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新房総の山親爺

山歩きは人生だ!!
日本の山:2075座
房総の山:388座
高宕山:712回

続続続鎌倉道を尋ねて

2025年05月20日 | 番外
令和4年の1月から始まった、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は頼朝が、伊豆の石橋山の戦いに敗れて、房総半島の今の鋸南町竜島から房総半島の豪族を味方につけて、鎌倉を目指します。先ずは富津の百坂(百騎坂)、三百騎坂、君津の千騎坂(藪で途中で断念して横道にエスケープした)を歩いていて、今日は袖ヶ浦の万騎坂と御所覧塚を目指すことにしました。
Net情報では場所の特定は難しいなーと思っていたら、MNさんから万騎坂のある住所を教えてもらいナビで向かいます。駐車してそれらしきところに向かっていると母娘の車が出てきたのでヒアリングすると、この先が万騎坂とのことでニアピンで到着していたのです。でも、特に万騎坂の標識はなくNetの写真と同じなので確信しました。頼朝軍が一万騎になってこの坂をと通ったと言われている。
  
この電柱から左に      この石柱が左手に直ぐに           万騎坂
万騎坂を登りきると六万坪と言われる地名の広大な大地が拡がっています。北方向に進んで、耕運機運転のお爺さんに「御所覧塚」を聞くと、この辺では「お塚さん」と呼んでいると教えてくれました。
鎌倉街道に出て、こんもりとしたお饅頭の塚が目的でした。頼朝がこの塚に上がり、軍兵を閲兵したと言われている。
頼朝になったつもりで、想像を膨らませた鎌倉道だった。
 
鎌倉街道の奥にお塚さん              御所覧塚
風が強く土ぼこりが舞って目に入ってきて、帰ってから直ぐに目薬のお世話になりました。
往路は高速を使い、復路は一般道でしたが時間は変わりなく、自宅から片道35分程でした。
2025年5月20日(火)
自宅=袖ヶ浦市川原井196510:45=万騎坂=鎌倉街道=御所覧塚11:20=川原井11:55
*行動時間1;時間10分、歩行距離;5.0㎞、メンバー;ソロ


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今年になって読んだ本、第2弾

2025年05月01日 | 番外
五月の連休は、房総の山を予定していたが、4月25日より体調不良で引きこもり生活を強いられていてBlog更新も出来ないので、今年になって読んだ本で誤魔化すことにした。

05,06,07.チーム(堂場瞬一)
Ⅰ。箱根駅伝の本番出場出来なかったチームから選抜された学連チームの監督とキャップテンに任命された浦がチームをまとめて本番出場を目指し、目標を優勝と掲げて激走し、ラスト10区で浦がトップで走っていたがゴール100m手前で疲労困憊の末転倒して優勝を逃がしたが、これがチームとしての結束が出来上がる。
Ⅱ。マラソン日本記録を持ち「陸上界の至宝」といわれる山城は怪我と所属チームの解散危機で引退の瀬戸際にいた。傲慢な山城に、かつて箱根駅伝の学連選抜チームとして走った仲間がサポートを引き受ける。熱き男たちの友情、葛藤、そして手に汗を握る駅伝レースの行きえがドラマチックなり。
Ⅲ。学連チームメンバーが、世界を狙えるランナーが不調の状況を、最速の持ち主であったが、仲間とのコミニュケーションが取れなかった山城がコーチとして損得無しで記録をサポートします。
08.ヒート(堂場瞬一)
前述のチームから繋がる物語です。
世界新記録を日本で達成させるため、レースの設定・記録を狙えるレーサーの選出・ペースメーカーの選出等々のドラマとそのレースのスタートからゴールまでのドラマティックな汗握る模様には目を見張るものでした。結果は?

