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ゆるりとよいしょ♪

ぶぶを看取ってべいを看取って・・・想定外にレッボーべべこと暮らすことに・・・おてんば娘は今日も元気💪

もし私が父だったら。

2015年07月17日 | 実家

快復してくれるかな。

完全に判らなくもなくて母の認知症とは違って広い意味でのパーキンソン症候群。

身体がかたむいて行く原因にもたどりつけなかった父だ。

べいが闘病中のある時までは倒れかけながらも歩行が可能だった。

下剤の乱用を辞めてくれなくて下(しも)のコントロールは現在のほうが良いだろう。

神様みたいなドクターに「人として終わっている」と言われたのはいつだっただろう。

ブログに記載したことがあったとは思う。

ぶぶが旅立った年から急降下しだした。

家を解体するということ。

母と離れ離れになるということ。

辛いことばかりだろう。

気力なんて私ならでない。

父は本当に生きることに貪欲だった。

だが。今を乗り越えることができるか・・・・・・・・・・・

娘として両局面の気持ちを正直もっている。

中途半端は辛かろう・・・・・・・・・

もし特養にもどれるまで快復したら私は妙に尊敬するかもしれない。

人間の底力を見せてくれ。

遠い・・・・・病院まで遠いがそういう病院が集まっている地区。

いいよ。頑張るから。

食べれるようになろうね・・・・・・


父入院・・・はぁ。。。。。

2015年07月15日 | 実家

父が入院した。

空っぽの実家を見せてから体調が悪くなった。

子供の知恵熱のような感じの要素もあるのだろう。

実際にそれがきっかけかもしれない。

肺炎胸水が溜まっている。

本人は「なんだが普通とは違う」という感覚だけ。

全く寝たきりではないのでこれがきっかけで・・・

それもありかもしれない。

救急搬送された当日は「あっ!この顔」そう「死」がちらついた。

だがそんなやわでは無かった。

点滴はずしにいそしんで「だまらせてやろうか」父に対してそんな衝動をかきたてられる。

母のところへは行きたくなく行けてない。

父の入院先はそれはそれはここから遠い。

市内まさにはじとはじ。

でも良き「老人病院」きれいである・・・

陰気臭い感じはみじんもない。

個室も無料でほっ・・・・・・・・・・・・・

特養料金は家賃と同じで払い続けての入院になるのでごくりと慎重になる場面。

とにもかくにも落ち着いて欲しい・・・・・

。。。。。

娘(獣)はまもなく幼稚園を卒業する。

骨格のことを考慮し1年を経過しないと本格的ジャンプなどを含むアジリティーはできない。

私の膝のこと父のこと。

獣娘の避妊のこと。

いろいろな迷いの中にいる。

ここにきてべべこしっぽかじりが始まる。

いやいつから始まっていたのか・・・

身のぎりぎりまで噛み切っている。

対処しないと。

逆に幼稚園もストレスという可能性もあるだろうし。

身を噛むなよ・・・・・・・・・・・・・


泣ける時。終わる時。始まる時。

2015年07月09日 | 実家

姉と弟に残された最後の最後の断捨離はアルバムだった・・・私たちの記憶にあるあれこれの時代にさしかかる。

明治・大正などはすでに処理済み。

あっと思ったものは仏壇にチョイスはした。

今の母がきて弟が産まれてからの時代のものは私自身判断がつけられなく弟の見切り能力をかりる。

弟自らの私からした「えっーそれも断捨離?」の選択に一部は我が家に持ち込んできた。

なかなか泣けますね。

幸せそうに写っていますよ。

私が知らない弟と両親の世界とか。

両親だけの世界とか。

あとはただの庭の画像。

四季折々本当に美しかった。

今は「すぎな」に占領されてしまったが。

そんな家は小学生の写生会で画板を持った姿がよくみられた。

。。。。。

白黒写真もたくさんあった。

小さな手にスコップをもってポチの横で雪かきしてる弟とか。

捨てられないもっと見ていたい。

きっと息子みたいなもんなのかな。

8歳下の弟。

今回は特に頼りになったなあ。

これからもよろしくね。

父が拘ったたくさんの8ミリやスライドには私の実母がきっとでてきます。

弟の時代には父は自分の趣味であったカメラ関係に手をつける暇が無かったはずだから。

それを皆で懐かしく鑑賞しようとは今の母がきてからみることなど私はできなかったよ。

8ミリは一応我が家の納戸のすみに積んである。

CDにいつか整理できればと思っている。

。。。。。。

ぼちぼちいろんな方々にお知らせもしている。

説明がやっかいだ。

なんせ電話が無くなりますからね。

明日をもって「現在使われてません」に変わっちゃう。

ふーっ。

文字通り家族がばらばらになりました。

それが死とかでないのは良いことなのでしょうか。

脳の不都合をかかえてしまった両親。

終わりが見えない世界に突入しました。

。。。。。

実家。当たり前にあった場所。

結婚してからは数えるほどしか行って無かったと思う。

泊ったことは一度も無かった。

べいが旅立ってからほぼ毎日通った。

母の異変にもう少し早く気づければ何かは変えられたのか。

母は私が夫婦の世界に立ちいられるのを嫌った事実だった。

でも私の?はあたり両親の世界が崩壊していた。

受け入れる。受け入れなければならないことが母の脳内から消えかかっていた。

最初は疲労?鬱?

