新嶽山(しんたけさん) 覚明(かくめい)
【データ】 新嶽山 286メートル(国土地理院地図に山名無し。新東名岡崎東IC北の286.8三角点▼最寄駅 名鉄名古屋本線・本宿駅▼登山口 愛知県岡崎市夏山町の新嶽大神▼石仏 御嶽山中腹、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 岡崎市街の東、三河の山が始まるところに新嶽山があり、東山麓に建つ新嶽大神の神社が登山口。神社境内の大正二年に建てられた石碑に新嶽山の様子が記されている。「荘厳極まり無い新嶽山霊場は延長百数丁の峻峰高く蛇が飛び上がるようにそびえている」ではじまるこの石碑は、さらに新嶽山の神秘的な山容をたたえ、木曽の御嶽山を勧請したのは明治45年であることを銘記している。
登ってみると確かにその通りで、いきなり登り出して岩尾根の急登が続く。そして最初に出くわすのが「代明霊神/日出講社中/大正三年」の行者像。笏を持つ高さ120センチの束帯像だ。次に八海山大頭羅神王像は右手宝剣、左手宝珠の立像。八海山は御嶽、三笠とともに御嶽三座神の一角を担う神である。そして覚明霊神像が立つ。
覚明(1718~1786)は尾張春日井郡牛山村(現春日井市)の農家の生まれ。生家は貧しく幼くして養子に出され、餅屋、魚行商ののち仏門に入ったらしいが、詳細は不明。天明4年(1784)から木曽御岳山の黒沢村に現れ、御嶽山登山の許可を願い出ていた。しかし百日精進潔斎をしない他国の者に許可は出ず、翌天明5年に無許可登山を決行して登頂した。同時に登山道の改修などにもあたり、その途次病に倒れて天明6年御嶽山二の池で禅定し入滅。覚明の御嶽山登山により、寛政4年(17927)には軽精進による他国の人にも開放され、普寛行者の王滝口登山につながった(注)。
覚明の入滅後、御嶽信仰は普寛系の弟子によって関東方面に布教されていった。後にこのなかから尾張方面に御嶽信仰を広めたのが尾張熱田の行者・儀覚。その後明寛、明心などの尾張の行者たちが日進市の岩崎に霊神場を開いたことは、岩崎・御嶽山で案内した。
(注)生駒勘七著『御嶽の歴史』1966年、宗教法人木曽御嶽本教
【独り言】 蛇が飛び上がるようにそびえる山と案内され新嶽山の尾根はアップダウンを繰り返し、石像が点々と置かれています。覚明霊神の次は両手で蓮華を持つ矜迦羅童子。次は首にまいた布を胸元で持つ制迦童子で、この上が新嶽山の山頂。大己貴(おおなむち)尊・国常立(くにのとこたち)尊・少彦名(すくなひこな)大神の三神像が並んでいます。これらの神は、蔵王権現を祀った神社が明治維新の神仏分離のときに変えた祭神名で、御嶽三座神をこれに変えた御嶽講もありました。多くは御嶽大神・三笠山大神・八海山大神に変えました。大神の銘がある石塔は、おおむね明治以降の権現などから改名した神々の石塔です。
仏像の三尊形式は見ごたえがあります。これに倣って日本の三柱の神を並び祀ることも行われ、御嶽三座神のように石造物にも造立されてきました。春日・天照・八幡、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神なども信仰の山に見ることがあります。その天之御中主神の石像が新嶽山の次のピークに、天照大御神像とともに立っています。
尾根上に矜迦羅、制迦と続いた童子は、その後も不動慧・光網勝・無垢光と続きます。これは不動三十六童子で、新峯山の近くまで続き、その先には不動八大童子が立っています。