玖波大歳神社

神社についての歴史と知識

神宮大麻の意義

2014-06-15 19:35:55 | 日記
 神宮大麻の意義を明確にするために必要な材料として、一、歴史的経過、二、構成要素、三、条文の規定や語意を詳らかにし、頒布側からと拝受側からとの受け止め方の差違を検討していく必要がある。

一、歴史的経過
 歴史的経過として次のようなことが挙げられるであろう。

 一、内裏から伊勢国へ
 元々崇神天皇の頃まで天照皇大神は倭大国魂と共に天皇の御殿内に祀られていた(依り代を奉齊していた)けれども、天皇は神の勢いに不安を感じ、天照皇大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫村に祀り、倭大国魂を渟名城入姫命に託した。しかし、渟名城入姫命は髪が落ち躯が痩せ細り祭りをすることが出来なくなり、大田田根子を大物主大神を祀る祭主に、長尾市を倭大国魂を祀る祭主にした。
 垂仁天皇の時、天照皇大神を倭姫命に託し、倭姫命は各地を廻り伊勢の地に祀った。
 神は近くに置くことも畏れ多いもので、更に鎮座される場所も大変慎重に吟味しなければならなかったのである。
 また、古代からそれぞれの共同体ごとに、共同体の神を奉齊し、他の共同体のものに祀らせることはなかった。 渟名城入姫命が祀るべき者でなかったためであろう。

 二、私幣禁断から私祈祷へ
 次に参考になるものが私幣禁断である。伊勢神宮では皇祖奉齊の天皇祭祀に限られていた。しかし、律令制度崩壊の頃から経済基盤が崩れ始め、それを乗り切るために口入神主を各地に派遣し、寄進神領からの神税上分米を徴収した。帰参し神前に領地の願意を奏上していたことから詔刀師・御祷師とも呼ばれた。これが後に願主としての檀那の取持ちをする御師の発芽となり、室町期になると神領の廃絶に連れ、祈願の対象が一般庶民にまで拡大していった。そして、祈祷をした験として御祓大麻を渡すようになっていった。
 この頃の大麻は、祓具・祓いの験であり、渡す時期は秋から冬の神税上分米を徴収する時であろう。更に時代が進むと正・五・九月を中心に参詣が盛行し、祈祷・配札も全国に展開していった。更に御師などは伊勢講の組織化・宿泊・案内・神楽・遙拝社・神明社の創建を始め活躍していた。江戸期には頒布の割合も全戸の八十九%に達していた。

 三、明治時代から終戦まで
 しかし、明治維新は、四百年以上活躍していた御師の私祈祷を御神徳を汚す悪習と決めつけ、排除していった。その裏には、欧米列国の脅威や外来宗教による日本の伝統の崩壊を恐れ、その対策として国民を統合し、国粋主義化を目差す意図があった。
 初期には神宮教院が全国三十一教区の組織を挙げて頒布を行い、神道事務局・神道神宮教・神宮奉齊会・全国神職会と担当が推移し、道府県の神職団体に委託したり、地方行政庁又は郡市神職団体に委託していたようであり、更に大日本神祇会へと移行していった。
 戦後、大日本神祇会と神宮奉齊会そして皇典講究所を纏める形で神社本庁が設立され、その性格から、神宮大麻の頒布を委託された。
以上が歴史的経過の概略である。

二、構成要素
 神宮大麻を構成しているものとして、御真(麻串)・「皇大神宮御璽」の印・天照皇大神宮の御名(神号)・「大神宮司之印」の印がある。

 一、御真(麻串)
 御真(麻串)を中心に納めていることについて、一方で御師制度の廃止により「御祓大麻」の祓具・祓いの験としての性格は失われており、氏神神璽を奉製する際に中に祓串の印を押捺している例もあり、清浄を意味するものと捉える考え方があり、他方で御師活動が全廃されても、祓具・祓いの験と言う意味は継承されておりその上に重層的にその他の意味も包含するようになっていったとの考え方がある。

 二、「皇大神宮御璽」の印
 「皇大神宮御璽」は神宮大麻が「天皇の大命」(御裁許)により初めて公的に家庭にいながら「朝に夕に皇大御神の大前を慎み敬い拝がむ」(明治五年四月一日の神宮大麻御璽奉行式の祝詞を参照)ための「シルシ」となるものであり、雲形御璽印と言う。
 これにより、皇室の祖先神(一般庶民の祖先ではないことの認識は不可欠である。)である皇大神宮の御名札を日本全国津津浦々に奉安する事を公式に認めて戴いたのである。ただ、神宮大麻は更新累加することが大きな意味を有し、一般庶民には毎年頒布されているのに、「天皇の大命」(御裁許)が明治初期の変革時期のみであることは不十分に思える。時代は大きく変化し、大正・昭和・平成と天皇も代替わりされており、毎年とは言わなくとも代替わりの都度御裁許を戴かなければ、天皇公認の御名札としての意味が一般庶民に理解を得ることが出来ない。

 三、天照皇大神宮の御名(神号)
 天照皇大神は「オオヒルメムチ」であり、ムスヒの神などの霊(ヒ)の神にお仕えする神であり、大嘗祭は天皇が天照皇大神と一体になる儀式で天皇自ら霊(ヒ)の神にお仕えする「ミコ」になられることを意味している。「日本国民の総氏神」と言うことはあくまで一種の方便であり、説明する時間があまりないときに理解を得やすい説明でしかない。 天照皇大神には更に祖先神がおられることは周知のことである。
 他の方便として、現代における自然環境保護の高まりに沿う形で自然神・太陽神と説明することもあるけれども、神話との矛盾を生じないように注意が必要である。

 四、「大神宮司之印」の印
 「大神宮司之印」は、明治初期に神祇省が全国の「氏神社」に天照大神を勧請し、各家庭の神棚にも「神宮大麻」を奉斎することを義務づけようとしたのであるが、「天皇の允許」を得ることができず、「皇太神宮大麻」の全国頒布を神宮大宮司の責任において担当することについては允許を得ることが出来た「シルシ」である。

三、条文の規定と語意
 一、神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱
 『神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱』の第二条(大麻の本質)に「大麻は、天照皇大神の大御稜威をあまねく光被せしめる大御璽として、希望する者に頒布する。これを毎年頒布するのは、御恩頼の更新累加を意味するものである。」と規定されているが、大御稜威・大御璽・御恩頼などは一般庶民に理解が得がたいので平易なものにした方がいいのではないだろうか。
 また、大麻の意義を「神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱」に規定するのではなくもっと相応しい規定場所はなかったのだろうかと疑問視する人がいる。
 第三条(大麻及び暦頒布の意義)には、「大麻の頒布は、本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に寄与する目的で、神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して実効を挙げなければならない事項とする。」と規定されているが、順序が逆に思える。本来は「神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に精勤し、それが大麻頒布に結びつく。」とあるべきではなかろうか。考えるべき事は、如何にして、本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆をもたらすかである。その如何にしての部分を具体化し実効していくことをしなければ衰退の一途を辿ることになろう。