言葉にせずに見守りました。

声を大にしたのは父をささえてくれたスタッフだった。

「お母さまは普通ではないかもしれない」を「アルツハイマーの可能性が大きい」

私の?と合致していた。

。。。。。

両親をここ・・・我が家に住まわせることももちろん考えました。

幸いケアマネさんに大反対されました。

。。。。。

いろいろがあって現在がある。

。。。。。

弟は富士山登頂とか両親にとって思い出深いと思われるアルバムは持って行ってくれました。

あとは弟の幼少期のもの。

青春時代はなぜか処分の山にあったから私がこっそり一部持ち帰る。

。。。。。

両親のどちらかの死でピリオドを打つと思っていた実家の終幕。

ばらばらになった生を受け止めるのが長女の役目だと思ってそろりそろりと頑張って行こう。

。。。。。

鉄工業だったから庭には池も噴水もあって鉄のアーチ型の柵のようなものがあちこちにありツル薔薇がみごとだった。

今は公園などであたりまえにみかける。

当時はめずらしかった。

庭のいろんな不思議がきっかけで本当に理科の先生になった私の同級生がいる。

教頭?校長?になったらしい。

年賀状に何かしら記載されていたような気がする。

同窓会で会った時にあの庭と出会わなければ理科に興味はわかなかったと言ってくれた。

懐かしいな。閉じると思うから懐かしい。

いろいろな引っ越しへの書類関係がなかなか進められない。

父の体調はよくなく本日受診。

いろいろ。

母のところへは行く暇と気力がない。

膝痛いなあ・・・・・・・

最後の注射は一応終わり。

べべこと遊ぶまで回復させたいのだが。

水平断裂している半月板がひっかかる時に痛む。

せつなく痛む。

ただ。べべこがいて良かったとは思う。

夫の相手をべべこがして笑わせてくれるから。

ぶぶともべいとも違う。

ある方に言われた。

べべこが噛んでどうしようもない時ヒーリングをしてもらったの。

まだ2か月だからちゃんとはできないと言われたけれど。

「この子は与えるためにここにいる」って。

「えっ~~~~~~~~~~~~~」

だったけれど少しは思ってるよ。

外に連れ出してくれる。

膝を直さないとと思わせる。

家の中の余計な部分を許さない・・・・・・

なんというか私のミスを許さないから家がきれいになる。

実家から学んだこともあり「断捨離」できてます・・・・・・・

うん。いろんな整理もまだまだ残っているけれど。

「使わないもの愛着のないもの。義理でそこにあるもの。」

ありがとうと声をかえて断捨離している・・・・・・・・・

ぬいぐるみ類は飾ってあったものは見事にべべこが・・・・・・

そう。私はあの広い庭でそだったからこそ苦手なものがある。

虫・・・・・・・・・特に蝶・・・・・だから蝶とかリボンとかも含めて実はひじょうに苦手である。

蝶とか虫とか鳥とか・・・・・・そんなモチーフの置物とか食器とかハンカチ・タオル・・・

ありがとしました。

苦手な「物」を自分の空間においておく必要性はやっぱりないから。

実家を片付けて心底思い知りました。

いらないなあと迷っていたらべべこが壊してくれたりね。

そんなこんな。

ただ実家を崩す瞬間は見れないような気がするな。

実家のまわりにはまだまだ私を名前で呼んでくれる方々がいる。

懐かしい話に花が咲く。

「懐かしき 花(話)咲きこぼれ スギナ超え」 


まずは車庫&新物置の解体から

