抜ける勘が働くようになる。ハツと気付く、抜け道が見付かる。心の光で打開の
道と縁が結ばれて来るのである。
いかに切り抜けるかの前に、心のゆとり、心の光をつくること、これが基本である。もし
心が明るくなれないとすれば、何かが狂っている。どこかに間違いがある。それを見つ
け出して反省する。やり直す。最悪の場合もまたやむなし、自分の責任だと覚悟す
る。

常岡一郎さんぶん

2005年05月26日 | Weblog
なんといっても出来ないことはそっとしておく。そうして自分のきげんをとる道を第一に
努力する。それは何でもよい。まず手近な仕事をはじめる。手紙を読む。返事を書く。
日記を書く。原稿を書く。本を読む。人に会う。気になる事を片付けはじめる。それは
たやすいことからはじめる。そこに心が集中する。油がのりはじめる。心構え、腰構え
が定まって来る。仕事にも熱がわく。興味もわく。私は常に仕事によって救われてき
た。仕事が切れたら心はゆるむ。何か仕事はある。責任を感じる。これほど救われる
道はないと思っている。どうしても出来無い事は焦ってもつまらぬ。出来ることをはじ
めていると心がまず救われる。それからふとよい勘が働く。よい縁が結ばれてくる。最
悪の結果でもよい。たのしく迎える。何より心をつくることだと私は信じている。
常岡―郎師の略歴:
○明治32年福岡県生まれ、慶応大学理材科在学中、卒業前に結核にたおれ、学を
捨て、闘病と求道に入る。
○昭和IO年修養団体『中心社』を創設。養護施設中心学園、養護老人ホーム中心荘
を経営して社会福祉に貢献、更に健康学園を創建。かねての持論である5健運動を
推進。
○昭和25年、参議院議員に当選。12年間国政に参劃。
○昭和44年、勲二等瑞宝章を賜る。

釈迦三蔵図

2005年04月20日 | Weblog
 昔の 釈迦三蔵図
 神とともに生きる生活である。
人間の生活はすでにここまで進んでいるのではないだろうか。ここまで来ればすべてのでき事の陰に神意を読み、すべての人の陰に神の恵みを拝むに到る。だから物を大事にする。人を大事にする。この心が親をたいせつにする心、親をたいせつに思う心、師に感激するゆかしい心を生み出すのである。
こういう考え方。これは唯物論者からいえば物笑いの種であるかもしれない。しかし唯物論者は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、姿あるものにとらわれている。ものの姿、形の向こうにある無形の道。悠久永遠なるめぐみを見い出す力。これを持っていないのではあるまいか。
神様はこの世にのるのですかーーー‐-と若い人によく聞かれる。青年時代は唯物論におちいりやすい。また、不幸に打ちひしがれた人は、神も仏もあるものかと疑う。その気持はよくわかる。しかし、それでよいのだろうかと心痛む。
若いころは無神論者の一人であろう。親がなんといおうと、神などがあるものかと反抗していた。だから若レ人々の気持もよくわかる。求めて若い心はもだえ苫しむのたうちまわった。道を求める。やがて形あるものの実にある形なきハカライを感ずるようになった。どうしても神のめぐみを感じないわけにはいかなくなった。
これは人から議論で教えられたものではない。恨み、なやみ、苫しみ技して到達した悟りの結果といったほうがよいように思う。いいかえれば、目に見えぬ力に引きずられて、この疸地に到る


私の師  常岡一郎さんの文

2005年04月17日 | Weblog
物は使えば減る。靴の皮は鉄鋲を打っても一年もすればすり減る。革の手袋も時が来れば破れる。これはほんとうである。物質である以上、消滅していくのがあたりまえである。しかし手の皮や足の皮はなかなか破れない。減らない。八十年でも九十年でも修繕しないで働いている。使えば使うほど強くなる。これは単なる物ではないからではあるまいか。大自然のめぐみに守られたもの。天のたまものであるからではあるまいか。
歴史は進んだ。人間の生活もまた進んだ。いまの時代は唯物論を越えてすでに信仰生活の時代に移った。天の声は人の耳に聞こえない。だから病み、なやみ、苫しみ-の中に天意を読む。そこに天の声は切々として問こえる。この「天の声」を「鶴の一声」として自分のあやまりを悟る。思いを変える。新しく進むべき道を悟る。ここに正しき生き方が生まれる。これをすべての人が悟らねばならぬ時代となった。神が表にあらかねて神が導き治められる時代であると確信する。