 二、氏神・氏子
 明治二十九年六月二十三日の社寺局長の回答で氏子は一戸一神社に限ることが国の原則で、氏子の権限義務は府県社以下の神社としていた。しかし、戦後、憲法二十条により氏子制度は廃止されてはいないが廃止されたようなものである。 氏子制度が維持できているとすれば各神社規則の規定通りに「氏子崇敬者名簿」を作成・登録し、毎年更新している神社だからである。
 神社側でも建築業者と契約し、氏子区を無視して地鎮祭等を行っている例も少なくない。神社としては氏子・氏子区を掌握することが大切であり、それがなければ大麻頒布数の割合も意味を失い、負担金の算定に氏子割りがあることも意味を失ってしまう。
 その様でありながら、崇敬神社に対し、なわばり意識を捨てて、何処にでも大麻を頒布しなさいと、言う人もいるのである。出来れば本庁で氏子を基本にするか、氏子区を無視した自由な活動を基本にするのか決定して戴きたい。
 また、家庭の有り様も変化し、戸と世帯が一致しなくなり大麻頒布数の割合も実体を正確に示しているとは言えなくなってきている。
 ただ、神宮大麻の一つの意義として、「神社(神職)と地域住民とのお付き合いの深さのバロメーター」であると言える。 
 
 三、初穂料
 初穂料という言葉も農業中心の時代ならいざ知らず次第に語意が不明になりつつある。一般庶民からすれば、神宮大麻の売値・料金であろう。神職の中にも大麻を何体売ったと言う人がいる。それは間違いなので是正しなければならない。初穂料はやはり中世の税金である上分米が変化したもので今は税金ではないけれども、まず神宮に対する敬拝の意志を持って寄進してもらうものである。その寄進を受けて、初めて神宮大麻を頒ち与えるのである。
 日本において御祓大麻が発生した頃、中世ヨーロッパにおいては、贖宥状(免罪符)が販売されていた。 贖宥状(免罪符)は本来善行や寄進による現世の罪の免除を証明するものであったが、次第にこれを買うことにより全ての罪が許されると信じられるようになり、ローマ教皇庁の資金集めに利用されていった。この事をマルティン・ルターが「内心の信仰によって人は神から直接に救いを期待しうる。」と非難したのであるが、御祓大麻は非難されることなくそれどころか各地に多く受け入れられていった。この違いは、上分米の徴収と祈祷をした験として渡す御祓大麻が区分されていた点にある。

 四、家庭の神棚に奉る原則
 現在の神宮大麻は、「天下の人民の家々に漏落る事無く頒給はむとす」(明治五年四月一日の神宮大麻御璽奉行式の祝詞を参照)、「家毎に斎き奉り」(大麻修祓式祝詞文)などから家庭の神棚に奉ることが原則である。
 理想を言えば「日本人であることを意識した生き方」「神代からの伝統に即した生き方」「家を中心にした生き方」「四季の変化を感じる生き方」をすべきであり、神社人として理想を目差し、一般庶民を啓発教化していくべきであるが、社会は大きく変化してきており、現実には「国民意識の希薄化」「伝統の断絶によるマニュアル中心の生き方」「共同体・家庭の崩壊」「季節感のない生き方」になっている。
 この現実に目を向けて考えるとき、伝統・神道について理解のない者にも理解しやすく、気軽に受け入れられやすい書物が必要である。書店を見ても神道関係の書物の絶対量が少なすぎる。また、現実を受け入れて、個々を対象にした大麻が頒布されてもよいのではないだろうか。

四、現代
 一、頒布を困難にする実体
 先に述べたように現実は厳しい状況になりつつある。その具体例として次の点が上げられるであろう。
 その一つとしては、共働きで日中誰もいない家が増加し、マンションなどでは住人に会うことすら出来ないものもあり、夜大麻を持って伺うことに対する抵抗感もあり、地域の自治会などを利用することも次第に難しい状況になってきており、時には神職としてのプライドを傷つけるような中傷電話・手紙・言葉・態度なども増加していることである。
 大麻の頒布数を伸ばすためには、神社(神社以上に行える組織があればそれも含めて)を如何に国民全体を網羅して親しくお付き合いできる組織にしていくことである。神職も遊んでいるわけではなく地域の住民と親しく触れ合える場を持とう・作ろうと努力している。しかし、地域の住民と親しく触れ合える場がどれだけあるだろうか。PTA活動や自治会社会福祉協議会での活動に積極的に参加していてもいつも同じような顔ぶれでもっと多くの人に接したいと思ってもできない苛立ちを覚えた人も多い。
 更に言えることは、神職の神職副業化であろう。現実に兼業をしている神職は多い。以前は、副業に融通が利いて、まず神事、後他事と出来ていたものが、世相の変化で、副業も厳しくなり、適当なことが出来なくなり、生活を維持する方が主になってきている。つまり、頒布する時間や余裕のない神職が増えてきているのである。信仰心・崇敬心があっても物理的に不可能なものは不可能なのである。
 この平成十五年度の神職資格取得方法の変更は、神職の専業化を促そうという意思も感じられるが、裏目に出て、神職の子弟の神職離れに繋がる可能性もあり、それが地方神社の荒廃を招き、更には、大麻の頒布数の減少に繋がることもあり得なくもない。神職が専業化できるだけの経済基盤の確立を第一に考え、そのために神社本庁が包括するすべての神社およびその関係者が一致して本宗たる神宮の御神徳を宣揚し、神社神道の興隆に精勤しなければならない。
 また、 明治時代の神宮大麻の公化は、欧米列国の脅威や外来宗教による日本の伝統の崩壊を恐れ、その対策として国民を統合し、国粋主義化を目差す意図があったが、現代の神宮大麻には似非宗教・擬似宗教から日本人本来の伝統宗教・正しい信仰を守り、崩壊しつつある家庭・共同体の回復を図る意義がある。一般庶民を迷いから救うことを考えなければならない。

 二、一般庶民の意識
 神宮大麻を受けている人たちの多くは「親が受けて奉っていたから」や「神職さんや総代さんとのお付き合いで」との理由で受けている。つまり慣習によるもので、大麻の意義を深く考えている人は少数派であるが、服忌については、「一年間」「百日間」「五十日間」「三十日間」など様々な流布に敏感でその年の拝受を遠慮する事が多いのである。
 しかしこれは神宮大麻を拝受している人たちのことで、日本の世帯を四千数百世帯あり千世帯が拝受しているとすると、残りの三千数百世帯は、神宮大麻そのものを知らないか、興味すらないのである。神職が社頭で教化しようとしてもこの人達に対しては為す術がないのである。
 神宮大麻を拝受する者が多数派の時は、それに引きづられて増加していき、少数派になったときは逆に慣習が崩れ、一気に減少していくことになるかもしれない。