09.灰色の北壁(真保裕一)
・{黒部の羆}真冬の源次郎尾根に挑んだが遭難して山岳救助隊に助けられたいきさつが、自分自身が山に挑んでいるように感じて読み上げた。救助された一人が、のちにはこの救助隊に参加することになった。
★バリエーションルートに登ってた時に、あるガイドに「八つ峰に登りたい」と言ったら、「山田さんの技量では八つ峰は無理だね、源次郎尾根なら大丈夫」と言われた、曰くつきの尾根だったので、一層興味深かった。
・{灰色の北壁}世界でも屈指の岸壁(架空の山)に滑落等の怪我を乗り越えて初登頂したが、その後の登頂者の写真から疑問を抱かれて・・・その後の複雑な人間関係が興味深かった。
・{雪の慰霊碑}息子の春山での遭難死から、息子の慰霊のための山行を実行する過程の人間関係もまた興味深かった。
10.暗殺(柴田哲孝)
フイクションと謡ってはいるが完全にノンフイクションだと感じた。
元安部首相の奈良での応援演説中に射殺されたことを。統一教会、右翼、石破首相等々との関係が我々が新聞・TV放映で知っていた情報にこと細かく付加されて、特に犯行に拳銃について・・・少し嫌悪感を抱きながらどうにか読み終えた。
11.雪の炎(新田次郎)
兄が谷川岳の国境稜線を5人パーティ(男性3名、女性2名)のリーダーとして歩いたときに暴風雨で、兄が遭難死した。だが、何故兄だけだったのかと兄の死に疑問を持った妹はその真相を追求していく過程のミステリーロマンの傑作です。
12.岩の顔(新田次郎
・風が死んだ山、岩の顔、新婚旅行、しごき、黒い雪洞、虻と神様の6編からなる短編集です。新婚旅行に表銀座を選んだ二人は、新婚初夜の中札温泉から躓き、以降は雨に祟られた大天井小屋・槍ヶ岳山荘・北穂小屋と新婚初夜を迎えられずに、豪雨の中を北穂小屋から上高地に下ったが、横尾本谷橋が流されていて強引に渡ろうとしたが流されて二人共溺死。このとき二人は手を繋ぎあっていて、ようやく結ばれたようであったと。
13.先導者・赤い雪崩(新田次郎)
➀先導者;上越国境を縦走する女性四人と男性リーダーのパーティが、極限状況下で女性の虚栄心・嫉妬心を克明に描写し、遭難死に至る。
②登り詰めた岸壁…谷川岳幕岩
③蛾の山…谷川岳トマの耳
④谷川岳幽の沢
⑤白い砂地…前穂高と上高地
⑥まぼろしの雷鳥…八ヶ岳・天狗岳
⑦赤い雪崩…南アでの美人一人と若者二人
⑧嘆きの氷河…ヨーロッパアルプスの悲運のガイド
山で起こる人間ドラマと自然の厳しさが描かれている。八編から構成されている
14.憧憬のヒマラヤ(本田勝一)
京大の探検部がパキスタンの大学と合同して、西カラコルム・東ヒンズークシを踏査に参加した著者の個人的な旅行記で、隊員の困難な踏査の実情と、日本とかけ離れた環境に住む現地の素朴な人々の生活との触れあった交流が感情が描かれた、ヒューマンドキュメントである。出発点のギルキットは二回ほど訪ねていて尚更興味深く読ませてもらった。
 昔、山の行く電車の中で私が本田勝一の本を読んでいたら、山田さんの思想は右ですかと言われたことがあった。彼の思想はそうだったのだろうか?












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記憶に残る山 房総の山親爺(千葉県君津市)

2025年04月14日 | 番外
山と渓谷雑誌に毎号読者紀行があり、2025年5月号に老生の投稿記事「記憶の残る山」が掲載されました。400字詰原稿用紙8枚で投稿しましたが、原稿よりかなり削除・訂正されてスッキリしています。ブログには原稿をアップしていますので、読者紀行の掲載内容は本誌5月号を図書館等で読んでいただくと幸いです。なお他に、2022年に「山梨百名山顛末記」と「164歳の富士登山」も投稿しましたが音沙汰がなく没になったようです。

