西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

中年派遣員奮闘記(その22)

2016-01-12 | 奮闘記

NO.22[サピナ村の人々]

サピナ村は、ナオリ州の州都POから7キロほど西に行ったところにある人口1500人程の村で、周りは小高い丘に囲まれワガドゥグ周辺の平坦な風景とは少し違い日本人の私には何と無く親しみが湧く風景です。

人々は皆穏やかで、私が訪れるとまず子供が寄ってきます「ナサラ、ナサラ(白人の意)」と言いながら珍しいものでも見たか様に少し遠巻きに私を見ています。此処には私のような外国人は訪れることはないようです。中には恐ろしいのか泣き出す子供もいたりして、暫くすると好奇心旺盛の子供が近づいてきて握手をすると他の子供も安心したのか恐る恐る近寄ってきます。

皆と握手をして「私は日本人でイイダといいます。」ふと、この村には学校がなくフランス語は話すことは出来ないことを思い出し、自分を指差して「IIDA,JAPONE」「IIDA,JAPONE」と何とか子供たちに気に入ってもらおうとカメラを取り出して見ると子供たちは写真を撮られることが好きらしく、大騒ぎで集まってきます。他の方向にレンズを向けると又そこに集まるので面白くなり、写すマネをしていろいろな所に移動をして子供たちと戯れていますと、アリラが大声でなにやら一言云うと子供たちはすごすごと戻っていきました。

アリラが村のシェフ(酋長)を紹介したいから一緒に来てくれ、というのでシェフの家に向かいながら何と無く、これからこの村で私はこの村の人々に迎え入れてもらえるかどうか、言葉もあまり解らないでこの村の人々とうまくやっていけるのか不安が募ります。

シェフの家は全体が土で造られたグリシー族特有の曲線的な造りで大きな囲いの中に幾つもの家があり、そこで数家族が暮らしているようです。門の外に細い木で作られた椅子があり少し緊張した面持ちでそこで待っていますと、赤い帽子をかぶった60歳くらいのいかにも酋長と思しき身なりの人物が数人の人と共に近づいてきました。私はアリラに促され椅子から立ち上がり酋長が椅子に座るとアリラがしているように前にひざまずき、握手をしながらひたすら笑顔を作りアリラが私をカセナ語で紹介してくれているのを聞いていました。

ブルキナファソでは各国の援助で診療所や学校や井戸などの建設そのほか稲作や野菜の栽培など色々なプロジェクトが行われていますが、私どものようなNGOは政府の機関を通してプロジェクトを行うより直接村に行き村の人々の合意を持って行うことも多く、その村のシェフの動向で全てが決まります。

通常はその村の出身で行政や主な役職についている人に間に入ってもらい便宜を図ってもらうことが多いのですが、なかなか村の実情を知ることが難しいことと、その人への報酬や設備なども割高になることも多く効果的な実績を果たすには自分自身直接村の人と話をして村の実態を把握し直接自分で依頼し、結果を確認する必要があります。

そのようなことで、果たしてこれから新米の私が現地駐在員としての責務を遂行できるか、とても自信がありませんが気持ちの何処かにどうせ乗りかかった船だ、精一杯頑張ってダメなら諦めがつくという開き直りも同居していました。

一通りアリラが私とこれからの事業のことをシェフに説明した後、村の人達20人位と話し合いが持たれました。私の目的はこの村に稲と井戸を作ること、稲の種類はNERICAという新しい品種でこれからこの村に普及させ食事を栄養のないミレット(粟)から栄養のある米に替えていくことが必要。と同時に販売をして生活の向上に役立てたい。それから診療所の建設も行い村に人達が今まで病気で苦しんでいる状況をなくし、小学校を作り子供たちが公用語のフランス語を話せて読み書きが出来るよう、そして将来は日本と交流を盛んにし日本の人が沢山訪れる村にしたい。それらの事を代表のアリラを介して人々に説明しました。始めは見知らぬ日本人が一人で旅行にでも来たと思ったのか何と無く余所余所しく振舞っていた村人がだんだん身を乗り出し興味を起して来るのを感じました。

ブルキナファソの初等教育就学率は39.5%、中等教育就学率は8%、15歳以上の識字率は26.6%と低く、村落にいたっては5%未満の識字率です。此処サピナ村も近くの小学校までは10キロの道を歩いて行かなければならず小さい子供に毎日の通学はかなりの道程で、もし村に学校が出来たとしてもそこに赴任する教員の宿舎や生活の負担、教材の購入などを各家庭で授業料として払える余裕もありません。又、医療においてはブルキナファソでは5歳未満の乳児死亡率は16%、村落では30~50%と高い数値になります。

私はサピナ村の人々を見るにつれ、この様な過酷な生活環境の中でこの人達の描く未来はなんだろう、子供たちの夢はなんだろう、私のように日本の豊かな環境で育って来た者とは違って彼らは村の生活をどの様に思っているのだろう、先進国への憧れはあるのか、でもどんなに努力をしたところで今のこの村の状況ではそこに行く事は不可能で大半が村で一生を過ごすことになります。果たしてそれが不幸なのか、それとも知らない方が幸せなのか、たとえ今の日本の生活状況を知ったとしても彼達にはどうすることも出来ない。私の思いは複雑になると同時に何処となく虚しさも覚えました。


次回をお楽しみに・・・・



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