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釜山‘旧都心ストーリーツアー’①カンカンイって何?

2015-09-25 | 観光スポット

‘イヤギハルベ・ハルメ’語り部シニアボランティアと歩く

釜山旧都心

ストーリーツアー

 

影島橋を渡ってカンカンイキルを歩く

01影島橋-02修理造船所キル-03大平洞-04影島渡船場-05龍神堂-06紅灯台

 

‘イヤギハルベ・ハルメ’

語り部シニアボランティアと歩く

釜山旧都心ストーリーツアーとは??

釜山旧都心(中区、西区、東区、影島区)地域に散在している

近代歴史文化資源と釜山名物の食べもの、名所、

ショッピングを連携した観光コースです。

 

この地域で青春を過ごした旧都市ストーリーテーラー

‘イヤギハルベ・ハルメ’が「あなたを誰より愛している」という

花言葉を持つツバキの花をつけて、旧都心を訪問する

観光客にたくさんの話を語ってくれるでしょう。

 

釜山の旧都心で

家族と、友人と、そして恋人と、

忘れかけた昔話を聞きながら

新しい発見、思い出を作ってみてください。

 

 

影島橋を渡って‘カンカンイキル’を歩く

 

01影島大橋-02修理造船所キル-03テピョン洞一帯-04影島渡船場-05龍神堂-06紅灯台

 

コース:影島橋(跳開)-修理造船通り(カンカンイ通り)-龍神堂‐紅灯台-xスポーツ公園

水産物や船舶修理の関連会社が密集している南港は、影島橋を境に北港と分かれいて、港町らしい釜山の人々の働く姿を実感するような場だ。そして、韓国戦争(6.25戦争)時、避難民が生計を立てるため、獲った魚を売っていたチャガルチ市場や干物市場があり、造船産業が最初に始まったところでもある。また、各種沿岸、近海、遠洋漁船の集結地であり、海上交通の中心港、韓国最大の水産基地など国家的にも重要な役割を担ってきた。特に、南港には国内最大の海産物委販場や全国の冷凍加工会社の64%以上が集まり、近くに海産物関連業に携わっている人が多い。このように旧都心と呼ばれる中区、西区、影島区一帯を合わせた南港は、様々な釜山の産業を直接目にすることができ、家業を引き継ぎ、海を生活の基盤として生きてきた人々のストーリーが聞けるところだ。地道に働いて、子育てをしてきた、韓国の父親、母親の姿が思い浮かぶような生活舞台だ。

 

集合場所:釜山総合観光案内所-釜山広域市中区九徳路31(南浦洞4街18-2)/051-253-8253

アクセス:釜山都市鉄道1号線南浦駅2番出口を出て、そのまま10m程進み右側

 

01影島橋

韓国が日本の統治下にあった時代に、陸地(現在の南浦洞)と島(現在の影島)をつなぐ最初の橋として釜山に建設された橋だ。南港と北港を往来する船が橋の下を通れるように跳開橋となっている。一日に少ない時は2回、多い時は7回橋を上げ下ろした。当時は、橋げたが跳ね上がる珍しい光景を見るために大勢の人々が集まり、次第に釜山の名物となっていった。6.25戦争の時には離れ離れになった家族を待つ場所となり、互いの安否が分からないもどかしい思いを橋の下の占い師たちに尋ねた、避難民の哀歓が伝わってくる場所でもある。初めは「釜山大橋」と名付けられたが、橋の老朽化により釜山大橋を新たに設置し、この橋は「影島大橋」と呼ばれるようになったが、人々には「影島橋」という名前でより親しまれている。

住所:釜山広域市影島区太宗路(大橋洞1街)

02修理造船所通り

影島にないものは全国のどこに行ってもないと言われるぐらい、多くの船舶部品会社が集まっている。船の修理には欠かせない、腐食したペンキを剥ぎ取る重労働をする‘カンカンイ’という‘お婆さん’たちが未だに存在する。ここでは海女さんと同じくらい重要な職業だ。狭い路地を歩いていると、いたるところにカラフルなドラム缶や廃棄物が置いてある。廃棄物回収業者や部品会社、造船所の看板が入り混じった、独特な光景がこの場所の特徴だ。影島・南浦洞・チャガルチを往来していた渡船場や影島橋を建設する際に犠牲になった人々の魂を祀る龍神堂が、影島が島であるということを証明しているかの如く残されている。

住所:釜山広域市影島区大平路

造船所発祥地

影島は韓国の造船工業の発祥地であり、海運立国の母体であり中心でもある。1887年、韓国初の近代式木船造船所である田中造船所が大平洞待風浦の一帯に建てられた。田中造船所の設立以降、待風浦と大平北路の道には大小の造船所や修理造船所などが約60ヶ所あった。代表的なものに、中村造船所や中本造船所などがある。日帝侵略期であったため、他律的な開港による近代化ではあったが、由緒ある場所でもある。新羅海上王の張保皐、高麗の崔茂宣、朝鮮の李舜臣に至る造船の伝統が、影島で花を咲かせたわけだ。田中造船所が建てられてから50年となる1973年には、国内初の鉄鋼造船所である朝鮮重工業(大韓造船公社→現 韓進重工業)が日本人により建設され、影島は自他問わず韓国の造船産業の中心になった。田中造船所は解放後、大洋造船、旧日造船、南洋造船、ユジン、S&Kラインと名前を変えながら近代の歴史を今に伝えている。

04影島渡船場

現在は運航していないが、数年前まで影島の船着場からチャガルチ市場まで、渡し船が出ていた。船は1910年頃、セミディーゼル動力船に変わり、「トントン」という音がすることから、「トントン船」と呼ばれるようになった。このトントン船は1934年、影島大橋ができるまで、影島と現在の南浦洞をつなぐ雄一の交通手段であった。1987年、船は当時の最新船舶に変えられ、「トントン」という思い出のエンジン音はなかなか聞くことができなくなった。それは決して速い船ではなかったが、直線距離で運航するため、陸路で約15分かかるところが船では4分で移動できた。渡し船は日の出の30分前から日没30分後まで運航していたが、日の出や日没を基準にしたのは海上交通安全法に従ったものとされている。

05龍神堂

影島橋の開通時は、近くの海が埋め立てられ、日本式名で汐見町と呼ばれた。南港洞には日本人が多く暮らしており、漁業基地や水産関係の機関が集まっていた。影島区南港洞の旧水産振興院の後ろには、日帝時代に建てられたと見られる龍神堂がある。この龍神堂は、影島橋の土木工事の際に亡くなった魂を慰めるために建てられたと伝えられている。影島橋の開通後、人の泣き声が毎晩のように人気のない影島側の橋詰から聞こえ、幽霊が出るという噂が広まっていた。人々は、影島橋の架設工事の際に亡くなった人々の霊が事故現場である橋詰に彷徨っており、その霊を慰めるには慰霊祭をすべきだという世論が高まった。そこで当時の影島住民は、浜に急いで「龍神堂」を建て、祭祀を執り行うようになった。


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