2015年07月02日 | 実家

 

実家を解体するという作業を正直子世代の私達でするとは思わなかった。

いろいろな思いが錯綜する。

明治・大正・昭和・平成

新しいところから車庫・古い物置を壊して設置した物置の解体。

物置は新しいから売るのかもしれない。

。。。。。

東北の親類は何かにつけてものを送り付けるのが好きだった。

実家が誰かの入学式などにお祝いを数万円単位で送る「届いたかな」

そんな1か月を過ぎても何のおとさたもなく・・・

両親が私に不安をうったえる。

当時は今現在は絶縁状態のいとこ姉に連絡するのが私の役目だった。

メールのほうが確認しやすかったから。

何かにつけて謝るということをいとこ姉は知らなかった。

いきなり言葉の変わりに物を送り付けてきた。

 このいとこ・・・震災後から数年経過した時に米送ってそうたのまれた・・・お金ないんだ・・・後から米米詐欺だったと知る。

米を送り続けた私は馬鹿だな。

カードを使いすぎて旦那に止められたらしい。

たぶん東北には行きたくはない・・・もう行かなくていいはず。

でも。

家を壊す段階になって

「あれとこれは高価なものだから調べて持って行ってね」

いやいや弟のマンションにも我が家にも全く必要のないものであった。

古物商にも全く相手にされなかった。

はぁ。ヒョウタンの形の箸置き。翡翠の亀。銀座の和光の銀のさら。

夫の捨ててしまえ・・・にもめげず行ってきましたとも。

「なんでも買います」ってとこ。

弟も笑った。

これ3点で400円でした。

 どうしよう400円だったよとも言えず失礼している。

 向こうから何か言われたら告白すると思う。

箱に入っていてサラの状態だったけど400円だった。

母はこれらのものが送られてくると「ものはいらない」

「勘弁してほしい」そう愚痴った。

「下さい」というのは自分から。

義理がからまないものを好んだろう。

矛盾しているけれど母なりのポリシーがあった。

近年東北からの頂きものは開けてもいなかったのだ。

何かがきたら母はお礼の手紙と米券を1万円分送っていた。

切ないな。

もの片付けと人の口は切なかった。

うもすもなく捨てた物の代表。こけしたくさん。

なんで大きなこけしが時折に送られてくるのだろう。

でっかいのがごろごろ。頭を殴れば死に至りそうな大きさのこけしも市の燃えるゴミに持ち込んだ。

ごめんなさい。こけしさんには罪はない。

作家さんも精魂こめて作ったのだろう。

一番困っただろうなと思われたものは東北の身内の行事におけるアルバムだった。

廃棄するのがとても苦痛だった・・・・・

弟がぐるぐるのワイヤーを紙と金属にわけていた。

1年に2冊くらい送られてきていた。

どんな思いで両親は受け取ったのだろう。

開封した様子もなかった。

。。。。。

母がアルツハイマーだと診断受けた日に私は一番に東北の電話を着信拒否とした。

母の混乱を防ぎたかった。

いろんな意味でこれ以上母に負担をかけたくなかった。

親類からは電話の異変にすぐに私のところに連絡があった。

両親をそっとしておいてほしい。

そうとだけ告げた。

何度も何度もかかってきた。

ただ解っている人々には理由は一目瞭然だったと思う。

いとこ弟には正直な思いは告げた。

。。。。。

実家で高値で売れた物。

昔の顕微鏡。

祖父早稲田大学の何かの賞でもらった古時計。

リアルな鳥の置物。のりたけ?