五、神宮大麻の意義
 今まで述べてきたことを基にして神宮大麻の意義を考察していきたい。
 一、今までの説
 説としては、「庁報」(昭和二十七年十一月)によると大御璽・遙拝のみしるし・神徳神護表徴・御稜威の宿るもの・神籬・恩頼・御分霊・霊代・御像代・神体・祓の具など、山本信哉(大麻に就きて)によると神体・神符・祓具(維新前)・神徳標章(維新後)などがある。
 その中で、御分霊・霊代・御像代・神体・神籬などは「内裏から伊勢国へ」で述べたように否定されるべきであろう。特にこの中の「御分霊」については、一年ごとに拝受する理由も消失してしまうし、現在神宮も否定している。但し、大正五年五月に「御霊代たる意義」として神宮部内の意見を統一するために今井清彦小宮司が山下三次神部署長の意見書を回覧しているため、「御霊代たる意義」を肯定する意見も多い。
 遙拝のみしるしについては日の丸を通しても遙拝しているので、特に神宮大麻に限る意味はないだろう。しかし、「御はらひ様は、(略)遥拝礼拝の一種の標的と観るべきものと思ふ」(『神社協会雑誌』第十一年第八号、大正元年八月)など根強いものがある。
 大御璽については『神宮大麻及び神宮暦頒布取扱要綱』の第二条からも構成要素の「皇大神宮御璽」からも当然に正しい意義であろう。標章などのシンボル的な意義を代表してもいいのではないだろうか。ただ大御璽と言っても次のように考え方が多数あり、意見の分かれるところである。
 「皇大神宮崇敬の対象」(江見清風 大正五年)
 「皇大神宮御祈祷の御璽」(松木時彦禰宜 大正五年七月)
 「神宮大麻は我国民が各自其家庭に於て日別朝夕 神宮を敬拝し 天照皇大神の御神徳を仰ぎまつらるるために神宮より全国の全家庭へ頒布する大御神の大御璽であらせられます。」(神宮神部署編『参宮の栞』、昭和二年刊)と解し、より平易には「神宮大麻は我が国民が家庭に於て 皇大衡神を敬拝する 神宮のみしるし」(坂本広太郎神部署長 謹話に依る)
「これを受けた者は、家内の浄所に奉安し、伊勢の大神を拝するみしるしとして祀つた」(梅田義彦の「神宮大麻の由来と意義について」 (『瑞垣』五八、昭和三十七年九月))などにみられるように「皇大神宮敬拝の御璽」等。
 祓具・祓いの験については構成要素の御真(麻串)に述べたように意見が分かれるところである。
 このように消去法を行うのもいくらか意味があるのではあるが、もっと一般庶民に理解を得やすい表現はないだろうか。

 二、私的解釈
 今までに述べたことを総括し、戦後日本の国があまりにも平和だったこと、占領政策の流れを汲み日本人らしさの喪失してしまった状態にあることなどから、「神宮大麻は、日本国及び日本国民統合の象徴たる天皇により公に奉ることを許された天照皇大神(皇室の祖先神の中で選ばれた)の念入りに清められた御神札で、身近に置くことにより日本人らしさを意識させてくれる存在の一つであり、天照皇大神の霊力によって日々ある恵みに感謝し、毎年御初穂を捧げることにより拝受でき、それにより更なる霊力が重ねられていく御神札である。」と言うのは如何なものであろうか。神に携わる者の叡智によって、更なる検証・批判を加えて戴き、「頒布趣意書」・「神宮大麻の歴史と意義」・「神宮大麻・暦についてのQ&A」などを参照し、素晴らしい解釈をして戴けることを期待します。

 三、全国頒布と神社本庁・氏神神社が頒布を行う意義
 全国頒布と神社本庁・氏神神社が頒布を行う意義については、教学的には今回の教学研究大会の坂本是丸教授の基調発題の通りであるし、付け加えるとすれば、単に組織上の問題であることと過去百三十年の歴史と更には御師からの歴史をも背負っており、拝受者に対して将来に渡りフォローをしていく責任を考えると頒布する窓口となっている神社に突然大麻が無くなることがあってはならないし、本庁・各神社庁の予算の大部分が負担金と大麻頒布に依っている点からも無くなることがあってはならないだろう。

神饌品目について

2014-06-15 19:31:56 | 日記
お供え物は、通常は、「和稲、荒稲、酒、餅、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海菜、野菜、菓、塩、水等」と言われています。
しかし、正式には、次の品目を言います。

│稲米 (1)稲=和稲・荒稲・黒稲・白稲・頴(かい)・懸税(かけぢから) 等
│ │(2)米=玄米・黒米・白米・精米・洗米・染米(赤・黄・青)・散米(うちまき)・粢(し
│ │とぎ)・?(はぜ)
│ │(3)飯=白飯・赤飯・白強飯・赤強飯・玄飯・麦飯・小豆飯・粟飯 等
│ │(4)粥=米の粥・小豆粥・七種粥(若菜粥)・粟粥・稗粥 等
│洒 │(1)白酒・黒酒・濁酒・清酒・醴酒(ひとよざけ)・甘酒 等
│ │(2)屠蘇酒(とそざけ)・白散(びやくさん) 等
│餅 │(1)丸餅=鏡餅・勾餅(まがりもち)・沓形餅・丸餅・刳餅(その他形態により種々の名称
│ │あり) 等
│ │(2)切餅=熨斗餅・菱餅・伸餅 等
│ │(3)草餅・蓬餅・大豆餅・小豆餅・粟餅 等
│ │(4)粽(ちまき)
│ │(5)団子・餅団子 等

│雑穀 (1)大豆・小豆・黒豆・小豆粉 等 
│ │(2)素麺・豆腐・納豆・湯葉 等
│魚介 (1)海魚=鯛・鮭・鱒・・?・鮪・鰹・?・鯵・鱈・?・鮫・鰆・烏賊・蛸・海老・生海
│ │鼠 等
│ │(2)川魚=鮎・鯉・鮒 等
│ │(3)貝=蛤・鮑・栄螺・石華(かき)・あさり 等
│ │(4)塩物=塩鯛・塩鯖・塩鮭・塩? 等
│ │(5)干物=干鮭・鰹節・干鱈・干海鼠(きんこ)・煎海鼠(いりこ)・干鮎・韶陽魚(ごま
│ │め)・乾鮫・乾鱆・のし鮑・鯣(するめ) 等
│鳥 │(1)野鳥=雉子・山鳥・鶏・鶏卵 等
│ │(2)水鳥=雁・鴨 等
│獣 │(1)猪・鹿・兎・狸 等

│海菜 (1)奥津藻菜=昆布・和布・海松 等
│ │(2)辺津藻菜=ひじき・あらめ・若布・海苔(青のり・三島のり・紫のり)・鶏冠菜(とさ
│ │かのり)・神馬草(ほんだわら) 等
│ │
│野莱(1)甘菜=菁・芋・藷・人参・牛蒡・胡瓜・茄子・蓮根・白菜・野老(ところ)・南瓜 等
│ │(2)辛菜=大根・大蒜(にんにく)・山葵・生薑・芹 等
│ │(3)其の他=百合根・莇(あざみ)・蕗・蓬根・筍・蒟蒻・甘葛・河骨(かうぼね)・松茸
│ │・椎茸 等
│菓 │(1)生果実=柑子・密柑・枇杷・桃・栗・梨・葡萄・柿・林檎・柘?・西瓜・棗・萱・榧・
│ │銀杏・椎・樫の実 等
│ │(2)干果物=干柿・串柿・搗栗(勝栗) 等
│ │(3)作菓=? (ぶと)・?(まがり)・結び・鼓形 等
│ │  (植物をかたどったもの)=二梅枝・三梅枝・菊ぶと・大柑子・小柑子・柘?・松茸
│ │ 等
│ │  (動物をかたどったもの)=鶴・亀・犬・猿・兎・狐・狸 等
│ │(その他)=洲浜・??(おこし)・打物・饅頭・羊羹 等
│調味料他│塩・味噌・醤油・醤滓・酢・汁・水
│ │
│花 │(1)生花=桃・辛夷・菖蒲・菊・葵・桂・ゆずり葉・裏白・蓬・秋草・鶏頭・ダリヤ・紅葉
│ │ 等
│ │(2)造花=竹・梅・南天・椿・水仙・松・牡丹・橘・桜・杜若・紅葉・桔梗 等

