goo blog サービス終了のお知らせ 

おこしやす福井

故郷福井。。紹介します

調和

2005年12月01日 | Weblog
世界が廣くなるには周園のものと調和しなけれぱなりません。自己の存在を『個別』として見ずして全体と運関したものとして見るのであります。そして利己のみをはからず、最大多数の最大
幸幅のために奉仕する。これが民主主義であります。自分の存在を『個別』として観てゐる人は、その人の住む世界が挾いのであります。自分の住む世界を廣くするには萬遍なく調和した生活を
送るやうにしなけれぱなりません。雨が降れぱ、雨に調和する、風が吹けぱ風に調和する。縫母がゐれば縫母に調和する。養父がゐれぱ養父に調和する
調和したときには、『相手』との封立感が無くなるのであります。『相手』を白分の中へ摂取するのであります。印ち『個』が壊けて、住
む天地が廣くなるのであります。

神に  。。

2005年11月23日 | Weblog

如何なる問題が起つて來ても、常に明るい心を以つてそれに立ち向ふことが必要である。
どんな問題でも、神なら解決できるのである。自分の「我」の力で解決しようと思ふから、解決の
方法を失つてどうすることもできないやうな事になるのである。間題を神に振向け、神に肩代わり
りしてもらふがよいのである。
そのためには「神は全智全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を紳様あなたに委ねます」
と繰返し繰返し、心に念じて祈り、その問題を神に委ねるがよい。
徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその間題を解決に導き給ふのである。
それは
自分に好い考へが思ひ浮んで來ることもあれぱ、誰か、思ひがけないところから、援助の手を
差し伸べる人が出てくるときも有るのである。

常岡一郎ぶんより

2005年11月11日 | Weblog
赤い花、紫のすみれ、みどりの若葉、すべての色もそうである。月に似ている。元来こ
の世に赤い花はない。花は七つの色全部を太陽からもらっている。そうしてその七色
の中から赤だけをお返しする。それをわれわれは赤い花と名付けて来た。すみれの
花は紫の色をお返しする。緑をお返しする葉を青葉とよんで来た。どんな色をお返し
するか、出すか。反射するか、それでそのものの名がつけられている。すぺてのもの
の本体は、絞り出したものによってきめられる。
太陽の光は無色透明といっている。この無色というのは色がないというのではない。
七つの色がいつでもある。色の無い無色ではない。どの色にも隔てがない。七つとも
平等、片寄りがない無色である。人間もそうである。その人の出したもの、お返しした
もの、それに名も実も与えられる。これが大自然の味ふかき恵みである。
毎日力を絞り出す人、世の中に力をお返しする人、これが力士である。声をお返しす
る人、これが歌手である。人々に愛と慈悲の手をのべつくし、人の世の光となっておら
れる人、これが宗祖、教祖である。
だから人間は、今日一日何を出すか。絞るか。配るか。捧げるか。これだけを考え、毎
日新しい決意で真剣に生きて行けばよいのだと思う。

全托

2005年10月13日 | Weblog
極楽だけとなります。
 親鸞上人の信仰は、正にその境地に生き切っておられたのであります、上人の残された数多くのご
文章のうち、どこを見ても親鴛は極楽行きに決まったから安心したという字句は全然見当りません。
逆に"地獄は一定住み家ぞかし"と決定して、しかも困ったという言葉はどこにもなくて、ただ有難い
と感謝し切りの生活であります。このことが他力信仰の真髄でもあります。善いも悪いも自分の力や
努力によってなるものは全くなくて、丸々本願他力のお救いによらないものとて何一つないのが事実
であります。信仰とは考えて判るものではなく、理屈ぬきに事実を確認することであります。考えた
のは時として動揺することもありますが、事実ほど確実で変わらないものはありません。救われている
のは事実であって解るとか解らないとかには、一切関係がないのであります。知らずにいても、又解
らないから、救われていないということもありません。解らなければ解らないまま、知らなければ知
らないままで、ただただ生かされ護られ導かれているのであります。結局人間は阿弥陀如来に全托し
て安心しておれば善くなるより仕方のない存在なのであります。
 赤ん坊がお母さんの腕に抱かれて眠っておりながら、抱かれていることを気づかず、ただ安心して
眠っているようなものであります。


