道標(どうひょう・みちしるべ)、町石(丁石・ちょうせき)
道標は道の行き先の地名を文字で案内したもので、街道の道端や分岐などに立てられ、山中でも見ることがある。今に残る古い道標は石製だが、かつては木製もあった。これらの道標は今も各所に立てられている。町石(丁石・ちょうせき)は主に霊山の参道に一町ごとに立てられた石碑。始めに目的地までの丁目数を案内する道標を建てることもある。このブログでは山に残る石造の道標と町石をいくつか案内してきたので、ここにまとめてみた。
道標の地名にひらがな銘が多いのは誰でも読めるようにという配慮からなのだろう。行く先の表記は「左右・東西南北・此・是」からはじまるものや、「→・指さす手」など記号・図で示す道標もある。形は自然石や石柱に行く先地名だけ刻んだものと、船形光背の地蔵菩薩や馬頭観音像、庚申塔や廻国塔などなんらかの供養や信仰と併用するものも多い。また、石仏の台座に行く先銘を入れた道標もある。道標は街道や脇街道ばかりでなく、村の細い道にも立てられた。多いのは札所や山岳霊山へ導くもので、このなかには四国遍路道では指さす手を彫ったもの、神奈川・丹沢大山不動尊のように石柱の上に不動明王が乗るものなど独特の道標もある。集中して立てられたのも札所・霊山への道標で、丹沢の大山不動への道などはその筆頭であろう。その数、小松孝氏は「大山の道しるべ」(注1)で365基と報告している。
古い道標を「大山の道しるべ」から探すと、藤沢市城南の万治4年(1661=天保6年再建)、横浜市戸塚区柏尾町にある寛文10年(1670)がある。これはこの国全体からみても古い道標の一つで、道標のデーベースを作成中の馬場俊介氏らの「近世以前の道路遺産(道標・町石・常夜灯)の本質的価値判断に関わる評価基準」(注2)によると、この寛文10年の道標は13番目に古い道標になっている。ちなみに馬場氏らのデータから古い順から並べると
1 和歌山県かつらぎ町の大僧正聖基道標 建治2年(1276)
2 大阪府高槻市の田能中畑の供養塔道標 宝徳3年(1451)
3 和歌山県高野町の子継峠の地蔵道標 永正9年(1512)
4 三重県伊勢市の朝熊岳道の道標 寛永3年(1626)
5 三重県四日市市の日永の道標 明暦2年(1655)
以後爆発的に増え、今に残る道標のほとんどが江戸時代からのものである。
町石は霊山の寺社の参道に1町(109メートル)ごとに建てられ、「町数」と「町、丁」で銘記された石である。多くは四角の石柱だが、古い山岳寺院には笠塔婆の町石も建てられた。和歌山県久度山町の慈尊院から高野山の奥の院までの参道に、この形の町石が169基も建てられたのは文永3年(1266)だった。関西に古い町石が多いことについて馬場俊介氏らの「近世以前の道路遺産」では、「平安末期以来の朝廷を頂点とする貴族や修験僧による高野山や西国三十三所などへの巡礼があったため」と指摘している。これに比べて、貴族・霊山に縁が薄かった関東の山岳寺社には、古い町石が建てられることはなかったといえる。
関東の霊山に町石が建てられるのは、庶民の信仰登山が盛んになる江戸時代の中期からになる。そのほとんどは角柱で、単に町目と造立者銘の簡単なものがほとんどだった。丹沢の鐘ヶ岳浅間神社参道の富士講の講紋入り町石の上に石仏を載せるものは珍しい部類になる。角柱という簡単な造りのため、山梨・身延山のように古いものと新しく建てられて二重に立つもの、丹沢・大山のように時代を越えて補充されて続ける町石が立つ山もある。道標と同じように「近世以前の道路遺産」から古い町石を並べると
1 大阪市箕面市の勝尾寺旧参道 宝治元年(1247)
2 三重県伊賀市の補陀落寺参道 建長5年(1253)
3 和歌山県高野町の奥の院参道 文永3年(1266)
4 和歌山県かつらぎ町の慈尊院参道 文永3年(1266)
5 京都府京都市の醍醐寺の町石 建治2年(1276)
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末尾に、道標・町石ではないが富士市から身延山への道に題目塔が立つ峠があるので、これもまとめてみた。
(注1)小松孝著「大山道の道しるべ」『日本の石仏55』平成2年、日本石仏協会
(注2)岡山大学大学院教授・馬場俊介氏ら環境研究科を中心として実施してきた「近世以前の道路遺産の総合調査」のなかから道路遺産(道導・町石・常夜灯)を紹介したもの。2012年『土木学会論文集D2(土木史)』
【道標】
尖山(山形)
妙法ヶ岳(埼玉)
霧藻ヶ峰(埼玉)
大山(神奈川)不動明王
大鹿山(山梨)地蔵菩薩
十文字峠(長野)馬頭観音
苅羽・黒姫山(新潟)旅姿
伊豆・小鍋峠(静岡)
【町石】
笠山(埼玉)
大岳山(東京)
鐘ヶ岳(神奈川)
大山(神奈川)
身延山(山梨)
【身延道の題目塔】
上稲子・桜峠(静岡)
白水山・石神峠(静岡)
思親山・佐野峠(山梨)