 ?は漢字変換されなかった漢字の部分です。(申し訳ございません。)

 お供えをする意味は、神様や霊に対して戴いてもらうことやお供えをすることにより、より一層気持ちを込め易くなることなど有りますが、基本的には、私たちが日頃食させて頂き命を繋いでいるものを、感謝の気持ちを込めて捧げるものです。
 その捧げる順序として、天孫降臨のとき授けられた米や五穀に関連したものを供え、その次に魚介等、そして海菜・野菜・菓と続き、更に食品としてあまり意識することはないけれど生きていく上で必要不可欠な、塩・水などとなります。
 表に掲げた神饌品目を全て揃えることは、ほとんど不可能ですし、感謝の気持ちを込め、表現するためのものですので、量の多少・品目を気にする必要はありません。
 ただ、数字的に四・九などは避けることがよくあります。
 お供えをする最小限のものとして米・酒を神饌の始まりとし、塩・水を神饌のおわりと考え、米・(酒)・塩・水を日頃から神棚に奉ると良いでしょう。


禁忌について

2014-06-15 19:28:16 | 日記
 現代における神社の在り方を考える上で清浄とそれに対応する「穢れ」・「禁忌」は避けて通ることの出来ない要素であるので少し述べておきます。

 古くから各共同体ごとに異なった「忌」の慣習は存在していただろうが、禁忌は律令が定められ、式を施行していく時代に確立していったものと思われる。
 そのために、「古事記」・「日本書紀」が編纂された時代にはまだ禁忌を具体的に取り入れることが出来なかったと思われる。伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、阿波の水門と速吸名門の海峡の流れが急すぎて筑紫の日向の橘の小戸の檍原で着ているものを脱ぎ祓い、身を削ぐように洗い清め滌いだ事が祓詞として現代の修祓で唱えられるとはこの時代には考えられなかったのではないだろうか。祓詞における「穢れ」と「唐六典」などにより大陸の影響を受けた「六色の禁忌」とは意味が全く違うと考えるべきである。「穢れ」は禊祓を行うことによって全て祓へ清められる方が神話の流れ上良かったのであろう。

 「穢れ」以外に祓詞に出てくる「禊祓」「禍事・罪」についても少し触れておく。
「諸々の禍事・罪・穢れ」があって禊ぎ祓うのであるが、「禍事」とは畏れるべき悪しき事(自然の猛威・神々の怒り・死・病等)であり、罪とはその畏れるべき悪しき事を呼び起こす原因または不吉な禁忌を破る行為で、大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」を代表的な罪だとすれば、それは①神聖を穢す罪、祭りを穢す罪、②農耕社会秩序を乱す罪、③命あるもの、命を終えたものを傷め損なう罪、④人倫を犯す罪、⑤呪いをなす罪、⑥特別な穢れ災いを受ける罪などを挙げる事が出来る。
 それを取り除くために行う①祓へとは着衣を全て脱ぎ祓うことでありそれは、体内等に停滞している物を取り除くことを意味し、②禊とは清らかな水で身を削ぐように滌(濯)ぎ、本来の霊魂を体内に注ぎ、元の状態に戻ることを意味していたが、平安時代には大祓の参加者に清浄を求めており、清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした儀式になったと言える。祓への方法としては「爪等身体の一部を含む財物没収罪を購う儀式(贖いの法)」「撫物・人形・解縄・茅輪・祓麻・祓刀・木綿・布・麻布・幣・大麻・切麻・散米・豆撒き・餅撒きなど水に流す物や祓い清める物や差し出す物を用いた儀式(触浄と名付けるのが適当と思われる)」等が見られる。また、更なる清浄を求める「禊祓」で取り除かれる「穢れ」に、死穢・産穢・月事は含まれていなかったし、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大祓に際し人柱を用いるということは死そのものを「罪・穢れ」と考えていたとは思えない。

 しかし、律令時代になると、神祇令第十一条の祭祀奉仕者の禁忌規定にあるように神事期間の前後においては、喪を弔い、病を問い、宍を食うことを得ざれ、亦刑殺を判らざれ、罪人を決罰せざれ、音楽を作さざれ、穢悪の事に預からざれという「六色の禁忌」が基本となり、次のように穢限などが定められていった。

延喜臨時祭式穢忌条・改葬傷胎条 延喜式完成 醍醐天皇延長五年(九二七) 延喜式施行 冷泉天皇康保四年(九六七) 穢    限

一 人の亡骸(人死)                      三十日
  改   葬
  胎児四ヶ月以上の流産(傷胎)

二 人の出産                           七日
  胎児三ヶ月以下の流産(傷胎)

三 六畜の死体(六畜死) 牛・馬・羊・猪・犬・鹿         五日(「西宮記」では七日)

四 六畜の出産                         三日
  六畜の肉を食す(宍を喫む)

弘仁式 嵯峨天皇弘仁十一年(八二〇)には次のものなどがある。

問疾(病人見舞い) 三日(延喜式で削除)
失火 神事の時に当たる場合は七日間を忌む

 また『蜻蛉日記』・『古今著聞集』などに「神事及び吉事一般に関与することなく、自宅や寺院などの便宜の場所に引き寵もって、神宮神社に参詣することは勿論、公務公事に就くことをも憚った。」とあり、死穢(亡骸のケガレ)の場合の忌み方について見受けられる。

更に、延喜臨時祭式の触穢条を見ると、「甲処にケガレが発生し、乙人がそこへ行き着座してきた場合、乙人と乙人と共に居る人は皆“触穢”したものと見なす。更に丙人が乙人の処へ行けば、丙人のみ穢れたと判断する。」とか、「甲処で触穢した乙人が丙処へ行き、着座した場合は、丙処に居る人は皆穢れるが、そこへ来た丁人は穢れない。」など穢れの伝染についても示されている。律令の頃からこの触穢と共に続柄による忌服の期間も共存している。こういった状況が明治時代になるまで続いていたと思われる。

 明治時代に入ると、明治五年二月二十五日の太政官第五十六号布告に「自今産穢不及憚侯事」として産穢は遠慮するには及ばないとし、明治五年三月十日の触穢禁忌忌服方法では「死人ヲ取扱者ハ三日ノ後沐浴参宮ノ事但葬式ニ随ヒ及死者同座ノ者ハ沐浴致候ヘハ翌日ヨリ参宮不苦候事」として、三日後沐浴して参宮して良い。葬儀に同席した者は沐浴すれば翌日より参宮して良いとし、「墓参ノ者沐浴ノ後参宮不苦侯事」として墓参りした者は沐浴して参宮して良いこととした。また、明治五年六月十三日の太政官第百七十七号布告では「死葬二預リシ者神社参詣ノ件神社参詣ノ輩自今死葬ニ預リ侯モノト雖モ当日ノミ可相憚事」として産穢に続き死穢の穢限三十日であった古制を改め、一日と減じた。更に、明治六年二月三十日の太政官第六十一号布告では「自今混穢ノ制被廃侯事」として触穢の制を全廃した。そして、明治七年十月十七日の太政官第百八号布告で服忌令京家の制を廃し武家の制を用いるようにした。つまり、続柄による忌服のみを残そうとしたのである。