投稿原文
私の山登りスタイルは、ピトンの歌声も岩のささやきも知らなく、ただ蝸牛のごとく尾根を這いつくばってのピークハンターで、山登りを初めて61年目の2021年11月12日に平尾富士で2000座を達成でき、多くの良き山仲間に支えれてきたことに感謝です。。
2000座の第一歩は何処か問われると、恐らく小学校低学年遠足の福岡県・鞍手郡の六ケ岳(339m)だと思う。孫たちの今の遠足は電車やバスで出かけているが、当時の遠足と言えば書いて字の如く遠くまで歩いて出かけていました。
 小学校高学年になると校歌に歌われた金剛山(562m)、中学校も校歌に歌われた福知山(901m)で実家の2階からも眺められ、この二つの山は遠足以外にも弟妹や近所の餓鬼友達と、社会人になってもよく登ったものです。
山との関わりに深く滅入り込んだのはそれは成人式です。
三交代勤務の夜勤明けに眠い目をこすりながら出かけると、中学同窓の女の子二人の振袖姿が目映くありましたが、最大の印象は串田孫一さんの講和です。彼は福原プロの映画を見て知ってはいましたが、彼の話に眠気も吹っ飛んで、その中の一つに冬山での耐寒訓練として街中では「手袋は着用しない」の言葉に、はめていた手袋をそろっ~と外したことを覚えています。
その後、彼の山の本を読み漁り、彼の思考に共鳴(感化)し、少なからず私の人生観に大きく影響を及ぼし、山登りを継続するきっかけとなり、1000座目は山梨の荒倉山、1500座目は新潟の大渚山とモクモクと歩き続けてきました。目標の2000座目は富士の名前が付く山を探して平尾富士にしました
2000座を振り返って、その中で九死に一生を得たと思わせる山行が三回あります。
一つは1964年(23歳)の5月連休の大崩山です。登り始めから豪雨で下山はモチダ谷コースをとったと思います。仲間が滝つぼに落ちてキスリングが浮袋となって浮かんだり、腰上まで増水した川を横断するときには五人で腕を組んで足は川底から絶対に浮かさないようにと摺り足で渡り終えたときはホットとし、屋根のみの作業小屋の中でパンツ1枚になって飯盒を炊いている写真が1枚残っていた。
翌日、私がトップで歩いていて登山道が崩れたところに長さ3m程の三本の丸太を渡っているときに両端の二本が折れて真ん中の一本に股から落ちて、V字の岸壁を2m位真直ぐにずり落ち、無意識のうちに左の岩壁の生木を掴んで止まったが、一瞬何が起こったか判らなかった。どうして引き上げられたのかも全く記憶にない。もし、落ちていたら前日渡った川の濁流の中に飲み込まれて助からなかっただろうとぞっとする出来事で、巻道があったのを見逃していたのです。
おまけに帰路の列車の中で背中が痛痒く、ダニに喰われていて取ってもらったが足が喰い込んでいて家に戻ってお袋からピンセットで抜いてもらって赤チンを塗った。この出来事は両親には黙っていた。
大崩山には五十年後の2014年に九州の山仲間に誘われてモチダ谷コースを歩いてどのような場所だったかと記憶を呼び戻しかったが違うコースだったのは残忍だった。
二つ目は1965年、九州から三度目の北アルプス夏山計画は、私・建三君・久夫君の三人で立山三山・剣岳・真砂沢・仙人池・阿曽原・欅平のコースをテント泊でキスリングには何故かピッケルが光っていた。一日目は立山三山を越えて剣沢キャンプ場。二日目は剣岳往復。三日目は剣沢でグリセード練習、三年前の剣岳登山の時に平蔵谷でグリセードする登山者を見ていて、その恰好良さに憧れていて剣沢でグリセードの練習を織り込んで、真砂沢でテント泊。四日目で今回最大の問題が起こりました。二股の分岐に来ると三の窓の雪渓が天に伸びて三の窓が覗いています。「おい、三の窓雪渓を登ってみよう、往復二時間程度だろう」と私か建三君どちらかが言って、久夫君「俺、ここで待っているから」とのことでピッケルのみを持って二人で登り始めます。空身だがなかなか三の窓に近づかなく、予定した2時間を経過してようやく雪渓が終わりに、しかし、クレバスが大きく口を開いていて、右手の岩場をトラバース気味に登ってようやく三の窓に到着です。これからが大問題です。岩登りなんかしたこともない二人、登ってきた岩場を降ることは到底できません。クレバスを通過しない限り下れないと不安が走ります。
雪渓を降り始めに建三君がスリップ、昨日のグリセードの練習の成果かクレバスの目前でストップです。次はクレバスに架かる靴幅ほどの長さ5m位のスノーブリッジです。ブリッジが壊れれば我々は数メートル落下して大怪我するか、命拾いしても這い上がれるか疑問です。
ソロリソロリと二人とも無事渡り終えました。すると八つ峰からクライマー達の拍手が、彼らは我々を見守ってくれていたのでしょう、ピッケルを振ってありがとうのエールを返しました。山登りを初めてまだ5年くらいで、九州では雪渓には全く無縁で無知がなした業だったと反省しきりでした。
小雨も降りだし、待っている久夫君は心配しているだろうなーとグリセードで飛ばして着くと彼はいません。飯盒と缶詰と置手紙には「池の平小屋で待っています」と、雨のため今日は小屋泊りにしました。
五日目:仙人谷を下って阿曽原に向うとき、阿曽原~折尾谷間の日電歩道が崩れて通過不能ということで高熱隧道の中を1時間近く暑さを感じて通過、日電歩道ではキスリングを水平歩道の壁にぶつけないように歩いて欅平に。そして今、著者吉村昭の「高熱隧道」を読み返しています。
1997年10月に欅平から黒四までの下の廊下を歩いたときは高熱隧道は通過することなく残念で、2016年北方稜線を歩いたときの三の窓は悲しいほど雪渓が全くありませんでした。
1968年北九州から君津に転勤。山・スキーが身近になったと喜んでいた自分がいました。
三つめは1976年5月巻機山に単独で登り、割引沢コースをグリセードで下山中の出来事です。快調に滑っていると下方から大きな叫び声がします。何だろうと停止し、先を見るとクレバスが大きく口を開いています。このままのスピードで突入すると壁にぶち当たり、クレバスの底に沈んでしまうところでした。偶然にも単独行者が登ってきていて大声を発してくれたので助かった次第です。今日の山行で初めて会う登山者で、まさに偶然の賜物で、命の恩人です。
その後は雪渓の端っこを恐る恐る下って、その日は清水部落の民宿に。その後も巻機山は幾度となく歩き、5月の連休にも数回登りましたが、下山は沢コースには足を向けることなく避けていました。
宿のおじいさんから上越の土合から朝日岳を越えて清水街道や、土樽から七つ小屋・謙信尾根を歩くように進められ、他にも上越の越後駒ケ岳・八海山登山後の帰路には必ずこの宿にはお世話になりました。そして夕食の食卓にはいつも日本酒の巻機山が一本差し入れとして戴いていました。おじいちゃん・おばあちゃんは高齢化になったとのことで昨年は宿泊人数が多いと十分なお世話が出来ないし、近々閉館するとのことで宿泊できなかったのは残念でした。いつまでもお元気で。
以上、三回は登山歴も浅く、無知がなせる業でしたが、九死に一生を得た反省大なる思い出深い山行でした。
寸評から
房総の山親爺さん(83)の作品は、過去の失敗談です。でも、彼はこのような経験を糧にできたからこそ、二千座を達成することができた。その点からみると武勇伝といっても大丈夫でしょう。更にこの二千座の中には、簡単には成し得ない大縦走もあります。それは、本誌2023年5月号の本欄、。「南ア深南部大無限山踏破」で読むことが出来ます。



