実家を解体するという作業を正直子世代の私達でするとは思わなかった。
いろいろな思いが錯綜する。
明治・大正・昭和・平成
新しいところから車庫・古い物置を壊して設置した物置の解体。
物置は新しいから売るのかもしれない。
。。。。。
東北の親類は何かにつけてものを送り付けるのが好きだった。
実家が誰かの入学式などにお祝いを数万円単位で送る「届いたかな」
そんな1か月を過ぎても何のおとさたもなく・・・
両親が私に不安をうったえる。
当時は今現在は絶縁状態のいとこ姉に連絡するのが私の役目だった。
メールのほうが確認しやすかったから。
何かにつけて謝るということをいとこ姉は知らなかった。
いきなり言葉の変わりに物を送り付けてきた。
このいとこ・・・震災後から数年経過した時に米送ってそうたのまれた・・・お金ないんだ・・・後から米米詐欺だったと知る。
米を送り続けた私は馬鹿だな。
カードを使いすぎて旦那に止められたらしい。
たぶん東北には行きたくはない・・・もう行かなくていいはず。
でも。
家を壊す段階になって
「あれとこれは高価なものだから調べて持って行ってね」
いやいや弟のマンションにも我が家にも全く必要のないものであった。
古物商にも全く相手にされなかった。
はぁ。ヒョウタンの形の箸置き。翡翠の亀。銀座の和光の銀のさら。
夫の捨ててしまえ・・・にもめげず行ってきましたとも。
「なんでも買います」ってとこ。
弟も笑った。
これ3点で400円でした。
どうしよう400円だったよとも言えず失礼している。
向こうから何か言われたら告白すると思う。
箱に入っていてサラの状態だったけど400円だった。
母はこれらのものが送られてくると「ものはいらない」
「勘弁してほしい」そう愚痴った。
「下さい」というのは自分から。
義理がからまないものを好んだろう。
矛盾しているけれど母なりのポリシーがあった。
近年東北からの頂きものは開けてもいなかったのだ。
何かがきたら母はお礼の手紙と米券を1万円分送っていた。
切ないな。
もの片付けと人の口は切なかった。
うもすもなく捨てた物の代表。こけしたくさん。
なんで大きなこけしが時折に送られてくるのだろう。
でっかいのがごろごろ。頭を殴れば死に至りそうな大きさのこけしも市の燃えるゴミに持ち込んだ。
ごめんなさい。こけしさんには罪はない。
作家さんも精魂こめて作ったのだろう。
一番困っただろうなと思われたものは東北の身内の行事におけるアルバムだった。
廃棄するのがとても苦痛だった・・・・・
弟がぐるぐるのワイヤーを紙と金属にわけていた。
1年に2冊くらい送られてきていた。
どんな思いで両親は受け取ったのだろう。
開封した様子もなかった。
。。。。。
母がアルツハイマーだと診断受けた日に私は一番に東北の電話を着信拒否とした。
母の混乱を防ぎたかった。
いろんな意味でこれ以上母に負担をかけたくなかった。
親類からは電話の異変にすぐに私のところに連絡があった。
両親をそっとしておいてほしい。
そうとだけ告げた。
何度も何度もかかってきた。
ただ解っている人々には理由は一目瞭然だったと思う。
いとこ弟には正直な思いは告げた。
。。。。。
実家で高値で売れた物。
昔の顕微鏡。
祖父早稲田大学の何かの賞でもらった古時計。
リアルな鳥の置物。のりたけ?