 ただ、神宮においては触穢を残し次のように定めている。
神宮法規 明治三十五年
墓参会葬ニ付遠慮ノ件 死体ニ触レシ者     五日
埋葬ニ立チ会イシ者                二日
墓参会葬及葬家ニ立入リシ者           当日
神宮規定
勤務を遠慮する場合 死体に触りたとき       三日
墓参、会葬および葬家に立ち入ったとき      当日

 そもそも「忌む」とは、縁起が悪いとか汚いものとして避けると言う意味があり、亡骸や土葬された者や出産時や月経時を不浄とイメージしてきていたことが窺える。そのイメージを明治政府は払拭しようとしたが律令制度からの慣習を壊すことが出来きらなかったように感じられる。

 現代においては、土葬の時代にイメージされていた亡骸の穢れも土葬された亡骸からの白骨(五体不具)の穢れも、火葬によって不浄のイメージは薄らいできているようであり、会葬に当たっても現在は死臭等も感じさせないように葬祭業者が配慮しており、触穢は意義を失って来ている。産穢についても病院で清潔に行われており、月経についても、CM等で見受けるように清潔に保つ用品が開発されて不浄のイメージは無くなってきている。また、葬儀の後すぐに職場に復帰して日常生活をしている現代の状況を見ていると、一定期間を設けて引き籠もる「忌服」は意味を失っている。また、葬儀の場が穢れていると考えると、家には、屋船皇神等がおり、水神様や竈神様のお坐します台所で、水や米を始め様々な霊が宿っているものを調理したり、亡骸の前に供えたりする行為は神々に対して不敬に当たるのではないだろうか。埋葬にしても大地主大神に対して不敬に当たるのではないだろうか。逆に現世から幽界に帰る神聖なものとして扱うべきであり、ただ現世に残った人々の別れに対する感情が悲しみを生み出しているのであって死も葬儀も不浄なものではない。「忍び手」も故人に対する思いのため音をたてることの出来ない心情の表れであって、穢れとは無関係なものとすべきであろう。不浄でなければ葬儀において修祓をすることの是非を考える必要もない。私たちは死に対しても埋葬に対しても穢れと考える慣習を無くす努力をすべきではないだろうか。加えて、神事等に関してのみ「忌」の慣習が幅を利かせていることは不自然としか言いようがない。これも是正するよう取り組むべきだと思う。

 魏志倭人伝に「停喪十余日」とあるがこれは通夜のことなのか、忌服のことなのか、また、魏志倭人伝が示す倭国がどの国を指しているのか。戦国時代を始め、多くの死者や傷病人を出した時代でも、「忌服令」は守られていたのだろうか。神事に携わる神職の忌の期間が一般より短い事は本末転倒ではないだろうか。穢れは不浄と言うイメージだけでなく、日常とは異なる心の状態・ケガレの対象に感情が揺れ動き、正常に日常を過ごせない状態をも含み「気枯れ」・「異枯れ」と解釈することが正しいのか、また、不意に思いがけず、はからずも受ける傷と言う意味で「怪我れ」と解釈することが正しいのか、等々素朴な疑問数え切れないほどあり、「忌み」の有効性を決定付けることは難しいのではないだろうか。

 現代社会において、禊祓の儀式によって刑法上の罪が赦されるわけではないし、目の前のきたなく汚れた状態が清潔になるわけでもない。現代の禊祓は清らかな上にも更なる清浄を期することを目的とした「禊祓」であると考えることが自然である。禊祓の対象としての「穢れ」があるから禊祓が必要であり、「穢れ」があればこそ禊祓は機能的に存在し、また、存在価値が認められるのである。だとすれば、禊祓で清められる「穢れ」のみ「穢れ」とすべきである。出来れば、禊祓を、塵芥埃が溜まるのと同様に、人の心にも、鬱積停滞するものを穢れとみなし、罪についても大祓の「天津罪」「国津罪」「許々太久罪」ではなく、知らず知らずのうちに犯した罪とみなし、それらを祓へ清めることを意味していると考え、仮に「罪・穢れ」が無い人についても清らかな上にも更なる清浄を期することを目的としたもので常に行うべきものと捉えるべきであろう。自然発生的現象であり、その事態が鎮まるまで忌み慎み、その後禊ぎによって浄化されると言う慣習になっている存在も、死も葬儀もそれらによる「異枯れ」等々も「穢れ」とは考えず、「汚れ」の状態を排除して清浄な空間を創り、禊祓の効力によって更にその場所を神聖化すると考えていかなければ禊祓の存在そのものが意義を失うことになるであろう。

服 忌 表

死去された方                 忌                服

父母      実父母            五十日             十三ヶ月
         養父母           五十日             十三ヶ月
         継父・嫡母・継母       十日              三十日
         夫の父母          三十日            百五十日

祖父母     父方 祖父母         三十日             百五十日
         母方 祖父母         二十日              九十日

曾祖父母   父方 曾祖父母       二十日              九十日
         母方 曾祖父母        な し             な し
高祖父母   父方 高祖父母         十日             三十日

        母方 高祖父母        な し              な し
夫                      三十日             十三ヶ月
妻                      二十日               九十日

子      家を継承する子        二十日               九十日
       その他の子女          十日              三十日

孫      家を継承する孫          十日              三十日
        その他の孫           三日                七日

曾孫・玄孫                   三日               七日

兄弟姉妹   兄弟姉妹          二十日               九十日
        異父 兄弟姉妹        十日              三十日                         

伯叔父母  父方 伯叔父母         二十日               九十日
        母方 伯叔父母         十日               三十日

甥・姪    兄弟姉妹の子           三日                七日
       異父 兄弟姉妹の子       二日                 四日

従兄弟姉妹   父の兄弟姉妹の子     三日                七日
          母の兄弟姉妹の子     三日                七日

※ 忌の期間に該当する方は、なるべく神社への御参拝・外出・派手な事等をご遠慮下さい。
  服の期間に該当する方は、故人のことを心に留めておられても、御参拝には何ら差し支えございません。