常岡一郎さん

2005年09月17日 | Weblog
、万難を排してつき進む人はついに内容がよくたる。内に力がわき運命がよくたる。それから最後に境遇が不思議にめぐまれていく。これが順序である。これが正しい生き方であると信ずる。
ただ金もうけだけがじょうずであることは、砂の上に家を建てるのに似ている。危ない。いまの世の中には、この危ないことにあせって無理をしている人が多いようである。

戦争

2005年09月16日 | Weblog
すべての人の考え方の根元となるもの、それは人間の自覚である。人間が人間を知らぬ。だから
力のむだ使いをやる。いちばん愚かなむだ使い、これが喧嘩である。ストである。戦争である。
すべての人間の敵、それは狭い利己心である。地上に戦争のいらぬ考え方、これが育たねばなら
ぬ。すべての国の指導者は国民を天地にかえせ。人間にかえせ。大自然の子として見直せ。人間
としての自覚を与えよ。人間時代となった。世界一家の時が来た。


和合

2005年09月10日 | Weblog
自分に力をあたえるものは、自分自身の信仰心だけであって、ほかには何もない。
きっすいに成りきるまでは辛抱しなさい。野心を捨てて、淡泊に庸浄に、そして一心不乱に魂を磨きなさい。玉さえ光出したら、自然に仕事は出きる。それまでは修業時代だ。

苦しい、いやな畢えられない時でも、.シッと辛抱していなさい。
真に神を信じれば、いま自分の心身にふりかかりてきているいっさいは(たとえ、どんな外的理由によるとはいえ)ことごとく神威であることに気づかずにはおれないのである。
磨かなくて光る道理がない。
鍛えずに切れたためしがない 光り出せば自然に慕われる。

天職

2005年08月31日 | Weblog
 あなたが、「自分が、本当の自分らしくなれますように」と願い、小さな努力を惜しま
ずにがんばれば、いつか必ず、[これが私の天職だ!こというものにつくことができる。
 そして、「自分が天に雇われている」という自覚が強まれば強まるほど、食べていくこと
や生活もより保証されていくだろう。なぜなら、天があなたの自覚にあわせて給料(お金と
はかぎらない)を必要な分だけ与えてくれるからである。
 安心してほしい。地上の会社とちかつて、天には「倒産」などないから。
 あなたが「天職」につくとき、それは、あなたが自分の役目に気づくときである。

私の中に仏が 佐藤 勝彦文。

2005年08月18日 | Weblog
 自分の中にある仏と語ってることが。人生の一大切なことのように思えま
す。何を為すかということよりも、この今、この今をどう昧わうか。どう見つめるか
という、この一瞬のでき事が、そりやあもう、一大事だということになります。仏と
いうものを見つめるということは、今、この一刻をどう見つめるかということです。
この一瞬のかがやきを、どう受けとめるかということです。自分がもう、仏と一体と
なって、光となっていることを自覚することです。そうなると、それは神仏であり、
己れが宇宙であり、己れが時であり、全て、一体のなかに、大宇宙と語りあっている
状態となります。そのまま三昧に入ってしまって、そのまま宇宙人となってしまって
いる状態です。でも、こんな気分になれるのも、人間だからでしょうか。

暑中お見舞い

2005年07月21日 | Weblog
豊かになった心を、私は″こころ″と呼びます。このこころが、実は人間の本心本性といわ
れる″純粋な人間性″そのものです。このこころに立ち還るとは、換言すれば、私たちが、それ
ぞれ、自分の中にいるもう一人の自分に出会えるときです。このとき、自我の無限の欲望を、″足
ることを知る″深い願望に昇華できるのです。自分が自分に出会い、自分が自分を正しく見られ
るのが、とくにのぞましい「正見」です。それが正定で得られるのです。
 私たちが、自分を高めるために歩む道が、「正見」から始まって「正定」に達し、こんどは正
定を基点として再び正見へと歩み、新しいハ正道の旅を無限につづけるのです。このよき輪廻を
幾たびも経廻れと、釈尊は教えるのです。

 松原 泰道さんぶん