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こいとまちあるき

2025年04月05日 | 番外
何かの広報誌で「こいとまちあるき」を知ってスケジュールに入れていた。
当日、集合ハ場所の小糸公民館に行くとかなりの人数が、関係者から名前を聞かれたが「予約が必要だったのですか」「そうです、でも大丈夫ですよ、参加費はコーヒー代¥100です」とOKAYとなった。当日飛び込みは小生一人だった。
2025年4月5日(土)

本日の行程は、小糸公民館9:05⇒➀薬師堂9:15⇒②上総掘り発祥地の碑9:25⇒③春日神社、④大宮寺9:50⇒小糸コーヒー10:15⇒⑤成願寺10:50⇒小糸公民館13:05
*行動時間:3時間、歩行距離:7.3㎞、メンバー:老々男女30名くらい
ただ歩くだけかと思っていたら、小糸の歴史を研究されている元教師の渡辺氏が随所で説明されて、初めて知る小糸の昔々話で興味深かった。
➀薬師堂(出羽三山供養塔):小糸の御百姓さん達が出羽三山にお参りして、その信仰の供養塔です。
  
②上総堀発祥地の碑:江戸時代の末期、子供が竹の棒でつついて遊んでいると、突然水が湧きだした。それに目を付けた額田の池田久蔵が、1817年突抜井戸を生業にしたとのことです。
③春日神社:御祭神は天児屋根命で、小糸川流域を開拓した、後の上総国周東准郡東郷の祖先等が村を鎮めるために、代々奉納した古社だそうです。
  
④大宮寺:真言宗智山派のお寺で本尊は阿弥陀如来。創建は1126年?、開基は源暹で、かつては籾山小学校(旧中小学校)にあったとか。
⑤成願寺:1130年、」鎌倉時代の僧、源暹の開基たされている。
 
★樹齢約100年のしだれ桜は満開だった。
★木喰勧正の碑
★境内の中に、初代「波の伊八」1752年生の作品の一部が展示されていた。
☆彡桜をバックに参加者全員で記念撮影(小糸公民館のHPに掲載されるとか)





