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時事評論ブログ
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集団的自衛権で町の平和は守れない

2015-07-07 16:50:07 | 政治・経済
 先日、安倍総理はインターネット番組に登場し、安保法制についてみずから説明した。そこで町内会のたとえを出して説明したのだが、これにはさっそく各所でツッコミの声があがっている。当ブログでも、批判しておこう。
 
 安倍総理の説明は、戸締りをしっかりしておいて、なにかあったら警察に通報するなど町内会で“助け合い”ができていれば泥棒は入ってこない、というものである。
 少しでもソフトな印象にしようとしてこういうたとえを持ち出してきているのだろうが、非常にいい加減で的外れな説明である。そもそも“泥棒”というたとえが適切でないと思うが、あえてこのたとえでいうなら、集団的自衛権は「戸締り」でも「通報」でもない。「よその家に泥棒が入っているところに駆けつけて泥棒と戦う」という行為に相当する。当然相手も、よその家に押し込み強盗に入るのだから武器の一つぐらいは持っているはずで、返り討ちにあう危険を負うことになる。それに、自分の家を離れてよその家に戦いにいけば、当然そのぶん自分の家の守りは手薄になる。二重の意味で、むしろ危険は増すだろう。
 そして、先述のとおり、そもそも“泥棒”というたとえ自体が間違っている。侵入してくる敵として「国家」を想定するのであれば、あきらかに“泥棒”というたとえは適切でない。あくまでも町内会のたとえで行くなら、国家間の緊張状態は、町内の別の家と土地の境界争いなどで対立しているという状況に相当する。集団的自衛権とは、その状態でよその家同士が衝突したときに、片方に助っ人に行くということだ。もっと具体的に想定すると、「佐藤さん」と「田中さん」という家があってこの両家が日ごろから対立しており、そこで利害が一致する佐藤さんの側に味方する、というようなことである。そして、田中さんが佐藤さんに戦いをしかけたら、佐藤さんの側に助太刀するわけだ。そのようにしておけば、田中さんの側も、佐藤さんに味方がいるのでうかつに手出しはできず、安全になる――というのが、集団的自衛権で“抑止力”が高まるという理屈である。
 一見もっともらしいが、しかし、このやり方で町の平和を守れないことは、以前に本ブログ「日本人は正しいか」という記事で書いたとおりである。
 町内のあちこちでこのような約束が結ばれると、衝突が発生するリスク自体が高まり、そのうえ、いったん衝突が起きるといくつもの家が芋づる式に参戦してきて大戦争に発展してしまう。佐藤さんが鈴木さんと同盟し、田中さんは山田さんと同盟し、鈴木さんは木村さんと同盟し、山田さんは森山さんと同盟し……というふうにしていると、町内のちょっとしたいさかいから町全体の争いに発展してしまうのである。実際に、第1次世界大戦はそのようにして大戦争になったケースだ。はじめは佐藤さんと田中さんの争いだったのに、同盟の網が存在するがゆえに、まったく関係ないところで鈴木さんと山田さんの戦い、木村さんと森山さんの戦いがはじまってしまい、あっという間に町全体が戦場となった。本人たちは「安全のため」「いざというときの備え」といって同盟を結んでいるのだが、実際にはそこに参加するすべての家のリスクを高めていたのだ。このブログで何度も書いてきたが、“抑止力”で平和を守れないことは、歴史が証明している。

 最後に、“泥棒”のたとえは、あるいはテロリストのような相手なら適切といえるかもしれない。
 しかし、テロリストが相手の場合でもやはり“抑止力”は通用しない。自爆テロのように、はじめから自分も死ぬ前提で攻撃してくる相手には、いかなる力も抑止にならないからだ。自分も死ぬつもりでむかってくる相手に対して「止まらないと殺すぞ」といっても止まるわけがない。もっといえば、テロというのは最前線の軍隊などに対しては行われない。多くの場合、戦闘力をほとんど持たない相手のところに密かに忍び寄って爆弾を爆発させたりする。それを見つけて駆けつけるようないとまを与えないがゆえにテロなのである。集団的自衛権がそれを防ぐ力になりえないことは理屈からいってあきらかだし、現実に止めることができていない。“抑止力”がテロリストに通用しないことは、いまの世界の現実が証明している。

 結論としては、集団的自衛権は、いかなる観点からも日本を安全にしない。むしろ、危険ばかりを無駄に高めることになるのである。