七五三について

2014-06-13 21:51:56 | 日記
 十一月十五日に七歳、五歳、三歳の子供が晴着を着て、神社にお参りすることを七五三参りとか七五三祝いといいます。これまで無事に育ってきたことに対する感謝と今後の守護を祈願するもので、人生儀礼の一つです。
 七五三の起源となった祝いは、錬倉時代に公卿や武家の間で行われていた髪置、平安時代に貴族の間で行われていた袴着、室町時代に行われていた帯締びの三つです。いずれも子供の成長にあわせて身なりを改めるものでした。
 これら三つの祝いは関東を中心として始まりました。男女どちらの子供も祝うもので、年齢も月日も決まっていなかったようです。
 江戸時代に入ると庶民の間に広まって一般化されるようになりました。やがて、三と五と七を陽数(縁起のよい数)とする中国風の考え方から、この年齢のときに祝う様になり、江戸時代末期には三歳の男女が髪置、五歳の男が袴着、七歳の女が帯結びを行うようになったのです。参拝の日が十一月十五日となったのも江戸時代の末期でした。十一月は収穫を感謝する霜月祭のある月で、その十五日は旧暦で満月です。       大事な月の満月の日として、この日が選ばれたのです。
 明治時代に入ると、神社への参拝が中心となり、現在のような七五三の祝いが定着しました。
 安産を祈願して、無事に出産したことを初宮参りで神前に報告し、さらにその子供を成長させてくれたことを神に感謝するとともに、将来にわたる守護を祈願することが七五三の意義です。このように成長の過程で子供に晴れ着を着せて神社に参拝するのは、生まれた子供に徐々に神霊を宿らせることを意味し、最後の七五三の参拝で名実ともに人間の仲間入りができるということです。昔、七五三のときに現在の戸籍にあたる人別帳に名前が記されたのもこのためです。
 また、大人の厄年と同じく、子供のこの年齢は、医学的にも発育の節目にあたります。病気にもかかりやすい時期に健康な成長を祈るようになったことは、自然な親心のあらわれだったのでしょう。

輪くぐりさん

2014-06-13 21:50:46 | 日記
 三十一日の夕刻から玖波大歳神社では、例年の通りひとがた流しや菅抜け祭り(茅の輪くぐり)を行います。
  輪くぐりさんには、御家族お揃いで氏神様に御参拝、心身を浄化一新して、尊い御神恩に感謝の誠を捧げ、奇しき御守護を祈りましょう。
         
   神は月 人の心は 露なれや 澄めるところに 影は宿さむ

夏越しの大祓は、私どもが神と祖先のご恩恵を戴いての、日常生活の中で、思わず知らずのうちに犯した「罪」「けがれ」を祓い「わざわい」を防ぐといわれる御神事で、古くは、わが国最古の書物「日本書紀」にも(天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ…。」)など折々にみられ、素朴な行事ながらも古来から連綿と行い継がれてきた大切な儀式です。
 また、「なごし」は「和ごし」・「和儺」で、人の心を和やかにすると云う説もあります。夏越しの大祓いを行い、「わざわい」を除き、心に「謙虚さ」・「感謝の気持ち」を甦らせ、心身を清浄にして「淨く明るく正しい」希望に満ちた日々の生活実践を続けてまいりましょう。
   母のぶん  もひとつくぐる  茅の輪かな   一茶

(い)、水無月の 夏越しの祓ひ する人は 千年の命 延ぶと云うなり
(ろ)、思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな
(は)、蘇民将来。蘇民将来。(繰り返して唱ふ。)

 他の地方では、「水無月の大祓」として新暦の六月末日に行われるところも有りますが、当地では、旧暦が新暦に改まった時からひと月おくれの七月末日に行われるようになり現在に至っておりますので、ご参考までに申し添えておきます。 

 玖波大歳神社の夏越しの大祓いは、茅の輪くぐりと人形流しの二つの行事が主体になっています。

 まず、人形流しについてですが、『日本書紀』の中の、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大解除の初期の頃は、人柱を用いていたことが伺がえます。それが次第に反道徳的であると考えられるようになり、人柱から動物、動物から埴輪や人形・形代と移り変わって現在に至ったと思われます。

 また、この人形流しは、スサノオノミコトが、高天原で暴れまわり、身ぐるみ剥がされ追放されたことに由来しているとも思われます。スサノオノミコトが行ったと言われている罪という罪は、実は皆、人間の犯した罪であり、その罪をスサノオノミコトが一身に背負い根の国、底の国へ流されたということだそうです。人形流しは、自分が知らず知らずに犯した罪を謙虚に反省し、その罪を人形に託す事により、新しい日々を新しい気持ちで迎えるための私達の先祖の知恵かもしれません。      

 次に、茅の輪くぐりについてですが、このもとになった話が『備後の国風土記』の中に見うけることができます。その内容を簡略に説明すれば、「疫隅の国の武塔の神が、南海の女神に求婚しようと出掛けましたが、その途中で日が暮れてしまいました。その所には、二人の兄弟が住んでおり、弟の巨旦は大変裕福でしたが、兄の蘇民将来は、貧しい暮らしをしていました。そこで、武塔の神はまず、巨旦に宿を頼みましたが、断られ、次に、兄の蘇民将来に宿を頼みましたら、快く泊めてくれ、親切にもてなしてくれたそうです。それから数年が過ぎ武塔の神は、八柱の神を連れてやってきて、蘇民将来に『お前に恩返しをしてやろう。茅の草を輪にしてお前の娘の腰に付けさせよ。』と申して、蘇民将来がその通りにすると、その夜、その娘以外の子供らは、疫病で悉に殺されてしまいました。そして、武塔の神は、『私は、ハヤスサノオの神である。もしこれからの世でも疫病がおこれば、私は蘇民将来の子孫であると言って茅の輪を腰に付けよ。そうすれば、死をまぬがれることができるであろう。』と申された。」ということです。この話がヘビ信仰と結付き茅の輪くぐりの行事になったと思われます。

 このように、人形流しにしても茅の輪くぐりにしても、行疫神即防疫神であるスサノオノミコトとかかわりのある行事で、大歳神社において人形流し、茅の輪くぐりが行われ続けられているのも大歳の神が、スサノオノミコトと副祭神神大市姫との間に生れた御子であるからかも知れません。 

神宮大麻と氏神様のお神札

2014-06-13 21:49:08 | 日記
【お伊勢さま】
 伊勢の神宮は、古くから「お伊勢さま」と親しまれ、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする日本で最も貴いお宮です。
 天照大御神をおまつり申し上げる「内宮」は、皇室の御祖先神として尊ばれ、また、国民の総氏神として仰がれています。
 豊受大御神をおまつり申し上げる「外宮」は、衣食住、ひいては産業の守り神としてあがめられています。

【お伊勢さまのお神札】
 神宮大麻は、「お伊勢さん」「お正月さん」として親しまれている天照大御神のお神札です。
 お神札を毎年新しくお受けするのは新しい年を迎え、すべてがあらたまるとき、初日の出を拝むように毎年新たなる御神徳とみずみずしい生命の力をいただくという祈りがこめられているのです。
 ご家庭でお神札をまつり、今日もお伊勢さまに見守っていただいて生活するという気持ちは、きっとあなたの一日を充実したものにすることでしょう。

【お神札のまつり方】
 神棚は明るく清らかなところで、目の高さよりは少し上におまつりします。お神札が南か東に向くのが一般的ですが家の間取りによってはおまつりするのにふさわしい場所であれば良いでしょう。

 神棚がない家庭ではとりあえずタンスや書棚の上に白い紙を敷くなどしておまつりして頂くのも良いでしょう。
【お供え】
 神棚には毎朝、お米、お塩、お水などをお供えして拝礼します。
 御神酒、季節の初物、お土産等は、その都度お供えし、感謝をこめて、のちほど頂戴します。