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番外 若潮マラソン

2025年01月27日 | 番外
2025年1月26日  
若潮マラソンの案内が届いたのは昨秋、10㎞の制限時間は今までより10分延びて100分になっている。最近のウォーキングでは11分/㎞なので10㎞では110分でジョギングを入れると制限時間内でゴールできそうなのでエントリーfフイー¥5,000を添えて申し込んだ。右足膝の痛みが取れないので馴染みの整形外科でリハビリに通って、8項目のメニューを日々自宅で実行、バンテリン軟膏を朝晩2回膝に擦りこんでマッサージを行っていくと幾らか痛みが引いて行ったような気がして本番に臨んだ。
快晴ではあるが風強し。気負いなんか全くなくスタートしたが足が前に出ない、息も上がる。3㎞で時計を見ると27分と9分/㎞で制限時間内も大丈夫かと?
富士山南アルプス天城山・伊豆大島を見る余裕?もある。トップはもう疾風のごとく折り返してくる。昔、若かりし自分も折り返しているのに、まだ往路をパタパタと走っているおじさんおばさん達をみて、何の目的で参加しているのだろうかと疑問を感じていた。
折り返しで後続を数えると20名、参加者は2,000人だから1%です。これから電柱2本分をジョグ、1本分をウォーキングとしていたが、アゲンストの風で、それもままならない。4分弱の制限時間内でゴール(1.36.38)すると、直ぐに50分前にスタートしたフル走者が戻ってきた。汗も掻いてないし、足が張ってもなく、自分にとって<たかが10㎞であるが、されど10㎞だった>
帰路途中で浜金谷の「ザ・フイッシュ」でアジフライ・鯨の竜田揚げを肴に美酒を2杯飲んで、マラソンのラストランを締めくくった。
★マラソン歴を振り返ると
参加回数:211回 山登りを続けるためにマラソンが一番効果ありと知って、一回目は1987年9月の「巨峰マラソン10㎞」からで38年間。お疲れさまでした。
一番参加大会は:若潮マラソンの27回でした。
フルマラソン完走:34回、ベストは3時間21分54秒
多くの仲間に支えられたマラソン人生で、ありがとうございました。
     
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2025に読んだ本  そのⅠ

2025年01月23日 | 番外
01, 02、俺たちの箱根駅伝(池井戸 潤)

箱根駅伝本戦出場をかけての予選会でも10以内に入れなかった大学から選ばれた学連選抜チームの監督及び選手たちが本戦ではオープン参加で記録は参考で、もし優勝しても順位はつかないにも関かわらず、努力する葛藤が迫力する様に描かれていて読み応えのする内容だった。

03.ガラスの城(松本清張)

 図書館で不要になった本の無料配布が行われていたので、四冊ほど頂いてきた内の一冊です。TVで松本清張原作が放映されると録画を取ってみる清張ファンとしてはありがたく一気に読み上げた。推理小説なので内容は省略しますが、犯人はラストで思いがけない人物でした
04.岳物語(椎名誠)

椎名誠の講和を聞いたことがあった。車のナビが出始めたころ?彼はナビの女性の声に名前を付けていて、〇〇ちゃん今日もよろしくと挨拶して運転すると面白くおかしく語っていた。この本は息子の岳との対話で、岳の成長がつぶさに読み取れて親子関係が楽しく描かれていて、二度目の読みだったが飽くことなく読んだ。










