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おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

釈迦三蔵図

2005年04月20日 | Weblog
 昔の 釈迦三蔵図
 神とともに生きる生活である。
人間の生活はすでにここまで進んでいるのではないだろうか。ここまで来ればすべてのでき事の陰に神意を読み、すべての人の陰に神の恵みを拝むに到る。だから物を大事にする。人を大事にする。この心が親をたいせつにする心、親をたいせつに思う心、師に感激するゆかしい心を生み出すのである。
こういう考え方。これは唯物論者からいえば物笑いの種であるかもしれない。しかし唯物論者は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、姿あるものにとらわれている。ものの姿、形の向こうにある無形の道。悠久永遠なるめぐみを見い出す力。これを持っていないのではあるまいか。
神様はこの世にのるのですかーーー‐-と若い人によく聞かれる。青年時代は唯物論におちいりやすい。また、不幸に打ちひしがれた人は、神も仏もあるものかと疑う。その気持はよくわかる。しかし、それでよいのだろうかと心痛む。
若いころは無神論者の一人であろう。親がなんといおうと、神などがあるものかと反抗していた。だから若レ人々の気持もよくわかる。求めて若い心はもだえ苫しむのたうちまわった。道を求める。やがて形あるものの実にある形なきハカライを感ずるようになった。どうしても神のめぐみを感じないわけにはいかなくなった。
これは人から議論で教えられたものではない。恨み、なやみ、苫しみ技して到達した悟りの結果といったほうがよいように思う。いいかえれば、目に見えぬ力に引きずられて、この疸地に到る


私の師  常岡一郎さんの文

2005年04月17日 | Weblog
物は使えば減る。靴の皮は鉄鋲を打っても一年もすればすり減る。革の手袋も時が来れば破れる。これはほんとうである。物質である以上、消滅していくのがあたりまえである。しかし手の皮や足の皮はなかなか破れない。減らない。八十年でも九十年でも修繕しないで働いている。使えば使うほど強くなる。これは単なる物ではないからではあるまいか。大自然のめぐみに守られたもの。天のたまものであるからではあるまいか。
歴史は進んだ。人間の生活もまた進んだ。いまの時代は唯物論を越えてすでに信仰生活の時代に移った。天の声は人の耳に聞こえない。だから病み、なやみ、苫しみ-の中に天意を読む。そこに天の声は切々として問こえる。この「天の声」を「鶴の一声」として自分のあやまりを悟る。思いを変える。新しく進むべき道を悟る。ここに正しき生き方が生まれる。これをすべての人が悟らねばならぬ時代となった。神が表にあらかねて神が導き治められる時代であると確信する。


筍料理  水上 勉さん文

2005年04月14日 | Weblog
 笥の季節である。
 笥は何といっても、わかめとの炊きあわせだろう。米のとぎ汁か、ぬかーつかみに赤
唐辛子を少々入れた水に、穂先と根元を切り捨ててからよくゆでるのだが、串を通して
みて、ゆでかげんを見るころに、ぷーんと鼻にせまるあの匂いは何ともいえない。上の
中でうずくよっていた五月の竹の生気がゆで汁の中で煮えあふれ、上の産む生きものの
精が泡立ってくる感じだ。
 よくゆでたのを根の方からーセンチぐらいの輪切りにして、昆布だしに、醤油、砂糖
で煮つめる。しあがり前にわかめを加えるのだが、山根の葉でも飾って、朱の椀に入れ
て出そうものなら、笥のクリーム色が朱に浮いて、わかめは新葉のような彩りを見せる。
見ただけで、つばが出てくる。穂先のやわらかいところは、若笥汁に、時にはわかめも
厭いてくると、しようがといっしょに、笥はやわらかいところを短冊に切っていためてみ
たりした。さらに、あえものにもするけれど、やはり、このなかでいちばん好かれるの
はしょうがといためたものか。不思議に、あくの消えた甘味が、しょうがの辛さとマツチして、めしにまぶせば何杯喰えるかきりがない。

コウノトリ

2005年04月09日 | Weblog
 国の特別天然記念物で、絶滅危惧種に指定されているコウノトリが福井市内の水田に飛来しているのが七日、確認された。県内では一九八六年に美浜町で確認されて以来十九年ぶり。
  このコウノトリは体長 約一メートルで、水田で餌をついぱんでいるのを地元の
 人が発見した。
  国内のコウノトリは江戸時代までは各地で繁殖していたが、狩猟や生育環境の悪化などによって七壱年に野生種が絶滅。現在は冬鳥として、大陸から年一、二羽が飛来しているが、この秋から冬にかけては、少なくとも五羽が確認されている。
  
武生市で一九七一年に保護され、、兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷公園で飼育されている最高齢のコウノトリから今月七日までに六個の卵を産んだ。うち一個から六日、ひながふ化した。

挑戦。。

2005年04月06日 | Weblog
ちょっと体が疲れてくるとすぐやめたくなったり逃げたくなったりするけど、こんな
思いも一夜過ぎると又新たな自分になっていてフッと忘れてしまえるのはありかたい
ことだ。時という奴はなんてうまくできてるんだろうと驚いてしまう。
 人にきらわれたり、人を好いたり、おどしたりおどされたり、とにかく現実はスリ
ルとサスペンスがある。考えて見れば、こんな面白いところはない。極楽へ行ったっ
てあんまりめぐまれたところでは、変化がなくって自分みたいな奴はすぐいやになっ
ちやうだろうとおもう。いってみれば、人生は一つのスポーツだといってもいい。少々
危険があるが、この危険があるから身をひきしめることになっていいのだ。やっぱし
危険なことへ向かうとおもしろい。困難なものというのはとにかくおもしろいのだ。
挑戦してみたくなるのだ
 スポーツも挑戦するところにおもしろいところがあるが、芸術だっておんなじこと
だ。挑戦だ。自分を見つける、新しい自分を開拓するという意昧での挑戦だ。自分と
いう奴はなかなかつかみにくいもので、つかまえたと思った瞬間スルリとぬけてどっ
かへ行ってしまう。海にいるクラゲみたいなもので、なかなかつかみにくい。何回も
何回もあくことなく追い求めることになる。不思議なもので、自分という奴は無限な
ほどある。奥も深いし、犬きいし、これは探すのに価値あるものだ。
        佐藤 勝彦 文