偏平足

山の石仏と独り言。

石仏950岩崎・御嶽山(愛知)明寛・明心

2021年01月22日 | 登山

岩崎・御嶽山(おんたけさん) 明寛・明心(みょうかん・みょうしん)

【データ】 岩崎・御嶽山 134メートル▼最寄駅 名鉄豊田線・日進駅▼登山口 愛知県日進市岩崎町▼石仏 御嶽山一帯、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】 日進市郊外の岩崎にあるこんもりした森が御嶽山。山全体が御嶽信仰の聖地になっていて、御嶽信仰独特の霊神碑が林立している。霊神碑は御嶽信仰の信者の霊魂が木曽の御嶽山に帰る拠り所として建てたもの。本来は木曽御嶽の山中に立ててきた霊神碑、名古屋周辺の御嶽講はこの岩崎にその場所を造ってきた。その数を調査した小林奈央子氏(注)によると、講社の霊神場496ヶ所に霊神碑4599基と報告している。その発祥を岩崎神社発行の社記から案内する。
 岩崎御嶽山の創建は万延元年(1860)。御嶽山開祖の明寛行者・明心行者が西国三十三ヶ所観世音霊場を巡礼中、夢の中に現れた覚明行者より「人々の信仰と御山繁栄のため、尾張愛知郡岩崎村の竹之山に御嶽山の大権現の御分霊を勧請すべし」とのお告げを受け、木曽の御嶽山より御分霊を勧請したのが始まり。
 明寛は文政5年(1822)名古屋市古出来町生まれ。俗名は丹羽宇兵衛で、16歳のときに大先達・儀覚行者について木曽御嶽山へ登山。明心は天保7年(1836)名古屋市門前町生まれ。俗名は倉知茂兵衛。15歳で明寛について木曽御岳山に登山。のちに二人で心願講社を設立して尾張・三河に信者を広め、岩崎に木曽御岳山に次ぐ霊山を開いた。後にこの山は中京地区御嶽信仰の聖地となって、「尾張御嶽山」と称された。
 明寛を木曽御嶽山に連れ出した儀覚は明和6年(1769)名古屋市熱田の生まれ。俗名は武藤清六。広山行者の教えを受け、熱田に宮丸講を創立して西国まで布教活動をした。木曽御嶽山一の池の成田山の三十六童子を勧請しのも儀覚である。広山は寛政4年(1792)木曽御岳山の王滝口を開いた普寛行者の弟子。夢の中に現れた覚明は天明5年(1785)木曽御岳山の黒沢口を開いた尾張春日井の行者。覚明-儀覚-明寛-明心と繋がる尾張・三河生まれの行者により、木曽御嶽信仰がこの地方に広まっていった。
(注)小林奈央子著「岩崎御嶽山霊神場に見る御嶽講の現在」日本宗教学会『宗教研究』79巻(2005)4号収録




【独り言】 50年前、初めて木曽の御嶽山で霊神碑が林立している光景を見たときは驚きました。しかしそこは御嶽山のふところですから、神秘的でもあり幽玄さも感じました。そして今回の岩崎御嶽山です。多くの霊神場と林立した霊神碑は木曽と同じです。しかし幽玄さはなく、都市部の霊園といった印象でした。霊山を印象付ける不動の滝とか八大龍王などの行場もありますが、霊神碑のなかに埋没してしまった感じです。
 関東や信越で、木曽御嶽山を勧請した里山を多く見てきました。その多くは御嶽三座神と摩利支天や不動三十六童子を造立するぐらいで、霊神碑は木曽の御嶽山に立てるものというのが基本なのでほとんどありませんでした。霊神碑を立てた山も若干ありましたが、これほどの霊神碑がある山を見たのは初めてです。どうしてこのような状況が生まれたのか。平野部に勧請された御嶽信仰は社殿を構える例はあります。関東でも、東京・大田区やさいたま市桜区他に知られた御嶽神社があります。名古屋周辺にもそのような神社があり、これに満足せず霊神碑を立てる山を岩崎に求めたのでしょうか。
 江戸時代の中期から盛んになった富士信仰に倣って、江戸時代末期には中部山岳を開山して新しい山岳信仰を開いた行者が沢山排出しました。行者のなかには山梨の甲斐駒ヶ岳のように新たな信仰を立ち上げ、山麓に神社を構えて霊神碑を立てたところもありました。長野の修那羅峠のように石仏を奉納した山や、茨城の御岩山や栃木の茶臼岳のように出羽三山信仰に倣った独自の山岳信仰を創った山もありました。明寛と明心も御嶽山に倣った独自の霊山を創ろうとしたのでしょうか。

 岩崎御嶽山で気になったのは、所々に荒れた霊神場があることでした。


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