翡翠の馬。
母の手鏡。これにはびっくりした。壊れていて裏は布がでてるのに。
組み椅子。
ルパン三世の灰皿。
「なんで捨てちゃったんですか」と怒られたもの。
サーベル。軍服。鉄瓶。水差し。兵隊さんの水筒。ヘルメット。ぼろぼろの懐中時計。
あとはなんだっけなあ。
いろいろ古物としての価値はそれなりにあったようです。
さてそれは自宅を解体する資金の一部に変身します。
。。。。。
私だって寂しい。
私が生まれ育った家(生まれたのは病院だけど)
叔母1が嫁に行った。母が死んだ。ポチがきた。新しい母が来た。弟が生まれた。叔母3が嫁に行った。ポチが死んだ。祖父が死んだ。
小動物はハムスターとかいんことか何かしら生命を預かり笑いと涙を繰り返した。
幼稚園・小学校・中学校・高校・大学2階に住んだ。
母亡きあとから自分の洗濯は自分でした。
今の母にもされるのがいやだった。
タバコも吸った。
布団も焦がした。
いろいろな思い出がある。
友達もたくさん来た。
彼氏も来た。
懐かしいなあ。
男女問わず来やすい部屋だったのだと思う。
広かったし弟はとてもかわいくて人気者だった。
。。。。。
あと数日でユンボでがっちゃん。更地になる。
お父さんいろいろ思うことはあるだろう。
でも姉弟頑張りましたよ。
我が家代々の歴史にもふれて姉弟といろいろ話をして。
結局のところ戦争の爆弾を作ってもうけたの・・・・・よね。
だから天皇陛下も遊びにきたし(この言い方は過去のことだからこそなのかな)
そんな写真もみたよ。
でも捨てたよ。
戦争でもうけたお金は結局続かなかった。
敗戦とともに終わったでしょう。
そしてそれから立て直したのが祖父。
人手に渡したのが父の代。
根本が戦争なんだからもう終わりにしよう。
完全に幕をひこう。
。。。。。
農家からとついた実の母は農家だからと馬鹿にされた。
でもね。私に残した土地は資金繰りに使われていたよね。
農家は鉄工業よりまさるんだよ。
母をいじめた祖母・叔母達はもうすでに罰を受けていることだろうと思う。
主婦として私の目標の一人で本当に料理も裁縫も最高だった。
亡き母の日記はエッセーのようで新聞にもいろいろ投稿していたようだ。
また病床で点字に打ち込む姿も印象的だ。
それにくらべ私はやんちゃな人生を送っているよ。
。。。。。
商家から嫁いできた今の母はお金持ちだった。
たぶんだけど400坪あまりの我が家の土地が自分のものだと思って母を嫁がせたのだろう。
やはり資金繰りに困り母の実家にお金のむしんした。
ごめんね。特に今のおかあさん。私もいて苦労したよね。
ありがと。おかあさん華道・茶堂・ドレメ・料理パーフェクトだった。
ちょっとしたバックだってちょいちょいのちょい。
服なんておちゃのこさいさい。
師範だったみたいね。
そうだったのか。
どうりでね。
かんばん?のようなものもありそれは弟が預かる形で持って行った。
弟が持って行ってくれたもの。
母のたんす2竿。
中は着物類。
仏壇。でかいよな。
ありがとね。
。。。。。。
いろいろ。いろいろ。
誰を責めるというのではないけれど大変でした。
空っぽになった家は手をいれれば使えそう。
でも20数年前のリフォーム時に父が手直ししなかった土台はぼろぼろ。
水があがり1階は黒カビに汚染されていた。
ただ広いなあ。
ほんと。
庭も家も広い。
いい機会に解体して弟は自立というか両親から解放された。
弟が北大合格をけって本州に住んだ気持ちが今ならよくわかる。
両親を今までささえてくれてありがとう。弟よ。
そして私たちの生活を見守ってくれた家よありがとう。
私も大学卒業してから家をでて東京に住んだり地元でマンションに住んだりしたけれどそれは逃げだった。
古いしきたりから逃れたかった。
ただね。
一番逃れたかったのは父なのかもしれないなと思う。
一流企業のサラリーマンとして働いていたら人生変わっていたと思う。
しがない鉄工所をつがなければならなかった父・・・・・本家の重みは父の代で切ります。
だから本家はもうどこにもないです。
父は学者になりたかったんだよね。
だから今自分の身体を機械にみたてて研究してるのかな・・・・・・
発熱続行中。
食欲あり。
生への執着は本当にすごいと思うよ。