翡翠の馬。

母の手鏡。これにはびっくりした。壊れていて裏は布がでてるのに。

組み椅子。

ルパン三世の灰皿。

「なんで捨てちゃったんですか」と怒られたもの。

サーベル。軍服。鉄瓶。水差し。兵隊さんの水筒。ヘルメット。ぼろぼろの懐中時計。

あとはなんだっけなあ。

いろいろ古物としての価値はそれなりにあったようです。

さてそれは自宅を解体する資金の一部に変身します。

。。。。。

私だって寂しい。

私が生まれ育った家(生まれたのは病院だけど)

叔母1が嫁に行った。母が死んだ。ポチがきた。新しい母が来た。弟が生まれた。叔母3が嫁に行った。ポチが死んだ。祖父が死んだ。

小動物はハムスターとかいんことか何かしら生命を預かり笑いと涙を繰り返した。

幼稚園・小学校・中学校・高校・大学2階に住んだ。

母亡きあとから自分の洗濯は自分でした。

今の母にもされるのがいやだった。

タバコも吸った。

布団も焦がした。

いろいろな思い出がある。

友達もたくさん来た。

彼氏も来た。

懐かしいなあ。

男女問わず来やすい部屋だったのだと思う。

広かったし弟はとてもかわいくて人気者だった。

。。。。。

あと数日でユンボでがっちゃん。更地になる。

お父さんいろいろ思うことはあるだろう。

でも姉弟頑張りましたよ。

我が家代々の歴史にもふれて姉弟といろいろ話をして。

結局のところ戦争の爆弾を作ってもうけたの・・・・・よね。

だから天皇陛下も遊びにきたし(この言い方は過去のことだからこそなのかな)