【お参りの作法】
神社の参拝方法と同様に、二拝(深くお辞儀を二回)二拍手(手を二回たたく)一拝(深くお辞儀を一回)です。

一年間お守りいただいた古いお神札は感謝をこめて、氏神さまに納めましょう。

国歌と国旗の知識

2014-06-13 21:42:59 | 日記
 国歌と国旗は、国家の独立と尊厳をあらわす象徴です。したがって、世界中どの国でも自分の暮らす国の国歌と国旗を大切にすると共に、他国の国歌や国旗に敬意を示すのが当然の礼儀です。
 そのため、国内の祝祭日や公的行事はもちろん、外国からのお客さまを歓迎するときや国際的な儀式・スポーツ競技などの機会には、必ず国族をあげ、国歌を演奏し参会者は起立して敬意を表します。

国歌 「君が代」
 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて苔のむすまで

 この歌は、小さな石がたくさん集まり固まって大きな岩となり、さらにその岩に苔がむすはどまで、長い長い年月、まさしく千年も万年も永久に、大君のみよが栄えますようにとの意味を込めたお祝いの歌です。
 その原歌(もとうた)は、延喜の頃(十世紀始め)に『古今和歌集』巻七に「読人しらず」の賀歌として

わがきみは ちよにやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

とみえます。これが平安後期頃から「わがきみは」より「きみがよは」の形で広まり、人々に親しまれてきました。
 そこで、明治の初め、外交儀礼の必要からも国歌を制定するにあたり、維新政府は、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞に選びました。そして軍楽隊教官のイギリス人フェントンに作曲を依頼し、明治三年九月八日、わが国最初の陸軍観兵式に際して、明治天皇の御前で演奏しました。
 しかし、そのメロディーが日本語になじまないため十年後、宮内省伶人長林広守作曲(原作奥好義、編曲海軍省傭教師エッケルト)の「君が代」が完成し、同十三年十一月三日の天長節(天皇誕生日)に宮中で初演奏されました。
 その歌詞と楽譜が次第に広まり、特に同二十一年、『大日本礼式』に納めた楽譜が外国に送られ、また同二十六年、祝祭日奉唱歌として文部省より告示されました。
 それ以来すでに百年にわたり日本の国歌として奉唱されてさた「君が代」は、荘重なメロディーが外国の人々からも高く評価されています。また、平安朝の古い歌に由来する雅やかな歌詞は、日本国およぴ国民統合の象徴と仰がれ敬われる天皇の御代の弥栄を寿ぐことにより、国家の永続と国民の和合を念ずることになる最も日本にふさわしい国歌として、広く親しまれています。

 国旗 「日の丸」
 世界の国旗には、それぞれの建国の由来や理想があらわされています。たとえば、アメリカ合衆国の星条旗には、独立した当時の十三州を示す条線と、現在の合衆国を構成する五十州を示す星が描かれています。また、フランスの三色旗には、市民革命の旗印とされた自由・平等・博愛が青、白、赤の三色で示されていまず。
この点、日本の国旗となった「日の丸」は、さらに古い歴史をもっています。赤い丸は万物に恵をもたらす太陽をかたどったものであり、皇祖神を天照大神と仰ぐ日本人が考えだした最もシンプルなデザインです。
 その早い例は、王朝時代の元日朝賀や即位の儀場に掲げられた「日章」の幡にみえます。やがて、源平以来の武士たちは扇面に好んで日の丸を描きました。また建武中興を敢行された後醍醐天皇は、日の丸を旗印として掲げられたと伝えられます。さらに秀吉、家康の時代に活躍した御朱印船には、朱の丸が旗章に使われています。
 やがて、幕末にいたり、外国船がしきりに来航し、また、諸大名も巨大な船を造るようになったので、幕府は安政元年(一八五四)七月、日本の船が外国船とまぎれないように「白地に日の丸の幟」を「日本の惣印船」と定め布告しました。
 ついで、維新政府は明治三年(一八七〇)一月二十七日、太政宮布告により郵船商船規則を公布しその中で正式に「御国旗之事」を定めました。それによれば国旗のサイスは縦七十、横百の比率の白地に、赤い日章の直径は縦の五分の三となっています。この一月二十七日が「国旗制定記念日」です。
 平成十一年には「国旗および国歌に関する法律」として定め、日本の国旗は「日章旗」国歌は「君が代」と明文規定しています。

(国旗の掲げ方)
 国民の祝日や国家的なお祝いの行事には、家々でぜひ国旗を掲げましょう。
 家庭で門前に掲げる時は、門内からみて右(外からみて左)側、また二本掲げる時は併立が望ましいですが交差でもかまいません。
 祝意を表す時は、球と旗の問を離してはいけません。(弔意を表す時は、球を黒布で覆い、球と離した旗の上に黒布をつけます。)
 国旗を掲げる時間は日の出から日没までで、雨の日は掲げません。
 外国の国旗にも敬意を表し、丁寧に取り扱う心がまえが大切です。

参考文献 平成十一年 靖国暦

喪服について

2014-06-13 21:41:33 | 日記
 『日本書紀』や『隋書倭国伝』などを見ると古代の喪服が白かったということが分かります。しかし、718年に養老喪葬令が出され、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められます。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられます。ところが、唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったようです。
 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になると着る色もこれにより決められたので、『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。
 ところが、室町時代に白が復活し、江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続いています。養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったと思われます。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくいし、現代よりもはるかに信心深い時代ですから、たたりや災いが起こるのではないかという恐れが強かったために、先祖代々受け継いできた伝統(葬式の形式)を変えるには、相当の勇気が必要だったはずです。
 養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も格式や形式を重んじる宮中では「決まり事だから」という理由で頑なに黒のままを守り続け、それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、形式を変えることへの恐れや経済的理由などから「白」という色を守り続けていたのだと言うことです。
 明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。
 弔辞でない場合も、宮中で偉い人の装束は「黒」ですが、一説にこの「黒」は、赤を何度も重ねて染め上げた色だと言われています。思うに、昔は、墨を何度も重ねて染め上げた「黒」と、赤を何度も重ねて染め上げた「黒」とが有り、それぞれ使い分けていたのではないでしょうか。そのために、現代でも宮中では、慶事においても鯨幕を使用しているのではないでしょうか。

 参考文献  増田美子『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』

神道の葬儀

2014-06-13 21:39:23 | 日記
■不幸にして人が亡くなることを神道では帰幽(きゆう)といいます。神道の考え方では人は神々と祖先の恵によって現世(うつしよ)に生まれ生活をして、死しての後の御霊(みたま)は、幽世(かくりよ)に帰り、やがて祖先の御許(みもと)に帰りつくとされています。

■ 神道の葬儀は、「枕直しの儀」・「帰幽奉告の儀」・「遷霊の儀」・「通夜祭」・翌日の「葬場祭」・「発柩祭」・「火葬場祭」・「帰家祭」となっています。

  通夜

夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼です。

  枕直しの儀

まず、北枕で寝かせます。
枕元には、白無地の屏風を逆さに立てて刃物を台や盆の上にのせ、刃を遺体の方に向けないように置きます。
供物は、小机か八足台(案)の上に、次のようなものを置きます。
 米(洗米でもご飯でもそのままでもかまいません。)・御神酒・塩・水・常饌(故人が生前好んだ食べ物。)・榊
神棚と霊舎に家人の帰幽を喪主が奉告し、お供え物を撤して五十日祭までの間は神棚の全面に白紙を貼り、霊舎を閉じます。
出来ない事は省略しても宜しいので、無理をしないようにしましょう。