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2024年山行履歴

2024年12月30日 | 番外
房総の低山を中心に92回の山行を重ねることが出来ました。
右足膝の痛みをこらえ乍らの歩きでしたが、仲間に支えられて。
恒例の年末年始の山行は、仲間は愛鷹山系に登ってますが、山親爺は辞退してしまいました。
又、ブログでnoanoaさんやWadauraさんの声援を受けて頑張ることが出来ました。来年もよろしくお願いsます。              
回数 月日 山名 特記 メンバー
1 1月1日 亀戸山 北八の帰路に 山田、吉島、伊藤、小川
2 1月12日 高宕山 初出勤 ソロ 1 680
3 1月15日 鹿野山 神野寺初詣 ソロ ➀
4 1月18日 石垣山 歴史観を味わいながら 房総の山仲間
5 1月25日 ズンタ山 三回目の挑戦で登頂 山田、小川
6 1月27日 高宕山監視所コース 夏山トレーニング目的NO1 ソロ 2 681
7 1月31日 郡界尾根 又も道迷い ソロ
8 2月7日 内山緑地 初雪 ソロ
9 2月8日 高宕山 日本低名山の仲間入り ソロ 3 682
10 2月11日 関東ふれあいの道 道標更新 山パトメンバ⁻ 4 683
11 2月13日 大日山~御殿山 蕗の薹はまだだった ソロ
12 2月17日 監視所コース 意外と快調だった ソロ 5 684
13 2月28日 九鬼山 三日遅れの大展望を ソロ
14 3月2日 笠石 ミスミソウ鑑賞 睦男、近l子
15 3月9日 山パト・道標更新 四か所取り換え 山田、小川、檜垣 6 685
16 3月11日 大高取山 越生ハイキングコース 房総の山仲間  
17 3月14日 元清澄山 思い出の山に ソロ
18 3月19日 鹿野山 花盛り ソロ ②
19 3月22日 監視所コース 春めいてきた監視所コース ソロ 7 686
20 3月30日 内山緑地イベント ヤマザクラ逍遥の道に ソロ
番外 4月1日 風間三郎個展 久しぶりの再会を ソロ
21 4月2日 人骨山・津森山 春まだ浅し ソロ
22 4月7日 冨山・西尾根 汗を流して ソロ
23 4月11日 小仏城山 初めてのルート ソロ
24 4月14日 三百騎山・高宕山 高宕山今昔 ソロ 8 687
25 4月18日 釈迦が岳 リベンジだったが 房総の山仲間
26 4月21日 関東ふれあいの道 登山道整備 山パトメンバ⁻
27 4月24日 東大演習林 一般開放 ソロ
28 4月28日 監視所コース 高宕観音について ソロ 9 688
29 5月2日 芹山・三百騎山 ヤマツツジとエビネを求めて ソロ
30 5月3日 小糸浅間山 キンランを求めて鹿野山古道 ソロ
31 5月5日 鎌倉古道・房州アルプス ギンランとの出会いも ソロ
32 5月10日 鹿野山周回コース トレーニングに ソロ ③
33 5月12日 山パトロール 関東ふれあいの道 山パトメンバー
34 5月15日 城ケ丸・猿焼山 リベンジの山 ソロ
35 5月18日 高宕山大滝コース ツツドリ・ホトトギスも ソロ 10 689
36 5月22日 房総半島横断 挑戦は止まることを知らず? ソロ
37 5月25日 高宕三山 イワタバコが一輪 ソロ 11 690
38 5月30日 志組から高宕山 無粋なロープが張られていた ソロ 12 691
39 6月3日 鹿俣山 ブナ林に癒されて 房総の山仲間
40 6月6日 石尊山 麻綿原へは交通止めで ソロ
41 6月11日 高宕山大滝コース オオルリ・サンコウチョウは空振り ソロ 13 692
42 6月13日 鹿野山 三角点巡り ソロ ④
43 6月15日 三頭山 探鳥を期待して ファミリー
44 6月19日 クオードの森 サンコウチョウゲット ソロ
45 6月22日 房総半島横断 ラストウォークか ソロ
46 6月26日 高宕山・監視所コース 蒸し風呂の中を泳ぐように ソロ 14 693
47 6月28日 玉原高原・長沢 雨で予定変更の山 房総の山仲間
48 7月3日 鹿野山周回コース 新たな草花も見られて ソロ ⑤
49 7月10日 二五穴との再会 ヒナノシャクジョウも 青峰会 15 694
50 7月18日 監視所コース 熱中症&足吊 ソロ 16 695
51 2024/7/24~27 北岳 下りでは悪戦苦闘 SCRAP
52 8月6日 高宕山大滝コース 灼熱の中を ソロ 17 696
番外 8月10日 高宕山・満福寺 金の仏像を拝みに ソロ
53 8月18日 鹿野山 活を入れるために ソロ ⑥
54 8月22日 奥多摩・御岳山 山葵田予定がレンゲショウマに 尾崎家と
55 9月5日 鹿野山周回コース ソロ ⑦
56 9月8日 関東ふれあいの道 奥畑登山口の整備要か シルバー5名
57 9月13日 高宕山・大滝コース タマゴタケオンパレード ソロ 18 697
58 9月20日 石茸岩山 8/22のリベンジに ソロ
59 9月26日 高宕山・ピストン まだ残暑厳しく ソロ 19 698
60 10月1日 生瀬富士 トリッキーな山だった 房総の山仲間
70 10月7日 高宕山・大滝コース まだ暑い ソロ 20 699
71 10月11日 内山三角点 冠雪富士はまだまだ ソロ
72 10月13日 鹿野山周回コース 神野寺のジャンボぼたもちを ソロ ⑧
73 10/17~18 十二が岳・岩櫃山 スルリを味わった岩櫃山 房総の山仲間
74 10月20日 関東ふれあいの道 草苅 シルバー5名
75 10月26日 高宕山 700回記念登山 近子と 21 700
76 10月31日 三舟山 自宅から往復 ソロ
77 11月1日 高宕山・大滝コース キッコウハグマも ソロ 22 701
78 11月7日 鹿野山周回コース 初冠雪の富士を眺めに ソロ ⑨
79 11月10日 関東ふれあいの道 j巡視 シルバー5名
番外 11/12~17 第二回青峰会三人展 盛況裏に 工藤・蔵・山田
80 11月19日 高宕山・監視所コース 右膝痛 ソロ 23 702
81 11月22日 きみつ散歩道 紅葉に ソロ
82 11月24日 三浦富士、砲台山、武山 富士山は望めなかったが、軍艦カレーは食べた ソロ
83 11月28日 鋸山 安兵衛井戸経由で ソロ
84 12月1日 関東ふれあいの道 石川君入隊体験 シルバー6名
85 12月3日 クオードの森 梅が瀬渓谷へは通行止めで ソロ
86 12月5日 鉄砲木の山・高指山 富士山を満喫 房総の山仲間
87 12月8日 大福山・梅が瀬渓谷 紅葉に染まって 睦男、近子
88 12月11日 高宕山・大滝コース 陽だまりハイク ソロ 24 703
89 12月17日 伊予ガ岳 冨山は断念 ソロ
90 12月20日 高宕山・監視所コース 監視所コースを外れて ソロ 25 704
91 12月24日 冨山・西尾根 リベンジ冨山 ソロ
92 12月27日 鹿野山周回コース 今年締めの山歩き ソロ ⑩