そんな写真もみたよ。

でも捨てたよ。

戦争でもうけたお金は結局続かなかった。

敗戦とともに終わったでしょう。

そしてそれから立て直したのが祖父。

人手に渡したのが父の代。

根本が戦争なんだからもう終わりにしよう。

完全に幕をひこう。

。。。。。

農家からとついた実の母は農家だからと馬鹿にされた。

でもね。私に残した土地は資金繰りに使われていたよね。

農家は鉄工業よりまさるんだよ。

母をいじめた祖母・叔母達はもうすでに罰を受けていることだろうと思う。

主婦として私の目標の一人で本当に料理も裁縫も最高だった。

亡き母の日記はエッセーのようで新聞にもいろいろ投稿していたようだ。

また病床で点字に打ち込む姿も印象的だ。

それにくらべ私はやんちゃな人生を送っているよ。

。。。。。

商家から嫁いできた今の母はお金持ちだった。

たぶんだけど400坪あまりの我が家の土地が自分のものだと思って母を嫁がせたのだろう。

やはり資金繰りに困り母の実家にお金のむしんした。

ごめんね。特に今のおかあさん。私もいて苦労したよね。

ありがと。おかあさん華道・茶堂・ドレメ・料理パーフェクトだった。

ちょっとしたバックだってちょいちょいのちょい。

服なんておちゃのこさいさい。

師範だったみたいね。

そうだったのか。

どうりでね。

かんばん?のようなものもありそれは弟が預かる形で持って行った。

弟が持って行ってくれたもの。

母のたんす2竿。

中は着物類。

仏壇。でかいよな。

ありがとね。

。。。。。。

いろいろ。いろいろ。

誰を責めるというのではないけれど大変でした。

空っぽになった家は手をいれれば使えそう。

でも20数年前のリフォーム時に父が手直ししなかった土台はぼろぼろ。

水があがり1階は黒カビに汚染されていた。

ただ広いなあ。

ほんと。

庭も家も広い。

いい機会に解体して弟は自立というか両親から解放された。

弟が北大合格をけって本州に住んだ気持ちが今ならよくわかる。

両親を今までささえてくれてありがとう。弟よ。

そして私たちの生活を見守ってくれた家よありがとう。

私も大学卒業してから家をでて東京に住んだり地元でマンションに住んだりしたけれどそれは逃げだった。

古いしきたりから逃れたかった。

ただね。

一番逃れたかったのは父なのかもしれないなと思う。

一流企業のサラリーマンとして働いていたら人生変わっていたと思う。

しがない鉄工所をつがなければならなかった父・・・・・本家の重みは父の代で切ります。

だから本家はもうどこにもないです。

父は学者になりたかったんだよね。

だから今自分の身体を機械にみたてて研究してるのかな・・・・・・

発熱続行中。

食欲あり。

生への執着は本当にすごいと思うよ。


実家での再会・・・ありがとうの日・・・あいかわらずな母に笑ったりもね。

2015年06月29日 | 実家

両親を空っぽになった実家にそれぞれの施設から集合させた。

父は介護タクシーで。

母は私が車で迎えに行く。

弟は実家待機。

水・ガス・水道・電気・電話などすでに止めてある。

弟は鍵を開けて待機していてくれた。

母と私が到着。

母が久しぶりに自宅を見る。

おっと。

空っぽの家の壁にマジックがぶら下がっていた。

仏壇の横に細長いカレンダーがぶら下がっていた。

見逃さない母。

「下さい」

思わず「だからお母さんの家はゴミがふえるんだよ」そう言葉にした。

気にする様子はなく小さくたたんでポケットにいれた。

ほんと。ですから。ゴミにうもれる実家が出来上がったのよ・・・・・

テレビにでてくるような足のふみばのないゴミ屋敷ではないがとにかくしまえるところにゴミがつまっていた感じ。

もうそれも終わった。

介護タクシー到着。

本日貸し切りにしてもらった。

予定は2時間。

まずは空になった住み慣れた家とさよならの儀式。

一応塩をもって行った。

両親にはおそろいの服を着せてもらうようにそれぞれの施設に頼んであった。

私が印象深い上着ね。

仏壇のところから塩をまいてゆく。

正しい作法とかそんなのは知らない。

母が「何て言ってまくの?」

「鬼は外」って言いそう・・・・・・・。

「ありがとう」って言えばいいんじゃないかなと答えた。

そうだね。そう言って「ありがとう。ありがとう~」

そういいながら塩をまいて行く。

神棚のあった場所とかにもね。

2階は私が次回まいて来ようと思う。

実家で4人で家族写真を介護タクシーの運転手さんにとってもらう。

このさいだ~父に母のグループホームを見学させる。

といってもとんちんかんな二人である。

明日には忘れているだろうが。

それと仏壇をもって行ってくれた弟のマンションにも立ち寄る。

猫2匹は母のことを慕わなかった。

父を送り母を送り弟はゴミ処理などをする。

帰路携帯が鳴る。

父のところから。38度7分の発熱。

お疲れ様。

父をよろしく・・・・・・・・・そんな今日の日。

 


父の日のこと・・・遅ればせながら・・・

2006年06月23日 | 実家


あえて父の日というわけでもなく地方からきた父の弟夫婦をかこみ実家関係が集まりホテルで会食をした。

夫婦で実家の両親に会うのは久しぶり。

昨年来めっきり体調を崩し気持ちも弱っていた父だったが幾分顔色が回復したようにも感じた。

2ヶ月半前にはまだ黒かった眉毛が真っ白になっていてびっくりだった。

でもどさくさにまぎれて祝った「父の日」の両親の笑顔が嬉しかった。

父と父をしっかりささえている母にいつも言葉にできぬ「感」と「謝」を感じている。

「いつもありがと。そしてごめんね。」

「身体と心ゆっくりね」

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