  帰幽奉告の儀

神職により産土の神様と幽世の神様へ、故人の帰幽を奉告します。神社によっては、「枕直しの儀」の際に行われることもあります。

  遷霊の儀

通夜の時、室内を消灯して故人の御霊を霊璽(れいじ)に遷し留める「遷霊の儀」が行われます。

 通夜祭

故人の死を確認し、葬場祭への、心の準備をし、故人に死を受け入れて貰う為の儀式です。

  葬場祭

神職が奏上する祭詞には故人の経歴や功績人柄が読み込まれ、会葬者と共に故人の遺徳を讃え、在りし日の姿を偲ぶ、人の世の終焉に際しての最も厳粛な儀式です。

  発柩祭

通夜祭を終えた翌朝、葬場に向かう際に行う儀式ですが、近年は省略されています。

  野辺送りの火葬場祭

火葬場での最後の別れの儀式になります。

  清めの塩

通夜及び葬場祭に参列した場合や火葬場から戻った遺族は「清めの塩」を使います。これは宗教的な儀礼というより、お弔いに関しての日本人の民族的な思想の概念によって行われて来た風習ともいえるものです。

  帰家祭

喪家もしくは斎場にて、安置された御霊に対して葬儀が無事終了した旨を奉告します。

  旬日祭

仮霊舎の霊璽を中心に「旬日祭」として十日毎(十日祭 ・ 二十日祭 ・ 三十日祭 ・ 四十日祭)に斎行し、五十日祭は特に「忌明け」とも呼ばれる重儀となります。
五十日祭の折りには特に「忌明け後清祓の儀」が行われ、納骨並びに仮霊舎の霊璽が霊舎に合祀されます。
この日から、神棚と霊舎の白紙をはずし、おまつりを再開します。新年を迎えるための氏神様の神札もこの五十日が過ぎていればお受けできます。

この後「百日祭」を経て「一年祭」更に「三年祭」「五年祭」「十年祭」と以下おもに十年毎に霊祭が各々周年祭として斎行されます。(旬日祭・年祭はその時の都合等により省略される場合があります。)

ご参考までに

◇安置
末期の水、湯灌、死に化粧、など基本的に仏式と一緒です。
死に装束は、経かたびらではなく、小そでになります。
白い木綿の小そで(きもの)に、白たびを履かせるのが正式です。
現在では、故人が好んで着ていた衣服を着用させその上に小そでを掛けるのが一般的のようです。

◇納棺の儀
枕直しの儀が済んだ後、納棺の儀に移ります。
通夜に先立って遺体を棺に納める儀式で、正式には神職を招きますが、近年では葬儀社の人に手伝ってもらい、遺族の手でするようになっています。
出棺までの間は、朝夕の2回、米、水、塩などを供え、遺族が礼拝する「柩前日供(きゅうぜんにっく)の儀」を行います。

◇霊璽(れいし)
仏式の位牌に当たる物 鏡または、柾目(まさめ)を通った白木に故人の名前と生年月日を書き入れたものです。

◇通夜振る舞い
基本的に仏式と同じですが、神式ではなまぐさ物は禁じていません。
日本では、古来より死後の世界を黄泉の国と言って、穢れた世界としています。
神道では、死のけがれを忌む習慣が強く、家の火がけがれないようにというので、通夜振る舞いでは、他の家で煮炊きしたものか、外から取り寄せたもので接待します。
また、神前に供えた饌を皆で食し供養したと言うところから、通夜振る舞いに発展したと言う説もあります。

◇葬場祭
神前に通夜祭の時に供えた常饌をすべて新しい物にかえます。
棺は部屋の中央、一番奥に安置し、故人の姓名と位階、勲功など社会的地位があればそれらも記した銘旗(仏式の位牌に当たります)を立て、棺を囲む三方に壁代をめぐらし、その外側に、不浄を防ぐ意味を持つしめ縄つきのいみ竹をたてます。(昔行っていました。)

◇忍び手にて二礼二拍手一礼
神式の拝礼では、二礼二拍手一礼と言って、二回深くおじぎをしてから、忍び手と言って音を立てないように二回柏手(かしわで)を打ち、最後にもう一度礼をします。

{ちょっと考えたこと}

1 通夜祭と通夜について

 広辞苑によると、通夜とは、① 神社仏閣に参籠し、終夜祈願すること。② 死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。となっています。
 今回は、死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体に側で終夜守っている通夜について考えたいと思います。
 通夜は、一般に、夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼とも言われています。古代では呼吸停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされていました。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行ったそうです。 長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「日本書紀」に記されています。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わりますが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもあるそうです。
天皇の殯宮儀礼は、六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになったそうです。
 これらのことから、通夜とは「古代の殯(もがり)の遺風で、蘇生を願い、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うことで、長期間にわたることもあるもの」と定義できます。つまり、通夜の期間はまだ生きていると見なす期間を指すことになります。
 通夜祭について考えてみると、蘇生しないことを確認したあと、喪に入って行う儀式と考えるべきではないでしょうか。なぜなら、「誄(しのびごと)の奏上や諡を奉る」儀式である点で、誄(しのびごと)とは、死者に述べられ哀悼の言葉・悲しみを表明するとともに、生前の功績や善行を讃えたりする行為であり、明らかに死者を対象に為されるものです(まだ生きていると見なす期間に行う儀式ではない)。 忍手についても、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手と定義されており、あくまでも死者が対象であることが原則であることを読み違えてはならないと思います。重ねて申しますが、通夜の時点と通夜祭を行う時点とを混同しがちですので気を付けるべきです。そう考えると、死亡確認書が発行された時点で、帰幽報告祭を行うのは当然のことです。遷霊の儀も通夜祭の前であろうと通夜祭の後であろうと構わないことになります。

2 神葬祭における修祓について

 忍手とは、「音がしないように打つ拍手のこと。短手とも表記し、神宮祭式作法のなかで八開手ののち、最後に音がしないように打つもの。また、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手。」と定義されています。
 一般には、音を立てなければならないのだけれども、故人や故人の家族・縁者・知人のことを思うと音が出せない感情を表した所作ではないかと思っています。この感情によって、祓戸神に対して忍手になることは不敬なことになるのでしょうか。その場を少しでも清らかな状態にしたいと思う気持ちで修祓を行う事が不敬なことになるのでしょうか。 祓戸神の立場で皆さんはどう考えるのか、私は感情・気持ちを理解して頂けるものと信じます。

3 奉幣行事について

 幣が依り代・装飾・供物のいずれでも必要であるならば、最初から奉っておけば宜しいのではないでしょうか、その行事の必要性を感じません。また、心中年祈念は何を祈念するのか、所役の中に何々所役とか何々後取とかあるべきなのに、なぜ所役としか言わないのか、所役が正中に座す司の斜め前から受け渡しを行う事や反命の際、揖も無く着座するなど理解できないことが多いのは私だけでしょうか。