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最近読んだ本(NO21~26)

2024年12月25日 | 番外
今年は26冊で終わった。寝る間にベッドの中ではなかなかはかどらない。
21..ミッドナイト イーグル(高嶋哲夫)
非核三原則の日本に核が持ち込まれステルスに搭載されていて、北朝鮮の上空を飛んでいたという極秘裏があった。横田基地に侵入した北朝鮮の工作員によって、米空軍のステルス爆撃機が北アルプスに墜落。搭載されていた核の確保に、日本自衛隊・北朝鮮工作員・裏で動く中国の工作員の三つ巴の戦いが、吹雪の北アルプスと東京のふたつの場所で、その搭載物をめぐっての死闘が繰り広げられるサスペンスで手に汗を握る感じで、一気に読み上げてしまった。

22.冬の喝采(黒木 亮)
ノンフイクションで早稲田大学競争部で、箱根駅伝を二度走った著者が高校時代から大學と時代に練習に明け暮れ、中村清監督から叱咤激励される様や、監督のエピソード、瀬古はダントツに早かったこと、君原の登場等もあって一気に読み上げました。我々も1993年、東京=箱根駅伝コース往路を仲間13人でタスキを繋いで走っていたので特に懐かしかった。

、、
23.走ることについて 語るときに 獏の語ること(村上春樹)
市民ランナーとしての彼の思い等の話で、文学者としての語り口で、素人ランナーとして面白くなく斜め読みで終わった。
24.25.26. 忘れえぬ山Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(串田孫一編)
題名からして孫一さんの作品かなーと思っていたら、山の仲間に忘れえぬ山を依頼して、それらをまとめたものであった。
その中で、自分として印象深かったのはⅠから「穂高山冬季登山」朝比奈菊雄著で現在では失われてしまった青春謳歌が、愉快痛快な話が織り込まれていて読んでいても痛快だった。
「屋久島」深田久弥著も1939年12月山行で、小生達が登ったのが1965年5月だから26年前だが、屋久島への渡航や登山道等についてはそう変わっていない印象を受けて、思い出しながら読み上げた。
Ⅱからは、串田孫一自身の「島々谷」で、1960年(昭和35年)の上高地ウエストン祭に参加するため、夜の島々谷を歩いた記録であり、私もウエストン祭に数回参加したが、いずれも島々谷を歩いていたので、興味深かった。
「マナスルの偵察」高木正孝と「第七キャンプ」竹節作太の2編がマナスル登頂の赤裸々な状況が生生しく描かれていて自分が経験したことない高所での行動に感動を受けた。
Ⅲからは、野尻抱影氏の「野呂川谷の樵夫達」で、明治時代の南アルプスの広河原とか農鳥とかの冒険的な山歩きが樵夫たちとの生活にも触れながら、今では想像も出来ない語り部のようで痛快なり。もう一つは、山口耀久氏の「不帰に峰東壁」で約90年前の開拓期の岩登りに挑んだ青春の一コマで、岩登りをやったこののない小生も岩に取り組んでいるような錯覚を覚えた。

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青峰会三人展開催

2024年10月28日 | 番外
下記の内容で開催しますのでよろしくい願いいたします。

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第四弾 2024年8月以降に読んだ本

2024年10月09日 | 番外
➀「遠き雪稜(上)(下) ②「彼方の山へ」いずれも谷甲州著

前者は昭和11年以降の立教大学山岳部のナンダ・コート遠征を元にしているもののフイクションで、当時のヒマラヤ遠征の苦労が手に取るように描かれている。
後者は著者・谷甲州は歩くことが大好きで、地図を眺めているうちに、そこに記された風景の中をあるいてみたくなる好奇心旺盛の若者だった。里歩きから始めた学生時代に、素人同然の技量で冬山に挑戦。厳冬期南アルプス全山単独縦走を果たす。やがて青年技術協力隊員としてネパールに渡ったのをきっかけに、ヒマラヤ・クン峰に登頂・・・。彼の山との関りが面白く描かれています。
③三つの嶺(新田次郎)は、イタリアのドロミテの大岩峰の遭難から、遺児の少女マリアの日本での生活と、登山と愛の関係に雄大な構想で迫る傑作でした。タイトルの「三つの嶺」はラスト一ページの中に凝縮されていました。

④「栄光の岸壁」上下(新田次郎)

 図書館に借りに行くのみ面倒くさく自分の本棚から選ぶことにした。前回も三つの嶺の新田次郎だったので、芳野満彦氏と新田次郎氏の組み合わせて、マッターホルンを舞台にした栄光の岸壁を選んだ。
 しかし読み始めると、山靴の音とダブル内容も多くあったが、八ヶ岳遭難以降の両足の半分以上の切断以降の、彼の山に対する執念が赤裸々に見られた。ここまで山への執念は何処から生まれたのだろうか、その一面に家族から仲間から愛いされる彼の性格が垣間見られた。この中にお母さんのことが載っているが、小生も彼の実家でお母さんと一度対面しお世話になって、その時のお礼に手紙を差し上げたら親切の暖かい返事を頂いたことを思い出した。
 その後の結婚に至る話も面白く、結婚後の家庭と山への狭間に苦悩する彼が、アイガー、マッターホルン登頂の内容は手に汗を握る物語を新田次郎氏が克明に描れていて一気に読み終えた。初めに読んだときは山のことしか印象に残ってなく、新たに読んでる自分がいました。
⑤単独行(加藤 文太郎)
1905年生まれ、1925年頃より数々の単独行を行い、この時代の装備や交通機関を考えると想像を絶する山行を重ねていたのです。1936年1月槍ケ岳・北鎌尾根で不帰の客となるが、この時は岩登りが得意な友人と二人で、単独行ではなかった。
 彼は山頂でベルグハイル(山万歳)と叫んだり、名刺を置いていくのが彼の山スタイルの特徴だったようです。そして、この時代の山小屋や登山者の傾向から、単独行故に、他の登山者から非難を浴びることがあったようです。

⑥風雪のビバーク(松濤 明)
1922年生まれ、つねに先鋭なクライマーとして活躍して、1949年1月、槍ヶ岳・北鎌尾根において風雪の為に遭難死。この時の彼のメモの一部を記します。
「全身硬ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノミズ、死ヲ決ス。オカアサン アナタノヤサシサニ タダカンシャ、一アシ先ニオトウサンノ所へ行キマス。・・・有元ト死ヲ決シシタノガ 六時 今、十四時 中々シネナイ・・・我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海に入リ、魚を肥やし、又人ノ身体ヲ作ル、個人は狩ノ姿 グルグルマワル・・・」
そしてこの本の巻末に「S48.12.12 一か月近く雨もない乾ききったいたが、今日は昼過ぎから雲が低く灰色と化してきて雨になりそう。北の山々は大雪の便り。スキーなんかより、雪深い山で静かに独りになるのが今の俺の取って似つかわしい。そして寂しさに耐えかねて、狂い、白い雪に眠ったほうがいい」とメモがあった。精神的に不安定な時期だったのだろう。
⑦黒いヒマラヤ(陳 舜臣)

 世界第三の高峰・カンチェンジュンガ(8586m)の麓にある街を舞台にした推理小説で一気に読んでしまった。タイトルの黒いヒマラヤはカンチェンジュンガの白い山に対して町で起こる人間模様のどろどろしたストーリーが白に対比して黒と表現したのではないかと感じた。

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